データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 和 霊 信 仰①

 和霊神社の成立

 宇和島市にある和霊神社をめぐる信仰が和霊信仰である。この信仰は御霊信仰のひとつに数えられている。御霊は崇りをなす人間霊のことで、とりわけ生前に恨みをのこした人間の霊魂をさし、怨霊の名もある。菅原道真の御霊が北野天満宮に祀られたように、御霊は、怨みと崇りを基調として人々に畏怖され、ことに疫病をもたらす悪神とみなされた結果、人々に鎮め祀られる場合が多かった。この古代以来の御霊信仰は、近世においても発現した。ここでいう和霊信仰は、その典型的な事例である。
 さて和霊神社祭神・山家清兵衛公頼が信仰の対象となる契機の「死」については、いまなお多くのなぞにつつまれている。しかし、その死に様は、その霊を神として斎き祀らねばならないほどの異常な死であったことは想像される。(図表『鶴鳴餘韻』参照)また宇和島藩は山家事件に関する書類をのこしておらず、むしろ仙台藩に多くのこされている。仙台藩「伊達家文書」にも「与州山家清兵衛方御成敗二付而」(元和六年十月十四日付け)とあって、清兵衛公頼は、藩主伊達秀宗の密命によって暗殺(上意討ち)されたことは今日、ほぼ定説化してきた。
 暗殺の日についても、元和六年(一六二〇)六月三〇日であったとみるのがほぼ定説となっている。これも六月二九日(「和霊明神記」・宝暦八年、「鶴鳴餘韻」等)や六月晦日([仙台]山家氏継書)と異説が多いが、山口常助によれば、元和六年六月は大の月で閏月でもないので、六月三〇日と判断される。
 こうして、山家清兵衛は、夏の夜、いかにも政治的失脚者にふさわしく現世に恨みを遺して横死した。非業の最期をとげた山家の霊は、御霊信仰なり若宮信仰が濃厚な宇和地帯において和霊さまとして祀られてゆくこととなった。
 山家暗殺劇としての山家事件の原因や真相は明らかでない部分が多い
が、宇和島藩草創期に特有の政治、経済的な変革によってひきおこされた政治問題とみるのが妥当である。
 山家氏はもと、出羽国山本庄山家村出身で、その祖は山形城主最上家の家臣であったが、永禄七年(一五六四)、最上義守の娘義姫が米沢城の伊達輝宗(政宗の父)の許にとついだ際、清兵衛の父・清左衛門公俊は、その付人として伊達家の家臣となり、禄五〇貫(約五〇〇石)をあてがわれた。やがて伊達氏がその本拠を仙台に移すと、公俊の子清兵衛は仙台藩の民政・財政面を担当し、算用頭のひとりとして家臣団の知行割をおこなったり、気仙・東山両郡の伝馬判算用差引の職を勤めた。
 慶長一九年(一六一四)、政宗の庶長子秀宗が、伊予国宇和郡十万石の領主になるとき、清兵衛はやはり民政、財政担当の総奉行に抜擢され、若い秀宗を補佐した。
 藩草創期に家臣団の編成や知行割は急務であったが、仙台から分附された家臣のほかに、大坂冬の陣当時、大坂等で急編成された家臣もいて、家臣団の統制をはかることは困難であったと考えられる。また、戦国の余弊と太閤検地以来の農村体制の不安定はなおつづいており、走百姓の統制の必要にせまられた。清兵衛はこうした問題に対応する一方、秀宗の入部費用として政宗からかりた借金の支払いについて十万石の内三万石を割いて、政宗死去まで、その隠居料として贈ることを提案して、採用された。しかしこの問題はただちに、家臣団の知行削減につながる性格のものであったので、清兵衛反対派を結集させるもととなった。
 さらに、宇和島藩は、幕命により大坂城修築工事を命ぜられ、清兵衛と桜田玄蕃らが奉行となって、ことにあたった。藩はその工事費の捻出に苦しんだ。元和六年(一六二〇)五月上旬に清兵衛が帰国、大坂の玄蕃らは、なお工事費の不足を告げ、工費超過の責任を清兵衛におしつけたうえ秀宗に清兵衛を讒訴するに至った。
 元和六年六月三〇日当夜の暗殺劇について、その真実のほどはわからないが、さまざまな伝承がつたえられている。多くの伝承をひろいあつめた鈴村譲の「和霊神社祭神事績」によると、それを次のように描写している。
  「黒頭巾ヲ以テ面ヲ覆ヒタル者数人(中略)宅二忍入リ 椽ヨリ飛上リテ、直チニ蚊帳四方ノ緒ヲ切断シテ呼テ曰ク、藩中ノ請二依テ、命ヲ蒙リ来リ討ツト、祭神忽チ枕頭ノ刀ヲ把ルモ、麻制ノ蚊帳二包マレ、カノ室ヲ脱スル得ズ、之ヲ破ラント欲ルモ、病躯疲労シテ、力及バズ、乃チ切歯憤怒シテ曰ク、汝等姦人二党シ我ヲ殺ス、最後ノ一念ハ生ヲ引クト云フ、一度ハ思ヒ知ラセン、能ク之ヲ記セヨト、室石母田氏、小児ヲ抱テ奥二入リ、之ヲ母氏及僕二告ク、母氏短刀ヲ把リテ出テ、命ヲ蒙リ来リ討ツト聞キ祭神ヲ戒テ曰ク、君命二敵スル勿レト、刺客遂二刺シテ祭神ヲ殺ス、祭神時二年四十二、」
さらに二男治部、三男丹治、女婿の塩谷内匠父子らは斬殺され、清兵衛の母・夫人は、その場をのがれることができた。
 この山家事件の劇的なシーンを事実として伝える一等史料は今、見ることはできない。それゆえに、右のような鈴村譲の文章などによって推測するしかない。そして、このシーンを核とした伝承が後述のように古くから成立し、またその内容が変遷してゆくのである。
 また宇和島藩庁史料に明治一〇年代後半ないし二〇年頃成立の『伊達家御歴代事記』がある。これは山家の暗殺について「元和五年 山家清兵衛死ス」と単に記しとどめるだけである。「秀宗公御附侍名元并五拾七騎名元」によると、山家支持派とみられる人物について次のように記している。渡瀬太郎兵衛は「清兵衛一義二付欠落」、峯金二郎は「清兵衛内儀ノおい御成敗」とか、渡瀬太郎兵衛・小間木弥(駒木根)主膳はともに「清兵衛一儀ニ付欠落」とあって、山家事件における関係者の処断がきわめて厳しかったことが間接的に知られる。
 山家清兵衛の暗殺後、寛永九年(一六三二)八月、正眼院(現・大隆寺)で秀宗夫人・桂林院殿の三回忌法事が営まれたとき、大風で本堂の梁が落ち、桜田玄蕃が圧死するという異変がおきた。この事件がおこってから、かつて大坂城修築問題で清兵衛と対立したことのある桜田は、山家暗殺に深く関係するものと言われるようになったと思われる。
 御霊・若宮信仰の普遍的な南予地方だけに、桜田の死は、山家の霊の崇りによるものと喧伝されたと考えられる。その結果、山家の御霊を鎮静化するために、その霊を神社に祀りこめたのであった。
 神社創建の年代については、「変難の後、七年」後の寛永四年(一六二七)に檜皮杜創建(串宇遺稿)、寛永八年に森安に(和霊宮霊験記)、没後一〇年内外に檜皮杜付近(西園寺源透)、承応二年(一六五三)に檜皮杜に創建(和霊神社棟札・御年譜微考・伊達家御歴代事記)と異説が多いが、山家清兵衛の死後に頻発した天災地変などの因を、あらぶる清兵衛の霊の崇りとみなし、その御霊を既存の強力な神としての八面大荒神の輩下に、いわばその若宮として斎き祀ったものと考えるならば、寛永八年の年号とだれが祀ったかは別としても、先の森安説、あるいは、「小祠を城北森安なる八面大荒神の社隅に営み、兒玉明神として祭祀し」たとする『鶴鳴餘韻』の説が妥当なものといわれている。
 承応二年六月二四日(後世この日を祭礼日にあてるようになる)、秀宗は京都奉幣使を迎えて盛大な祭典を行い、檜皮杜に社号・山頼和霊神社を建立した。この時の祭典は、山家死後三十三年の周忌にあたり、ホトケからカミになるトムライアゲを意味するものと考えられる。これ以降、宇和島藩の和霊神社へのかかわり方は熱心というほかはなく、このことは、秀宗の個人的な、清兵衛の忠誠に対する追思によるほか、地方知行制の廃止など藩制初期の政治体制の変革によってひきおこされたテンションを山家の霊への心配りで解消せんとしたとも理解される。青野春水は「さらに時代が下るにつれてますゝ領主の保護、武士町人農民の信仰を強くし、又祭が全城下の娯楽の最大なものとして受取られることにより清兵衛の死をいたむ気持ち=批判に結びつく気持ちは『祭』にすりかえられてゆくと共に城下町の繁栄策ともなったのである」と指摘している。なおこの方面での研究は今後、和霊信仰の成立の真相を把握する上で重要な意味をもつと考えられる。
 その後、社地は向山(城北中学校内)、また森安とうつった。さらに第四代藩主村年の代の享保一六年(一七三一)三月廿七日、「和霊社勧化を以造営在之ニ付、小関兵右衛門右奉行被仰付候事」となり鎌江城跡の一角に社地が再びうつされ、現在に及んでいる。
 このような、屡次にわたる社地の移動(遷宮)の理由は、参拝者が増大し社域が狭隘になったためという実際的な理由のほか大地震・大旱魃・虫害・大風雨と並行して遷宮もすすんでいる。これら天変地異の多くが山家清兵衛の崇りとみなされ、以上の遷宮がその御霊ぶりを鎮定しようとする信仰的意味をももっていたはずである。少なくとも、領内の人たちの目には、たびたびの遷宮の意味をそんなふうにとらえ、柳田国男のいう御霊信仰としての「初期の若々しい信仰状態」はしばらくつづくのである。

