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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

第二節 民間療法

 呪い療法
     
 肉体的あるいは精神的な苦痛や不快感、不調を除外するために人々はさまざまな方法を試みてきたが、医学も未発達な時代には自ずと神仏に頼ったり、呪的行為に依存することが多かった。例えば、メボ(メイボ)ができたときに井戸へ行き、小豆を押し当てて中をのぞきながら落とし、「小豆かと思うたらメボが落ちた」と唱えることなどは、つい近年まで日常茶飯のこととして広く行われてきたことであった。次に、こうした呪い療法のいくつかを、症状別に示してみたい。
 〈眼病〉 一般に鎌倉権五郎景清を祀る景清様(生目八幡社)や出雲の一畑薬師に対して呪文を唱える風である。東宇和郡野村町惣川では「かげ清く照す生目の水鏡、末の世までも雲かからざりけり、アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ」と唱える。または、「目の曇りやがて晴れゆく医王山、これぞ日本一畑薬師さま」と唱えたりする。上浮穴郡小田町では、寺から甘茶をもらってきて目につけるとよいという。その他、宇和島市蒋淵や重信町上村などのほか、石鎚山頂の閼伽の水をつけるとよいと伝えているところも多い。ちなみに、目に埃が入ったときには、「カラスカラス、目のボクとってくれ」といってその目をフッと吹いてもらうとか、埃が入った目の方の肩を自分がなめるとよいと、南宇和郡御荘町ではいっている。また城川町では、「カラスカラス、目物を取ってくれ。取ってくれたら茶の木の下へ米をまいてやるぞ。とーほい、アビラウンケンソワカアビラウンケンソワカ」といった。
  〈メボ〉 メボをとる呪いは、井戸に小豆を落とすほかに、上浮穴郡久万町では、ヘソに塩をのせるとよい、女の人のオコシの裾でさすればなおるという。また、川へ行って大豆を一つメボの前に出し「これに移れ、これに移れ」と唱え、大豆を川の中に投げて「大豆を投げたらメイボもとれた」と唱え、そのまま後ろを振り向かずに家へ帰るとよいともいう。御荘町では、人に見られないようにヘソに塩をすり込まねばならぬ。メボはまたマロトとも呼ばれるが、長浜町では「伊勢のくにあさまが瀧のまろとごぜんおろさせ給や、ふた又谷ちりてやうせる、アビラウンケンソワカ」と唱える。
  〈歯痛止め〉 歯が痛くなったときには、節分の炒り豆を歳の数だけ紙に包み「この豆が芽を吹くまで痛まぬように」といって、土中に埋めるとよいと旧喜多郡横林村ではいっている。また小田町では、紙の上に両足を揃えて立って足下の周囲に円を描き、これを人の顔に見たてて目・鼻・口などをつけ、痛い歯を特に大きく描いて鬼という字を一〇個書き、その紙を折って痛い歯のところに釘をたてて柱に打ちつける。こうしておいて、痛くなるたびに釘を打ち、歯痛を封じこめるのである。あるいは、呪いを書いた紙を噛みしめるとよいともいう。久万町直瀬では、「秋風は冬の初めに吹くものよ。秋過ぎて冬の初めに下枯れの霜枯竹には虫の子もなし。アビラウンケンソワカ」と唱えた。城川町では「天竺の御殿の前のつたかずら、横に切れ、縦に切れ、アビラウンケンソワカアビラウンケンソワカ」といった。
 なお、乳歯がとれた場合には、あとの歯の再生を祈る呪法がなされる。上歯ならば床下に、下歯であれば屋根上に投げ捨てるのが一般で、このときそれぞれに呪文を唱える。上歯は「鼠の歯より先に生え」とか「鼠の歯と替えてくれ」などと唱え、抜けた歯を床下へ投げ込む。下歯のときには「雀の歯よりはよう生え」「雀の歯と替えてくれ」と屋根に投げ上げたのである。鼠・雀という、ともに歯や嘴の丈夫な動物に仮託して、人間の歯もかくあれかしと祈ったわけである。
  〈咽喉の骨ささり〉 食べた魚の骨が咽喉に剌さってとれなくなったとき、これを除くために御飯や生卵などの固形物を丸呑みしたり、イリコを頭上にのせる、仏前に供えた茶を飲む、仏前に線香を献じて拝むなどするとよいといっている。あるいは、水を入れた飯茶碗の口に箸を十文字に渡し、茶碗の四か所から水を飲むととれるともいう。また、このときに東予地方では「村松の五左衛門さま」と唱えてから水を飲むとよいともいわれる。五左衛門は、「トゲ抜き大師」の異名をもつ伊予三島市村松の「村松大師」のことで、「ノギとりの五左衛門さま」とも称されて衆庶の信仰を集めている。
 〈火傷〉 伊予郡中山町では椀に水を入れて庖丁をつけ、「天竺のしびくさ様のしりの下から出た水を、もとの御身につけるぞや。アブラウンケンソワカアブラウンケンソワカ」と唱えながら水を傷にかける。また、大洲市では「猿沢の池の大蛇がやけどして、水に溺れて火に焼けた。アビラオンケンソワカアビラオンケンソワカ」と唱えながら、庖丁を火傷の患部
の上で振りまわすと早くなおるとか、西条市では「満濃の池の大蛇さま、焼けず劣らずアブラオンケンソワカアビラオンケンソワカ」と唱えて、傷口に息を吹きかけるとよいという。その他、各地で次のような唱え言がある。

・天竺の、天竺の、流さが池の大蛇、はよかけもどせ。アビラオンケンソワカアビラオンケンソワカ(津島町)
・猿沢の池の大蛇が焼けて、天竺の河原のアカの水、黒うもすな、暮れもすな、アビラウンケンソワカ(久万町直瀬)
・たぶさが池の清水ふみわけ大般若、アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ(広田村)
・たぶさが池の大蛇が火に焼けて、蛸の入道をもって呪う、アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ(同)
・どうざん奥山、一谷落ちて水になる、アブラオンケンソワカ。
・天竺の地蔵の前のたまり水、くみかくみか足でまじなうぞよ、アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ(城川町)
・天竺のりゅうしゃの川の川上の油火をうつせば水となる、アビラウンケンソワカアビラウンケンソワカ(同)

