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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

第一節 トウヤの祭り

 伊予の頭屋制概観

 愛媛県下の祭祀習俗において特徴的な分布を示すものの一つに頭屋制がある。トウヤ・トウモトを中心とする、多分に中世的要素を具備した祭祀形態である。
 一般に、トウヤ・トウモトなどといった場合、それはかなり広い意味合いを有しており、神社の祭りや講などに際して単に当番的に祭事や行事の雑用を務める個人および家ないしは地域という程度のものから、祭事そのものを主宰する責任を委ねられて中心的役割を果たす、一種特権的な形態を示すものまで多岐に亘っている。前者は当屋と書かれることが多く、これに対して後者は、頭屋の文字が当てられるが、ここでは輪番制によって主宰者が交替していくところに本質があると考えられる後者の文字を用いた頭屋制と表記しておきたい。すなわち、頭屋制を地域神社の祭事を執行するための祭祀組織であると把握し、その中で中心的役割を果たす特定の家および個人、地域をトウヤ・トウニン・トウモトという対応図式で理解するならば、その分布は西日本を中心としてある程度限定されたものとなってくる。
 愛媛県下においても同様で、その分布は、周桑郡・越智郡を中心とする高縄半島東部から芸予諸島の地域に集中偏在してみられるという傾向が認められるのである。そして、この地域を中心とする県下の頭屋制は、地縁集団としての氏子、または同族団が自分かちの奉斎する神社の祭事を当番制で実施するための祭祀組織である場合が一般的であるが、その組織をトウグミ・トウグミ連中・オトウ連中などと称し、そのうちの一軒をトウヤ・トウモトとして祭事の中心的役割を委ねるのである。また、頭屋制の組織は、地域社会における複圏的な祭祀構造と重なりあって存在することが多く、郷氏神、村氏神、末社、同族神および民間小祠の類まで見られるとともに、その構成員数も多様である。さらに、今治市や越智郡地方のように、このうちの郷ないし村の氏神祭祀レベルの組織をオオトウといい、これに対して末社以下のものをコトウないし単にオトウ・オトウサンと称し、区別している地域もある。
 トウヤは、神職を補佐して祭事の準備や神饌の調理をなし、トウグミの賄いをなすわけであるが、さらにこれに介添え役のトウヤが付随することがある。この場合、前者をホントウ、オオドウヤ、ザモト、後者をヨリトウ・コドウヤなどと称する。一般にトウヤの任期は原則として一年で、祭りの終了時に翌年のトウヤを選定し、交替の儀式であるトウワタシを行うのが一般的な形態である。しかし、トウワタシの儀礼を全く伴わない、あるいはすでに失った地域も多く、トウヤ祭祀の象徴的儀礼であるこの習俗は、本県の場合すでに形式的なものとなってしまった傾向が強い。また、トウワタシは、後に述べる高縄半島先端部のオトウ地域のみに見られ、他の地域にはまず見られないという地域的特徴を有しているのである。
 以上のようなトウヤ祭祀の規約や行事の内容、あるいはトウヤの連名記などを総称してトウモン・オトウモン・オトウチョウなどと呼び、これを殊に重要視することが多い。また、みだりに他見を許さず、その保管には厳重をきわめるところもあって、色あせた古い頭文書は、神社を中心とする祭祀集団統合の象徴的存在とさえなっているのである。
 本県のトウヤ文書で最古のものは、東予市北条の鶴岡八幡神社の「予州道前周敷郡北条郷八幡宮八月廿八日御頭文事」という大永六年(一五二六)のものである。残念ながら原本は伝存せず、『小松邑志』に記された写しのみで、トウの種類や祭祀に要する物品などを記している。次いで、周桑郡小松町・高鴨神社に残る天正五年(一五七七)の「高賀茂大明神祭祀頭之事」がある。こちらは一九条に亘ってやや詳しく、行事の内容や神饌物などについて触れている。しかし、鶴岡八幡・高鴨の両社とも、すでにトウヤ祭祀を中絶して久しい。これらに続くものとしては、今治市別宮町の別宮大山祇神社に伝わる慶長九年(一六〇四)以来の帳面がある。これはオトウの実施日とザモト・ヨリトウの氏名を記しただけのもので、祭祀の具体的内容については記述がないが、現存のトウヤ祭祀のなかでは最古の記録を有するものである。その他、近世のトウヤ文書を有する神社は多いが、こうした文書資料については後に詳しく紹介することにしたい。

 トウヤ祭祀の諸類型

 愛媛県下における頭屋制は、各地域の村落構造などとも関連づけた祭祀形態によって、一応の地域区分ならびに類型の設定を行うことができるようである。
(A) 芸予諸島地域-村氏神の祭祀を中心とした組廻りによる頭屋制の形態を示す地域である。神社の秋の例祭のみならず、年頭の弓祈祷においても頭屋制が機能してきたところであるが、末社以下の祭祀についてはムラごとの差異が多く、必ずしもトウヤを設けるとは限らない。すなわち、氏神祭祀中心型として把えられる地域である。
(B) 周桑郡地域―郷を祭祀単位とする神社(郷社)の発達したこの地域に見られる祭祀形態は、郷氏神・村氏神および部落内神に至るまでの複圏的な村落祭祀構造の上に頭屋制が重複して存在する形態であるといえる。また、中世末期以来、祭祀の方法を〈御頭文〉として成文化し、これに基づいて祭祀を繰り返してきたところでもあり、そのために比較的古態を留めてきた地域である。すなわち、複圏的トウヤ祭祀型とでもいえるところである。
(C) 高縄半島先端地域―(B)と同様に複圏的なトウヤ祭祀構造を示しながらも、これらをすべてオトウ、あるいはオトウサンなどと称する地域で、今治市および越智郡の地方がこれに当たる。一般に、氏神のオトウをオオトウ(大頭)といい、末社のものは単にオトウ(御頭)と称する。ホントウ(本頭)・ヨリトウ(寄頭)という複数トウヤによる戸廻り頭屋制を原則とし、トウヤの諸儀礼のなかでもトウワタシ(頭渡し)のみに重点が置かれ、これに際して御頭加入者である氏子(御頭連中)がトウヤまたは神社に一同が会し、直会をすることを指す地域である。すなわち、オトウ地域として一区画を形成することができる。