 信仰の発展

 (図表『和漢三才図会』参照)また、これとほぼ同時期の『予陽郡郷俚諺集』にも「其霊静まらず、無実の罪怨憤深く崇りをなす、仍って其霊を鎮んが為に一社に祭り給ふ」とある。一七〇〇年代の初めの段階のこれらの文献は、和霊信仰が御霊・若宮信仰に根ざして成立したこと、それに、和霊信仰の御霊・若宮信仰としての性格が、かなり長い期間つづいたことを示す。しかし、その後、この御霊信仰的側面は漸次うすらぎ、守護神信仰へと傾斜する経過をたどった。
 この傾向は、和霊信仰が盛大化し、信仰を寄せる人々が祭神に恵みを期待するようになった結果によるものである。
 まず、宇和島藩が和霊神社なり社家に対して、どうかかわったかをみよう。承応二年の神社建立以降、元禄年間までの半世紀間は史料が存在せず、そのかかわりは不詳であるが、元禄以降は、俄然に史料が出てくる。主に『記録書抜』から引いてみる。
 元禄一二年(一六九九)の「和霊神事」は、数日前に「尾張中納言様」の死去による「鳴物停止」のふれがでていたにもかかわらず「鳴物」がゆるされている。
 宝永三年(一七〇六)、和霊社地が狭隘のため、畑三間に五間が藩から与えられた。
 その翌年には、六月二四日の祭礼に御目付元しめ衆の三輪清助(二百石)が、「御代参」として参詣した。享保一五年(一七三〇)の祭礼から四代藩主村年の「御名代」が立てられた。五代村候時代の元文二年ころ「御名代」は「御初尾文金弐百疋御神納」していた。明和七年(一七七〇)には御小姓頭がきまって「御名代」となり、山王・住吉・一宮の三社は藩主が宇和島在城のときのみ、冨包弁天・和霊・神明の三社については江戸在勤・在城の区別なく、それぞれ名代をたてることとなった。
 村年夫人は、積極的に寄進をはかった。享保一二年(一七二七)の夏祭に先んじて「御紋付燈灯」ふたつを寄進、同一四年、祭礼のとき、「かさほた」が寄進された。「かさほた」は笠鉾の意味であろう。いずれにしても、これは祭礼の風流化にひと役かった注目すべき寄進行為である。この時の笠鉾は三台とされており、そのうち一つは寛延元年に「社人」へゆずり、神事のとき差出すかどうかは社人に一任されるが、提灯など張替えするときは藩に許可を求めることとなった。
 明和七年、和霊御供日神楽料は、両奉行が世話することになった。
 五代村候の時代は、御供所(宝暦年間)、随神門(明和二年)、回廊(寛政二年)などがそれぞれ完成をみて、一大神社が造営された時期である。安永六年(一七七七)に村候は刀を奉納、「御曹司様」は「御筆三枚」を奉納、といったように、寄進奉納の行為はさることながら、山家氏に対して、また社家の和田氏に対して大変、好意的に接したことが顕著であった。
 明和六年、天祥院(祭神)が一五〇年忌につき、大通寺の願で、大通寺・和霊社前に流れ灌頂をおこなったとき、綿五把が社に与えられた。山家佐織は、天明元年(一七八一)村候からその諱(伊織)の一字「織」を与えられた。(図表「近年山頼江御祈念」参照)
 延享四年(一七四七)、和霊神社神主の河内は来年頭より「御目見」仰付られることとなった。安永六年、和霊社人、伜の名を河内とつけたいがどうか、と伺いでたのに対し、御家中とも違うのでよろしいと返答があった。天明七年、和霊社人の和田河内が御目見となる。また村候は自ら六月の祭礼見物に出かけることは勿論、何かにつけて参詣し、かつ社家宅に出入している。(図表「安永六年」参照)
その回数は安永からその死までおよそ一三回をかぞえた。
 この村候の和霊神社・山家氏・社家に対する特異な行動について三好昌文は次のように指摘している。