 〈疣〉 疣を除くための呪いも多様である。御荘町など南予地方では疣をイビラと呼ぶが、「うりゃ盗人、アブラオンケンソワカ」といって箒でイビラを撫でるとよいとか、初雷があったとき「イボ落ち、イボ落ち」と三回唱えて箒で撫でるとなおるという。唱えごととともに箒の持つ呪力によって取り除こうとしているのである。久万町や小田町では、蜘蛛のエバリをとって巻いておくととれるという。あるいは、七夕の日にイモの葉の露をつけるとか、蒟蒻の芽から出た汁をつけるとよい、薬師さんに行って「イボが治ったら蛸の絵を描いてあげますから」と願かけをする、「イボイボうつれ」と石にイボをこすりつけて石を積むとよいなどといっている。また、小石を歳の数だけ集めて疣をこすりつけ、道路に捨てるとよいとしたところもある。この場合、誰かがこの石を蹴るとその者に疣がうつるという。
  〈お多福風邪〉 伊予郡、上浮穴郡や松山地方などでは、馬のオモガイを患者の頭にかけると治るといっていた。広田村高市では、「北の男(女)、五尺にも足らぬ小男(女)で頬八丁とは出が太いぞ。アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ」と唱え、出歯庖丁の刃を頬に当てるとよいとされた。あるいは、「頬が八丁とはけしからん、今年の夏の大土用の丑の日に、太ったかずらの根を切れば枯れていくぞよ、アブラオンケンソワカ」と庖丁で頬の睡れた部分をあちこちさせながら呪ったり、「アブラウンケンソワカアブラウンケンソワカ、にんじんそこのけやいとをすえる」「アブラウンケンソワカアブラウンケンソワカ、からだはかね、病いは水となれ」などと唱えたり、西条市黒瀬では箒草で顔を撫でると治るといっている。
  〈蝮〉 蝮のことを県下では一般にハメと呼ぶが、これに咬まれたときにも呪いがあった。長浜町では「そがのなるのかきわらびみせしおんなりをわすれたか、アビラウンケンソワカ」とか「ゆうがおの花もみて付よし、花の無時にひょうたんこにして付吉、又こしゃうくいわってくい口ヘ付てもよし」と唱えるとよいという。また、蝮に咬まれないために中山町では「この山に五色まだらの虫がおこるなら、千里ケ浜にたちのけよ」と唱える。ワラビを親指につけるとハメに咬まれない。広田村高市では、山に入るときに「北の山に錦まだら虫おれど、朝立つ姫に逢うてかなわんがな。アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ」とか「大大明神様」「大神宮様大神宮様大神宮様」と言いながら入ると咬まれないといっている。周桑郡地方でも、ハメは大神宮(伊勢神宮)のお使いだから「お伊勢はんお伊勢はん」と言いながら通ると咬まれないという。あるいは久万町上直瀬では、「この山に錦まだらの虫おらば奥山の乙姫(イノシシ)に言い聞かすぞよ。アビラウンケンソワカ」と唱えたのである。その他、次のような唱えごともいう。

・この山にまんだらの虫がいるならば、とって山鳥の雌に食わすぞ、アブラウンケンソワカアブラウンケンソワカ(津島町)
・わが行く先に鹿の子まだらの虫おらば、わが行く先にたっとからざる、アビラウンケンソワカアビラウンケンソワカ(同)
・遠山のにしきまだらの虫おらば、トウダガタキのチカヤグサ・ワラビナの恩を忘れなよ、アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ(御荘町)
・ぐるりはなめくじ、アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ(肱川町)
・この山ににしきまだらの虫おらば、山たて女郎(なめくじ)がすまいするぞや、アビラウンケンソワカアビラウンケンソワカ(城川町)
・朝日が山で昼寝して、縫い通されしよちがやをはじき上げたるわらびのしずら、思いわすれな、アビラウンケンソワカ(久万町)

 〈蜂さされ〉 御荘町では、蜂にさされたところへ墨で何度も九の字を書くとよいといっている。八(ハチ)より九が偉いから腫れないのだという。城川町などでもだまって指で九と書いたが、「いたい」と言ってしまってからだと効果がない。あるいは「八は九で止める」といって患部の周囲に九の字を九回(図表「蜂さされ」参照)の如く書き、「アビラウンケンソワカアビラウンケンソワカ」と唱える。同様に百足に食われたときには(図表「蜂さされ」参照)と七の字を七回書く。また、普通の蜂なら八の字を三回、熊蜂ならば九の字を三回患部に書く。久万町では「我も弁慶、彼も弁慶、五条の戦い忘れたか、アブラハンケンソワカアブラハンケンソワカ」と唱えると蜂に剌されないという。
 〈血止め〉 切り傷には「アブラオンケンソワカ」と唱えながら息を吹きかけるとよい(久万町)。同じく止血には、三種類の葉をとってきて「血は父母の恵みぞや、アブラオンケンソワカ」とか、「二・二が四、二・四が八、この血は父と母がこしらえた血、アブラウンケンソワカ」と唱えながら傷口に貼れば止まるという。また、青しばを三つ折りくらいに重ねて押しつけ「いんにがに、ににんがし、アブラオンケンソワカ」と唱えたり、「母の体内ここのつき、父の体内一二月、この血おさめためる、アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ」(別子山村)とか、「父と母とが血の神ぞ、鎮まり給え。アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ」という(広田村)。野村町惣川では、刃物で傷口をさすりながら「天竺の毘沙門様は鉄が一つの宝ぞや、一分切れば一寸の傷薬になる。アブラオンケンソワカアブラオンケンソワカ」と唱えながら止血の呪いをしていた。
 〈そらで〉 手の使いだれで手首が痛むことをソラデとかテシロという。この場合、障子の破れからソラデになった手を外へ出して手招きしながら「ソラデが痛うて招かれません」と言って、男なら女児の末子に、女なら男児の末子に手首を白糸で縛ってもらうとよいと小田町や御荘町などで伝えている。また、宇摩郡新宮村では竹籠かつる鍋の弦越しに、男は寅歳生まれの女に、女は同じく男に痛む方の手首をくくってもらうともいう。
 〈中風除け〉 冬至に南瓜を食べる、初物を食べる、初物を食べて東を向いて笑うとよいなどとは現在でもいっている。葬式の棺かきをした人の草履をはいたり、新造した初風呂に入るのもよいという。大洲市などでは、七七歳の人が紙に名前を書いてお経を唱えてから男は女に、女は男に渡し、貰った者がこれを肌守にすると中風にかからないとされる。また、七月七日のタナバタに、七七歳の人に「七十七歳○年男(女)」と扇子に書いてもらい、これを所持していればよいともいう。ただし、男は女に、女は男に書いてもらわねばならない。
  〈グリ〉 大洲市では股や首筋にグリ(リンパ腺の腫れ)ができると、杓の柄をグリのところに当てて杓の中にヤイト(灸)をすえる。すえている者が「そこにヨネコはおらんか」と言いながら、きょろきょろと周囲を探すまねをする。すると、すえてもらっている者が「おらん、おらん」と答えるとグリがすべる(腫れがひく)といった。また、股のグリには火であぶった鉞を当て、ぐるぐると回すと治るという。
  〈脚気〉 松山市古三津町あたりでは、南瓜を脚気の禁厭に用いた。脚気に罹ると患者は南瓜に向かって盃をさし、さながら人間であるかのようにこれとやりとりをしたのち南瓜を川に流す。こうすると平癒したというのである。
 以上のほかにも多様な呪法が伝承されている。田舎ではまだ子供たちが、はぜの木の下を通るときに「親に負けてもうるしに負けん」とか「親に負けるがはぜには負けん」などと唱えながら、くぐり抜けている。東予市庄内地区では「ロウにもウルシにもまけないように」といって指をくわえて三回まわるとよい。また、かぶれてホロセ(じんましん)がでたならば、左ないの縄をなって身体を撫でさすり、この縄を家のどこかの梁をくぐらせてから焼却すると治るという。はしかには、家の玄関に「はしか済みました」と書いた紙を貼ったり、西海町福浦では風邪除けの呪法として、軒下に「ササノサンパチロウノヤド(笹の三八郎の宿)」とアワビの貝殼に墨書して吊り下げていた、などなど、およそ治癒のための呪法を伴わない病気はなかったといってもよい。人々はこうした呪いを真剣に行ってきたのである。そして、呪いや民間療法を尽くして病患の者が医者を呼ぶ場合、それは時として死を意味することでさえあった。

