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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

一 遍路の成立

 遍路

 四国八十八か所の札所を巡拝する巡礼をヘンロ(遍路・辺路)と呼ぶ。しかし、一般に伊予ではこの遍路のことをヘンドと言い習わしてきた。また讃岐でも土佐でもヘンドであった。ヘンドは「辺土」の文字が当たると思うが、これは四国の辺地を歩く巡礼ということである。とにかく巡礼を遍路と呼ぶのは四国遍路だけの呼称である。
 さて、遍路にもさまざまあってピンからキリまである。一般正式の遍路はオヘンドサンというが、これに対してヨタテヘンド、オゲヘンド、イザリヘンド、ドスヘンドなどと呼ぶ遍路がいた。この類の遍路は近年はその姿をほとんど見かけなくなったが、以前には多かったのである。ヨタテヘンドは世立辺土で、遍路を半ば職業化して、これで口すぎしている乞食遍路のことである。モライヘンドともいう。クイコクとかクイコクヘンドともいう(久万町)。オゲヘンドもこの類で、遍路をよそおって世人の同情をかうダマシヘンドである。このような乞食を総称してホイトと称したのである。つぎに、イザリヘンドは身体障害者の遍路をいう。以前にはこうした遍路が参詣者の多い札所でよく見かけられたものである。香川県地方ではニジリヘンドとかネジリヘンドというそうであるが、いわゆるイザリ車(ニジリ車、ハコ車)を用いる遍路のことである。
 それからドスヘンドというのがあった。ナリヘンドともいい、癩病患者の乞食を称したものである。カッタイと呼ぶこともあった。その不治の病患ゆえに家族類族に迷惑の及ぶことを恐れ、故郷を逃亡あるいは追われた流浪遍路の一群であった。以前にはこのような悲惨な運命を背負った遍路が参り客の多い札所で必ず見受けられたものである。彼らは参詣者から幾ばくかの喜捨を得て口すぎしつつ、やがて死を待つ身の上の遍路だったのである。
 なお、番外の遍路として「若者遍路」を挙げておきたい。村の若者たちが同行を募って遍路に出る風習があったのである。起源は不詳であるけれども、本県の場合は早く明治年間に消滅した所、大正期で終わった所、昭和一七、八年頃まで存続した所と、その消長にかなり地域差が見られるが、彼等は短時日で四国遍路を済ませるのを競う一面もあって、これを「伊予のハシリヘンド」と呼ばれたものである。高知県では、これら若者遍路をバブレヘンドと称した。高知県吾川郡春野町の青年たちが、昭和初期まで行っていた七か所遍路のことである。バブレはおどけて暴れることで、七か所遍路を終わったあと当屋や川原で結願の宴を開いて大騒ぎをしていたので言われたのである。

