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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

第一節 しつけ

 しつけ

 県下では田植えのことをシツケといい、その時期をシツケドキというところが多い。そして、田植えの終了後に人々が寄り合って苗の順調無事な成長を祈願する儀礼をシツケゴモリといっている。また、縫いあがった着物の形を崩さないために上縫いした糸がシツケ(糸)である。あるいは、宇和海沿岸部には貧富の別なく娘たちが奉公に出るしつけ奉公の民俗慣行があった。
 このように、〝しつけ〟とは未だ充分にその方向性の固定されていない状態のものを一人立ちできるように導き矯正してゆくこと、すなわち、地域社会における一人前とか一丁前といわれる人間を形成していくことであった。それが「躾などと書く新しい宛て字が和製される頃から、シツケは行儀作法の別名のようになった」と柳田国男が指摘しているように、しだいにそのさし示す範囲がせばめられてきたのである。つまり、郷党の先輩たちは、しつけということを本来かなり広い意味合いに解釈してきたのであった。最近では「民俗教育」ということばも用いられるようになったが、これはさらに、①家庭生活に関するもの、②村生活に関するもの、③職能生活に関するものに分けられる。そして、これらが相互に関連しあいながら家や村の生活のなかで、また人生の通過儀礼を経ることによって一人ひとりのオトナとしての人間が形成されてきたのである。
 従来、このしつけの問題については「群れの教育」ということが重要視されてきた。群れ、すなわち地域社会における生活集団としてのムラの中で、一人前のムラ人となることがしつけの本務であると考えられていたというのである。したがって、しつけは実の親だけでなく、仮り親や地域社会の構成員すべての手によってなされてきた。家庭においても地域においても、一人前ということの規準が明確化されていて、これを一つの目標として子育てをなしてきたわけである。このあたりの詳細については別章(第八章 人の一生)で触れるところであるが、それは基本的な心と体のふるまいを、幼少期から周囲のものが形を整えてやることであった。そこではあくまでも、しつけの基準は群れ=世間が決定するものだったのである。ところが、近代以降の学校教育の普及は、しつけのすべてをそこに委ねようとする安易な傾向を生み出し、人々は家庭や郷党の教育機能を忘れかけようとさえしている。
        
 家庭のなかで

 乳児期には子供の動作も本能的なものであるが、幼児期になるにしたがって基本的な生活習慣やものの善悪の判断などを身につけさせるようになり、主に母親がこれを担当する。この場合のしつけ方は、子供たちの誤った行為を一方的に禁止することではなく、その行為をすればどうなるかを示すことによって制止してきたのである。「ごはん粒をこぼすと目がつぶれる」とか「火遊びをすると寝小便をする」「嘘をつくと閻魔さんが舌を抜く」「唾を吐きかけるといぼができる」「足袋をはいて寝ると親の死目にあえん」「夜中に笛を吹くと盗人がくる」などと、まことしやかに子供たちを戒めてきた。また、それが神仏に関わることであれば、「バチが当たる」と訓したのである。それは、具体的な行為とその結果を重ね合わせた叱り方であった。
 また、より一般的な叱責方法として、「ヘンドにやるぞ」「グレにやる」「コトリが連れにくるぞ」などといって、子供たちが自己の知らない世界へ追いやられたり連れ去られることに不安を覚えさせるような言い方もされてきた。また、土蔵へとじ込めたり、ヤイト(灸)をすえたりもした。東予地方の一部では、このようなときに「ガゴゼに噛ますぞ」といった。宇摩郡出身の森本樵作は、「私の郷里では、子供をおどかす際に〝ガゴゼ〟に噛ますぞと云ふ風があって、私の幼少の折は常に母から、おどしを蒙ったものである。子供同志がおどかし合をする時などには、特に両手の小指で口を左右に拡げ、両の栂指を耳朶の下辺に当て、両の食指で両眼の下腿を引下げて、恐しい面相をして見せ、〝ガゴゼー〟と声を震はして長く引く。随て子供達は鬼女の面や絵を見たり、幽霊の絵でも見ると、ガゴゼと申して恐がるを常とする。」 (民族と歴史6―3)と述べている。このガゴゼの語源については不詳であるが、森本は奈良県の元興寺に伝わる説話伝承にその起源を求め、元興寺の鬼が寺の鐘搗き男を殺すという恐ろしい噂が世間に広まって後世まで語り伝えられたものであろうとし、ガゴゼはガンゴウジの転訛であろうとしている。これを北条市九川では「ガガモにやるぞ」といった。ともあれ、それは子供たちに非常に大きな畏怖の念を抱かせることばであったのである。
 こうした。〝しつけ〟は、青年期に達するまでになされるべきものであった。県下でも「彼岸過ぎての麦の肥、二十歳過ぎての子の意見」とか「四十過ぎての親の意見はなんちゃならん」というように、しつけには施肥と同様に効果をあげうる時期があるのである。それと同時に、しつけられる者にとっても、「親の意見と冷酒はあとからきく」とか「親の意見と茄子の花は千に一つの仇がない」などといわれるごとく、耳を傾けるべきものであった。