 神仏祈願

 疾病に対して患者や周囲の者がさまざまな呪いや療法を試みると同時に、個々の症状に効験があるといわれる神仏や小祠・小堂に願をかけるという行為が、医学の発達した現代社会にあってもなお盛んに行われている。諸病一般に効果を期待される氏神や薬師如来のほかは、たいていそれぞれの神仏によって加護を得る症状と性格づけがなされてきた。それとともに、祈願が成就したときの奉賽物も「心願成就 何歳の男(女)」などと記した絵馬や幟・手拭い・前掛け・頭巾・草履・杖・頭髪・模造品その他を奉納するが、これも疾病の種類や神仏によって概ね決まっている。次に、県内の代表的な病気治癒の神仏をあげておくことにする。
  〈耳神さま〉 耳病に霊験があるとされるのがミミゴサマ・ミミドサマ・ミミダレサマなどと呼ばれる小祠で、南予地方に多く分布している。祈願成就の願ほどきには、たいてい穴のあいた扁平な小石を奉納することになっているのが特徴である。
 東宇和郡城川町遊子谷の上川部落の耳神様には、地区内のほか野村町や喜多郡肱川町の一部からも願をかけに来る者がいた。治ると穴あき石を奉納するが、これをミミイシ・ミミゴイシといっている。石積みの小祠(カラト)があり、願をかけるときには、米を供えて線香でも立てるくらいであるという。また、肱川町宇和川の道野尾にもミミゴさまが祀られ、穴あき石や五色旗が奉納されている。野村町惣川の竜徳・西組・寺組・今久保などにもミミゴの神様があって、穴あき石が納められた。大洲市上須戒の一の瀬の石神様も耳病の神として知られている。北宇和郡吉田町煙硝蔵の石神様にも同様に穴のあいた海石が奉納されている。同郡三間町土居中のミミゴサマは戦国時代の武士の塚だといわれ、莫大な数の穴あき石が積み上げられている。耳石・ツンボ石と称し、耳の病で願掛けして霊験を得た者が願ほどきのために奉納したものである。その他、肱川町鹿野川の寺滝、内子町城廻、野村町予子林の藤之原、広田村高市、保内町平家谷などに、このような耳神様が祭祀されている。また、小田町京の森の地蔵も、直径五~六cmの平たい石の真ん中に穴をあけて紐を通し、首にかけて奉賽物としている。
 川之江市妻鳥町篠原組の薬師さまには、土器に穴をあけて糸を通したものを供えて願ほどきをする。疣にも効めがあるといって、このときには松笠(ふぐり)を数珠つなぎにして供える。丹原町今井の生木地蔵(正善寺)も耳病に霊験があり、たくさんの土器を納めている。四国巡錫中の弘法大師が一夜のうちに楠の大木に地蔵菩薩を彫りあげたところ、片方の耳だけが彫り残しとなっていたので、人々が耳のかわりに穴あきの土器を奉納したという故事にちなむものである。
  〈歯痛地蔵〉 歯痛を神仏に祈願して封じ込めることも多く、地蔵であることが一般的である。大三島町宮浦の海岸にある歯痛地蔵は、木の枝でつくった箸形のものや前垂れを縫って供えるといい、伊予市稲荷の滝谷地蔵には萩の箸を作ってお礼詣りに納めることになっている。
 南予地方でも萩の箸を奉賽物とするようで、野村町小松の白浦の地蔵は、歯痛が治れば萩の箸をさらに簾に編んで奉納し、願ほどきをする。同町富野川の新堂の鼻や四郎ヶ谷の地蔵、予子林松尾の虫歯地蔵、城川町川津南の西方寺喚国和尚の墓、日吉村日向谷のおまん姫の墓なども歯痛に効験があるとされ、治癒すれば年の数ほどの萩の箸を作って納めるのである。とくに喚国和尚の墓へは、願掛けのときに、一生萩の箸は使わない旨を誓うという。
  〈疣地蔵〉 疣とりの呪法についてはすでに示したが、これを神仏に祈願することも多い。疣地蔵がもっとも一般的で、越智郡玉川町高野のものには白や赤のよだれかけがたくさん掛けてある。塔身に「三界萬霊」とあり、傍らに窪みのある石がある。祈願者は線香をあげて疣の治癒を願い、供えられた樒を一本抜いて切口の水を疣につける。ついで疣を水洗いしておくと、自然と治ってしまうという。また、できものの場合には、清水を汲んで持参し、窪みの穴を洗って清水を入れ、この水でできものを洗って最後に線香の灰をつけるとよいといっている。
 同郡吉海町椋名の新谷海岸にある西向き地蔵は、陽が当たるからと東向きにしたところ西向きの方がよいとお告げがあり、またなおしたものであるという。三体のうち一体は漁の網にかかったもので、疣のよくとれる地蔵である。「疣を治して下さい。何年何月生まれの男子」などと願をかけ、線香の灰をもらってつけるとよく効く。治ったらタコの絵や前掛けを奉納したり、炒り豆などを供えることになっている。同町仁江でも地蔵にタコの絵を描いて奉納し、一週間の願をかける。治ると線香をあげる。
 また野村町松渓の三島神社御旅所西方の杉と桧の大木の下に、普門院という山伏を祀った五輪塔があり、疣神さまとして知られている。願をかけて七日間線香をあげて詣ると、七日目には疣がとれるという。とれたときには返礼として、ブリキ製の鳥居か木綿か紙の幟を持って参詣する風が大正末期まで存続していた。同町小振にも疣神さまがある。小振部落入り口にある古墓の一つで、大塚源九郎なる者の墓であるという。墓前に水を供えて願をかけ、その水を持ち帰って疣につけると不思議にとれる。
 西条市藤之石本郷の東宮さんも疣神で、赤と白の幟を先に一本あげて祈願し、とれるといま一本を礼に奉納する。伊予三島市富郷町では、水神と薬師に願かけする。治ると水神には米を、薬師には松のふぐりを年の数ほど供えるのだという。また、中島町二神の疣神さまはそこの水をつけると効験があると伝えている。中島八十八か所の一番札所も疣が治るといって、蛸の絵を描いて供える。
 以上のように、神仏への疣とり祈願においては、安置所の花立の水や線香の灰をつけたりすることが多く、治癒後の奉賽物には蛸の絵や松笠が最も一般的なものとなっている。