「村候は、藩祖秀宗、清兵衛と伊達家股肱の臣桜田玄蕃の三者の関係を考察し、明和元年(一七六四)四月に『白痴篇』を著わし、「大こころといふ事」のなかで、「山家清兵衛、我をわすれ候者と見へ申候。其外ハ器量人、人幹宜輩とばかりいふべし」と述べている。宇和島藩における寛保―宝暦期の藩政改革を行った村候は、その思想の根本において士道の高揚を考えていたのであって、この意味で凶刃に倒れながらなお、「霊、君辺を退かず、随身の情を懇切に顕」わす清兵衛を、祭神として顕彰しようとした。こうして、和霊神社は菅原道真の天満神社の信仰と同系統のものとして合理化され、武士階級のなかへ浸透していく。」

 元禄一五年(一七〇ニ)六月二四日の祭礼から、神輿渡りがはじまった。享保一二年(一七二七)に神輿渡御の道順が変更になり以前は裏町を通り、かえりは龍光院下新町を通って還御していたが、本町を通り、還御は裏町を通ることになった。『宇和旧記』でいう「北川原足軽町の後さがり」から「目當場五十間の内」へ御旅所が変更したことは、このことをさしているのであろう。また、このときの御幸通行路の変更は、行き先の住民(組中)がきわめて祭神を尊敬し始めたからだという。
 この頃の祭礼について『宇和旧記』は「諸人思ひゝにねり物仕出にて供奉し奉る」と伝えている。先述したように享保一四年藩主村年夫人によって、笠鉾屋台が寄進され、町内をねりあるき、城下をあげて盛大な祭礼となった。『和霊大明神御縁起』には、
 このように元禄から享保年間にかけての祭礼の風流化は、享保六、七年ごろから始まる享保の大飢饉にともなう社会不安の除去、庶民め動揺の防止などを意図して、攘災招福の祈願にまつほかなかった藩側が、京畿の風流を模して、すすめられたものであるといえよう。
 次に為政者に対して一般庶民は和霊信仰にどうかかわったかについてみよう。寛延元年(一七四八)、袋屋長兵衛勝彦が神馬を奉納して町内より神馬屋を建立した。寛政二年(一七九〇)二月一六日社門脇から石垣上通りへ廻廊を建立し楼門・籠所・神供所及び詰所等を建てた。そのときの世話頭は裏町の酒造家である長滝四郎兵衛・富屋忠太夫であった。
 文政六年(一八二三)大坂南堀江柏屋禰兵衛随身像一対を奉納した。文久三年(一八六三)、小西卓蔵は宝蔵を奉納造営した。これら寄進、奉納の主体は豪商、町ぐるみであり、和霊信仰の庶民層への浸透のほどが推測される。
 農村漁村でも、次のような石燈籠の寄進がみられた。すなわち、天保一六年(一八四五・弘化二年)一二月二一日、船隠浦(宇和島市三浦)の「清八扣白石田二有之石壱日和霊宮石燈籠笠致度横新田大佐屋民之助より所望願済」(三浦庄屋史料―田中家史料4)などとある。
 和霊信仰の発達につれて、その守護神信仰としての性格を強めていったことは、和霊神と八面大荒神の関係の上にも象徴的にうかがえる。すなわち、宝暦一〇年の調査によれば、八面大荒神が和霊神社の下村末社として記述されており、和霊社創立期での主客関係が逆転しているのである。また御霊信仰から守護神信仰に転化したことは神格などの点からもわかる。祭神を和霊大明神と号したのは、享保五年以来の和霊社人の願いがみのり、同一三年(一七二八)五月二二日に、京都吉田家から大明神号が許されたのである。宮田登は「人間神に神号が与えられることは、崇りという思惟構造が、恵みを与える、つまり民衆の欲求に応じた霊能を示すという観念にとって代わる、つまり崇りの克服という過程を明示する指標と考えられる。」という。