 本県のトウヤ祭祀は、概略、以上のように把えられるのであるが、次に個々の地域について、いま少し詳細にみてみることにしたい。

 大三島のトウヤ祭祀

 芸予諸島の島々では、氏神の祭りはすべてトウヤを中心として営まれ、その際にトウヤが神輿巡丁の御旅所となることが多い。大島や伯方島ではトウヤは一軒であるが、大三島では大小のトウヤをとるムラが多く、このトウヤ間の往き来が神幸の行事ともなっているのである。
 上浦町瀬戸の瀬戸八幡大神社では、二〇戸程度を単位とするその年のトウグミの者たちが、例祭二週間前の旧暦八月一日に神社やトウヤのシメオロシを行い、トウヤの床の間には御幣が祀られる。これに合わせてカマド祓いや井戸祓いも行われ、トウヤは物忌みの生活に入るとともに甘酒造りを始めた。なお、この一週間前には、ツレガワという地区の共同井戸に注連縄を張ってむら人の使用を禁じ、一日に甘酒を造るのである。
 さて、こうした瀬戸八幡大神社をめぐるトウヤ祭祀の構造は、むしろ明治末期に荒神社を氏神として氏子分離した隣の甘崎地区において伝承されている。甘崎は、口狭・水場・大原の三部落に分かれ、それぞれに大ドウヤ・小ドウヤを設けて神輿を奉迎する。すなわち、各トウヤが御旅所の役割を果たすのであるが、のちに顔戸地区と同様に神輿を仮泊させるための御旅所が大原部落に設けられている。
 旧八月一四、五日の祭りに先だってシメオロシがなされる。これは、一〇日、一一日、一二日とそれぞれ神社および水場、ロ狭、大原の順に行われてゆく。例えば大原では、約八〇戸の部落を四組に分けて輪番にトウグミをつとめ、そのなかから大ドウヤ・小ドウヤを選定する。一二日のシメオロシに際しては、神職を招いて先ず水源池に注連をおろし、次にトウヤの井戸、そしてトウヤの表口に注連を張って幟を立てる。なかでもトウヤのシメはかなり大掛りで、高さ四間ばかりの笹竹を左右に立てて足のついた注連縄を張り、竹の元にはサンダワラをしつらえて海の真砂子を入れ、小さな御幣(ミドリ)を二本ずつ立てる。御幣は注連竹の中央にも縛りつけられる。小ドウヤも同様であるが、このシメオロシはトウグミの者総出で行い、終わるとトウヤがこれを賄うことになっている。トウヤの選定も今日では輪番制の戸廻りであるが、本来は経済力などもある特定少数の家がこれを担当していた。たいてい、各組内に二、三の有力者がいたものである。また、複数のトウヤ希望者がいる年には、氏名を記した紙を御幣の先で吊り上げて決定したという。かくしてトウヤを引き受けると、壁の塗り替えや畳の表替え、障子や襖の張り替えなど家の普請も行わねばならず、相応の出費を要したのであった。
 さてトウヤは、床の間に御幣を奉じて神霊を祀り、神輿渡御の御旅所としての祭場となるとともに神幸のお供連中の賄い所となり、トウヤの主人であるテイシュは祭りの二日間神輿のお供をする習いである。そして、荒神社の神輿の宮出しに際しては三部落のトウヤが同様の神饌を献ずるが、これがすべて揃うまでは宮出しができないことになっている。これは、同じ上浦町井口でも地区内二四部落のトウヤ米がすべて供えられなければ宮出しできないといっているように、本来トウヤが神社祭祀を規定していた時代の祭祀権所有の名残りであろうと解される。すなわちトウヤは、氏神の祭りに際して家屋および調理の場所を祓い清めて甘酒を造り、神饌を調達して神事を執行し、さらには神社から神霊を奉迎していたわけで、祭事執行の主宰者であったのである。
 またトウグミにはモトジメが二人おり、祭りの諸道具の管理をなし、祭り終了後の一六日に幟を倒したあと次のトウグミへと引き継ぎを行う。トウヤのシメも祭りが終わるとすぐに片づけ、トウグミの者がまとめて焼いてしまい、あとには残さないことになっている。
 なお、トウヤは本来一軒であったらしく、小ドウヤが設けられたのは近年のことである。第二次大戦前には、一四日の朝に宮出しした神輿およびお供の奴や獅子は各部落のトウヤヘ寄って神事をなし酒肴をうけたのち大原部落に仮泊し、一五日には各部落三、四軒の有志連中の家に立ち寄って賄いをうけるサカムカエが行われていたわけである。しかし、戦中・戦後の食料事情の悪化によってサカムカエを引き受ける家がなくなったために、これが統一されて小ドウヤが設けられたもので、元来のサカムカエの家では神輿を奉迎して神事を執行するものの特別な神シンボルの施設は見られなかった。ちなみに、若者組の担当するダンジリについては、サカムカエのほかにもトモヨビとて何軒かの家で酒の振舞いがあったが、この場合には神事が付随しない。また、中老の役割である神輿についてもトウヤヘ入る場合には一定の作法があり、太鼓にあわせて左右に回転させたのちに神輿を地面に押さえつけるようにして走り込むのである。これをイサムといい、神社と御旅所のほかはトウヤに限って行われることになっている。そしてトウヤは、こうした一種の特権的な要素をもちながら御旅所的役割を果たし、神社とトウヤを結ぶことで神輿の神幸を成り立たせるという、祭り構成の主体であるわけである。
 このようなトウヤの性格は、隣の井口地区においても同様で、地区内二四組のトウヤは、それぞれ組内の者を賄うとともに神輿の宮出し・宮入りに際してはこれのお供をつとめた。また獅子舞いについても、各組のトウヤにおいて遣ったわけである。
 また、大三島町大見では、氏神の大見八幡神社のトウヤをオオトウといい、末社の姫坂神社のものをヒメサカトウと呼んでいる。前年の一二月二五日に開かれる常会でトウヤを決定し、木箱に納めた幟などの道具を申し送ることになっている。その年のトウヤは、旧八月一日にヨコジメオロシを行って座敷口にシメを立てる。一〇日にはこれを新しいものに取り替え、一一日はオハケオロシを行うのである。そして、八日酒・五日酒・一夜酒などの神酒を造り、オゴクカベリ(お御供かべり)の童女が祭り当日に他の神饌とともに頭上にかべって神社へ運び、神前に献ぜられることになっている。ちなみに、オハケとは神霊奉斎のための一種の御幣のことで、県下では南北の宇和郡を中心に行われる習俗である。南予地方のものが高さ四、五間もある大きなものであるのに対し、大見のオハケは小型であるが反面複雑な構造となっている。このオハケは、ヨコジメとともにトウヤの標示物としての象徴的存在であるが、その起源は大三島神楽奉演のための神招の施設であったと考えられる。神楽の神祇歌のなかにも「神殿におばけおろして」と見えている。
 次に同町浦戸では、諸山積神社の祭りに地区を東上・東下・西上・西下の四組に分けて輪番にトウグミをつとめ、うちの一軒をトウヤとしている。旧八月一〇日にシメオロシをし、一五、六日の祭りを経てシメアゲを行う。また神輿の宮入りにあたっては、トウグミの者が参道の両側に麦藁などを並べて火を焚くことになっている。そして祭りに際しては、トウヤのほかにもサイキョ・カミシモ・コシモリ・シシカタ・弓持ち・提燈などの役割分担があるが、トウヤは神輿を奉迎してこれらの者を賄わなければならない。なお、サイキョおよびカミシモと呼ばれる祭礼取締役は長男のみの役割であり、コシモリにはその年で若連中を退く二四歳の者が当たることになっているなど、﨟次階梯的な祭祀組織も伝承されている。
 このように大三島においては、氏神の祭りをトウヤが中心となって営む祭祀構造が大山祇神社の周辺地域を除いて見られるわけであるが、それは伯方島や大島などの同じ芸予の島々においても同様であった。たとえば、吉海町椋名の渦浦八幡神社の祭りも旧八月一五日であったが、現在は新一〇月一〇日、一一日に行われる。祭りの世話はオトウグミが担当する。椋名は、一〇戸から二〇戸程度をもって北2・中2・中小路3・新谷3・南の一一組に分かれ、各組に一軒トウモトがあり、これが連合してオトウグミを構成し、うちの一軒がトウヤとなるのである。そして祭りの一週間ほど前になるとシメオロシの日取りを決めたり、注連縄をなったり祭り準備に取りかかる。オトウグミの準備用品については「御頭組献饌品など申送帳」があり、順に持ち廻っているが、大要は次のようである。

一、注連下し当日、社殿境内を清掃し、御旅所と頭屋を清掃し設営する。頭屋は清祓式を謹行のこと。
一、祭典当日五日間は、連日頭屋において清祓を謹行する。
一、祭礼中神輿は頭屋に度々御休息につき、その間は清浄に留意すること。
一、祭礼終了翌日、社殿境内清掃のこと。
一、献上物  神酒一升、米白米二升玄米一升、鏡餅三重、鯛五〇匁位のもの八尾、海菜三宝に一台(こんぶ・寒天・のり・ひじき・いぎす)、野菜二台(大根・人参・牛旁・蓮根・玉ねぎ・茄子・蕪)、乾物一台(高野・麩・干瓢・椎茸)、真塩若干、果物一台(柿・梨・みかん・栗)、甘酒一壷、大半紙三帖、江戸苧麻緒一五本、荒こも二枚、笹竹(お宮四本、御旅所六本、頭屋二本、五区二本)、注連縄一三本(五尺三本御神居用、一間
  半二本鳥居拝殿、四尺一本恵比寿付鳥居、一間一本恵比寿付拝殿、四間一本お旅所、一間二本頭屋用)。
 しかして祭り当日には、トウヤの当たった組を中心に神輿の宮出しがなされ、擢伝馬とともに海上渡御をしたのち上陸して村中を渡御、さらに御旅所を経てトウヤに一泊する。翌日に宮入りとなるが、祭り終了後には各トウモトにおいて祝宴がもたれ、新トウモトのトウウケが行われるのである。

