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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

四 村人と遍路

 お接待

 「お接待」は、四国遍路に特有の習俗である。わが国には社寺参詣や巡礼が発達しているが、四国遍路の場合は長い道中にもかかわらずこのお接待があるために旅が保障されているのが大きな特色といえる。ただし、この習俗の根底には死者供養とか弘法大師に対する信仰的基盤のあることが注目される。
 四国遍路における接待の歴史は、近世初頭まで溯るようであるが、後期には一般的風習として広く存在したのである。この接待には、全くの個人的接待とグループによる接待とがある。個人的接待は、ある特別な動機を持った者が札所や遍路道に立ち、通る遍路に米・ワラジ・チリ紙・食品・金銭などを接待するものである。その動機は、死者への供養が最も普通である。時期は中陰(四九日)明けという者と中陰までに行うものだという者がある。
 いま一つは「接待がえし」といって、すでに若者遍路のところでも述べたように、若者が遍路から帰還後に自分たちが道中受けた接待に感謝して返礼するものである。しかし、この接待がえしを息子が遍路に出ている間に親がするという慣習もあった。息子が旅先で他人に世話になっているから、という返礼感謝の意味からであるが、同時に道中の安全祈願を込めたものであった。

 村の接待

 村の組とか部落とかが一地域の年中行事としてこの接待を行っていた。現在は全く姿を消してしまった習俗であるが、昭和初期までは四国中の至る所で行われていたものである。松山市あたりは比較的近年まで続けられていた。
 久万の三坂峠を越えて道後平野に入る松山市久谷地区では、大正時代頃まで、旧暦三月四日に部落あるいは組の行事として接待を行っていた。若い衆が主催で各家から米を何合かずつ集め、それを一合ぐらいずつ盆に載せたり、袋に入れたりして、遍路道を通る遍路に接待したのである。小豆飯にして出す部落もあった。
 松山市松末町などは、春彼岸前後に五〇番繁多寺で接待を行った。前もって寺に申し出ておくと、世話人があって各地区の出向く日を調整して、出る日を報せてきた。所定の日には村中総出で、繁多寺の山門の近くや池の堤などで、大豆飯やタクアンを添えたものを接待した。
 石手寺周辺でも、戦中まで町内の年中行事としての接待を石手寺境内で行っていた。新暦の四月頃で、日は決まっていなかったが、接待する町内の人どうしも酒を酌み交わしたりして、楽しい行事になっていたという。松山市来住町あたりでも、お接待は部落の年中行事になっていた。同町出身の河本覚一は随筆集のなかで次のように書いている。「麦の穂の出そろった春たけなわの頃、お接待の日が決まると朝から部落の主婦、老人、それに小学生なども加わって行った。小野川の遍路橋の河川敷に接待場を設け、ハンボ(桶)に寿司や小豆飯、炒り豆などを盛って運んだ。川原石を寄せて来て臨時のクドを作り、特大の大釜で湯茶を沸かした。数人の者が遍路道に出て、これら食べ物や湯茶の接待をした。お遍路さんたちは、接待を受けたあと拝んで納札を置いて立ち去った。
 お接待場の周囲には上下二段構えに縄が張りまわしてあり、遍路からもらったお札を一方から一枚一枚その縄目に挾んでゆくのである。なかでも一番驚いたことは、赤いお札を置いて立ち去るお遍路さんがあると、接待係が丁寧にお辞儀をするし、老人たちはその姿の見えなくなるまで数珠を押し揉んで拝んでいたことである。この納札はあとで縄から取り外し、丁寧にシワを伸ばして整理し、梅津寺浜で行われる〝お札流し〟に持って行った。」
 つぎに太山寺の門前に「お茶屋」と呼ばれる遍路宿が四軒あったが、新暦四月前後に、そこの軒先を借りて接待する所も多かった。各部落や町内から出かけて来て、小豆飯・菓子・餅・うどん・果物・チリ紙やお賽銭を接待する風が昭和初年まで見られた。
 以上は、松山地方に見られた村の年中行事としての接待風景であったが、いずれも旧暦三月四日(新四月四日)のオナグサミ(ヒナアラシ)の日が当てられていた。この日が農事休みで、かつ野外飲食を楽しむ節日であったのでそれを兼ねていたのである。しかし、この日に接待をしていたのは松山市近辺だけではない。徳島県の吉野川中下流域でも、この日をシカノアクニチと呼び、村人や若衆連が接待をする習俗があったのである。節供の翌日以外には、春彼岸や弘法大師の命日である三月二一日の御正御影供、あるいは釈迦の誕生会の四月八日などに行う所もあった。
 北宇和郡や南宇和郡地方では三月一五日頃にお接待する慣習であった。どこの村でもお接待は村人たちの年中行事に組み込まれ、しなければならぬ重要行事になっていたのである。それをある年怠ったために、村に不幸が発生したという伝説があったりするのも、また「食わず芋」や「石芋」の伝説があったりするのは、遍路(旅僧)の接待をしなかった報復であると語り伝えられているが、言い換えればそれは接待が村人の義務であることを訴えているものである。
 北宇和郡吉田町立間の伝承であるが、昔、稲虫がついて困ったことがあり、歯長峠で虫祈祷をしていたら弘法大師が通りかかって救ってくれた。以後その報謝として毎年七月中に全村人が交替で峠に出向き、通行の遍路に接待することに決めた。ところがある年のこと、長谷部落のみがわざわざ峠まで行くこともあるまい、ということで引地という所に茶堂を設けて接待することに変更したのである。すると不思議にその年は長谷だけに害虫が発生して困った。驚いた村びとはまた元通り峠へ出張して接待することになった。
 村には外来者に対する受け入れ観があり、儀礼があって、これを外者歓待というのだということはすでに述べたが、これがまた四国遍路を成り立たせる大きな特色の一つであったのである。