 祭 礼

 六日歳は、正月六日、近郷から参詣者が集まり、参籠所にこもる。午後に年越祭が執行されるものである。初卯祭は三月初卯の日に参詣人があり、神社の宝物、什物を陳列し、一般の拝観に呈した(戦災で陳列はなくなった)。
 春祭は、四月二三、四日に執行される。六日年、初卯祭の起源は不詳だが、明和元年(一七六四)四月一日の記録に「一、和霊春祭二参候角力、御庭二而御覧在之、被下銀二十枚」とあり、四月二三、四日と日が固定していなかった様子である。「お春まつり」と呼ばれ、子供ミコシ三体が出御するなどにぎやかである。
 講社祭は三月と九月の二四日(現在は四月二四日)、講社の代参がみられ、かつてあった神楽殿で神楽を行い講社員の家内安全を祈った。
 田植祭は現在はないが旧六月二二日(当初五月三日)に執行された。寛政二年(一七九〇)に、藩医で国学者の浅野洞庵が奉納したことにより、はじまった神事である。二反余の神田で数頭の牛で代かきしながら、早乙女一〇人が揃いの着物、手襷に一文字の菅笠をかぶり、囃子の連中も揃いの扮装で花笠をかぶり、太鼓・皷・鉦・ササラなどにて囃し、合唱しつつ田植をおこなった。
 祭礼のうち、最大の呼びものは、七月(旧六月)二三、四日の夏の大祭で、「和霊さま」と親しく呼ばれ、いまなお、十数万人の人出でにぎわう南予路の夏の風物詩である。承応二年(一六五三)に遷座した日を大祭の日としている。天神祭、祇園祭など夏祭り自体、普通の氏神祭とちがって、流行病が猖獗をきわめる六、七月にとりおこなわれ、しかも山鉾巡行などにぎやかな風流を伴う。「和霊さま」も、御霊信仰を基調として成立したために、承応年間以来、「夏祭り」をおこなってきたのである。
 二三日は宵祭り、二四日午後、二体の神輿は御旅所へむかう。これを「お浜出し」ともいう。大正頃の大祭の様子を門多栄男が次のように記している。「渡御を盛ならしむる為、牛鬼一個、槍振、荒獅子、鹿の子各一組、川船一臺、旗三流に各町より出せし山鉾十臺は二十四日早朝より夫々社前に集まりて午前八時頃より順次に繰出し午後五時迄順輿渡御の区域をねる、これを『おねり』といふ」。
 神輿が須賀川をへて神社境内に走り込んで還御することを「走り込み」といい、祭礼のフィナーレをかざる最大の見物である。大和田建樹は明治三五年の『漫筆紀行・志たわらび』に、このハシリコミを次のようにかきとどめた。「手にゝ松明を持ちて、関の声を揚げつゝ駈けゆく若者達も去りあへぬほどなるが、いづれもシャツ一枚にて、足袋をはき鉢巻をなしたる有様、いさましとは世のつねなり。河の中には五六箇所に大篝を設け、薪つみあげてたき立てたれば天まで焦がすさまなるに、打ち振りつゝ走り狂ふ数千の松明、下ゆく水に影をうつして、音に聞く夜討もかくやとこそ思はれたれ。是見んとする人々に埋められて、両岸あたかも、人の堤を幾重にも築き上げたるやうなり、とても立ちながらに見らるべくもあらざれば……とある家の二階にも幾十人入り込みて、屋根にまでこぼれ出でたれば蒸風呂の中にあるよりも暑し」と。
 「和霊さま」の夜には蚊帳をつらずに夜明かしをする風習が瀬戸内海を中心とした各地にある。宇和島でももちろん、祭神が蚊帳の中に寝ていたために兇刃にあい、その怨霊から、この夜に限り蚊は出ないという伝承がのこっている。

 「和霊さま」の性格

 守護神となった和霊が、先の定期的な祭礼や臨時の祈祷儀礼を通じて、信仰者の意識のなかで、どういう御利益なり霊験があるかといった神としての霊能が明確になってくる。表5―7によると、宝永~寛政年間において、宇和島藩がおこなった和霊神社での祈祷内容は、雨乞いなど若干例をのぞくと、ほとんどが、病気回復、流行病除去であった。表5―8は「御城下組」二一の村浦が執行した祈祷の回数を祈祷内容別にほぼ百年間にわたって示したものである。これによると、和霊社以外で実施された回数を上回る例は、疫病除去と日乞いの二つで、雨乞いや漁事・農事祈願の回数は多いが、他の場所での回数とくらべてみると和霊への依頼度は高くない。漁業神としての性格が明確でないのは、寛永一八年西宮から勧請された恵美須社が別にあって、それが和霊の性格の不明確性に対抗して漁業神としての性格を保持していたためと思われる。また、農事祈願が一八〇〇年を境に増加しているのは、寛政二年に御田植神事がはじまり、それにともない、農民の参詣が多くなったためと考えられる。これらの祈祷を主とする臨時祭の実態は、御郡所・御代官より仰付けられたこともあれば、御城下組中より願出た場合もあり、一様ではなかった。
 いずれにしても、和霊さまの霊能=性格は、以上の臨時祭のくりかえしによって、また、信仰の盛大化にともない農業神(雨乞い・日乞いなどの祈願対象となった場合も含む)として、かつ漁業神として、いわば両面性を保持しはじめた。後世、信仰の漁村地帯への浸透(信仰の拡大)に伴い、「和霊さまは漁業の神さん」との観念が確立された。今日でもなお、漁業の守護神としての性格が、より強調されている。たとえば、宇和島市日振島では、イワシ網の中央のミトにつけるエビスアバという浮子を新調した時、あるいは漁期の初めに当たり、また夏の大祭にこのエベスアバを和霊神社にかつぎ込んで祈祷をしてもらう。これなどは、漁業神としての和霊さまの姿といえる。瀬戸内海でも、ボラ網の神サンとみなされて、ボラ網のオオダマ(浮子)を和霊胡大玉といっている。一方、各地に信仰が伝播する過程で、遊女の信仰をあつめ、社会の底辺に生きる者たちの願いごとをかなえる神となり、賭け事・もめごと・盗難など、さまざまな霊能=性格をかたちづくっていった。このことは、南予の地域社会の生産様式の変質、あるいは信仰圏の拡大にともない信仰を受容した地域社会の性格とのかかわりで、民間信仰が展開した事例として注目されてよい。