 〈塞の神〉 県下各地に見られる塞の神は、足の病や咳の神として効めがあるといって、なお盛んに信仰されている。一般に、各地とも草履を供える風習が顕著である。中島町神浦や長師と小浜境の塞の神は、ここで転ぶと足半草履をつくって奉納する習わしになっている。これは、ところによっては片袖をもいで奉納する袖モギの信仰につらなる習俗で、重信町下林などにも見られる。中島町饒のものは大きな白蛇がお使いだといい、歯痛の神として信仰されている。草鞋片方を供えて願をかけ、治るともう片方を供えてお礼参りするのである。越智郡魚島の塞の神も足病に験があり、わら草履を奉納した。この道饗神から足病の神ともなった塞の神は、たいていどこの村にも見られたもので、弓削町や伯方町などでは「幸神」と刻まれた自然石が散見される。また、川之江市金生町の塞の神はたごりの神として信仰され、願掛けをして治ると男子は草鞋、女子はコマゼを奉納する。
 その他、足の病に効験を発するものに韋駄天の信仰がある。松山市の石手寺境内の韋駄天堂には、多数の草鞋が奉納されている。同市味生の岩子山麓の忽那霊社には、木太刀を納めた。
  〈淡島さま〉 和歌山県の淡島神社を本社とする婦人病に霊験があるとされる神さまで、県下では南予地方に多く祭祀されている。『愛媛県神社誌』によれば、今治市・大三島町・松山市・伊予郡に各一社見られるほかは南予地方に一三社あり、西宇和郡(五社)・北宇和郡(三社)や大洲市(二社)や、八幡浜市・宇和島市などに一社ずつ分布している。大洲市のほかはすべて境内末社であるが、他にも合祀された小社が相当数あったものと考えられる。
 大洲市成能の粟島神社は旧暦三月二五日および六月二五日が祭日で、参詣者も多い。境内では合島相撲が奉納される。また同市北只の粟島神社は巨石(ドルメン)を祭祀しており、「粟島詣」の口伝があって性病平癒の神として崇敬されている。野村町白髪の淡島神社へは、婦人病の治癒祈願が成就すれば木製の男根を奉納する。
 ちなみに、菊間町高田の日留女地蔵も婦人病や下の病に霊験のあることで地域的な信仰を集めている。
 〈阿奈婆信仰〉 大三島町宮浦の大山祇神社の境外末社である阿奈婆神社への信仰から派生した性神信仰である。南北朝時代の祭祀記録にも「八月廿六日は阿那波申御神事」などとあり、古くからの信仰であることがわかる。各地の三島神社にも境内末社などの形で勧請されている。また文字も「穴場・穴婆」の字を当てることもあり、性病・婦人病の治癒を願って参詣し、奉賽物として木製の男根を奉納する。宮浦の阿奈婆神社には、大小さまざまの男根が納められており、今治市や越智郡方面よりの信仰が顕著である。
 さて、松山市石手の石手寺の境内には鐘樓の横に「穴場地蔵」が祀られている。現在は守孔堂と称する堂宇が建ち、性病に限らず口・目・耳などの病気治癒に効めがあるとして参詣者の香煙が絶えない。
 〈吃り神〉 西条市西泉の民部塚は、丹民部氏秀を祀る霊廟で、吃りや脚気の守護神として遠近の信仰を有している。丹民部はこの地方を領有した中世領主であったが、毛利氏の家臣・吹上六郎なる者と戦ったときに吃りであったために敢えない最期を遂げたといわれ、のちにその霊を祀ったのが民部塚である。現在も大願成就の幟や松葉杖・鉄製の小型鳥居、草鞋などの奉納が続いている。同様に、伊予三島市の八綱浦海岸の川上神社も吃りの神さまとして信仰される。川之江市の仏殿城主であった川上但馬守安勝を祀るもので、安勝が吃りであったがゆえに非業の死をとげたことにちなむものである。
  〈その他〉 西条市黒瀬の光増飛騨守を祭神とする飛騨神社は、諸病に霊験があるとされるが、とくに腫物に効めがあって人々に信仰されている。飛騨守が腫物に苦しみつつ死んだことに由来するもので、願を掛けて験しをえた者は折り掛け樽を奉納する。子供の場合には木太刀や人形を納めて願ほどきをしていた。また、松山市山越来迎寺の足立重信の墓は歯病や足、松前町出作の平岩神社は咳の神で、それぞれ治癒すれば木太刀を奉納する慣例であった。
 眼病の神仏には、生目八幡社や目魯止(両)神社(祭神は天目一神)、目引大師、一畑薬師などである。それぞれの呪い方法はすでに述べたが、県下では生目さんと目魯止さんが一般的である。松山市浄瑠璃町の生目八幡社がよく知られており、参拝者も多い。また北条市の高縄山を中心に多く分布するのが目魯止神さんで、各地とも旧八月二四日ころに相撲を奉納していた。松山市東川町の諏訪神社境内末社の目留止神さんでは、現在も八月三一日に奉納相模を行っている。
 また、西条市加茂の中之池の筋神さんは、豊臣秀吉の四国出兵に際して石川備中守の側室らが土佐の長宗我部氏を頼って行く途中、中之池までたどり着いたところで悪路や持病の筋病のためやらで進めなくなった。同時に城も落ち、側室は遂に敢えなく最期を遂げたのであるが、のちに人々はこれを筋神として祭祀するようになり、祈願をかけて霊験があれば折り掛け樽に神酒を入れて供えていた。側室が、生前に冷酒を好んだからだという。
 この他にも、熱病や頭痛、腹病、疱瘡などに効く神仏が各地に祀られ、地域的な信仰圏を形成している。とくに疱瘡はかつて各地で命さだめといわれ、丹原町田野地区などではこれを病みぬけた者でないと一人前と見なされなかったという。氏神の綾延神社境内にも疱瘡神が祭祀されている。また日切り地蔵のように何日間と日を決めて日参しないと平癒しないものもある。松山市湊町の日切地蔵(善勝寺)が著名である。野村町河西の日切地蔵も山の中の小さな堂宇であるが参詣者が多く、満願に納めた千本幟や五色旗が立ち並んでいる。小田町寺村にもあって「お日切りさん」と称されており、日を決めて頼みごとをする。八月二四日が縁日で、周辺町村からも参拝者が多い。