 接待講

 遍路の接待を四国以外の本州や九州からわざわざ海を渡って来て接待する風があった。徳島県の一番札所霊山寺や二三番薬王寺へは、和歌山県の有田市や伊都郡かつらぎ町などから船を仕立ててやってくる接待講が現在も続けられているし、香川県の札所には岡山県倉敷市周辺からの接待講が来ている。
 現在は中絶しているが、県下の札所にもこのような接待講が来ていたのである。たとえば、松山地方の札所へ来た接待講には、太山寺へ大分県から来ていた。春、大分県臼杵市周辺から講員数十人が接待船を仕立てて、三津浜に上陸し、太山寺のお茶屋に宿泊して一〇日から一か月近くも接待を続けたという。うどんの接待をしていたことから「饂飩接待講」の寄付石が太山寺境内に建っている。なお、臼杵市以外の大分県の各地からも来ていたらしいし、広島・山口県方面からの接待講も来ていた。県内では忽那諸島から接待に訪れていた。これら接待所に当てられたお茶屋の一つ「崎屋」には、大分県の接待講が使用していたうどん製造用具などが残されている。
 五三番札所円明寺にもかつて盛んな接待が展開されていた。広島県三津口町の接待講で、大師組とも称したそうである。三津口・竹原あたりで米を集めて訪れ、芳野衛家を常宿にしながら接待講を開いていたという。文久年号の幟をさし立て、一週間以上にわたって小豆飯と味噌汁を接待し、交替で七か所参りをやっていたという。今も同家にはハンボ・桶など当時の用具が保存されている。また岩国からは、毎年餅の接待に来る者があったという。