 信仰圏の拡大

 和霊信仰は、初期の御霊信仰としての側面をまったく捨象することなく守護神化した享保年間前後から、幕藩制社会の動揺する延享・宝暦年間に、さらに流行神化し、幕末・明治維新期にかけてその信仰圏は四国・九州・中国地方一円に拡大した。
 宝暦八年(一七五八)に書かれたとみられる『和霊明神由緒』に「今ノ山家モ和霊明神卜崇祀テヨリ、宇和嶋郡中ノ守護神トナリ、道理成事ナレハ祈願シルシ速成ルニヨッテ、四國西國中國九州ヨリモ歩ヲ運ヒ、神徳ヲ仰者年々歳々ニ弥増セリ、遙東國ヨリ参詣スル者尤多シ」とある。また『村候公御代記録書抜』によると、寛延三年(一七五〇)の和霊祭(六月)には「旅人入船 川口新町口見及候。入船高四百六十艘 十九艘旅船 旅人弐千百五人程」、宝暦八年の祭において、「向新町宿付候、大洲・松山・讃州・土州参詣弐百七十六人、商人十五人。新町口見及候分、土州七百五十人程、大洲二百人程、松山六十人程。佐伯町口見及候分、土州六十二人、入船高三百三十五艘」であった。
 江戸中期に、土佐・大洲・松山・讃岐の諸国から四百艘ほどの船が入港し、およそ千~二千人の参詣者や商人の往来があったことがわかる。土佐からの参詣者が八一〇人ほどもいて、群を抜いて多い傾向は、表5―9にうかがえる最近の傾向と軌を一にしている。しかも、そこにおける高知県からの参詣者はその祈願内容から漁民が圧倒的に多いという今日的傾向からみて、江戸中期の「八一〇人」の中には漁民もいたと推測できるので、寛延~宝暦年間ごろすでに漁業神としての「和霊さま」が出来あがりつつあったとみてよい。
 一八世紀中ごろ、今の徳島県をのぞく四国地方が参詣圏=信仰圏内に入っていたのである。それ以降、表5―9でわかるように、大阪以西の各県から多数の参詣をみるに至ったのである。表5―10は、今日、オタマヤと称されて信仰の対象となっている山家清兵衛の廟の建築のために寄附した者の所在地をあらわすものでオタマヤ崇拝者(七月二九日が祭日)は、神社の方の信仰者とほぼワンセットと考えてみると、これから明治二、三〇年代の和霊信仰圏をある程度想定することができる。
 信仰の伝播の過程で、和霊講の結成、神社勧請(分霊)、カヤマチ(ワレイマチ)習俗と和霊さま伝承の成立がみられた。
 (1)和霊講 夏の大祭のとき、オオゴ(網子)が抽籤で代表者二人を決めて、神札をもらいうけて帰り、オヤカタ(網元)の家でゲコウオミキをふるまう「代参」は宇和島周辺にはおおい。代参講としての和霊講の古い時代の実態はつかめていないが、宇和島周辺での講組織は明治以降、神社側からのはたらきかけで結成された崇敬講がほとんどである。
 文化一二年から文政二年までの五か年間つづいた「和霊宮永代御祈祷講」も、文化一一年七月に和霊宮神職の和田大隅守から次のようなよびかけがあって結成され、正月・九月の年二回、三浦(宇和島市)の庄屋以下漁民あわせて一〇五人が御初尾百弐拾六匁を毎回奉納して、つづけられた講である。(図表「和霊大明神」参照)
 戦前の三〇人一組の「和霊講社」も昭和三七年の五人一組の和霊神社の崇敬講も、先の文化年間の永代御祈祷講の結成と同様のパターンで、各地の区長など宛、依頼状を送付して講員を募集して出来たものであった。その講員からえらばれた一人が四月二四日の講社祭に代参し神札をもらいうけて帰る。
 昭和五四年現在の崇敬講の組数と講員数を地域別に示したのが表5―11である。漁村を中心に講が分布していることがよくわかる。なお和霊講は宇和島の本社ばかりでなく重信町下林の三奈良神社境内末社の和霊神社にも明治二二年設立の和霊講があった。玉川町法界寺の和霊神社にも瀬戸内海の島々から参詣する「和霊講」がある。
 (2)神社勧請(分霊)和霊信仰圏内に分布する和霊社は図5―5及び表5―12にみられるように、一五九社をかぞえる。その多くは、屋敷神として勧請されたもので、なかには玉川町法界寺の和霊神社のように当初は庄屋の屋敷神であったものが、今治藩内士庶の信仰をあつめる独立大社へと発展したものもある。しかし、ほとんどは本殿に合祀されていたり、境内末社になっている。
 図5―5は、昭和五七年五月現在における和霊神社の分霊社の分布をあらわしたものである(なお、図中、独立社・境内末社等の分類は、現時点で多少変動している可能性があるので、ここでは、和霊分霊社の所在位置、分布状況に注目されたい)。独立社は少数で、境内末社が多数を占める。合祀されているのは愛媛県に多い。これは、宇和島への参詣道のりが他地域と比べて短いため、一度勧請したものの直接、宇和島へ参詣するものが多くなり、のち合祀されたケースが多いのであろう。境内社のなかには、神社でなく寺院の境内にある事例は、香川県(一例)・徳島県(一例)・岡山県(三例)・島根県(一例)にみられる。これらは神仏習合のなごりなのか、あるいは祭神の墓である和霊廟(オタマヤ)から住職がもらいうけてきたのか、今の段階では判断しがたい。
 勧請事例のうち、勧請年代の古いものは、高知県高岡郡窪川町六反地の元文二年(一七三七)頃(同年、寄進の手水鉢あり)や先の法界寺の延享三年(一七四六)の例である。それ以降、幕末・明治・大正時代に世相の不安定を反映して漸次、分霊された。各地の和霊サマは、漁業神・商業神・農業神、さらに盗難・もめごとにかなう神などの性格にアレンジされて、それぞれの地域社会に受容されていった。また遊郭の女性に崇拝された事例が岡山市・尾道市・高松市に確認される。ある意味で祭神山家清兵衛と同様、思いどおりに生ききれず、不幸をかこつ境涯の人々の間に崇敬されたようである。
 さて、屋敷神として勧請される場合、勧請者が個人であろうとムラ全体であろうと、和霊信仰そのものとの接触がその前提となる。その接触が、どのような経緯に基づくかといえば、次の三つのケースが考えられている。