 四国遍路の成立

 さて、四国遍路の明確な起源は不詳である。しかし、すでに平安時代の末期にはその素地ができていたと思われ、『今昔物語集』や『梁塵秘抄』などからそれを窺うことができる。
 『今昔物語集』には、「四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬にうちなされたる。」とか「今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。其の僧共、其を廻けるに思ひ不懸ず山に踏入にけり。深き山に迷にければ、浜の辺に出む事を願ひけり。」とある。すなわち仏の道を修行する僧たちが歩いた伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の道を「四国の辺地」と称していたことが知られるのである。
 そして、その様子をさらに具体的に示しているのが後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』である。「我等が修行せしやうは、忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常にふむ。」とある。「忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負」うて、四国の辺地を踏む修行僧たちがいたのである。
 また、鎌倉時代初期の戦記物語である、『保元物語』にも「仁安三年(一一六八)の秋のころ、西行法師諸国修行しけるが、四国の辺地を巡見の時、讃岐国に渡(り)」とか、「此西行は四国辺路を巡見せし」ともある。
 いずれにしても四国遍路の初めは、このように専ら修行僧の修行の道場から発生したのであって、それがやがて一般庶民にも普及して行ったものである。その時期は室町時代になってであろうと言われている。「四国遍路」の文字の初見は「醍醐寺文書」とされる。この文書は鎌倉時代の弘安年間(一二七八~八八)のものと見られており、「(前文略)四国辺路、三十三所諸国巡礼(下略)」とあり、西国三十三か所や諸国巡礼のかたちで四国遍路が行われていたことを窺わせるのである。
 四国遍路は「四国辺路」とも書き、四国の辺地を廻る巡礼のことを言ったものであることはすでに述べた。その関係資料が多く見えだすのは中世末期以降である。すなわち、讃岐国分寺(八〇番札所)本尊の下身の落書に「弘治三丁巳(一五五八)六月二八日、四国中遍路同行三人」「大永八年(一五二八)五月二十日安芸宮嶋宮之浦同行四人 南無大師遍照金剛」(永正十年(一五一三)四国中辺路」とあり、伊予浄土寺(四九番札所)の厨子の落書中には「大永五年(一五二五)四国中辺路」とある。また四国遍路の元祖と伝えられる「衛門三郎伝説」と関連のある石手寺刻板には「永禄十年(一五六七)四国邊路」とある。さらに五三番円明寺には、京樋口の平人家次の銅板納札が残されているが、それには「慶安三年(一六五〇)今月今日奉納四国仲遍路同行二人」と刻してある。すなわち「四国中辺路」は、四国中を廻る遍路を表明したものと見ることができる。なおさら
に、庶民遍路が盛行しだすのは江戸時代になってであり、それも元禄年間ころからである。本県には四七番札所八坂寺近くの松山市恵原町土用部池の堤に貞享二年(一六八五)の遍路道
の道標があるが、これは遍路盛行の一端を物語る歴史的記念物である。一方、遍路に関する霊場記、案内記、絵画などが目立って増えてくるのもこのころからである。いま関係の出版物を列挙すれば次のごとくである。
 空性法親王四国霊場御巡行記(賢明、寛永一五年=一六三八)・四国遍礼霊場記(寂本、元禄二年=一六八九)・四国遍礼手鑑(寂本、元禄一〇年=一六九七)・四国霊場記(田原平兵衛、宝暦二年=一七五二)・四国遍路絵日記(河内屋武兵衛、寛政一二年=一八〇〇)・四国八十八所遍路記(文化元年=一八〇四)・四国遍路図会(文化四年=一八〇七)・新版四国遍路道しるべ(文化四年=一八〇七)。
 元禄・享保年間以後、遍路はしだいに発展していったのであるが、ではいったいにどれくらい遍路人口があったのだろうか。もちろん、当時のこととて統計資料があるわけでもないので確かなことは分からない。新城常三の研究によれば、小松藩の『会所日記』の調査結果から江戸時代の遍路人口を次のように試算推定している。
 すなわち、「伊予小松藩は石高わずか一万石、村数一六か村の小藩である。この小松藩の領民は寛保(一七四〇ころ)ごろから幕末までとびとび四〇年間に、一七九四名が遍路に出かけている。一年平均四五人で、一村三人ぐらいの割である。小松藩の総人口は大体一万二〇〇〇人前後を上下しているから、大体一年に二六七人に一人ぐらいの割合で遍路にでていることになる。当時は今日以上に旅に費やす金と時間と肉体の消耗が大であるから、遠ければ遠いほど旅は困難となり、したがって大体旅行者の数は距離に反比例する。伊勢参宮も伊勢に近い畿内・東海道地方に最も多く、距離の伸びるに伴いだんだん減少し、南九州や北奥羽などの遠方からは比較的少ない。しかし遍路の場合、四国のいずれからも等距離であり、距離的条件において同一である。であるから、この小松藩の遍路数を四国の平均値と仮定すれば、四国全域の遍路の年間数がほぼ推定される。天保五年(一八三四)、幕府は全国的に人口の調査を行っているが、これによれば、武士を除いた四国の総人口は、一九三万二八一七名となる。これを先の二六七で割れば、四国一円の一年の遍路数は七二四〇人となる。もちろん遍路は四国の人だけに限らず、四国以外からも多かった。とくに、四国の対岸山陽道が盛んであり、ついで近畿、九州からもかなり見えたが、東国、とくに関東・東北からは比較的少なかったようである。」と述べており、江戸後期の遍路の年間総数を一万五千に近い数となると推定している。