 ムラの中で

 近年、社会教育とか生涯学習の名のもとに老人クラブや婦人会、PTA、若妻学級、高齢者大学など、地域社会において何らかの共通項をもつ同年齢層の人々の集まりが活発化したり、見直されたりしている。もちろん、それらは前近代の社会から存在する伝統的な諸集団の継承であることが多いのであるが、そのなかで、しつけないしは主要な「群れの教育」の場であった子供組や若者組の崩壊がさけばれて久しい。
 この年齢階梯的な社会構造は、またタテ社会と名付けられて日本社会の特徴とされる。ところが、学校教育を中心とするヨコ社会の連帯が強化され、子供たちのタテ社会の紐帯であった子供組の組織が瓦解する過程でさまざまな問題点を露呈していることは、つとに指摘されているところである。すなわち、現代における子供社会の「いじめ」構造の一要因として、年齢的にタテにつながる子供組の崩壊が取り上げられているのである。子供組を中核とするタテ社会の中では、
そこに遊びやけんか、制裁のルールが不文律としてできあがっていたが、いまの子供たちにはそれが見られにくいという。集団で弱い立場の相手をいじめる者と常にいじめられる者の関係が構造化されてきていると指摘されている。それと同時に、これを制止しようとする正義感のようなものも、子供の世界からしだいに失われようとしているという。
 この場合、いじめの対象とされるのは必ず弱者である。虚弱児や障害児、動作が鈍い、運動が不得手、何となく汚らしいなど、集団の最大公約数からはずれたある意味のマイナス面をもつ子供たちが標的とされるようである。そして、集団からはみだす存在となる「とめ役」の子供も少なくなった。
 ところが、かつてのムラの生活のなかでは、子供は子供なりに、大人は大人なりに、それぞれの世界において弱者救済の手段がちゃんと講じられていた。例えば、フクゴ(福子)と呼ばれるものもその一つである。家族にとっては厄介者である不具や愚鈍な子供・身内を大切に扱うことによって、かえってその者が家に幸せをもたらすと考えてきた。伝統的な地域福祉の一つの在り方があったのである。新居浜市泉川の某女は、出生時の難産のために足腰が悪く、歩行が劣っていて嫁にも行かなかったが、家族からはフクゴだと可愛がられた。家族の者は、彼女が家事一切をしてくれるから、安心して農作業ができるといって、フクゴの○○と呼んでいたという。温泉郡重信町上村でも某家にフクゴがいたが、成人すると多少の田畑を分与して生計が成り立つように配慮していた。非常に気のいい男であったという。しかし一方では、昨今の福祉行政の進展に反比例してムラの中での弱者の切り捨てが進んでいるのである。
 交通や通信の未発達な時代には、人々の日常生活の範囲であるムラ=民俗社会が、一つの完結した世界であった。したがって、そのなかでいかに生きるかは、すでに第四章の「村落社会の生活」のところでも触れたように、非常に大切なことがらであった。個々の民俗社会に適した均質的な人間群像の営みが繰り返されてゆくことが、人々に課せられた責務の一つであるという価値観が支配的だったのである。そのため、人並みはずれた能力も、それほどに必要とされなかった。また、かりに能力的に劣っていたとしても、人々はムラの同胞として意識し合っていたわけである。
 もちろん、ムラの中にもさまざまな形の制裁はあった。若連中や青年団で義務を怠った者に対する罰則を設けたりしていたが、そこには何らかの抜け道があって、しばらくすると元に復することができる仕組みになっていた。オトナの世界でも同様で、村八分という没交渉の制裁をうけても、火事と葬式は別枠扱いであったし、永久的なものではなかった。また子供の世界においても、述上のとおりであった。したがって、地域社会における人間関係のあり方を学ぶしくみは、現代社会に見られるいじめる者といじめられる者が相対する構造化された図式とはかなり異質なものだったわけである。