 祈祷

 神職や僧侶、山伏、巫女等の民間宗教者などによる病気平癒の加持・祈祷は、現代社会にあってもなお盛んに行われている。時には篤信者が神がかり、仏がかりをして特別の呪力を会得し、「おがみやさん」として病人祈祷にあずかることも多い。
 神職の祈祷は、代々の神主家(社家)に限って伝承されるもので、主として近世中期以降に広まった「橘家神道伝」による祈祷法である。橘家神道は、玉木韋斎が橘家に伝わる神道の行法をもとに集大成した実践的神道で、県下では享保年中に大洲八幡神社の常磐井家に伝わったのち、旧大洲藩を中心に幕末までに各社家へ浸透した。礼祷の種類はさまざまであるが、病人祈祷としては「十種神宝祈祷」と「墓目祈祷」が通例二夜三日にわたって厳修されてきた。とくに蟇目祈祷は、弓をひきながら行うなどその構えや作法にも煩雑なものがあり、めったに行うべきものではなかった。これらはいずれも秘伝で、一子相伝とか口伝という伝授方式をとったものもある。大洲市や喜多郡内には病人祈祷などにあずかる巫女の家筋があり、姑から嫁あるいは娘へと伝授されている。神札をつくり、中臣祓と般若心経を二夜三日にわたって奉唱して拝み込むのである。また、神社の祭礼時には巫女神楽を奉納している。
 一方、僧侶の祈祷はもっぱら密教系寺院が行うもので、県下では柴灯大護摩供養など喜言密教による加持祈祷が中心である。こうした祈祷寺院には葬祭檀家を有さぬものや、死後一年以内の葬送儀礼に関与しない寺院も多かった。一般に知られているのは、夏の土用ころに修行される「胡瓜封じ」の祈祷で、寺に胡瓜を持参して経文や願文を書き御祈祷をして悪病封じをしてもらう。胡瓜を人間に見たてて患部を独鈷で剌して病気平癒を祈ったのち、これを土中に埋め込んで封じ込めるのである。東予市の世田薬師栴たん(木へんに旦)寺、丹原町の西山興隆寺、西条市の王至森寺などのものが知られている。また年齢によって特定された箇所の病気が長びくときには「六算」が当たっているといってこれを除かねばならないとされる。

 箕加持

 中島町では、原因不明の熱病(カザフレ)に罹ったようなとき、箕の中に庖丁・しゃもじ・やかんの蓋の三品を入れて加持とすると治るといった。同町野忽那の老婆は次のような呪文を唱えながら行っていた。

八尺瓊曲玉、草薙剣、八咫鏡、三つの宝が箕の中に入らせ給わらば、神の災、虫・獣の災、生霊・死霊の災、まわり金神・火の金神の災、海の神・山の神の災、いかなる災がありましょうとも、(何歳の氏名)この箕加持でしゃぶり給うぞ。去に給え。アビラウンケンソワカ

このように唱えた後、庖丁をとって左右に振りながら加持をなし、さらに患者の後頸部のボンノクボの髪の毛三本を抜き取って箕に入れ、底部を叩いて加持をする。終わると家の裏口から戸外へ箕の中の品を放り出すのである。