 衛門三郎伝説

 遍路の起源伝承といえば、衛門三郎伝説を挙げねばならない。昔、松山市の荏原の里に衛門三郎なる豪族がいた。ある日彼の家の門前に托鉢を乞う旅僧があらわれたが、彼は強欲な男であったので、一物も与えることを惜しみ、旅僧を追い払うため箒でもって殴りつけた。僧は托鉢の鉄鉢でもってそれを受け止めたが、そのとき鉄鉢が八つに割れて空中に舞い上がり、彼方の山の麓に落ちた。いま、その山を「鉢降山」といい、鉄鉢の落下した所には窪地ができたので、そこを「八窪」といい、一部は湧泉になっている。三郎には八人の子供があったが、そんなことがあってからは不思議なことにつぎつぎと愛児が死んでいって、ついには全員死んでしまったのである。彼は愛児の死を悼み、それぞれ塚を築いて葬ったのである。いま「八塚」という八基の古墳が残っている。
 そんなことがあってから、彼は一念発起し、前非を悔い、愛児の菩提を弔うために四国遍路に出た。あの旅僧はもしかしたら弘法大師ではなかったのか、彼はそう思うと矢も楯もたまらず、大師に面会して謝らねばとその跡を追って遍路を続けること二一回に及んだのである。しかし、大師にはなかなか巡り会えない。そこで彼は逆打ち、つまり逆廻りに遍路道を歩くことにしたのであった。かくして阿波の国の焼山寺にさしかかったとき、さすがの衛門三郎も心身ともに疲れ果ててついにその場に倒れてしまったのである。そのとき、旅僧が現れて彼を見とるのである。この旅僧こそ三郎が永年廻り尋ねていた弘法大師であった。
 三郎は前非を悔い、大師に許され遂に不帰の客となった。そのとき大師は三郎の手をとり、何なりと望みがあれば言ってみよといった。三郎は何を考えたか、もう一度、こんどは伊予の国の豪族の家に生まれ変わりたいと言ったのである。すると大師は小さな石に「玉の石」と記して三郎の左の手に握らせたのである。
 それからしばらくして、伊予の守護職河野息利に男児が出生し、息方といった。しかし、息方はどうしたものか左手を握ったままいつまでも開こうとしない。それで安養寺の僧に祈祷してもらい、川の清流で手を洗ったところ、生児はやっと手を開いた。みると石を握っている。それには「衛門三郎玉の石」と記してあったという。
それより、安養寺は石手寺と称するようになり、玉の石は同寺の寺宝として現在に伝えられている。また手を洗った川は石手川と名づけられた。
 これが衛門三郎伝説の梗概であるが、いわゆる「弘法大師伝説」の一つである。石手寺・鉢降山・八窪・八塚などの地名伝説と石手寺の縁起伝承が加わって、内容的にふくらんだ長編に仕立て上げられており、しかも、衛門三郎なる強欲非道の人間が発心して遍路に出て、善人に生まれ変わるという再生と輪廻の思想を説いた遍路の起源伝承になっているのがこの伝説の特色である。
 弘法伝説には「弘法清水」型のもの、「石芋」型のもの、「三度栗」型のものなど、本県には数多くの伝説が伝えられているが、いずれも旅の宗教者を歓待するか否かによって禍福が二分するのである。

 外者歓待

 わが国にはまれびとの伝承がある。村に訪れてくるある種の異郷人に対し、好意をもって鄭重に歓待することをいうのであるが、これは未開社会によく見られる習俗である。たまたま村に来訪する者は、あたかも遠来する神の化現のごとく見なされ、これを歓待しないと罰があたると考えられていたのである。
 初春に家々を訪れる三番叟舞し、亥の子の晩に亥の子つきにやって来る子供たちは、現代のまれびとといえる。四国遍路における「お接待」や「善根宿」の習俗も、外者歓待の思想がその根底にあって成り立つのである。これがまた四国遍路の根付く基盤になっていると思われるのであるが、この習俗を定着させたのは、かつて四国の辺地を廻った修行僧や熊野修験者などであったと考えられる。また、遍路者が食いはぐれなく遍路ができるのも実はこの外者歓待の思想と、それより導き出された同行二人という大師信仰が重複しているからである。