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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

三 その他の講

 ここでは職業を同じくする人たちの間にみられる講や交際的な講などについてみる。

 太子講    

 越智郡大三島町肥海では一月五日、職人の賃金を定める初会として、聖徳太子を祀って太子講を行う。 
 伊予郡広田村高市では、二月二〇日と九月一日の二回を講日としていた。やはり聖徳太子の掛軸を掛けて、飲食をともにした。大工・左官・鍛治・杣人・木挽きなどが講員として集まった。
 上浮穴郡小田町吉野川の清水トシオ等大工仲間三~四人で、戦前まで太子講が行われていた。講日は、旧一一月二三日、宿は輪番制であった。宿の神棚に御神酒があげられ、講員は宿で接待を受けた。喜多郡肱川町の太子講は、冬至に開かれる。大工・左官・木挽等が同業者の一人の家に集まり、聖徳太子を祀り、翌年の賃銭を定めて飲食した。南宇和郡一本松町にも建設関係者によって作られた太子講がある。藩政時代から現在も続いている。講中で伝えている掛軸には聖徳太子の画像が描かれ、その脇に、「弘化三年(一八四六)正月吉辰日 大工講組中」と記されている。この講には厳重な規約があり、同業者の利益を守るとともに同業相戒めて続けられている。
 北宇和郡吉田町大工町には昔、三七戸の大工がいて、番匠宮(八幡神社境内にある)を崇拝していた。昭和初期には一五、六名に、昭和五七年ついにただの一人の大工がいるにすぎなくなった。番匠サンの札は今でも八幡神社が配っている。正月・五月・九月の二五日に当番(輪番)三軒(もとは五軒)は料供(お膳)を準備して姫宮サマの一角にあるオダイシサマに供える習いである。なお、大工町区長が保管する聖徳太子講記録(大正八年起)は次のとおりである。

聖徳太子講
   大正八年二月廿八日旧正月廿九日起
    講員規定総則
第壱條 大正八年二月二十九日區内一般ノ悪病災難ヲ除去スル為メ毎年二月廿五日聖徳太子様ヲ祭リ海蔵寺住職ヲシテ大般若経ヲ讀経シ区民ノ安全ヲ謀ルモノトス
第貳條 毎年當番ハ五人ヲ以テ壱組トシ年度内ノ世話ヲ為サシムルモノトス 太子様ノ祭日ハ正五九月廿五日ヲ以テ祭日トス 都合ニ依リテ祭日ヲ変更スルトキハ区民ニ謀ルモノトス (以下略)

 春日講

 川之江市や宇摩郡を中心に製紙業者の間で春日神社を祭ったり、春日講がつくられた。春日講は、製紙業者たちの親睦を兼ねた寄り合いの場として、遠慮のない話し合いが出来、出席率もよい。規約はないが、製紙の研究発表、価格などの販売統制などがなされた。講員は積金、講金の形で毎月いくらかづつの金をきょ出し、当番に当たった講員は、期間中の一切の世話をした。井地部落の春日講は、昭和八年に、製紙の動脈ともいうべき晒場道を改修したり、また春日講員のために、金融のあっせんに奔走したりして物心両面から製紙の興隆に尽力した井川近造の頌徳碑を建立した。

 講づきあい

 松山市久谷町つづら(くさかんむりに縮)川では講づきあいということをいう。簡単な飲食をして親睦をはかり、労働力の交換による相互扶助を行ったり金融などもし、宗教の行事も共同でする。転出・転入に際しても、講づき合いの者が、家財などの運搬を手伝う。転出する人は、転出前にはつきあいの人々を招き、挨拶をする。転入するときも、つきあいの人々に挨拶をしなければならない。その他、けがや急病人のときなどもすべて講づきあいで世話をした。

 共楽講

 北宇和郡吉田町御舟手の旧士族たち(明治期のころ六〇戸)が結成し、昭和二七年に解散するまであった講である。大正期までは念仏講とよんでいたが名が悪いというので共楽講と改めた。参加者が中金とよぶ講金をきょ出して、その中金の利子で春の花見(旧三月九日)と秋の茸がり(ナバトリ、旧八月一四日)をし、芸者をよんで飲食した。講の宿は回り持ちで広い家が選ばれた。また講員の家に葬式が出たとき、主人の不幸には米一俵、家族なら米二斗が贈られた。大正一四年の講の資金(中金)高は次のとおりであった。
 一 金壱阡貳百四拾壱円四拾七銭 商業銀行定期預金
 一 金六拾九円八拾七銭     仝行小口当座預金
一 現金八銭
  合計 金壱阡参百拾壱円四拾弐銭