 A 四国八十八か所参拝者(僧)や一般の旅人が宇和島を訪れ神社の存在を知る。あるいは神官が紹介する。遍路は四〇番札所から次の竜光寺にむかう前に、必ず和霊さまに祈願をかけたことは、多くの四国巡拝日記にもあきらかである。たとえば「同拾六日 和禮(霊)神社ヲ拝シヨリ稲荷村龍光寺ヲ拝シヨリ……」(『近世土佐遍路資料』)などとある。
 〔例一〕 兵庫県洲本市木戸新、独立の和霊神社。巡礼に出て淡路を訪ねた大洲の百姓治右衛門から和霊の話をきき、寛延三年(一七五〇)に僧自教が札所巡拝に出たときに分霊してきた。
 〔例二〕 愛媛県越智郡玉川町法界寺の和霊神社。法界寺村庄屋浮穴与右衛門包俊が若くして難病に悩んでいた。大三島の大山祗神社祠官が和霊大明神の霊験を説いたので、数度、宇和島の和霊神社に参詣し祈願をこめたところ病気が全快した。そこで霊分けをした。
 B 宇和島との交易・交通の発達による。
  このことについて武田明は、「潮待ち、風待ちのために内海の港々に碇をおろす船の人々は、面白がって各地の世間話やら因縁話を語りあった。そして和霊さんの話も夏の夜の結構な話題となったに違いない。」とのべている。
 C 阿波・淡路の人形芝居や各地の地芝居などにより、祭神や神社について知りえた。
 〔例〕 淡路人形浄瑠璃の中村久太夫座(洲本)は数ある「和霊宮霊験記」のうち『予州神霊記』か、それとほぼ同一内容の『二名嶌女天神記』を種本として脚色されたと思われる『二名島女天神記』を、安政四年(一八五七)に洲本で上演した記録がある。同じく市村六之丞座は四国の松山近郷から中国・九州への興行が主で、秋には宇和島へ行った。小林六太夫座は和歌山県あたりを主に、岡山県作州地方と宇和島に出向いた。中国地方では岡山県内に和霊宮の勧請社が集中していることと、この淡路の人形芝居とが何らかの関係をもっていたのではないかと推測されるのである。事実、瀬戸内海に面した地帯において、和霊勧請社の所在地では、必ずといってよいほどに、和霊さまの芝居をかつて村でおこなったという伝承が残っている。
 (3)カヤマチ(ワレイマチ) 祭神の山家清兵衛が、蚊帳のなかで殺害された場面は、和霊さま伝承のなかでも、とくに印象深く語られてきた。先の人形芝居・地芝居は、そのシーンを核にして演じられたのである。ワレイサマの夜(七月二四日ごろ)蚊帳をつらないで夜明かしするとねがいがかなうというカヤマチ習俗の成立と芝居との関係は今のところ明確でない。ただ、山家の死に場所が松山近郊の三津浜であるという伝承をカヤマチ習俗のなかで確認でき、しかも、三津浜で山家が殺害されるという設定は、先の芝居の台本にのみみられるので、カヤマチ(ワレイマチ)習俗の成立に、人形芝居などの民俗芸能が重要な役割を果たしたにちがいない。たとえば、今治地方では、「玉川町法界寺の和霊神社の大祭に、蚊帳を吊らないと言う風習が残っています。これは宇和島藩の家老兼総奉行であった山家清兵衛公頼公が、三津浜の難波屋の離れ座敷で、蚊帳を吊って寝ていて、蚊帳の四隅を切られて蚊帳ぐるみにして殺された命日が、大祭の日に当たるからだと言われています。」という。
 さて、カヤマチの事例をいくつかあげておこう。
 事例1 徳島県名西郡石井町浦庄。和霊さんの祭日の旧暦六月二三日の夜は、ワレイマチといって全戸、蚊帳を吊らずに就床した。今は廃した者が多い。
 事例2 松山市三津浜。和霊の祭日には、カヤマチといって夜通し友達の家で遊ぶ。そうすれば願いごとがかなうからという。
 事例3 越智郡波方町小部。ここには大正年間に漁神としての和霊さんが勧請されている。旧六月二三日の祭日の夜、病気がなおるといって、蚊帳をつらない。
 事例4 広島県安芸三津町。旧暦六月二三日を二三夜といい、蚊帳をつらずに寝る人が多い。同夜、海竜山薬師堂に若連中が集まっていろいろなことをして遊び、二三夜の月を見るまで起きていた。
 事例5 広島県佐木島の向田野浦。和霊社はない。浦の西はずれの波うちぎわの岩壁に数体の地蔵が刻まれている。その一つに北和霊石地蔵というのがある。この像は、その碑文から正安二庚子年(一三〇〇)九月に平朝臣茂盛が建立したとみられる。縁日は旧正月二四日と六月二三日の夜から二四日の年二回。正月の方をヒルジゾウ、六月の方をヨルジゾウと称して仕事を休む。ヨルジゾウには同じ島内の安楽寺(真言宗)の住職を招き読経する。地蔵の近くには露店がたちならび、その夜は、和霊さんが蚊帳の中で殺されたので蚊帳を吊らずに寝る。これをカヤマチという。
 右の事例のうち1・2は、祭日に蚊帳を吊らないで寝ると種々の利益がある型で、これをA型、3・4は蚊帳をつらず夜明し(オコモリ)したり、月の出まで起きている型で、これをB型、5は、地蔵信仰と習合した型でこれをC型とそれぞれする。図5―5をみると、A型はB・C型を内包する形に分布している。佐々木正興は、A型が原型であり、そのA型が、神社信仰とともに瀬戸内海島嶼部一帯へ普及したとき、その受け入れる側の信仰的基盤の内容いかんによってB型なりC型なりのカヤマチが創出されたとみている。
 すなわち、B型は、瀬戸内海一帯に多くみられた二三夜待の習俗とが習合して成立したと思われる。
 C型は、月待ち・日待ちと習合した地蔵供養習俗に、時間的一致と習俗型態の類似を、いわば受容の媒介としてB型カヤマチが受けいれられたことによって成立したものである。先の事例5の場合、ワレイの音読みが「割れ石」という音読みと結びっけられたものともみられる。
 結局、三類型にわけられるカヤマチはA型→B型→C型の方向に成立・展開した。和霊さま伝承のうち、山家清兵衛が夏の夜、蚊帳の中で殺害された部分が、早くプロトタイプとしてのA型の形をなし、神社勧請にともなって各地に伝播する過程で、六月(七月)二三日前後の月待ち・日待ちや地蔵信仰(あるいは両者の習合した習俗)をその受容する信仰的基盤として各地にB・C型を創成した。同時に、そのことによって和霊信仰全体も、それら地域により深く根をおろしたのである。