 弓削・佐島のトウヤ祭祀

 芸予諸島のなかでも弓削島および佐島のトウヤ祭祀には、多少の相違がみられる。たとえば、弓削町佐島の八幡神社の場合、前年の祭礼終了時に神籤によって氏子中より一五名のトウヤを選定する。トウヤ未経験の氏子数だけの籤をつくり、このなかに一五の当たり籤を混入して米とともに御手桶に入れて神前に奉っておいたものを祭礼の最終神事である宮座式のあとで拝殿へおろし、氏子名簿を読み上げる都度に旧トウヤが神籤を引いてゆくのである。これをクジトリと称し、一五名の新しいトウヤが決定するまで続けられる。すなわち、大三島などに見られたトウグミに相当する組織ができあがるのである。
 さて、一年ばかりを経て祭りが近づいたころトウヤのなかからさらにクジトリによってトウモトを選出するがこのトウモトこそが本来的な意味での〈トウヤ〉であり、トウヤ中の中心となって祭り全般を取り仕切るのである。トウヤは祭礼前に神社の諸準備をなすとともに、トウモトの居宅でシメオロシの神事を行い、家のカドにシメを取りつける。二本の笹竹に注連縄を渡し、竹の中ほどには三本の稲藁をワサにしてひねったヒネリワラと一尺三寸の御幣を取りつけ、元にはクツワラをはかせる。これらを総称してシメオロシと称するわけである。その後、トウモトの差配によって七升の糯米で大鏡餅・中鏡餅およびイタガネモチを搗き、一斗二升の神酒を用意して祭りを迎えることになる。
 この佐島八幡神社の祭りは、概ね湯立式・例祭式・総氏参り・夜殿式・神輿渡御・宮座式の順で展開されてゆく。湯立式は、拝殿前に平釜を据えての湯立神事と撒供行事である。例祭式にはトウヤより神饌が献ぜられ、総氏祭りには初穂を持って全氏子が参詣して神楽をあげてもらう。また夜殿式にはトウヤと区長および神社総代が対面して坐り、杓取りの子供が上座より神酒をつぎ、相対した者同志が同時に飲んでゆくのである。こうして上座から下座へ、また下座から上座へと一通り飲み終わると杓取りの子供が入れ替わり、今度は逆に下座から上座、上座から下座へと神酒を飲み、次いで拝殿で撒米行事が行われる。
 祭礼二日目の神輿渡御には、早朝よりダンジリや御道具などのお供がつき、五百メートルほど離れた御旅所まで二時間以上もかけて練ってゆく。御旅所神事のあとトウモトでの神事があり、夕刻に宮入りとなる。そして三日目には、祭礼をしめくくる宮座式が行われる(図5―1)。初日の夜殿式と同様の着座形態をとるが、宮座式では大・中・小と三種の木盃を用いて神酒を飲む。つまり、都合一二回に亘って神酒を飲むのである。
 こうして、その年の祭りにおけるトウヤの役割を終えるわけであるが、この佐島八幡神社の祭りにおいては、夜殿式・神輿渡御・宮座式がその中心となっているようである。それはまた祭りの推移過程としての宵祭り・本祭り・後祭りと見ることができるであろう。事実、夜殿式にはある種の緊張感が窺われ、宮座式には解放感あるいは無礼講的なものが感じられるのである。しかし、一般に夜殿式は瀬戸内地方ではヨド・ヨドノなどとも呼ばれて本祭りへの物忌みであるといわれているものの、佐島の場合そうした要素は薄らいでいる。また宮座式も、本県にあってはそのことばが注目されるものの、いわゆる畿内的な宮座の構成要素は窺い得ないのである。
 この夜殿式・宮座式の祭事は、県下では、佐島および弓削島にのみ伝承されるもので、これらに湯立式を合わせた三つの神事をセットとして行っている神社には、他に弓削島の弓削神社・高浜八幡神社・大森神社がある。祭事形態も夜殿式については画一的であるが、弓削神社の宮座式には全氏子が参列して列座の形態をとらなかったなどの相違もあるものの、いずれもすでに儀礼性の乏しいものとなってしまっており、愛媛県における宮座の存在を跡づけることはできないようである。

 周桑郡のトウヤ祭祀

 中世的な村落構造としての郷村制のうえに氏神の祭祀が重なり合い、これが頭屋制によって営まれる典型的な地域が周桑郡であった。殊に南部の旧周布郡は、芸予諸島を経て瀬戸内海を南北に横断する民俗文化交流ルートの吹き溜り的な地域でもあったようである。さて、周桑郡のトウヤ祭祀については、すでに触れたように「祭祀頭文」という成文化された形で伝承されてきたものが多い。そこで、小松町の高鴨神社およびその末社に伝わる祭祀頭文のいくつかを掲げてこの地方のトウヤ祭祀を概観しておくことにしたい。
 天正五年(一五七七)の祭祀頭文によると、当時の高鴨神社の祭祀範囲は旧周布郡六郷一円とされ、これを六頭に編成して輪番に祭祀を執行させていたようである。周敷・池田・田野・吉田・井手・北条の周布六郷は、中世末期の地方領主であった小松町妙口の剣山城主黒川氏の勢力範囲であり、同家の出身地である土佐国の一宮と同神を祭る高鴨神社はその庇護によって六郷の総社とされたわけであった。そして同社の祭祀は、旧八月二〇日の精進屋の設置に始まり、二三日の御酒の口明け、二五日の頭人居宅の内外と釜前への注連おろしおよび夜頭、二六日の頭人社参、二七日の神幸・頭人社参・注連あげの順で構成展開されたのである。ちなみに大永六年(一五二六)の鶴岡八幡神社祭祀頭文によると、ここでも精進屋の設置・酒の口あけ・注連おろし・注連あげ・頭人社参・夕頭・座敷頭・御供頭などが行われていたらしく、その具体的な状況は不詳であるが、トウヤを中心とする祭りの展開には高鴨神社との類似性が窺える。そして、こうした祭祀構成がまた中世末期におけるこの地方の普遍性をもった氏神祭祀の在り方であったと考えられる。
 また高鴨神社においては、創祀伝承の関連などから神社祭祀に関与する何軒かの特定の家筋が定まっていた。毎年の定頭である石田村徳増太郎左衛門の子孫、御輿守を務める北条村の武方氏子孫および寄田大歳の子孫である。これら諸家と高鴨神社との関係について徳増惣左衛門は、天保八年(一八三七)の西条誌編さん方よりの質問に「往古北条村松之端江被為遊御着船北条村武方氏御供仕石田村徳増之屋舗江年久敷被為遊御鎮座、不取敢三杵半之御供相献候様申伝有之候、其後南川江御入被為遊候由申伝候」と答えている。このため徳増家は代々高鴨神社の鍵取りを務め、例祭の神輿渡御には乗馬にて先頭を供奉する習いであったし、天正のころには毎年鹿皮一枚を献ずることになっていたのである。また、神主と別当寺僧侶の舎人(馬の口取り)役は、必ず吉田郷の年寄中が担任していたようである。
 しかし、ほどなく黒川氏の滅亡とともに周布六郷全域による祭祀形態は消滅し、旧来のごとく井出郷を祭祀範囲とする形態へ移行していったものと考えられる。もちろん六郷総社時代の祭祀要素も多分に引き継がれたものと思われるが、近世に入って寛文二年(一六六二)に社寺間に本地仏に関する出入りを生じて祭礼神幸が中断してしまった。そのため、寛保三年(一七四三)に再興された時点での祭祀形態は近世的変質をとげてかなり簡略化されたものとなっていた。これに比べて祭祀の継続された末社の祭りは、祭祀頭文として成文化されたのが江戸中期ではあるが、天正の祭祀頭文と非常に似通っているのである。つまり、中世以来の祭祀要素を多分に受け継いでいたわけである。次に高鴨神社寛保三年の祭祀頭文および東予市玉之江の末社東宮社・春宮社のものを掲げておくことにする。(図表高鴨大明神祭祀御頭文 東宮社頭文之扣 南春宮大明神頭文之写参照)