 善根宿

 善根宿は遍路に無賃宿を施すことをいい、接待のひとつである。遍路に宿を乞われて泊める場合と、家の者が遍路道や札所に立ち、遍路をわが家へ連れ帰って宿をする場合とがある。善根宿をもらった遍路は、その晩と翌朝の二回、その家の仏壇を拝んで勤行をすることになっているが、泊める方でもそれを期待するのである。そして善根宿にも、接待の場合と同様に動機があった。すなわち、(一)死者供養のため、(二)滅罪・招福のため、(三)接待返し、(四)大師信仰からなどであった。
 (一)は四十九日のうちにとか命日に善根宿をすると死者への供養になるというので行うものである。(二)は家に病人があったり、不幸ごとが続発したりしたときに行う。それで、その数の多いほどよいということで願立てをする場合もあり、なかには「千人宿」を思い立つ者もあった。(三)の接待返しは、先祖や家族が遍路に出たときに親切にされたというので、その報謝のために善根宿を奉仕する場合である。先述の若者遍路が出ていた地域では、若い衆が遍路に出ている間に、留守宅の家族がその無事を祈って善根宿をすることがあった。
 (四)は弘法大師に対する信仰的帰依から善根宿をする場合であった。弘法大師に宿をするという感覚で、毎月二一日の大師の命日にそれをしたり、年に何人と人数を決めて善根宿を実施するような家もあった。また、四国順拝をしたいのだが自分は行けないので、宿の施しをすることによってその願いを托す、いわば遍路の代参のつもりで宿をする場合もあった。
 善根宿での接待は、宿泊はもちろん当然であるが、食事を饗応することであった。その食事は一般に家族と同じものを出すが、特に精進料理にする例もある。
 なお善根宿は世間話の情報源でもあった。各地からの遍路たちがもたらす話題は、世間への眼を開かせたり、生活の知恵を授かるなど、あちこちからの情報を知る場になったり、文化(技術)伝達の機会になることもあったのである。
 例えば、宇和島地方の「丸ずし」は明和年間(一七六四~六九)に山崎屋徳右衛門が某遍路に教えられて作りはじめたものであるといわれる。炭焼がまを「お大師くど」と呼ぶ風があるが、これはカマの改良をお大師さんに技術を授かったという伝承から出たものである。
 また「遍路灸」とか「お大師灸」と呼ぶ霊灸があったり、ヘンド坊主(稲の品種名)、ヘンド麦など、米や麦の新品種がもたらされたというような事例もある。松山地方には「栄吾米」の伝承がある。松山市東大栗の上松栄吾が、嘉永二年(一八四九)八月、四国遍路に出て高知県幡多郡あたりで結実のよい稲穂を発見し、その稲穂を村に持ち帰って改良した新品種である。
 善根宿のことから発展して、遍路と文化伝承にまで及んでしまったが、とにかく遍路は村人の情報源の役目を持っていたのである。

 行き倒れ遍路

 札所寺院やその付近、また遍路道界わいには必ず遍路墓がある。健康な者でも四〇日、五〇日という長途の旅を続ければ、いつどこで病を得て行き倒れるかもわからない。昔の遍路の中には多くの病人や身体障害者がいた。お大師さんの霊験にすがろうという人たちであった。またその中には、癩病患者のように業病にとりつかれ、郷里にいられなくなって遍路に出た者もあった。彼らは、家族・親族との恩愛の絆を断って夜逃げ同様に村を去ったのである。またその際、事前に自分の墓を造り、その出立の日をもって命日とした者もあったと言われている。すなわち、生きて帰ることのない遍路がいたのも事実である。
 高浜虚子の句に、「道の辺の阿波の辺路の墓あはれ」というのがある。この遍路墓がすなわち倒死遍路の墓であるが、村人たちはこの行路病者や行き倒れの遍路をどのように処置したのであろうか。
 松山市窪野町の区有文書中に、旧窪野村時代の享保八年(一七二三)に備後国(広島県)の遍路・安兵衛が死亡したときに役所へ提出した書類の覚え書きがある。それによると、この遍路安兵衛は足を煩っていたので次の久谷村へ送り届け、さらに遍路道の順々に送って国元まで送り届けるよう処置したのであったが、結局は窪野村で死亡してしまった。これは一つの事例として挙げたのであるが、これがいわゆる「遍路送り」である。重病の場合には民家の片隅に寝かせるとか、道の傍に小屋掛けして組の者が交替で粥や飯を炊いて与え、介抱した。これをマワリヤシナイといった。しかし、小康を得て少しでも歩行が可能になれば、次の村へ送り届ける習わしであった。
 遍路送りのことは江戸時代の庄屋文書などに記録が残っているので、その様子はある程度知られる。すなわち病人遍路があると、村から夫役賃を出して村送りをしていたのである。その夫役賃は距離によっていたらしく、今治市国分の加藤家記録によれば宝暦九年(一七五九)の「村法定書」に「一、遍路送者夫定之事 七歩上神宮村 桜井村」とある。これは今治市上神宮から桜井までの遍路送りの夫役賃が七歩役ということである。また松山領野間郡県村庄屋越智家史料(今治市阿方)には、天明四年(一七八四)の「県村諸役定法帳」に、

  病人遍路村々並他郡ヨリ送出継立村々定法
    行役ニ前々之通壱人前弐分宛増役
 一、弐人 浜村ヨリ浅海村へ人足弐人分
 一、壱人四歩 同村ヨリ種子村へ同断、一、八歩 種子村ヨリ佐方同断、一、壱人 佐方ヨリ別府同断、一、八歩別府ヨリ星浦同断、一、壱人弐歩 星浦ヨリ大井浜同断、一、八歩 新町ヨリ紺原へ同断、一、壱人 紺原ヨリ野間へ同断、一、壱人弐歩、
  野間ヨリ県へ同断、一、八歩 県村ヨリ山路へ同断、一、八歩 山路ヨリ馬越へ同断