 神仏講

 東宇和郡城川町遊子谷の上川にある。昭和五六年一二月に文化庁によって「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」として選択された講である。今日、神仏講とよぶこの講は、毎年四月中旬ころに地区の平安と厄除けを祈願するためにひらかれている。講員一同が神仏の安置場所を巡拝したあと、集会所にあつまり導者が懺悔文・般若心経・巡礼御詠歌・念仏を唱えると、一同が唱和して勤行する。最後は、一同が太鼓の音に合わせて、御幣を手にお伊勢踊りを行って終わりとする。かつては、神仏講を構成する諸々の講や祭り(表4―6)が、別個にそれぞれの日に行われていたのが、昭和一六年に戦争前夜の事情により四月二〇日前後(四月一日の区長交代後に日を決定)の一日にまとめてするようになった。講資料によると、さらに昭和三四年に一括して年一回三月一〇日(のち四月一〇日)ころにひらくこととなった。
 さて上川地区は、天明四年(一七八四)の大火まではツガノハザとよばれていたという。昭和二〇年ころ二三戸で、二三~四年ころから戸数が減少した。栗・椎茸の栽培・畜産(牛)を主たる生業とする部落である。
 ヤクカタ(ムラヤク)に区長(もと組長)、ゴチョウ、会計、農事組合長、農村振興委員などがある。区長は家まわしで決めることにしている。ゴチョウは一年任期、ヒキアイごとに一名の計四名がおり、区長からの連絡内容をそのヒキアイ内にふれる役であった。会計は一人で任期一年、農事組合長は地区全体で一名である。
 戸数が多かったころは、ヒキアイが不幸組合の単位で、葬式の手伝いをした。今は戸数が減ったため、上川地区全体が不幸組合である。ヒキアイは四つあって、図4―16の1~3がカミツガヒキアイ、4~6がウワグミアイ、7~10がシタグミアイ、11~14がカゲヒキアイである。そのうち1はオモヤの13からカブワケ(分家)したワカレで、また5もオモヤの7からカブワケしたワカレである。ヒキアイ内でのツキアイは深く、子供の名付けには親戚のほかにヒキアイの人をもよぶ。そのときヒキアイの者は、米一升と祝儀を持参する。また不幸のときも、ヒキアイの者は一人一人、焼香をするが、ヒキアイ以外の人は区長と一緒にすませる。
 神仏講に統合された祭祀のなかには、当然にこのヒキアイ単位での祭祀があったはずである。過疎化に伴ってヒキアイの統合原理がくずれ、結局はヒキアイを母胎としていたさまざまな講も、神仏講という形をとって地区全体の行事へと収れんしてしまったのである。したがって神仏講そのものは古態を示すものではなく、習俗の簡素化・衰退化のひとつの表れにすぎないといってよい。
 さて、統合以前の個々の講や祭祀形態の概要は表4-6のとおりである。これから、ムラダミの神仏・ヒキアイの神仏・屋敷神とさまざまな祭祀があったことがわかる。そのうち、巡礼講について、「明治参拾壱年 順礼會扣帳 旧十一月十七日 初會 高田彦三郎」と題する文書がのこされている。それによると講員は、高田彦三郎ほか一四名である。昭和一五年以前の巡礼講は、正・七・一一月の各一七日にクジで決めた宿で御詠歌を唱え、おまつりをした。宿が当たると、子供をめでたく出産するというので、老人に宿当番がまわっても、新婚の者がいる家に宿を譲ったりして、無事の出産を講全体が祈ったという。
 また「昭和三十三年十二月起 上川區順礼講帳部落行事(神仏講) 講帳寄贈者橡木ヨリ殿」によると、昭和一八年一二月を初回とする巡礼講は昭和一九年に二月・八月・一二月の四番会までやり、五番会からは、一二月だけの年一回(一二月中・下旬ころ)の講となり、昭和三五年一二月二〇日の二〇番会まで続いた。一方、同文書に「昭和参拾四年度改正したお講に付いて昭和三十四年度より各講を合併して全部お講を三月十日に実施する事に決定した」とあり、三五年以降、巡礼講もこの神仏講に統合されたのである。三月一〇日としたのは、現皇太子夫妻の結婚日を記念して定めたためである。
 三月一〇日(現四月中旬ころ)にひらかれるようになった神仏講の内容についてふれてみる。当番は、金毘羅講の当番をそのまま当てることにして、以後二人ずつ抽籤で選ばれる。当番は講の日までに金毘羅宮に参拝しておくとともに、供物(オミキ・豆腐一丁・野菜・ワカメ・コンブ・カンテン・コウヤトウフ・カンピョウ等の膳二人前、庚申ダンゴ・榊・シキミ・コウシンシバ・お洗米・塩水・ロウソク・線香)と食事を準備する。当番以外の者は朝から次の神仏一〇か所を参拝する。田神様・愛宕様・松尾様・金毘羅様・大日様・竜王様・マロト様・天神様・御大師様・地蔵様。これらの巡拝のあと集会所内にまつる巡礼様(オカケジ=掛軸)・庚申様(同上)を拝む。現在では、ヒキアイから足の早い若い者一~二人が出て、代表で巡拝することになっている。
 午前九時になると、部落中が集会所に集まり講行事をはじめる。全員正座、一同拝礼、懺悔文(三回)からはじまり、お伊勢踊りを経て、庚申団子の配布で終了する。三時ころの解散までのど自慢などの余興がつづく。この神仏講の費用は、酒(一升分)代など約四万円(昭和五六年)ほどは部落費からおとす。

表4-8 城川町上川地区の神仏と講一覧①

表4-8 城川町上川地区の神仏と講一覧①


表4-8 城川町上川地区の神仏と講一覧②

表4-8 城川町上川地区の神仏と講一覧②


図4-16 城川町上川地区略地図

図4-16 城川町上川地区略地図