 しつけ奉公

 青年期に達した男子や女子が、一定期間ムラを出て、奉公に行くことが地域の民俗慣行となっていたところがある。南予の宇和海沿岸部では、男は船に乗って漁に出るが、女は多く宇和島市街などへ見習い奉公に出ていた。三浦半島先端の宇和島市蒋淵では、貧富の別なく娘たちは城下(宇和島)の町家へ奉公に出るしきたりであったという。
 また、東宇和郡など県境の地域では、しつけ奉公とは異なるが高知県高岡郡方面からの奉公人を多数受け入れていた。城川町遊子谷の上川部落は、けっして裕福な土地柄ではないにもかかわらず、各戸ともオトコシとかオナゴシと呼ぶ奉公人を置いていた。主に高岡郡檮原町から、一五、六歳ないし二〇歳の青年が来ていた。家の主人が檮原町四万川の竜王様(海津見神社)へ参拝に行ったときなどに、家々を訪ねて人探しをしたのである。二月一日が奉公人の出替り日で、長い者は三年間奉公にきたという。
 但し賃金は前借りが多く、親に先渡しして、帰るときには多少の礼を加え、盆や正月には土産を持たせて里へ帰らせた。また、母屋の一隅の小部屋を与えたり、家族に準じた扱いをし、どの家も大切にしたという。奉公人にとっても、主人とともに農作業に従事して仕事の手順を教わる機会となった。したがって、奉公によって一人前の仕事がこなせるオトナの人間ともなるのであり、職能教育の機会としても機能していたわけである。
 ところで、職能などに関連してムラのなかでの「笑いの教育」ということがいわれている。それは現代社会でも十分に通用する社会教育機能であるが、周囲の人々に笑われまい、侮られまいとする意識が一人前を形成する大きな原動力ともなっている。笑われるということは、そこに生活する者にとって最も大きな恥辱であった。そこで人々は、俚諺などを用いて地域社会の中に笑いの教育を位置づけてきたのである。「ごくどう(のら)の節供ばたらき」などは広くいわれており、最も端的な嘲笑のことばであった。そのほか南予地方では、話を始めるといつまでたってもやめない者をさして「お庚申をつる」とか、上品ぶって振舞っているが、いつまでたってもいっこうに見ばえがしない人間を「姫たれ」といって冷笑した。また、「下手の長談義」とか「下手の横好き」「下手の長縄」などの俚諺も、仕事の下手な者を冷たく嘲笑った表現である。また嫁にとっては周囲のムラ人の目は姑とともに気になる存在であるが、これをムラ姑と称してきた。人々は、このようなムラにおける笑いの教育を通して、そこに最大公約数から大きく逸脱することのない平均像を要求したのであった。

 生活の心得

 南宇和郡一本松町広見のM家では、次のようなことを信条としている。
 「雨戸に陽を見せるな」=陽の出る前に仕事にかかれという意味。
 「コウの水を使え」=コウの水とは好天気の朝におりる露のこと。朝露にぬれると仕事がはかどるだけでなく、神経痛やリュウマチなどの病気にもよいという。
 「百匁の馬に五十匁の引き手、五十匁の馬に百匁の引き手」=馬は悪くとも使う人が上手なら、良馬以上の働きをする。
 その他、「洗面器に必要以上の水を入れるな」「人を使おうと思ったら身を使え」「酒は朝酒、麦はハダ肥」などを、生活の心得として受け継いでいるという。
 また、同町増田の稲田家では、「家業の栞、子孫へ教草」と題して、農林業や気象、暦法のことなどについての申し送り事項を成文化している。それはやはり、笑われないための教訓であった。と同時に、均質的なムラのなかにおける家の独自性を明示しようとするものでもある。前近代の社会にあっては、ムラのなかでの個々の家の役割に個性をもたせていた。力持ちとか勤勉とか、手先が器用であるなど県下ではいい意味に用いて、一般にソンと称しているものである。
 東宇和郡城川町遊子谷の棟遊子にいたオオサブ(元三郎)の家系は、代々の力持ちで知られていた。オオサブは宇和島と遊子谷の間の塩の駄賃持ちなどをしていたが、あるとき馬に八俵つけて自らも一二俵の塩をかついでいるとき伊達の殿様の行列に出会った。するとオオサブは荷をつけた馬ごと抱え上げて道をあけたという。彼は、寺の本堂の踏み石や庄屋の座敷の踏み石など、二〇〇貫もある大石を川から素手で担ぎ上げたともいわれる。また、隣村の窪野にはクロスケという力持ちの男がいたが、オオサブと二人で何かと悪戯もしたらしい。野村町植木の茶堂をかき上げて向きを変えたとか、広見町深田では家普請の材木を田んぼへ落とし込んだとかの話が、面白おかしく伝承されている。しかし、遊子谷では女に力持ちが出ると、それきりで力持ちは絶えるといわれており、オオサブの家も大崎玉代という女を最後にそれまでの力持ちの系統は絶えてしまったという。
 このような、家柄とは異なった家ごとの風儀のようなものを、それぞれに大切にしてきた。かつそれは、経済的な浮き沈みとはあまり関係なく、地域社会が超世代的に認めてきた存在であった。人々は、あるときには束縛とも思われる個々の家や人の在り方を、それぞれにムラの中の均質性と対比させながら大事にしてきたのである。