とある。同文書には、このほか「病人遍路小屋掛」とか「病気遍路小屋掛作料」「病気遍路米飯代」などの記事があって、村が病気の遍路のために小屋を建て、食事を与えていたことがわかる。

 倒死遍路

 行き倒れ遍路は沿道の村々の庇護を受け、それによって健康を回復した者もあれば、養生かなわず旅の空で無念の遍路人生を閉じる者もあった。遍路道の界わいには、これら倒死遍路の墓を何基も見ることができる。社会学者である前田卓の調査によれば、八十八か所の札所に現存する過去帳に載っているだけでも、江戸時代初めから合計一三四五名におよぶ倒死遍路があるという。
 その処置は、近代では警察や行政当局の責任であるが、それ以前は村の仕事になっていた。村境で倒死遍路が出た場合は先に気づいた方がこっそり向こうの村へ押しやり、後でもう一方の村も気づいて逆に押しもどしておいたなどという話が、笑い話みたいに各地区に伝わっているが、これも先の遍路送り同様村人にとっては厄介者払いであっただろうし、特に無縁仏を村に引き取ることは誰しも好まぬことであったからであろう。その反面、ナリヘンドを世話すれば幸運に恵まれるという俗信もある。
 明治になってからは、一応、倒死遍路は県へ届け出ていた。そのあたりの事情を知る史料があるので紹介しておくことにしたい。旧浮穴郡窪野村の記録である。

    遍路倒死の儀につき届
          加賀国石川郡浅之川塩屋町能登屋
          伊平亡後家 むつ 年齢五五歳
     所持品々
一、荷台一ツ  一、真田帯一枚 一、脚半一足
一、蒲団一枚  一、尻助一足  一、笠一ツ
一、杖一本   一、御座一枚  一、サンヤ袋一ツ
一、札挾一ツ     〆 拾品
   着用品々
一、縞単物一枚  一、木綿紐一ツ   〆二品
右の者、四国拝霊のため回国いたしおり候のところ、昨四日夜、村方九六番地相原源蔵持分芝小屋へ都合なく同行加賀国石川郡大手町一番地平民森田平三郎なる者一緒に一泊いたし候趣のところ、右むつ儀、地盤狂血の持病にて労衰つかまつり候。その上、暑気に中られ候趣にも候や。病気たび重り、今五日午前四時頃相果て候趣同行平三郎なる者より申し出で候につき、早速近所の者ども同伴罷り越し、六大区九小区下林村医師高橋広載相迎え診察いたし貰い候ところ、別紙容体書の通りにて別段不審の儀これなし。尤、旅行券をも処持いたしおり候趣のところ、阿州にて盗難に逢い、その節紛失仕り候につき大小区名同行の者承知いたさず、相分り申さず候得とも前書の通り相違御座なく、尚且同行の者態々承合候得ども、更に不審がましき儀御座なく候間此段届奉り候。以上。
   第六大区九小区窪野村
 明治九年九月五日                 組頭 橘 忠衛
愛媛県権令 岩村高俊殿
   行倒死埋葬諸費届
   一、金三拾弐銭五厘  桶壱ツ
   一、金五拾銭     人足弐人賃
     合 八拾弐銭五厘
  右は加賀国石川郡浅之川塩屋町能登屋伊平亡後家むつなる者、九月五日村方に於て行倒死の節埋葬諸費前書の通りに御座候処、本人ならびに同行同国同郡大手町壱番地平民森田平三郎なる者両人とも旅用金所持仕りおり申さずにつき、村方に於て繰替え置申し候。此段届け奉り候。 以上。
       第六大区九小区窪野村
   明治九年九月                            組頭 橘 忠衛
    愛媛県権令岩村高俊殿

