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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

五 ミニ四国霊場と七か所参り

 ミニ霊場

 徒歩で四国八十八か所を巡拝すると、四〇~六〇日間は要する。そこで実際の札所を模して、地域内に小規模の霊場を設けたり、八十八か所の札所のうちから自由に選択した数か寺のみを巡拝する「七か所参り」などの習俗がある。
 実際の八十八か所を小規模なものにして数か市町村にまたがって設定したり、またあるいは寺院境内等に設定した、いわばミ二四国霊場が各地に造られている。これらを「本四国」に対して、地四国・島四国・新四国・半島四国などと称している。県下のおもなミニ霊場は〈表5-22〉に示したとおりである。古くは江戸後期、新しくは大正・昭和時代に創設されている。東予市・丹原町・小松町にまたがる「周桑新四国」は明和年間以前に創設されたとみられ、現在起源がわかっているもののうちでは県下で最も古い歴史をもつミ二四国霊場といえる。
 これらの霊場は個人あるいは数人の発願で創設される場合が多く、たとえば、今治市・玉川町・朝倉村にある「府中新四国」、魚島の「島四国」、宇和町郷内や城川町魚成、松野町富岡等の新四国はそれにあたる。本四国の各札所の本堂床下にある土をもらってきて、その土の上にミニ霊場用の石像を安置している(伊方町九町・城川町川津南など)ものもある。
 ミニ霊場の巡拝は、旧暦三、七、一一月の各二一日の「弘法大師の縁日」に一日あるいは数日かけて、行われるのが普通である。巡拝者に霊場近くの人たちが赤飯やお菓子、うどん、お茶等を提供する「お接待」の習いも、盛んであった。
 保内町磯崎では、明治・大正期に、娘が盛装してミニ霊場を巡拝することが、良縁の結ばれる機会ともなりえたといわれる。こうして、ミニ霊場巡りが、信仰の域をこえて庶民の人生に大きな役割を果たした場合もあったのである。
 本四国を無事に巡拝しおえた者が、お礼参りといって、家に近いミニ霊場を巡拝することもあった(大三島八十八か所など)。なお、上浮穴郡美川村では「新四国」を百回参らないと「本四国」のかわりにはならないと言っている。以下、おもなミ二四国霊場について紹介する。
 事例1 上浮穴郡柳谷村西谷字小村。昔、岡田清次郎(昭和一〇年に八八歳で死去)という松山の行商人が、西谷へ移ってきた。赤痢が流行したので、小村から病人が出ないように大師にお願いし、そのお礼として、大師堂の山手に八十八か所を創設したという。旧三月と七月の各二一日が縁日で、一〇日頃から岡田家で御詠歌をあげ、縁日には大師堂から登り、一つずつ詠歌をあげながら、途中、オツヤ堂までゆき、そこの燈籠に火をつける。昔は部落全員が仕事を休み、参拝していた。岡田清次郎は毎日、欠かさずオツヤ堂まで登り、燈籠に火を入れていた。
 事例2 越智郡魚島村。大正四年に有永長治郎・横井リキ・亀井ソノの三人が発起。シマシコクと称した。旧暦一、三、一一月の各二一日に巡拝、三月が最もにぎわった。気の合った者同士が一番札所の道福寺に集まり、笠に手甲、脚半姿で、女は着物の裾をからげて廻った。全体で七〇~一〇〇人ほどの参加者があった。各札所で予め用意している「奉納四国八十八か所同行二人」と自分で書いたお札を納める。お札のない者はナゲマキといって米を供えた。一方、巡拝にゆかない人で、自分の家が寄進した札所までゆき、握り飯、餅・菓子・茶を用意し、巡拝者にお接待した。接待を受けた巡拝者は配札をもってそのお礼とした。配られたお札が多いほど、よくお接待をしたことになる。お札は道福寺のお大師さんに納められた。
 事例3 越智郡大島(吉海町・宮窪町)。島四国として著名で大阪以西の各地から参拝する。県内では図・1にあるように今治市・越智郡の東予地域一帯と中予地域の一部からの巡拝で賑わう。
 この島四国は、「越智郡大島准四国創設由来」等の史料によれば、文化四年(一八〇七)に、島の医師毛利玄得、山伏の金剛院玄空・津倉村(吉海町)庄屋池田重太らが創始したものである。全行程約六三㎞で、その巡拝コースは、本四国に似せて造られており、小豆島などのように先に寺院があって、それをつないで巡拝コースを造ったものとは異なる。
 旧三月一九・二〇・二一日の三日間を遍路市と称し、多くの遍路が大島を訪れる。関前村の岡村島では毎年三〇名ずつ旧三月二三~五日に巡拝している。フェリー発着場のある下田水(吉海町)の四四番十楽庵からうちはじめる人は泊(同)で一泊、名(同)で次の一泊をするが、急ぎで一泊二日で済ます場合は宮窪で一泊する。十楽庵には次のような古い木製の納札が打ちつけられている。