 和霊さま伝承の展開

 元和年間における山家事件の真相がすべて明らかにされていなかったため、和霊さまをめぐる伝承は古くから多彩に形成され、各地に伝えられた。また、そこには種々の近代での小説や霊験記の類を生んだのである。
 山家事件について、文学的表現を借りて叙述した小説類は明治以降あいついで出版され、その時代性を反映した山家清兵衛像が創造された。三好昌文によると、末広鉄腸の政治小説『南海の激浪』(明治二五年)は、伊達入部当時、圧政に反抗した大百姓一揆を仮定し、宇和島の八幡河原に結集した四~五万人の農民の前に、山家清兵衛が出馬して農民の要求をいれて藩政を改革しようとし、遂に凶刃に倒れたというのが、その骨子である。
 この本によって、山家が民衆の味方であるとする近代の山家清兵衛観が構築された。大正デモクラシー期には、門多栄男『和霊神社祭神・山家清兵衛公頼公』が民本主義者、平民主義者と把握するようになり、それは第二次世界大戦直前まで存続し、三好南桃(春樹)の『和霊祭神歴史小説・山家清兵衛』までおよぶ。昭和一〇年代に入ると、山家を農本主義と把える視点も生まれ、戦争の時代には忠君愛国の神としてみられた。
 以上の刊本の小説類は江戸時代からのこされてきた霊験記などの和霊さま伝承の系譜の上にあるといえる。
 これら和霊さま伝承を和霊宮霊験記の名のもとに一括し、その内容の類似性を目安として分類し、その時間的先後関係を明らかにすることによって「和霊宮霊験記」の変遷史を系譜の形で追跡したとき、その系譜関係やその「霊験記」の変遷過程の特色を次のように指摘することができよう。
 和霊宮霊験記の内容は、山家清兵衛がある理由で、一味から恨みをかい殺害され、その後、亡霊となってまよい出て、さまざまな崇りをなす山家の霊を神として祀るに至るというもので、その重要な構成要素は次の四つの部分である。
 ①讒言  ②殺害  ③崇り  ④祭祀
 これらのうち、山家を殺害する者の相違によって、すなわち②殺害の構成要素のちがいによって、いくつかの霊験記は以下のように三つの形式に分類できる。
 第一形式(A―I、A―Ⅱ、B―I、B―Ⅱなどと略称)―清兵衛の殺害者が、明白に出てこず、ただ「老臣某」とか「奸佞の者」としてしか出ないものと、桜田玄蕃とかの具体的な歴史上の人物の名があげられるものとのふたつが、この形式にふくまれる。前者をA類、後者をB類とする。A類の性格は、宇和島騒動の事実を隠蔽しようとする意図がうかがえるもので、B類のそれは、むしろ、かなりの程度、その隠蔽性がぬぐわれている。
 第二形式―清兵衛と対峙するものが、宇和島藩主の弟「信行」とあるもので、この形式の性格は、第一形式A類と比べて、歴史事実に対して、より積極的な隠蔽性が指摘される。
 第三形式(3A―I、3A―Ⅱ、3B―Ⅰ、3aなどと略称)―清兵衛殺害者が、大橋右膳なる宇和島藩の家老であ  る。第一、第二形式と比して、全体的にかなりフィクション化された性格をもつ。
 以上の三形式のそれぞれのプロット(筋書)の概要は、〈『和霊宮霊験記』の構成要素別比較表〉(表5―13)に示すとおりである。
 以上の三形式の系譜関係を試みに示すと一応、次のようになろう(図5―6)。
(A―Iとは、第一形式のA類のIという霊験記の略号である。第三形式の3aというのは第三形式A類のうち内容に多少ちがいがあるものをさす)
 (1) 第一形式A類とB類の系譜関係
 表5―13の第一形式〈B―I〉(和霊大明神之社記―「淡路草」所収)の成立経緯をみると、〈A―I〉(「堅磐草(下)」)を主体として、〈A―Ⅱ〉(和霊明神由緒)の要素もいく分、吸収して成立したと考えられる。たとえば、構成要素②③④の部分で、秀宗(宇和島藩主)が直接、山家殺害のために兵士をつかわす要素は、〈A―Ⅱ〉には秀宗は山家を憎むという形でしか出ないが、〈A―I〉と〈B―I〉両者の間には共通点がある。この第一形式内の個々の霊験記の系譜関係は、〈A―I〉→〈B―I〉→〈B―Ⅱ〉(和霊宮霊験御実記)とたどれ、そのことは、和霊信仰史の大きな変遷とからみあわせても理解される。すなわち、〈B―I〉の⑤崇りの部分において「矢部、海上歩行し徘徊し、昼夜、秀宗に侍す」という秀宗に対する「恩恵」と、「秀宗の二男早世」という「崇り」の相矛盾する要素が並存している。これについて、柳田国男はかつて次のように説明した。「是とても北野の前例が語る如くに、必ずしも時過ぎて次第に畏怖が景慕の情に改まって行ったので無く、實は最初から霊の力の積極的にも働くことを認めなかったら、単に後悔と謝罪との祭では、一般の信者を引付けることは出来なかったので、一見矛盾の感ある怨と好意、罰と恩恵との二つの作用も、神威の強烈を讃歎する者の前には、不可分であったかと思はれる」と。従って、〈B―I〉は和霊信仰史上、一般信者が多数、参詣しはじめるという新段階に入る前、つまり元禄~享保年間以前に信者をひきつけるために、一見矛盾した構成の仕方をとったのである。
 〈B―I〉は「淡路草」によれば、妻木貞彦なる者が延享二年(一七四五)に淡路島を訪れた西国巡礼者である伊予大洲の農民治右衛門の語ったことと、寛延三年(一七五〇)に木戸新村(洲本市城戸新)に和霊神社を勧請した農民(僧侶)が四国巡拝の際、宇和島から聞き覚えてきた伝承とを総合して記述したものとみられる。妻木は、山家事件に関してある程度、事実に近い伝承を知っている大洲の農民から直接に〈A―I〉あたりの伝承を伝えられて、これを記録し、さらに、宇和島で伝承されていた、もうひとつの傾向である隠蔽性の強い〈A―Ⅱ〉などについて宇和島を実際に訪れた淡路の農民(僧侶)から耳にして、〈B―I〉なる霊験記を構成したと思われる。
 柳田国男の指摘どおり〈B―I〉にみられるような、積極的な作為をもって信仰の盛大化をはかる段階前には、作為の必要はなかったろうから、そこにおいては、「城中にも怪異往々にしてあれば」という〈A―I〉のような「崇り」面のみを説いたはずである。したがって崇りの面のみをもつA類は〈B―I〉よりは時間的に早い時期に属する霊験記とみられる。
 〈A―Ⅱ〉は「和霊明神由緒」で宝暦年間(一七五一~六三)の成立とみられるが、先述のように内容的授受は〈A―Ⅱ〉→〈B―I〉と解せられるため、〈A―Ⅱ〉は〈B―I〉が記録された延享・寛延年間からさらに元禄年間以前までさかのぼる伝承内容であったと考えられるのである。