 遍路墓と俗信

 遍路が崇ったという話がある。松山市堀江町の坂の谷に遍路墓が四基あったが、予讃本線開通のとき、邪魔になるので別の場所に移した。ところが工事人夫はその墓石を土中に落とし込んで埋めてしまったのである。たまたま人夫のなかのだれかがチフスか赤痢かで入院することになった。祈祷師に拝んでもらったら「お遍路さんが崇っている」というお告げが出たのである。墓石は掘り出され、元の場所の近くへ返された。これは墓の処置を誤ったための崇り現象である。行き倒れ遍路の死は、いわば非業死である。このような非業の死者は祭ることによって祈願を聞き届けてくれる守護神になる場合が多い。旅の宗教者には遍路もおれば修験者もあり、また廻国の六部や高野聖もある。六部はロクブサンと称し六十六部のことであり、高野聖とともにこれも広い意味の遍路である。
 松山市中野町の心行寺は大正初年まで同市東方町にあった寺だが、アマサン寺の俗称がある。天明五年(一七八五)、東方と恵原の境で風病(赤痢ともいう)のため死亡した妙円尼という遍路を、恵原村が夜中に東方村に送り捨ててきたので東方村で葬った。その後、伝染病が流行したことがあったが、恵原村では流行ったのに、東方では何のこともなかったという。これは東方村が妙円尼を手厚く供養した功徳によるものと信じられるようになった。
 それ以来、腹の病をはじめ諸病にも霊験があるということで各地から参りにくる者があるようになり、心行寺境内に堂が建ち、「妙円講」が組織されるまでになった。そして、旧暦七月三日(現在は八月三日)の縁日にはことのほかの賑わいをみせたのである。
 高野聖や六部の墓についても俗信がある。高野聖はヒジリガミサンと称し、ふつう入定伝説を伴うし、六部についてはオロクブサンと呼んだりして霊験談が伝わっている。ともに遍路の一群であって、旅の宗教者ということで威霊を感じ、庶民の信仰をあつめるに至った例である。
 また六部には、自らが勧進元になって「廻国塔」を建立する事例があるが、遍路の場合にも「奉納四国八十八か所同行二人供養」と記した供養塔を建立する風がある。これを人びとはオクヨウサンと称して、盆・彼岸に念仏をあげて供養している。これについても事例を挙げて説明したらよいのであるが、ここには略することにする。

 四国遍路の魅力

 遍路の民俗を概観してきた。南無大師遍照金剛を唱え、鈴を鳴らしつつ通過する白装束の遍路は詩的である。四国路の春は、おへんろさんの鈴の音とともに訪れてくる。と、こんなキャッチフレーズもある。たしかに遍路は四国路の風物詩となっているけれども、この表現は現代の遍路に言えることであって、かつての遍路の実態には、もっとどろどろとしたものが漂っていたのである。
 四国遍路の起源は、正確には不明である。平安時代末以来の修行僧、遊行僧、高野聖、山伏などによる「四国の辺地」をめぐる信仰が、やがて四国八十八か所の札所を成立させたのである。しかし、その番次決定がいつのことであったかというと、その断定は至難のようである。
 ともかく、プロの遍路によって開かれた四国の辺地をめぐる信仰に、一般庶民が参加するようになったのは、南北朝時代から室町時代にかけてであろうと見られており、さらに大勢の庶民遍路が出現したのは江戸時代になって、社会的にも経済的にも世情が安定してからであった。
 現代はさらに遍路ブームとも言える時代で、バスや自家用車でいとも簡単に四国遍路を走りこなしてしまえる便利な時代になって、かつて見られたような歩く遍路はまれになり、また、それに対するお接待や善根宿の風習も消えてしまった。もう二度とそのような風物を見ることはないであろう。
 しかし、それにしても、村人と遍路の項でも見てきたように、お接待や善根宿の風習はまことに興味深い。極端な言い方をすれば、無銭旅行なみの長期の旅が、ほのぼのとしたのどかな篤い信仰世界のなかでできたということは不思議である。同行二人の信仰観が生きていたからであるが、この信仰観が成立を見るに至ったのは、前述のプロの遍路(宗教家)が先鞭をつけたのである。しかし、なお、マレビトの信仰や外者歓待の思想など、旅の宗教者を受容する世界があったからである。いわば古代信仰的世界が基盤にあって、それに大師信仰が混融したのが遍路成立の民俗的世界であろうと思われる。
 民衆が弘法大師によせた絶対の帰依が生んだ民俗ともいえよう。遍路行を体験した者はもちろんであるが、未体験者は、お接待をし、善根宿をつとめることで遍路を追体験できるという救済観は、たいへん庶民的であり、遍路が民衆の宗教であることを強調していると思う。遍路は旅の宗教であり、人生そのものの宗教である。旅を通じて現世利益という諸願成就の現証が可能であることは、宗教が根本的に必要とする再生(蘇生)の原理に適うものであって、これがすなわち四国遍路の魅力なのである。