  天下泰平 家内安全 四十六回
  奉納四国八十八箇所霊場順拝同行二人
  広島県豊田郡大崎町 六十四才 加藤栄造

 近年納札には半紙八ッ切りの短冊型にしたものに、毛筆で「奉納八十八か所同行二人」と書く。普通の外出着でサンヤ袋を肩に掛け、ナゲマキという米と賽銭を入れた袋を手にして出立する。この島四国では、お接待のほか「善根宿」といって、コース沿いの民家が遍路に無料(あるいは米二合ほどのお礼、昭和四〇年ごろからいくらかの宿泊代をおくようになった)で宿泊させる習俗がある。その場合、以前は各自主食と副食物を持参して自炊した。年々続けてくる人は前年の宿に泊まるが、各善根宿にたくさんの遍路を割当てる作業は、かって若連中の役目であった。宿に着いた遍路は、門口でお念仏、足より先にまず杖を洗う。仏壇前でもオツトメをする。これを宮窪町余所国では泊まり代だという。宿では、家人の使うものよりも立派なオヘンロブトンを二〇~三〇枚も用意している。吉海町仁江では、数多くの遍路を泊めることが自慢とされたので、嫁入りのとき、嫁入り蒲団を余分に持っていったほどである。
 事例4 砥部町の「砥部四国」。巡拝先達がいて二泊三日で巡拝した。同町千里口の佐川弥太郎(明治二三年生)は明治三五年、巡拝に初参加、以後三〇回余の巡拝参加または先達をつとめた。砥部四国巡拝者が地元にかえった場合、巡拝者間において互いに他の人の家に泊まる習いがあった。それは、自家に帰って寝たのでは大師の御利益がないからだという。
 右のほか、稚児行列で有名な八幡浜市の四国山の地四国、越智郡波方町の半島四国などが代表的なものである。

 七か所参り

 ミニ霊場の巡拝とならんで、遍路行の簡略化の今ひとつの方法は、本四国八十八か所のうち、一日か二日で歩ける範囲の札所だけを巡拝することがあげられる。札所の数によって「七か所参り」「八か所参り」「一〇か所参り」とかよばれる。北条市では、本四国遍路を無事果たしたのち、お礼参りとして二、三日かけて七か所巡りを行うこともある。近世の本四国八十八か所巡拝には、幕藩体制下での通行規制が厳しく、檀那寺の発行する往来手形を必要とした。
「七か所参り」等は、近在を廻るだけであったため、そのような通行規制を受けることがなかった。数か所まいりの流行には、そうした背景があったと考えられる。
 松山市を中心とする「七か所参り」は、明治四四年の記録(六藩寺院録)によると、正月ころ行われ、巡拝の対象として松山市内の本四国の八か寺をあげている。すなわち、四六番から五三番の札所の浄瑠璃寺・八坂寺・西林寺・浄土寺・繁多寺・石手寺・太山寺・円明寺である。「七か所参り」といっても、これら八か寺を打つ場合が多い。右の八か寺に四四・四五番の大宝寺・岩屋寺を加える「一〇か所参り」をすることもある。松山市久谷地区・砥部町・伊予市などの人たちの間には、太山寺・円明寺までは行かず、番外の文珠院徳盛寺を加えて七か寺とする風もある。この七か所まいりは、トシノヨ(節分)や彼岸、ヒナアラシ、お釈迦様の四月八日などに行われるのが一般的である。また、この「七か所参り」には瀬戸内海の各地から、七か所船という船で訪れた。三津浜に上陸し一日のうちに廻ったのである。砥部町万年の人たちは、七か寺参りなら日帰りであるが、八か寺参りだと道後で一泊したという。
 伊予郡広田村では、浄瑠璃寺から太山寺まで七か寺を参る。かつてはヨソユキの着物の裾をはしょり、手甲脚絆で、札ばさみ・サンヤ袋・納札と納経帳をもって、「七か所参り」をした。八幡浜市穴井の人たちは、「七か所巡り」といって、北宇和、南宇和、東宇和の三郡、松山市、上浮穴郡方面の七か寺を選んで巡拝した。
 小田町では「七か所参り」とか「七とこ参り」といって、大宝寺・岩屋寺・浄瑠璃寺・浄土寺・繁多寺・石手寺・太山寺を巡る。美川村大谷にはお大師様が七か所に祀ってあり、それを廻ることで「七か所参り」の代わりにするのである。

 お砂踏み

 実際に本四国を巡拝できない人のために、ミニ霊場や七か所まいりのほか、お砂踏みがある。たとえば、西条市の六四番札所・前神寺では、毎年、本堂の大広間でお砂踏みが行われる。同寺をのぞく八七か寺の名や本尊をかいた掛け軸をならべ、その下に各寺から取り寄せた砂が白袋に詰められている。参拝者は、この砂を踏み、お札と一円玉を納めながら願いごとを唱えると、本四国遍路と同じ御利益があるという。このお砂踏みは前神寺のほか各所で行われている。
  (ミニ霊場として、四国八十八か所以外に西国三十三番の観音霊場のミニチュア版も各地にあり、また、今治市中心に府中二一か所まいりもあるが、それらについての詳述はここでは省略する。)

表5-22 県下のおもなミニ霊場一覧 ①

表5-22 県下のおもなミニ霊場一覧 ①


表5-22 県下のおもなミニ霊場一覧 ②

表5-22 県下のおもなミニ霊場一覧 ②


図5-10 「大島四国」巡拝に行く範囲

図5-10 「大島四国」巡拝に行く範囲