 綾延神社の頭屋制

 周桑郡丹原町田野上方の綾延神社は、旧周布郡田野郷のうち一一ヶ村・六千石の総鎮守社であり、秋の祭礼は〈田野市〉として近郷に知られている。すなわち、中山川両岸に開けた田野上方・北田野・長野・石経・来見・湯谷口・志川・寺尾・明穂・安井・大頭の村々を氏子とし、これを草高一千石を基準に六組に編成して頭組をつくり、六年に一度ずつ各頭組が祭祀を担当したのであった。幕末期のものと推定される「六千石頭元順番」によると、単独で一千石を有する田野上方・北田野・長野・大頭の四ケ村以外は、三村ないし四村で一つの頭組を形成しており、これらの村々では一八年または二四年に一度の割合でトウモトをつとめることになっていたのである。また、神楽米など毎年の祭礼入用についても、小松藩領であった大頭を除いて各村々の草高に応じた負担が定められていた。例えば、北田野村がトウモトをつとめた弘化三年(一八四六)の「神楽米村々割覚」によると〈表5―1〉のとおりであり、それぞれの神楽米負担は草高にほぼ比例しているのである。安政五年(一八五八)、萬延元年(一八六〇)、文久三年(一八六三)などの祭礼記録にも同様の負担が記され、氏子の村々が相応の負担を負っていたことが理解される。
 こうした江戸時代の祭礼運営方法は明治以降も引き継かれ、それぞれに村社をもって氏子分離した長野や大頭を除く草高四千石の地域を四組に編成し、昭和三一年まで郷村としてのトウヤ祭祀が存続したのであった。そして、この地方における郷を単位とするトウヤ祭祀の歴史については、先の鶴岡八幡神社や高鴨神社の祭祀頭文からも推測されるように、室町時代後期までは遡るものと考えられる。因みに明治初年の神社記録には「大永六年八月朔日祭禮頭文ヲ議定セシ由(中略)社記二見ヘタリ」とあって、鶴岡八幡神社と同一年月日の祭祀頭文の存在を伝えているが、真偽のほどは判然としない。
 当社の祭祀に関する最古の記録は、寛永五年(一六二八)に別当の道満寺法印深鏡の記録した「綾延八幡宮祭禮御神事定式」である。これによると、綾延神社のトウヤ祭祀の大略を次のように記している。(図表「綾延八幡宮祭禮御神事定式」参照)
 また、明治四二年(一九〇九)の「縣社綾延神社諸規定」には、その「第六章當番式」において、
  第廿四条、當番地ハ毎年九月一日榊指し神事執行ノ事
  第廿五条、當番地ハ毎年十月一日御酒口開ノ式及注連降ノ式ヲ挙行ス
  第廿六条、社司及當主加輿丁人ハ毎年十月四日滌ノタメ周桑郡吉井村大字今在家海濱へ出張スルモノトス
  第一八条、當番地ハ毎年十月六日當主宅二於テ注連舁行フモノトスと定めているのである。すなわち綾延神社のトウヤ祭祀は、大きくは〈榊指し神事〉〈御酒口開き〉〈シメオロシ〉〈シメゴモリ〉〈頭人本宮社参〉〈神輿渡御〉〈シメアゲ〉という一連の神事が、約一ヶ月を要して順次に執り行われていたのであった。また、それによって一つの祭りが構成され、展開してきたのであった。そこには、個々の神事が独立しながらも不連続に連続するという、一つの祭りの流れが存在したわけである。
 先ず〈榊指しの神事〉であるが、現在では綾延神社のみに伝承される特殊神事となっている。かつては旧周布郡一帯に行われていたものが途絶えてしまったものである。当社では一〇月一日にトウヤ居宅の座敷真上の棟に薦を敷き、俵を据えて三尺ばかりの榊を表向きに指し立てることになっている。榊の前の屋根には台を設けて供物を献じ神職が神招ぎの神事を行っていたが、今は地上から簡略化して行われる。また、シメオロシも同時になす。オシメは座敷に面したヒノリワ(表庭)に立て、本来は棟の榊と二本の縄で連結されていた。高さ七、八間もある真竹を三間ほど隔てて左右に立て、元には俵をしつらえて砂を盛り、竹の中ほどにはワサにしてひねった稲藁の束を結びつける。上部には二本の横竹を渡し、さらに二本の注連縄を張るが、これは左右それぞれから張り渡して両端を注連竹に結びつける。シメククリという。このオシメの元で且つ家の軒先より外側にオカリヤを設けた。先の古文書に見える「假殿」のことで、祭りにあたってトウヤに神霊を奉斎するための仮の社殿である。
 オカリヤの施設は、昭和三一年を最後に中絶してしまって伝承されていないのであるが、かつては当社に限らず榊指し神事同様の分布を示していたのであった。鶴岡八幡神社や高鴨神社の祭祀頭文に精進舎(屋)と見えるのがそれであると考えられるが、詳細はわからない。さて綾延神社のオカリヤは、間口五尺・奥行四尺・高さ七、八尺のもので、丸太を組みたてて藁もしくは荒薦で周囲を囲い、板葺きの屋根を荒薦で覆っていた。内部は前面を土間として真砂子を敷き、後方に二段の棚を設えて三所大神(息長足姫命・誉田別尊・比売大神)の神札を祀り、神饌を供する。神饌は、奉斎中の特定の神事のときには五膳ていどのものを供えるが、平常は土器に盛った洗米を供えた。末社の神々にも供えるのだといって一三膳ずつ供したが、個々の末社名は判然としない。なお、御酒のロ開きの日には、神酒を供えた。しかしオカリヤを廃して以降は、トウヤの座敷の床の間に祀られるようになり、神籬を設けて神札を置き、ここに供物をなしているのである。
 ともあれトウヤ居宅の棟に迎えられた神霊は、さらにオカリヤに迎えられて大祭日までの間トウニンによって祭祀されたのである。また、榊・オカリヤ・オシメなどさまざまな神シンボルが集中して見られるのもトウヤ祭祀地域の特徴であり、さらにはこれらが一括されることによって、そこにトウヤという非日常的な一つの祭祀空間が現出されていた。そして、このあたりに本県のトウヤ祭祀の原初的形態が見られるわけである。
 以上のようなトウヤを中心とした諸種の祭祀用品については、明治四二年の規定に「當番地二属スル設備規定」として次のように定めている。なお当時の祭日は一〇月四、五日であった。