 吉海町椋名でも、子供が急に高熱を出したときにはカザフレといって、神に行き逢ったからだという。祈祷をする老婆(インチョウ)が箕の中にしゃもじ・火箸・すりこぎを入れて病人の枕元で呪文を唱えて加持をした。隣の宮窪町でも、身体に寒気がする症状を「カサブレが上がっている」とか「ミサキさんがついた」などといい、行きあう場合によっては死ぬこともあったという。そこでカサブレを落とすため、箕の中に杓子・連木・火箸・庖丁・箸を入れて、元気な者が家の中から入口に立っている患者に向かってさびる。このとき 「伊勢のようだ(山田)の川風にアブラウンケンソワカ」と三回唱えるとカサブレが落ちるという。
 また、久万町でも、箕にすりこぎ・しゃもじを入れて振りながら「アブラオンケンソワカ」と唱えると熱が下がるといっている。
 あるいは西条市加茂地区では、うっかりと山の神の木を伐って罰が当たったようなときには顔面蒼白となり、目まいなどをおこすという。このときに箕加持をなした。北向きに座らせておいて、箕で三回煽ぐと治ったという。これは、普段に箕で人を煽ぐことを忌みることからも理解されるように、箕という一つの呪具によって災いを祓いのけたり魂を呼びもどそうとしたのである。
 〈ハリキリの祈祷〉 広田村高市では、伝染病流行の年に行う道切りの呪法をハリキリの祈祷といっている。通常は正月一六日の念仏の口明けに行うものである鬼の金剛とか金剛草履と呼ぶ大草履をつくって組境の川下の側や谷塞ぎ・道塞ぎに張り渡し、また関札を立てて疫病の侵入を防止しようとしたものである。超自然的な巨人の霊異に期待した呪いであるが、宇和町明間などでは大草履をオクヨウサンと称し、夏の土用ころに組境に置く。疫病流行時にはさらに注連縄を張る。この場合、飾り足を一・五・十・三本の順で垂らしてゆく。イゴトオサンの語呂合わせである。明間の倉谷部落では、かつて近隣で病気が流行ったときにも助かったというが、オクヨウサマの大草履はすりきれていたと伝えている。南予地方の大草履が身丈ほどもあるのに対し、東・中予のものは少し小型であり、百万遍念仏を唱えたところも多い。吉海町仁江では御子堂さんに寄っての百万遍念仏を唱えてから旗をつくり、宮窪・大山・亀山の地区境に行って立て、百度柴を百枚持参して数珠をくりながら置いてゆく。鉦・太鼓を叩きながら行った。また、川内町南方では、毎春の四国遍路への接待時にもらった納札を縄に挾み込んだものを地区の堂宇に張り、悪病除けとしていた。
 〈千垢離〉 大島の宮窪町浜では、家族の中に大病をして重体の者がいるときなど、近所や知人の男子に依頼して千垢離をとってもらった。潮垢離をとりながら、石鎚道者の不動経「ノウマクサンマンダバ、サラダレ、マーカロサーダーソワカ」を千回唱えるのである。浜に豆などを千粒おいておき、先達とともに何人かが数取りをしながら一粒ずつ持って海に入り、不動経を都合千回唱える。その後、氏神の尾形八幡神社へ褌姿で走り込み、祈願をした。同じく吉海町椋名でも、青松葉を千本束ねて先に注連をつけ、褌姿になって海に入って松葉で身体を叩きながら千回まわる。続いて氏神の渦浦八幡神社へ裸詣りをしていた。
 その他、共同祈願の方法としては南予地方に「お伊勢踊り」がある。野村町では病人祈祷の伊勢踊りは七五回奉納するといい、先ず五〇回したのち、平癒すれば残り二五回のお礼踊りを行うことになっていた。また、天王社(素鷲神社)など悪病除けの神社の神輿を臨時にかき出して赤痢などを鎮めようとすることも、時折ではあるが行われてきた。

 民間薬

 医師や薬屋によるものではなく、人々の生活の知恵として生まれた薬療法も民間医療の一つである。一般に、漢方薬が植物や動物、鉱物など多種類のものを混合して調製する複合薬で、ある特定の病気について特定の処法箋を有するのに対し、民間薬は薬草を単味で用いて複数のものを調合しないことを原則にする。すなわち民間薬の場合には、同一の薬草がさまざまな病気に効果を発したり、同一の症状にいろいろの薬草が効くことが多いといわれ、一般家庭でも盛んに用いられてきた。とくに近年では、一つのブームとさえなっているようであるが、これについては神野太郎が『伊予の薬食草』としてまとめていて参考になる。なお、薬草は(旧)六月土用の丑の日に採るとよいと伝えており、採った薬草は、束ねて軒下などで蔭干ししたのである。
 さて、江戸時代以来の薬種商である大三島町宮浦の鈴木家には、かつての薬箪笥が残っており、それぞれの引出しには次の漢方の薬種名が記されている。

営天 麦門冬 天門冬 鳥薬 蔵・(麦へんに生) 奏(しん)きゅう 高陸 よく苡仁 卓角利 茴香 橄欖 益智 益母草 草香  常山 白鮮皮 杏仁 牛旁子 青皮 蒿本 瓜・(草かんむりに婁)仁 木爪 蘇子 竜旦 ・<草かんむりに固>(ママ)塵 ・梨子 橘皮 山椒 ・(木へんに発)麻 川滑 白・(草かんむりに正) 車前子 便除子 富尊皮 夫南星 玄参 菊花 白桃花 良智 大腹皮 嬰麦子 智母  牛膝 山集 前胡 貝母 鬱金 乳香 沈香 黄花 生地黄 熱地黄 紅花 縮砂 丁子 黄柏 木通 半夏 蔦根 芝胡 厚朴 防風 桃仁枳殼 枳実 山梔子 蓮翹 黄苓 大黄 美活 荊芥 忍冬 かっ香 麻黄 海人艸 荻苓 自木 乾姜 香附子 紫蘇 薄苻 甘草 苦棟皮 圭枝 芍薬 桔梗 黄蓮 莪・(しんにょうに木) 三稜 澤瀉 猪苓 呉・(くさかんむりに矢)英

これに判読不能のものを加えると全部で一一三種の薬種名が見られる。また同家には、寛文元年(一六六一)の「書出し調合帖」と題する漢方薬調合法の手控えも所蔵されている。それぞれの病気の症状別の調合法を示したもので、例えば「ニチン湯 茯苓中 半夏大 陳皮中 丼草少し 右之薬風ニテせき有時用由也、せんじ用常也」などとある。