 さて、享保年間から一八世紀中葉にかけての和霊様の流行神化した段階以降に至れば、藩主秀宗に対する崇りはなくなり、ひとり「恩恵」面のみが多く説かれることとなる。つまり〈B―Ⅱ〉のような由来が説かれる。しかし、藩主秀宗に対する「崇り」はみられなくなるとしても、山家殺害に関係した他の人物たちに崇ることは物語のプロット上ほとんど不可欠の要素であるためか、この種の「崇り」部分は次第に、追加されていくのである。
 (2) 第二形式の系譜関係
 表5―13で第二形式(和霊宮御霊験記)と第一形式〈A―Ⅱ〉を比較すると、構成要素①と⑥は両者全く共通しており、ちょうど〈A―Ⅱ〉の奸佞の者を「信行」におきかえて、③⑤の部分をうめれば、第二形式になるといえる。したがって、元禄一二、三年頃に成立したといわれる第二形式の成立にあたって、先述の様式史の立場からも明らかになったように当時の伝承と思われる〈A―Ⅱ〉が土台となっているのである。
 また、表5―13で第二形式と第一形式〈B―Ⅱ〉を比較すると、随所で共通要素が確認される。たとえば、③の竹内随玄のこと、⑤の「崇り」の部分など。さらに〈B―Ⅱ〉の成立が、第二形式より後と考えられるので、第二形式は〈B―Ⅱ〉に内容的に影響をおよぼしているはずである。
 (3) 第三形式の系譜関係
 第三形式のうち〈3A―I〉(予州神霊記・二名嶌女天神記)の成立時期は、宇和島騒動を元禄年間の出来事として扱い、また⑥に廻廊造営の記事がある(文中では明和とあるが廻廊は、寛政二年(=一七九〇)年に建立されている)ことなどから、三形式のうち、最も新しい時代に求められよう。
 本形式は、第一・第二形式に比して、②讒言の要素が欠落しているほかは、山家の対立者が宇和島藩纂奪の計画を立て、それに山家をまきこんで殺害に及ぶという全体的プロットは、第二形式ときわめて酷似したものといえる。そして、①の矢筈の池事件は、第二形式⑤の「信行池狩りの事」に比定されるし、第三形式と第一形式〈B―Ⅱ〉の③の「一味が血判して、山家暗殺の意を固める」部分は共通している。さらに、第一形式〈B―Ⅱ〉の④の、山家の老母、妻が蕨生村(現松野町)にのがれる部分は、第三形式の山影村へのがれる部分に対応する。
 これら三形式にみられる種々の「対応」なり「共通」する点と、先の第三形式の成立経緯とから、第三形式は、第二形式を基本とし、第一形式のある部分をいくつか吸収して成立したものと考えられる。
 第三形式のうち〈3A―Ⅱ〉は、本節でふれた淡路人形浄瑠璃台本「宇和島天神記」「二名島女天神記」の内容で、これまた、さきの〈3A―I〉のバリエーションであることはいうまでもない。
 以上(1)(2)(3)で明らかになった和霊宮霊験記の系譜関係は、いわばその変遷なり成長ぶりと見なすことができる。では、その変遷=成長の上でどんな特色が見い出されるか。ほぼ次の二点が指摘できよう。
 (イ)、プロット上の骨子たる「讒言」「殺害」「崇り」「神に祀る」の四つの要素は古い霊験記の第一形式・第二形式には、すべてそなわっているが、第三形式になると「讒言」の部分が欠落していく。
 (ロ)、変遷上、以上の四つの骨子を中心核として変化し、新しい要素が付加・挿入されるが、それは主に「殺害」と「崇り」の部分に集中している。すなわち(a)変化としては、山家殺害の場面が第一・第二形式と第三形式の間では異なっていることがあげられる。(b)付加・挿入の現象としては、山家の老母たちの行方譚が、第三形式 に至るにつれて、構成上、重要な位置を占め、かつ内容的にも豊かになる点や山家殺害に直接手を加えた者に対する「崇り」部分が第三形式へ変遷するにつれて漸次、付加される点などがあげられる。
 ところで、和霊信仰圏内には、先の三形式のいずれにも属さない、次のような和霊さま伝承もある。
 事例1 出雲地方の夏祭の中に和霊様と云ふのがある。比夜蚊帳の中へ入らなかった者にはどんな願でも叶へて遣るとのことで、若い男女は盛に夜明しをする。それは和霊と云ふ人が鳥目であった上に蚊帳の中に居た為に、とうとう仇敵に殺されたからである(原文のまま、以下同様)。
 事例2 宇和嶋の城主伊達遠江守殿の足軽に、山家清兵衛と云ふ者あり、門番を勤め居たる末の奉公人なりしが、其人忠直にして才徳ありし人にてこそ有りけん、足軽より立身して後には家老役を相勤め、官禄共に經上り、其家中にては肩を並ふるものなきに至りぬ、何國の人の心は拙くかたましきものにて、清兵衛がかく昇進したるを嫉妬して、同じ心の黨人ども、無實の罪科を主君へ讒奏したるに、不明の君にてこそ有りつらめ、事の實否をも糺明せられず、直ちに討手を清兵衛が宿所に指向られ、父子三人共に念なく討殺されたり(中略)是は延享二年乙丑六月十六日因州に来り磐井與七郎が物語りなり(下略)。
 事例3 仙台支藩の家老格の者で、農民の苦境をみるにしのびず、免租にしたため、主君の追手に逐われて、妻子は切り殺され、自分はひとりたどりついて隠岐に身を隠し、一生名を明さぬまま終った。
 一方、和霊さま伝承は、文学の領域から芸能及び神道学説へと吸収されていった。河竹黙阿弥の高弟の勝諺蔵(のちに能進)が、大阪に来て、最初に発表したのが、歌舞伎「宇和島騒動」で、明治六年に筑後の芝居(今の浪花座)で、初演された。これは神社の縁起を脚色した一日がかりの通し狂言で、蚊帳にくるまれて惨殺される山辺清兵衛と、奴の胴助の早変わりや最後にちかい養老滝での大立ち回りが評判となり、以後大正一〇年まで、上演された。この「宇和島騒動」の種本は、先の和霊宮霊験記のひとつ「予州神霊記」もしくは淡路人形芝居の「宇和島天神記」「二名島女天神記」あたりであるとみられる。
 また、昭和三四年には秩父重剛原作の浪曲「士魂の故郷」が浪花家辰造によってNHKで上演放送された。
 垂加神道の山崎闇斎の高足である三宅尚斎、さらに仙台出身で尚斎の門人留守希斎たちは享保年間前後に、好んで、死後はげしく崇りをなした「和雲大明神」を論じあったのである。

図表「鶴鳴餘韻」

図表「鶴鳴餘韻」


図表「和漢三才図会」

図表「和漢三才図会」


図表「近年山頼江御祈念」

図表「近年山頼江御祈念」


図表「安永六年」

図表「安永六年」


図表「和霊大明神御縁起」

図表「和霊大明神御縁起」


表5-7 和霊神社における宇和島藩の祈祷

表5-7 和霊神社における宇和島藩の祈祷


表5-8 和霊神社の臨時祈祷内容

表5-8 和霊神社の臨時祈祷内容


表5-9 都道府県別参詣者数とその祈願内容

表5-9 都道府県別参詣者数とその祈願内容


表5-10 オタマヤ改築に伴う寄付者の地域別人数一覧(県外より)

表5-10 オタマヤ改築に伴う寄付者の地域別人数一覧(県外より)


図表「和霊大明神」

図表「和霊大明神」