    當番地二属スル設備規定
  第壹条、當番地ハ毎年八月廿日ヲ期シ當屋ヲ定メ社務所へ報告スルモノトス
  第弐條、毎年九月一日榊指ノ神事ヲ挙行シ左記ノ準備ヲナスモノトス
    一、仮宮ハ薦圍ニシテ長五尺巾四尺ノモノヲ建設スルコト
    ニ、勧請板長弐尺巾七寸四枚、八寸方形ノ木具膳四枚、御酒鈴四組、土器弐十枚、御座板長三尺八寸巾一尺一枚、御献饌机三尺八寸巾一尺高二尺一脚、御幣串一本長三尺巾一寸一本、御戸張白金巾三尺四方、御簾代用簾ン一張、奉書七枚、半紙一状、白箸七膳
  第三条、榊指神事二付社司出張ハ勿論世話人五名以内出席、神輿供奉人等ノ取極ヲナスモノトス(以下略)
 さて、旧八月朔日の榊指し神事に続いてトウヤは神酒の醸造にかかった。本来は濁酒を醸したもののようであるが明治以降は甘酒となり、それも大正初期で途絶えてしまった。二三日の御酒の口開き神事には、できあがった神酒をオカリヤに献じて神事をなし、トウニン以下の参列者が神酒を酌交して直会を行ったのである。このときトウニンは麻の裃を着用した。
 二五日は〈御注連揚神事〉であった。現在では榊指し神事に統合されてしまったが、もとはトウヤ居宅におけるシメゴモリのためにオシメを設営したものであったと考えられる。トウヤの古記録にもこれを「御注連籠之神事」と表しているように、オシメアゲをなしたのち神職、トウニン、加輿丁人らは神社から八㎞余り離れた東予市今在家の浜で汐垢離をとり、トウヤにおいて神輿渡御までの三日間に亘って加輿丁人およびトウニンの都合二三人が忌み籠りの生活に入ったのであった。またシメゴモリ中の世話役はトウモトの村の長百姓が行う仕来たりであったらしく、朝夕三合宛の飯をもって賄い、昼食のみトウヤ賄いであったようである。そして、二八日の神輿渡御が天候などのために延引となった場合にはシメゴモリも延長され、村の負担において加輿丁人らを賄ったのである。
 ところでトウニンらが今在家の浜へ出向くのは、単に潮垢離のためばかりではなく、綾延神社の主祭神である綾延姫の空舟による流離漂着譚とも関連してのことであった。すなわち、都より流されて今在家の黒須賀の浜へ漂着した綾延姫は、土地の土豪であった汐崎家へ寄留したのち田野へ移り住み、機を織ってくらした。没したのちその墓辺に宮居を建立して祭祀したのが綾延神社であるというのである。また『小松邑志』今在家村の項には、「田野郷綾延八幡宮ノ御船上リ場ト言ヘル所有リ、又、当時ノ石也卜言ヘルモ有リ。是ハ綾延八幡宮勧請ノ時、御船着シ所ニヤ、又ハ綾延宮神輿ノ初テ出来シ時、神輿ヲ載セシ船此所へ着、神輿ヲ石上へ置シ歟、今二八月綾延宮祭礼ノ節、駕輿丁ナル者潮垢離ノ為当浜二来リ、塩崎氏へ立寄ル事古例ナリ」とある。さらに汐崎家系図では神功皇后伝説と関係づけて汐留り石を応神天皇=八幡丸の御鎮座石として祭祀していたものをのちに神功皇后を祭神とする綾延神社に合祀し、綾延八幡宮と奉称するようになったと伝えている。そして汐崎家は、かつての綾延八幡宮の神主家であるというのである。おそらくは、綾延神社に合祀される以前の応神宮=八幡宮の祭祀者であったものと考えられる。ところが八幡神の合祀によって旧来の綾延神社は、中世半ば以降しだいに境内末社に押しやられて古綾延社となってしまった。いわゆる勧請神の氏神化現象である。なお、今在家の旧応神宮の社地には『小松邑志』に見える汐留り石があり、祭祀対象となっている。細長い自然石で、汐崎家系図によると高さ二尺七寸、厚さ一尺三寸とある。
 このように汐崎家は氏子区域外にありながらも綾延神社と特別の故事因縁によって結ばれており、現在も神幸前日の一〇月一六日の午後に神職・頭人・加輿丁人代表らが潮垢離(といっても手を洗うだけ)のあと綾延姫の漂着地および汐留り石で神事をなしたのち、汐崎家を訪れて祭祀を執り行っている。汐崎家ではこの前後三日間に限って祖先の霊璽と系図を床の間に移し、祭祀ののちには神職によって系図の開帳がなされるのである。なお、この三日間以外の公開はかたく禁じられている。そして汐崎家のような祭事に参画する特定の家筋が定められている神社が県下にも幾つかあるが、旧周布郡ではそれが総じて氏子区域の外に求められているのが特徴である。すでに触れた同様の漂着神伝承をもつ高鴨神社の得増家もそうであり、丹原町今井の福岡八幡神社でも同町川根の越智家が参画する習いであった。つまりこの地方では、頭屋制に支えられた氏子内特定の祭祀者を有しながらもなおその上に神社や祭神に由来する旧家を付随しつつ祭祀が営まれてきたのである。当社の場合、汐崎家は今も例祭に参列したのち神輿渡御にも供奉するしきたりである。また頭人らは汐崎家へ江戸時代には小餅二五個と神酒一升を、明治以降は米一升、神酒一升と肴料を持参するのが慣例となっている。
 さて神輿神幸の当日、神社での例祭神事ののち神輿はいったんトウヤヘ向かう。お供をつとめる奴ヤ獅子も同様にトウヤの庭先へ練り込んでゆくのである。神事のあと再び神社へ引き返し、改めて宮出しの奴と獅子が奉納され、社前二〇〇mばかりの〝田野市原〟の御旅所へ渡御する。御旅所の広場では氏子各村の獅子舞が競演され、素人相撲が興行されるので見物人も多く〝市〟が立ったのである。もっとも相撲は、江戸時代には祭礼後の三〇日に催されたらしく、トウヤの記録によると氏子村々の役人中に対して「綾延宮於市原二例之通明卅日角力興行仕候間正四ツ時二御来駕可被下候、尚又花代之義ハ右場所江御持参可被下候」などと廻状が出されていたことが窺える。そして神輿渡御の翌日にはトウヤのシメオロシがあり、神事ののち注連竹を倒してトウヤ居宅の乾の隅へ納めることになっていたのは鶴岡八幡神社と同様であった。トウヤはこれによって一ヶ月に亘る祭祀を終了するのである。
 ところで、綾延神社をめぐる田野郷の祭祀秩序はその内に含まれる村々の末社の祭祀をも規制してきた。例えば田野上方と北田野の村氏神である三島神社の祭礼は、旧九月一日に「頭元神式」としてトウヤの床に注連縄を張って三所大神を神籬に勧請して神饌を供し、神事を執行するとともに居宅の棟には榊を指し立てるなど綾延神社の祭祀構成の秩序を受け継いでいた。それは九日のシメオロシの祭式も同様であった。そして、各村々が担当した頭組を三島神社では各組々が輪番的につとめ、うちの一軒をトウヤとしていたのである。他村の末社についてもそのようであったし、さらには村内の組の祭り神である田野上方古市組の蛭子社や北田野辻堂組の荒神社などの小社や各イットウ(一統)による同族神についてもトウヤを中心とした祭祀が展開されたわけであった。
 このように郷氏神の祭祀秩序が末社の祭祀を規制するのは一般的な傾向であったが、綾延神社をはじめとする旧周布郡地方の神社祭祀においては、先の高鴨神社の事例なども合わせて殊のほか顕著に見うけられたのである。つまりそれは、中世以来の惣村結合にもとずく〝郷〟を外円とする同心円的な複圏構造というこの地方の地域社会構造とみごとに重なり合うものであった。しかしながら、綾延神社などを除いて近世以降にあっては郷を単位とした惣村の規制力が弱体化し、近世的な村切りが展開されてゆくなかで郷氏神の頭屋制は解体して、むしろ村氏神の祭祀において中世的要素を濃厚に残存させている場合が多かったのである。すでに紹介した東予市玉之江の東宮社や春宮社をめぐる近世の祭祀形態などはその典型であったわけである。
 そしてさらには、明治四年に定められた官国幣社以下の社格制度が地域によっては旧来の末社をも村社格に取り上げるなかで郷氏神の存在はより弱少化され、村社をもって氏子分離するなどの現象をもたらしながらこの傾向が進展していったものである。すなわち、ここにも祭りの近代史があった。この傾向は第二次大戦後に至って綾延神社においても具体化し、昭和三一年を最後に旧来の祭祀構造は解体してしまい、基本的には田野上方・北田野のほかは各地区とも村社をもって分離してしまった。しかしながら、分離後の各神社もまた綾延神社の祭祀方式を踏襲しているわけであり、現代社会においてもなお郷氏神の祭祀要素がほとんどそのままに村氏神の祭祀に引き継がれうることを示している。一方、綾延神社においてもその直接的な祭祀範囲を狭めながらもトウモトを四頭に編成し、オカリヤを廃したほかはそのままにトウヤ祭祀を継続しているのである。