 石風呂

 民間の医療施設として瀬戸内海の沿岸部や島嶼部を中心に特徴的な分布をみせるのが石風呂である。石や煉瓦を積みあげて石室を造ったり、大きな岩場を掘鑿して横穴洞窟を設けて造る。穴の中で火を焚いて石や岩を焼き温めたのち、濡れ莚などを敷き並べて入口を密閉した蒸し風呂形式のものである。県下にもこの石風呂がかつて濃密に分布し、現在地名にも松山市石風呂町などが残っている。
 さて、石風呂は大きく二つの形態に分けることができる。一般には、洞穴式の蒸し風呂を一括して石風呂と称しているが、守屋毅はこれを釜風呂型と石風呂型に分類している。釜風呂というのは、京都市郊外の八瀬のそれに代表されるように、人工的に土饅頭のような土盛りをして内部を空洞にし、風呂とする形式のものである。もっとも、この場合には〝釜〟ではなくて〝竈〟の意であると祝宮静は指摘している。つまり、基本的には炭焼き窯様の構造物ということで「かまど」式と名付けているのである。山口県佐波郡徳地町の「野谷の石風呂」や大分県速見郡山香町の「長田の石風呂」などが代表的なもので、国の重要有形民俗文化財の指定を受けている。これに対して、今治市桜井の石風呂に代表されるのが、横穴式ということになる。
 ところで、石風呂の起源については目下のところよく分かっていない。四国の瀬戸内海沿岸では弘法大師創建説を伝えるところが多く、山口県佐波川流域では俊乗坊重源上人であるという。また、残存する石風呂についても相当年数を遡行しうるものから、大正期や昭和期になって開設されたものまである。今治市鳥生大浜の石風呂は昭和三年に清水要作が開業したものであるが、六年後には不景気による遊客減少のために廃業したという。
 後述する桜井の石風呂は、天和元年(一六八一)の南明禅師の漢詩碑や寛政七年(一七九五)の「温石窟縁起」を伝えている。また『宇和旧記』によると、八幡浜市栗浦にあった石風呂は、慶長五年(一六〇〇)に山口県大島より伝習したものであるという。すなわち同書には、

  一穴風呂之事
外の廻り、九尋二尺五寸。内の高さ七尺五寸、并堅横同前。内の廻り五尋一尺五寸。入口の高さ二尺五寸、横二尺二寸。
是は田中林斎企にて築きなされる由なり。元来、周防八代島久加と云所に、弘法大師の作にてこれ有る由聞及ばされ、みせに人を遣し、築きなさるとなり。風呂の上下、石を塩にして詰らる故、六十石入よし。諸病悉除の為なれば、薬師を勧請して堂を建てらるといへども、今はなし。慶長五年のよしなり。

と記している。ひとまずこの記事を信用するとすれば、このころに周防大島の久賀町久賀より栗浦に「かま風呂」=「かまど」式の石風呂が伝えられて穴風呂と称していたことになる。そして、それはさらに薬師信仰に根ざした医療施設で、規模的にも現存するものに近似していたことが理解される。江戸時代末期にこの地を訪れた半井梧菴は、『愛媛面影』のなかに栗浦の穴風呂の用法を「内にて火を焚き、其の温に依りて汗を発する治療なるべし」と述べ、その効験を「疝気・腰痛・小瘡・脚気等に奇効有りと云ふ」と記している。そして、今治市桜井や大浜などで石風呂といっているものも、栗浦の穴風呂と同じ類であるというのである。
 なお、宮本常一は周防大島の石風呂を紹介した報告のなかで、同地の石風呂が集落から離れたところに位置するのは古墳の石室を利用したものであろうと推定している。そして、周防大島では、「浜を長さ四尺、幅二尺、深さ一尺四五寸に掘って、拳大の石をひろって来て一つならび位に入れ、その上で火をたく。そうして石を焼く。石が十分にやけたと思うと、青みの未だ消えていないしめりのある藻葉をその上に敷く。そうしてその上にドンダをひろげてころぶ」エンシキと称する療法があったが、これが石風呂の起こりかその分化と考えられるといっている。

 桜井の石風呂

 さて、県下で現在も営業を続けているのは、今治市の桜井海岸にある石風呂である。毎年、七月一〇日から九月一〇日までの二か月間、地元の桜井地区(桜井・郷桜井・沖浦)の者たちが運営に当たっている。浜辺に突き出した岩山をくり抜いて、奥行き七・二m、間口三・三m、広さ五〇㎡ばかりの岩穴の中で枯れたシダの葉や松葉を焼き、海水に浸した莚を敷いて蒸し風呂とする昔ながらの方法を受け継いでいる。シダは内部の岩はだにそって積み上げ、火をつける。一度に一五把~二〇把ほどを要するといい、冬の間に刈り取って貯えておく。シダを用いると、燃え残りの灰がほとんどないのが利点であるという。
 一〇分ないし一五分もすると岩穴の中は摂氏一〇〇度を越える高温となる。岩窟内の火がおおかた燃えつきたころ、綿入れの作業衣に頭巾を被って中へ入り、火のまだ残る灰の上に海水に浸した莚を敷きつめる。さらに上から海水をかけて入口を莚で閉じると、それが蒸気となって蒸し風呂ができあがるしくみである。こうして風呂が焚けあがると、バンギを打って入浴の合図がなされるが、適温だという六〇度まで下がるには一時間近くもかかる。人々は、一回に一〇分ほどずつ石風呂に入るが、一日で都合五~六回入ることになる。多い者は、日に一〇回を数えるという。七月から九月の期間中、毎日午前・午後の二回焚かれるが、以前は三回であった。また開設期間も七月一日から九月二〇日までと、大分長期間であった。この間、八月二日には薬師堂の縁日もあり、その前後が施浴客も最高となるのである。
 さて、桜井の石風呂開設には、一つの貴種流離譚が伝承されている。いわゆるうつぼ舟伝説である。昔、ある高貴な姫が業病のために小舟に乗せられて流されたところ、桜井の浜に漂着した。村人に発見された姫は、土地の長であった孫兵衛なる者に伴われ海辺の岩窟に移り、石風呂で治療を続けたところ、その業病も完治したという。これに感じた姫は、以来、孫兵衛の側で一生を送ったといわれる。もっとも、この伝説にはいくつかのモチーフが組み込まれており、おそらくは複数の話が習合して成立したものと考えられる。したがって石風呂の直接的な起源説話とはならないであろう。また、近くの法華寺(国分尼寺)の寺伝によると、光明皇后の命で伊予に下向した同寺開基の証爾尼は、桜井海岸の海蝕洞穴を利用して石風呂とし、法徳院を建立して宿坊とするとともに薬師如来を本尊に祀り、石風呂の巌上にも薬師を祭祀したという。それゆえ、石風呂は今日も法華寺に所有権があり、薬師堂の祭祀も同寺が執り行う慣例であるというのである。その他、弘法大師と脈絡づけて、昔、大師が桜井の里近くを行脚していたとき、手足なえて行き倒れている旅人を見つけて石風呂の入浴法を教えてやると直ちに回復したといい、これが桜井や付近の石風呂の起源であるともいわれる。
 もちろん、文献的にもその起源をたどることは困難で、先にふれた南明禅師の入浴碑文を最古とする。すなわち、「巌洞に柴を焼て海藻を敷き 万病を平治す 一方浜 医士善逝如来の徳 遊泳溢余 幾許の人」(原漢詩)とあることから、天和元年のころには民間医療施設としての桜井の石風呂が存在したことが理解されるのである。
 なお、当所の石風呂は、元来は岩窟が一つであったものが、明治以降の混浴の制禁によって二つ造られていた。そして、入口には入浴者心得が掲示され、昭和一三年には「一、男女混浴を禁ず。一、浴客の特に嫌忌すべき病者の入浴を禁ず。一、入浴中は放歌、会声を発すべからず。一、朝風呂以前に入浴する方は瓦斯の為に倒れる処ある故にお断り。一、男子はフンドシ女子はコシマキ」など八か条が、その筋の達しによって特に注意を促されていたのであった。

 今治付近の石風呂分布

 高縄半島先端の今治市から芸予諸島、中国筋にかけた一帯は、石風呂の濃密な分布地帯となっている。すでに廃絶したものが多いが、桜井のほかに今治市に五か所、大三島でも宗方・口総・野々江・台・肥海・甘崎・井ノロなど島内に一〇か所ばかりもつくられていた。その他、島嶼や海辺の地域には、ほとんど例外なく一つや二つの石風呂は営業されていたのである。
 さて、『今治夜話』が「石風呂は惣三郎生涯の功業なり」と記す今治市湊のものは、桜井とともによく知られている。岩窟は奥行き六m、高さ二mばかりで、奥へ行くにしたがって広く高くなっている。石風呂の所在地を惣宅地と呼んでおり、桜井と同様の運営がなされているが、湊では五月初旬から九月末と営業期間も長い。やはり、浴客は七、八月に集中するという。なお、惣三郎の石風呂は大正四年の暴風雨で崩壊し、その側に現在のものが掘鑿された。
 また、今治市大新田の浅川海水浴場には、明治末年に浅川卯左治の始めた煉瓦造りの石風呂があり、五月中旬から九月中旬にかけて営業された。同市富田の喜田村海岸にも石と煉瓦造りのものがあって、塩湯や水風呂を付設し、風呂の上には屋根がついていた。大正二年の創設という。同天保山の海浜のものは明治中期に開かれ、豪商天満屋の経営であった。周囲に石を積み重ねた上に煉瓦を築きあげたカマド式で、間口六m×奥行き八mと大きなものであった。その他、鳥生大浜にも天保山同様の石風呂があった。
 芸予諸島では、大三島町台のものが近年まで利用されていた。台の新田の海岸端にあり、奥行き三mばかりの横穴が掘られ、一〇人前後入ることができる。焚き木を燃したあとに海藻を敷き、さらに海水に浸した莚を三枚重ねに敷いて座ったという。焚き木は、当初は二五束くらい燃さねばならないが、日を経れば十数把でよい。一回三~四分ずつ、一日に五~六回利用した。特に神経痛やリュウマチ、冷え症に効果があるという。春と夏の二回開かれ、春は四月中旬より二週間、夏は八月に三週間ばかりであった。とくに夏のものを土用風呂と称した。また、同町肥海の亀ケ内石風呂も横穴式のもので、大正一〇年から昭和一〇年ころに使用されたという。直経五mほどの円型の岩窟で、二〇人くらい入った。松葉を焚いてモバ(海藻)を敷き、濡れ莚を敷いてモバの水分で蒸し風呂とする、台と同型式のものであった。夏の間だけ利用され、各自が松葉などを持ち寄って自由に温めて入ったのである。疲労回復や風邪ひきに効くといった。
 このように、今治市の付近には多数の石風呂が分布していたのであるが、渡辺琢一の調査によれば昭和二五年の時点で愛媛県本土沿岸に三五か所、越智郡島嶼部にも大三島のほか大島・岡村島・岩城島・生名島・弓削島などに一二か所あるという。また、八幡浜市や松山市三津浜、菊間町などのように、記録や遺跡だけ残っているものも一五か所ほどあるといっている。大島の吉海町椋名の石風呂は、神経痛や風邪ひき、筋の悪い者、梅毒のできものなどにも効力があるとされ、枯松葉を焚いて濡れ莚を敷いた。菊間町種の皆曲岬にも石風呂の洞窟が残るが、昭和三〇年代まで利用されていた。隣の大西町にも脇や九王に石風呂があり、九王には石風呂のバス停留所と洞穴が残っている。その他、東予市河原津や北条市浅海、西条市船屋、越智郡魚島にもあった。魚島のものは、奥行き・幅とも二mほどの横穴で、やはり松葉を用いた。しかし、明治末期に銭湯ができたために、しだいに衰廃してしまったという。
 もっとも、以上のものは一様に海浜に面して立地し、海水に浸した濡れ莚を敷いて蒸気を立てるか、海藻を敷いてさらに濡れ莚を敷くもので、石風呂内の発汗作用とともに塩による治療効果を期待している。石風呂のなかには、塩湯を併設しているものも多い。また、山間部に掘られた温泉郡重信町下林字八幡の石風呂は県下では珍しい存在で、真水による蒸し風呂であったために身体に塩をすりつけて入った。地元の森武繁が石工の技を生かして所有の山に岩窟を掘り、付近の山からシダを集めて焚いたものであるが、山間部の石風呂ということで珍しがられ、大正から昭和初年にかけて一時期ではあるが近郊よりの利用者があったという。同様に重信町横河原にも、カマド式の石風呂があって利用された。
 ちなみに、伊予郡松前町浜や北宇和郡吉田町魚棚などには塩湯があった。浜の夫婦橋近くにあり、大正から昭和一〇年代まで水風呂と併設され、海水をポンプで汲み入れていた。浜部落や在の東古泉あたりまでの者が利用し、冬季が特に賑ったといわれる。
 ともあれ、この石風呂の分布は全国的にも瀬戸内海沿岸ことに芸予諸島やこれ以西の地域に偏在しており、そこに一つの民俗文化圏を形成していることは注目に値する。

蜂さされ

蜂さされ


図6-1 桜井石風呂の利用実態

図6-1 桜井石風呂の利用実態


図6-2 瀬戸内の石風呂分布

図6-2 瀬戸内の石風呂分布