 今治地方のオトウ

 同族団もしくは地縁共同体としての氏子が祭祀集団を構成し、当番制でその集団が奉斎する神社の祭祀を執行するための組織および行事を、今治市や越智郡の地方では総じてオトウと呼んでいる。一般にオトウの構成員をオトウ連中といい、その組織がトウグミである。これらのなかでオトウ実施の中心となる者がトウヤ・トウモトで、「オトウが当たる」とか「オトウを受ける」などという表現をするが、要するに祭祀の世話役が当たったことを意味するわけである。しかし、オトウ連中と氏子はそのままそっくり重複するものではなく、オトウ連中のなかには排他的な要素も窺える。
 さてオトウには、氏神・末社・同族神から民間小祠に至るまでその結合原理や規模はさまざまであり、数ヶ村で構成されるものから数軒のものまで多岐に亘っている。このようにオトウが複圏的な祭祀構造を示す場合、氏神のオトウをオオトウ(大頭)といい、末社以下のものをコトウ(小頭)あるいは単にオトウ(御頭)とか神社名や同族名称を冠して「○○のオトウ」「○○一統のオトウ」などと呼んでいるのである。しかし、この地方のオトウは畿内やその周辺地域のような古風をとどめるものは少なく、多分に祝祭的な村座あるいはむしろ講集団的な形態をとるものが多く見られる。すなわち、兵庫県但馬地方の「講頭」と非常に類似した構成要素をもち、多くはオトウ構成員がトウヤに集まって酒肴を催すことをオトウと称するようになってきた。もっとも、そこにおいては必ずオトウワタシの儀礼を伴うわけであり、この点一般の講集団とは大きな相違を示しているともいえる。次にオトウの具体的な事例を示してみることにしよう。
 今治市野間の日吉神社のオトウは、五月一〇日の大祭二、三週間前に新しいトウモトを定めて実施される。トウモトの選定は神職と地区の重だちが当たり、オトウ当日に新旧のトウモト間でオトウワタシの儀式が行われる。トウモトはオトウ前日に神社へ参拝し、神々の年間の入用品として神酒一升・新調の二升入り手桶一杯の甘酒・焼米一升・糯米三升にて鏡餅六重ね・さんかの鯛三枚・串柿三本・栗三〇個、ところ(ぼての根のようなもの)二本、山芋二本、三宝一個、御膳一個、薦一枚、箸二〇膳、土器二〇枚、お御供一盛、半紙三帖、箒一本の品々を神前に献ずることになっている。トウモトはまた手伝い人を選定依頼してさまざまな役割を命ずるが、オトウ前日に神社の大注連縄を掛け替えて斎竹を立てるのも大切な任務である。これをシメオロシといっている。
 オトウはトウモトの居宅で行い、狭いときには桟敷を継ぎ足したりしていたが現在では神社の境内に幕を張りめぐらして実施する。オトウの賄いは先ず御飯が出され、次に酒が出る。御飯は大きな飯椀に山盛りで、蓋には手伝い人が手桶に入れた味噌汁を柄杓で入れてまわるが、これを食べる前にオトウワタシがある。土器に神酒をつぎ神職が一献、次に現在のトウモトが二献、来年のトウモトが二献、最後に再び神職が一献と飲み交すのである。そのあと現トウモトは米とイリコを入れた一升桝の上に小祠を安置し、庭で待つ新トウモトに手渡すとこれを自家に持ち帰って再び元の席に復し、オトウワタシの儀式を終了するのである。また、このときに用いた土器は奉書に包んで神社へ納める。
 オトウワタシのあとは全員で無礼講の酒盛りとなるが、初めに出された御飯を食べ終えるまでは中座することは許されない。料理は手伝い人たちによって作られるのであるが、それぞれに御飯を炊く役、よそう役、味噌汁をつくる役などの役割分担を定めてオトウが営まれる。なお、翌日もトウモトは組内の手伝い人を触れ太鼓で集めて後始末をするが、これを椀洗いといっている。また、オトウワタシのほかにトウモトは旧四月一四日と一一月一四日の夜に地区の者を招いて〝お通夜祭り〟を執り行い、夜食を持て成すことになっている。深夜になって全員が帰宅すると神職とともに神社へ参るが、このときむすびを握って神前に供え、翌朝参拝にきた人々に振舞うのである。
 しかし、トウモトを引き受けることは相応の出費を伴うものであり、賄いの米だけでも七、八俵は必要とされてきた。それでも一生に一度しか受けられないトウモトをつとめることは出費の多寡に拘わらず非常な名誉とされ、これを無事につとめあげることによって地域社会における﨟次階梯がまた一つ上昇するのであった。
 さて、今治市宮下町の姫坂神社にもオトウがあった。旧日吉村が氏子範囲で、そのなかの各組が順にオトウを受けてトウモトとヨリトウを選定し、準備などは青年が手伝った。オトウには二反余りのトウデン(頭田)があり、その年のトウモトとヨリトウが耕作してオトウの費用に充当した。旧日吉村では姫坂神社のオトウをオオトウといって例祭の翌日に村全体が神社に集まり、賄いをうけたのである。なお別に日を定めて新旧のトウモト・ヨリトウらが集まり、オトウワタシをした。また氏神のオオトウの下には各組単位のオトウがあった。同市山方町には、山の神さん・荒神さん・伊賀明神さんと組内のオトウが三つあり、トウモトの家に桟敷を組んだりして盛大に行っていた。祭りの一週間前には神社のオシメダシをするが、そのときトウヤにも斎竹を立てて注連を張り、オトウを開くための小屋掛けをしたりしていた。しかし、神社合祀に際してオトウも消滅してしまった。
 末社のオトウで現存するのは、八軒家地区(同市南日吉町三丁目)の荒神社のオトウで文化年中(一八〇四~)の頭文があるという。毎年五月下旬に催され、当日の朝にトウモトらが姫坂神社境内の荒神社へ参拝したのちトウヤに参集し、神職を招いて神事を執り行ってオトウワタシをなし祝宴を開くのである。オトウワクシには大きな焼鯛を添える習いで、トウモトの主人が早朝から調理して準備を整える。また、賄いの膳には必ず梅干しをつけるのが慣例である。なお大鯛は、オトウワタシのあとで全員に分与される。その他、高地地区の須賀神社のオトウは一〇月一二日であるが、甘酒やイギスを供え、膳には焼いたバタ(はす)を添えるという。
 越智郡波方町波方ではオトウサンの組が一〇組に分かれており、それぞれにオトウヤをとってオトウモトを受ける。オトウモトは、五月一七日に玉生八幡神社に参拝して小祠に新しい神札を入れてもらう。このあと組の者はオトウモトヘ呼ばれてゆき、賄いを受けるのである。また翌一八日には、次年度のオトウモトを定めてオトウワタシを行っている。
 今治市五十嵐の伊加奈志神社のオトウは一〇月一三日に開かれるが、もとは一週間ばかりも要して行っていた。初日のカマド開きに始まり甘酒を仕込み、四日目に祭典、五日目にオトウワタシ、七日目に至ってカマドを片付けたのである。さて当社のオトウでは家ごとの座順が定まっており本家・旧家筋が上席を占めるが、翌年のトウモトを決定する場合には下位の者より籤を引いてゆく。次に補佐役のヨリトウニ軒をとってオトウワタシに移るが、このとき一升桝に米を入れて御剣先(神札)を立てたものを前に据えて盃を受ける。盃は、神職・トウモト・新トウモトの順で飲み交わす。なお酒肴が始まると、トウモトは畦豆・へぎに入れた片重ね餅・御剣先を納めた小祠・塩水を奉持して新トウモトの家へ行き、座敷口でこれらの受授を行ってオトウワタシの儀式を終了するのである。
 越智郡玉川町小鴨部の熊野新宮神社では、一〇月一五日の例祭の翌日に行う。トウモトと二人のヨリトウが世話をするが、当社のオトウには特殊神饌のニナイ餅がトウモトより献上され氏子民に分与される。ニナイ餅は竹の両端に直径三寸程度の餅をさしたもので、頭連中の数だけつくる。同様にヨリゴクウ(寄御供)という円錐型のむすびを三升三合三勺の米でつくって供える。なおオトウは氏子の上組・下組が隔年に受け持ち、トウビラキにはトウヤより茶と梅干が振る舞われる習いである。
 同町御厩にはオトウが四つある。天満神社・桂木神社・幸門城主社・弁財天社の四社であり、九月一五日ないし一七、八日に行われる。このうち桂木神社には、宝暦一三年(一七六三)改正のオトウ記録が残っている。なお当社は、そのころ訶梨帝宮と称していた。(図表「訶梨帝宮御頭座元帳」参照)
 この頭文は、桂木神社の祭礼に際して四ヶ村の党人(頭人)が旧慣によって供物を行ってきたが、毎年しかも遠方から持参して供えることは党人にとって大変なことであるから、米一斗二升五合の請合いで神職が神饌を調達して祭礼を執行してほしいと依頼しているものである。また、党人が参詣したときには神酒と神供を仕来りどおり戴かせてくれるように併せて頼んでいる。すなわち、桂木神社のオトウはすでに江戸時代中期においてトウニンの役割が軽減され、形骸的な祭礼の世話役の方向に変化してきていたことを示している。
 さて、このようなムラの中に開かれたオトウに対して玉川町の一部には閉鎖的な神人組のオトウが伝承されてきた。例えば同町中村の予中神社の場合は、梅木、湯山、永野、越智、浮穴、村上、宗行の各姓を称する一二戸が神人組の構成員である。この神人組は新加入を認めず、ために離脱する家がある場合には親類間で株の売買をした。当社神人組のオトウは毎年正月五日で、正月のロ開きの神事を行ったのち弓祈祷があり、トウグミ一二人が正装して社前で奉射をなし、トウモトでトウビラキをすることになっている。神人組はまた春の大祭にも関与するし、神社の造営や祭礼などについても特権を有してきた。そのため古くは、神人組一二人が着座するまでは神社総代といえども祭場に着席できなかったという。
 同町鬼原の御鉾神社の神人組も一二戸でオトウをつくっている。青野(六戸)、武田(二戸)、正岡(三戸)、藤山(一戸)の一二戸で、一時期一四戸に増加したこともあるという。正月二日にトウモトニ人が神人組を招いてトウビラキをし、祭典を行う。こうした神人組の事例は、同町法界寺の三島神社や今治市中寺の橘神社にもみられた。法界寺の神人組はすべて浮穴姓によって組織されており、神社の造営などにも特権を有していたようである。天保七年(一八三六)の三島神社社殿再建棟札には、庄屋・組頭らとともに浮穴芳治郎以下一五人の神人名が記されている。
 このような神人組のオトウは、そこに展開された個々の民俗社会の構造を顕著に反映しているものと思われ、むらの草分けの家筋ないしは特定有力戸の同族連合が中心となって差配してきたような村落構造を想定することができる。神人組のオトウは、これら特定の家連合結節の象徴的存在であった。そして、この株座的閉鎖的な祭祀形態を基盤とするオトウが解体してゆく結果、村落の基本的構成員である本百姓クラスの人々による均質的な祭祀組織としてのオトウヘ推移していったものと考えられる。すなわち、それは祭祀対象とする神社の奉斎範囲の拡大であり、近世氏子制度の確立のなかで均質的地縁的氏神祭祀集団が形成されていった結果であった。その過程において「御頭連中=氏子」の今日的な図式が確立し、連中のもつ特権性は弱まっていったのであるが、神社の奉納物などにみられる「御頭連中」の銘にはまだいくらかの異質性が含まれていたようである。例えば今治市の吹揚神社は旧市街地の中小神社を合社してできあがった神社であるが、元の各神社に用いられていた注連石などの奉納物には「寛政十一年(一八〇〇)、總町方氏子中」と記すものとともに「文久二年(一八六二)、當連中朝倉屋幸右衛門(以下九名略)」などの連中名による奉納物もあり、必ずしも氏子の概念と一致するものとは限らないのであった。

 別宮大山祗神社のオトウ

 今治市別宮町の別宮大山祇神社のオトウは毎年五月下旬に実施されるが、今治地方のオトウ行事としては最も形を整えたものとなっており、慶長九年(一六〇四)以来の御頭帳を伝えている。そして加入者の御頭連中はこの古文書をたいへん重要視しており、みだりに他見を許さず、オトウが終了するとすぐに神社の倉に納められる。しかしこの御頭帳には、オトウの中心的存在となるトウモト=ザモトとこれを補佐するヨリトウの氏名、あるいは江戸時代中期以降はその年の主要な出来事を記すのみで、周桑郡地方のようにオトウの詳細について触れたものではない。
 さて当社のオトウは、現在では五月二四日前後の一日だけとなっているが昭和四八年までは二日間、さらに溯れば伊加奈志神社のように数日に亘って行われていた。なお古くは旧暦九月に開かれていたが、のち四月となり、明治末年より現在のように新暦五月となったもののようである。
 その年のザモトおよびヨリトウは、まず別宮大山祗神社の例祭(五月一〇日)に当たって両名同伴で神社に参拝する。このとき献上物として神酒・初穂米・鏡餅・糀を持参することになっており、そのあとで一般氏子も初穂米や鏡餅を携えて氏参りをなすのである。その後、御頭連中の協議によってオトウの日が定まるとその三日前に「御頭口開き」が行われ、オトウ当日の氏子の参列場の諸設備が整えられて神職・総代・世話人らがヨリトウの家に集まって清祓式を執行した。そしてオトウ当日には、再びザモト・ヨリトウ同伴で糀を除く他の献上物を調えて神社に参拝したのち、神職および御頭連中一同がトウヤに集合してオトウワタシの儀式を行い、祝宴を催したのである。
 当社オトウの構成員には、実質的運営に当たるザモト・ヨリトウのほかにオトウの行事全般を統轄管理する支配人と呼ばれる者がいる。支配人は新旧トウヤ間の備付け諸道具の引渡しに立会い、破損紛失の有無の確認をなしてその市項が認められる場合には保管者であったザモトに弁償させる。そして引渡書を作成し、新旧トウヤに確認させたうえでこれを保管するのである。また御頭口開きの日に各係員の部署を定めて掲示するとともに、この日の賄い料およびオトウに用いる味噌製造のための糀一五枚と大豆六升をトウモトに渡す。オトウ前日にはトウモトの近隣より手伝い人がでるが、これらの人々に酢漬け一鉢と酒を供すること、オトウ当日の賄い物品の購入支弁および手伝い若連中への鱠の支給なども、すべて支配人の役割であった。
 これに対してトウモトは、オトウの翌日に旧トウモトより幟や幕、膳椀、湯桶などのオトウ用具のすべてを支配人立会いのうえで受け取り、向こう一年間の一切の保管責任を負わねばならない。秋には、オトウ運営のための志津米(オトウ米)を加入各戸一升ずつ徴収する。そして翌年のオトウに際しては、御頭連中一同の協議をもってオトウの日取りを決定して味噌汁用の味噌を製造し、オトウのために一五坪ばかりの小屋掛けをなした。小屋掛けに用いる縄はトウモトが負担するが、各戸より長さ二間の薦を持ち寄ることになっていた。御頭口開きの日には、神職と支配人二名、総代をヨリトウの家に招いてトウモトより肴三品と酒・すしの酒肴を供し、御頭連中には当日の案内を行わねばならない。オトウ前日には、別宮地区内の若連中一同とトウモトの両隣前後の四戸が手伝い人として集合し、オトウの準備をなす。そしてオトウ当日には、御頭連中全員に頃合いをみて案内を出し、ヨリトウとともに白米一升と鏡餅一重ね(二升餅)を持って神社へ参詣したのちオトウワタシを行い、オトウの宴席を開くのである。また翌日には、再び若連中一同とトウモト両隣前後四軒の手伝いを頼んで後始末をし、これらの人々を簡単な酒肴で賄うとともに支配人の立会いを得て新トウモトに御頭用具の一切を引き継いで一年間に亘るすべての義務を終えるのであった。
 ところで当社のオトウワタシは、オトウ当日の午後の適当な時刻を見計って図5―2のような座順で実施される。もっとも現在は、新旧トウモト・ヨリトウが神前の右座・左座に並び相対して行われる。オトウワタシの順序は、先ず神職が床間に神籬を設けて神事を執行したのち旧のトウモト・ヨリトウが飯椀の蓋についだ神酒を同時に拝戴し、次いで新トウモト・ヨリトウが同様に神酒を飲み、これを順次に一般正客に廻し神酒のつきたところで終わった。なお、このときに謡曲高砂が吟じられるのが当社の慣例となっており、一同が挨拶を交して行事を終了する。続いて祝宴のオトウが催されるが、これには味噌汁が付きものであり、湯桶でつがれてゆく。また二の膳には必ずハンペンを添えるのがしきたりである。
 さて今日に伝えられているオトウの方法はすでに何度かの改変を加えての形式であるが、明治四二年に定められたものが一応の根幹となっている。当時はちょうどオトウなどの飲食を伴う行事の自粛が公的に強制された時代であり、これに併せて「御頭改正規約」が定められたものと考えられる。
    規  約
  當御頭ハ其沿源遠ク慶長以前二在リテ歴史ノ正シキ他二例ヲ見ス、吾等講員ノ大二誇トスル所ナリ、然ルニ近年世ノ風潮二伴ヒ風俗漸ク奢靡二流レ数日二亘リテ遊宴ヲナシ、為メニ従来養ヒ来タリシ質朴ノ美習ヲ咸スニ至ラントス、豈二嘆セサルヘケンヤ、有志相謀リ茲二左ノ規約ヲ結ヒ、堅ク實行ヲ約シテ此悪風ヲ一掃シ、質実ノ美風ヲ復活シテ御頭永遠ノ計ヲ定メントス、講員一同宜シク一致實行ヲ誓ヒ、以テ目的ノ貫徴ヲ期スヘキナリ
  第一條 御頭翌日ハ一切世話人ヲ入レス後始末ハ新旧當元二於テナシ、随テ酒飯等ヲ振舞フヘカラス
  第二條 御頭前日及當日ノ肴ハ規定外ノ者一切用ユルヲ許サス
  第三條 前ニケ條二違反シタル者ハ支配人二於テ適當ノ方法ヲ以テ所罰スル事ヲ得
  第四條 本規約ハ明治四十三年度御頭受元ヨリ實施ス
 さらに大正一〇年には「御頭改革規程」が定められ、次のように取り決めている。
    御頭改革規程
  一御頭講員外ノ者ハ其戸主タルト青年タルトヲ問ハス御頭三日間何レノ日二於テモ案内又ハ招待等一切ナサヽル事
  一御頭三日間二亘リ一切ノ諸事、支配人及部落惣代ノ指揮監督ヲ受ケ、頭元二於テ随意ノ行動二出スヘカラサル事
  一御頭口開ケノ日ノ賄ハ肴三品トシ、若芽、烏賊、煮染(にしめ)、吸物(豆腐汁)
  一御頭前日ノ手傅人    青年一同、両隣前後四軒トス
  一御頭當日本客前二出ス青年ノ肴ハ刺身ヲ廃シ、若芽・章魚トス
   本客ハ午前十一時ヨリ必ス開始ノ事トシ、其服装ハ羽織(可成紋付)着用ノ事
  一御頭當日及翌日共藝者酌婦等一切立入ラシメサル事
  一御頭翌日ノ手傅人    青年一同、両隣前後四軒及飯方連中
   前日、翌日共肴三品トス、若芽、章魚、蒟蒻(こんにゃく)
 以上のように、当社のオトウは歴史的な沿源は古いものの組織の構造自体は多分に講集団化しており、これら規約においてもオトウ構成員を「御頭講員」と表記させているのである。すなわちザモト・ヨリトウらの「頭元」は、祭祀担当者としてよりも賄い方世話役としての機能を担っているわけである。
 しかし当社のオトウは地縁的な任意加入集団であるのではなく、一面においては排他性を有する保守的集団であり、ムラ人であり氏子であることとオトウ加入者であることの資格には大きな相違が見られるのである。もっともこれは近代以降の傾向と考えられ、本来的にはムラのなかに開かれた氏神祭祀集団で、氏子概念と一致するものであった。ところが、近代以降の別宮地区の都市化によって新規移住者を受け入れるなかで旧住民間のみの閉鎖的組織として再編成されてゆき、その結果として氏神の特権的祭祀集団化してきたもののようである。つまり当社のオトウについては、開放的村座的な集団から閉鎖的株座的なものへという近代社会における逆移行が見られるのであった。そのために別宮地区を離れた散り氏子であっても、オトウの株を有する者である限りはトウモトともなりうるわけである。

 宇摩地方のトウヤ祭祀

 県下には、以上のほかにも部分的にトウヤを中心とした祭りが展開される地域がある。旧の宇摩郡東部地方もそうであるが、川之江市金田町金川などには頭屋制にもとづく同族神祭祀が営まれている。信藤・宮内一統の祭祀するものは、越智郡の一統のオトウや周桑郡の若宮祭祀などと異なり、血統が殊に重要視されるのが特徴である。したがって一族血統者以外の者を祭祀仲間として認めず、血縁外から養子を迎えた場合にはトウグミから除外されるという。
 信藤家・宮内家の両族一統各九戸が隔年にトウヤをつとめて大西神社の相殿神である新田神社および陵神社の祭祀を執行するもので、相殿祭りと呼ばれている。この祭りには本来は奉務神職が関与しない慣例となっており、全く一族の頭屋制によって祭祀が営まれたのである。もっとも、合祀前の神社造営などは東金川地区が氏子として合力しており、江戸時代後期の棟札にも「東惣氏子中」とある。また当時は無社人で、同市下分町の五明院が別当をつとめていた。
 さてトウヤは祭り(一〇月一四日)前日にトウヤであることの標示物として頭屋幟を立てる。現在の頭屋幟は四枚目であるというが、安政六年新調のものには「奉献 陵大明神 安政六未歳 新田大明神九月吉良日」と記した下に信藤八軒、宮内七軒の願主名を連ねている。なお、幟を新調した年には斎主か信藤本家がトウヤをつとめるのが慣例であった。その他トウヤは烏の旗・鳶の旗などの錦旗も立てていたというが伝わらない。祭日も九月一三日であったものが昭和一五年以降何度か変更され、現在のようになったものである。
 祭りはインベヌシ(斎主)以下インベゾク(斎族)が正装してトウヤに集まり、一族揃って社参し供物を献じて祭祀を行ったのちトウヤで酒宴を開くのである。祭りの費用は前もって一族に割付け、トウヤが選定されて世話をする。神饌の品目や台数も厳格で、本格式の場合には七五品に及んだ。また、供物のなかに非稲作的要素が多分に含まれているのも一つの特徴である。しかし明治末年よりこの方式も崩れ、トウヤがすべてを賄い、神事は神職の関与を頼むようになった。次に信藤百合次が明治四〇年に記した「陵新田大明神御供物当屋記録帳」を掲げておくことにする。(図表「陵新田大明神御供物当屋記録帳」参照)
 なお宇摩地方には、金川の他にもトウヤを設けて営む同族の祭りや新宮村の鉦踊りなどの集落神社の祭りがいくつかあるが、すべて祭りの世話役的な存在で、祭祀権を有したり頭渡しの儀礼を伴うものではない。
 ちなみに県下最南端の南宇和郡西海町中泊にも頭屋制が確認されている。例祭(一一月二日)の宵宮に部落の中の軒廻りで一〇軒のトウニンが出る。そのうちの中心となる者をトウニンガシラまたは年行司という。祭りの諸準備をなす家がトウヤで、新築した家を当てることが多い。また、祭りに際して上席に坐れるのは、区長、神職、網元のほかに宮守という役の者がいる。神社の掃除などの日常管理を行う者で、報酬として正月と節供に餅のおさがりをもらったという。なお、祭りには海辺にオハケが立てられるなど、興味深い祭祀形態を伝承しているのである。そのなかにあって頭屋制は他の民俗文化とは異質な存在を示し、周辺地域にはみられない祭祀習俗となっている。
 ともあれ、トウヤを中心として営まれるこのような祭祀形態は、県下の祭祀習俗を考えるうえで大きな指標となりうるものである。

図5-1 夜殿式・宮座式の座(佐島八幡神社)

図5-1 夜殿式・宮座式の座(佐島八幡神社)


図表「高鴨大明神祭祀御頭文」

図表「高鴨大明神祭祀御頭文」


図表「東宮社頭文之扣」

図表「東宮社頭文之扣」


図表「南春宮大明神頭文之写」

図表「南春宮大明神頭文之写」


表5-1 綾延神社頭元順番および神楽米負担割一覧

表5-1 綾延神社頭元順番および神楽米負担割一覧


図表「綾延八幡宮祭禮御神事定式」

図表「綾延八幡宮祭禮御神事定式」


図表「訶梨帝宮御頭座元帳」

図表「訶梨帝宮御頭座元帳」


図5-2 オトウワタシの座順

図5-2 オトウワタシの座順


図表「陵新田大明神御供物当屋記録帳」

図表「陵新田大明神御供物当屋記録帳」