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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

3 村     境

 異次元の世界

 例えば、こんな経験をしたことはないだろうか。車に乗っていてパトカーや救急車のサイレンの音を聞いたり、死者を運ぶ霊柩車に出合ったとき、ついさきまで目の前で展開していた日常の世界が崩れ去り、なにかそれと違った異質な意味の空間にさそいこまれていくような感覚におそわれたことはないだろうか。これを別の位相に置きかえて、祭りのために道路が混み立往生してしまったという経験について考えてみると、そうしたときに限って、いかにものんびりと神輿や祭りの行列が続いたりするもので、車での時間と神輿の時間とは同じ路上にありながら、全く異なった時間の構造をもっていることを知ることになる。
 人は時に不思議な世界をさまよう。ふだんは静かなむらであったから、道に迷ってあれこれしていると、目の前に花嫁行列が通りかかったり、時代がかってくると大名行列の幻想をみることがあった。そうした場合、タヌキのような小動物に化かされたに違いないと人々は解釈していることが多かった。広田村高市では、雌鶏が鳴けばその近くに人がいるというので、行方不明者がでると雌鶏を籠に入れて背負い、鐘を叩いて名を呼びながら山の中をさがし歩いたという。むらでは、そこに住む人々にふと訪れる異次元の世界についての伝承を管理していたのである。
 このことを伝統の文脈で言えば、祭り空間の制御によってひとつひとつの景観に個別な意味があたえられていたというべきである。一方では〈メグリ・マワリ〉の円を描き、一方では〈ナガシ・オクリ〉の直線を描きながら、これがむらの芸能空間の基幹となっていた。メグリ・マワリはカミ・ホトケの道であった。県下の祭礼にみられる道中芸の多様な展開はみなこのカミガミの道として表現されていた。ナガシ・オクリは悪霊退散を祈願する道であり、通過儀礼の道でもあった。ときに二つの道は交差し並存して表現されることもあった。
 事例14 越智郡波方町ではお般若さんの行事がある。長泉寺で般若心経を読みあげ、そのお経をオバコと呼ばれる櫃に入れて、波方から岡、小部、養老、郷、大浦という順路で村々をかついでまわる。むらむらでは、道に出てこれを迎え、お箱の下をくぐって無病息災を祈る。
 事例15 実盛送り 東宇和郡城川町では田植が終わって六月末か七月の半夏頃に実盛送りといって虫送りの行事があった。むら中の人が集まって松明に火をつけてナーマイダと唱えながら鉦、太鼓を打ち鳴らし、実盛さまの人形を先頭に田穂、川向、蔭之地、町中、古市、今田とむら順に送った。

 村 境

 ひとつのむらが、むらとして在るということは、まずそのありかを他に対して明らかにするということに他ならなかった。むらの人々は自分だもの住みかの入口に標を張った。それはむらの聖空間をふちどるにふさわしい象徴的な行為であった。この民俗のはじめは、動物が通る道筋(いわゆるけもの道)の木や草の折れかたでどんな生物が棲んでいるかを見分けた昔の人々の知恵を応用し、人々もまたその住まい方に応じてそれぞれのむらに固有なナワバリをしるしたのである。境界を侵すものはむらのなかに入れるわけにはいかなかった。村境は、まつりごとの重大関心事であった。それは公権力がもたらす暴力・支配に関するものから、むらに及ぼす災いの数々、疫病、病い、争い、災害、貧困等あらゆる問題に及んでいた。このような不幸の種をむら内にもちこむまいという心意のあらわれが、東予地方のサエノカミの習俗、中予地方山間部から南予地方に見られる鬼の金剛など等の村境の伝承となって示される。例えば伊方町では正月の念仏始めの日に、むら中の者がお堂に集まり念仏を唱え祝宴を張っていた。このとき一年の行事や、いろいろの申し合わせを決め、むらを治める区長をはじめ世話人や役員を選出していた。この念仏始めの日には、むらや組々の境界に大草履をつるし災いよけとしていた。
 またむらでは、若者を一人前にするために、一時標の内から外の世界に追いやる習俗があった。若者からすれば旅立ちのときであった。それは石鎚山に参ったり、お四国すなわち四国遍路に出る信仰の旅でもあった。松山市日浦地区東川町では、お四国に出るのは若い者のヤクのように言われていたから、娘は若い衆と連れ立って親の目をぬけて出かけてゆくことがあったという。男が一九、娘が一六にもなると何組かの仲間連れができたという。旧の二月二〇日頃に出発してレソゲの花が咲くころ帰っていたというから決して楽な旅ではなかった。お四国から帰るころになると、家々では若者の着替えを持って道後まで迎えに行ったという。むらにもどる頃には男はワカイシに、女はムスメになっていたのである。

      サエノカミ
 事例16 オサイノキサン 西条市加茂地区では、むらの組境などにオサイノキサンをまつっている。千野の御代地にあるオサイノキサンは青石の祠を設け、石の御神体を祀っており、傍の木に草履がつりさげてある。タゴリの神様として信仰されており、お願ほどきに草履をあげる。
 事例17 サイノカミ 波方町では波方と養老との境にサイノトウゲがある。また養老の厳島神社にはサイノカミという石仏が祀られている。
 事例18 サヤノトウゲ 玉川町鈍川神子ノ森から朝倉村へ越す峠をサヤノトウゲと呼び、鈍川と朝倉の村境になっている。昔はこの峠で嫁の受け渡しをしていた。
 事例19 サエノカミ 大西町宮脇の重広の奥の道を行くと、今治市野間に通ずる野間越えの峠に出る。昔はこの道を通り今治に出ていたので人がたくさん通っていた。この峠にサエノカミが祀られており、ヤブの中に山柿の木があって、その下に小さな瓦の祠がある。サエノカミはタゴリの神さんだと伝え、風邪をひいたり、せきのでる病気をなおしてくれるのでお願をかけ、病気が回復すると藁草履を作って願ほどきをした。サエノカミの山柿を食べると風邪をひかないという。

      オニノコンゴウ
 事例20 城川町では念仏のロ開けの正月一六日に、むら境に大きな草履を供えたり、木札をたてた。また、家内安全の紙札か牛馬安産のお札が、各戸に配られた。
 事例21 大人のあしなか 西宇和郡伊方町加周では、毎年旧一月一八日に組中の者が庵に藁を持ち寄っておこもりをしたあと、翌一九日の早朝に二見と九町の境、二見と三机の境の二ヶ所に「大人の足なか」と呼ぶ大きな足半草履をつるしている。重さは約一貫五〇〇匁ある。昔、ある大人が足なかを履いて向かいの島へ渡ったそうで、外から鬼がやってきてもむらにはこんなにすごい足なかを履く大人がいるぞとおどすのだと伝える。これはまた虫よけの呪いだともいい、大草履の外に小さな足なかをいくつか吊るす。これらは、むらにある六つの組が順番で作り、むらの区長がとりしきっている。
 事例22 東宇和郡宇和町永長では、正月一六日各戸から常居寺に集まり、百万遍の数珠をまわして家内安全、五穀豊饒を祈願する。当日、寺に供えた大草履は永長橋のたもとに立てかけて疫病悪霊の退散を祈る。
 事例23 南宇和郡一本松町では、ジゲの入り口に長さ一mほどの草履を吊り下げ、悪魔払いをする風習がある。
 事例24 喜多郡長浜町では正月一六日に念仏のロあけをした。豆柳の龍泉寺で百万遍の数珠くりをして念仏をとなえ、三尺あまりの大きな草履を藁七房半でつくりあげ、昔の大通り猫山につるした。
 事例25 肱川町では念仏の口あけが、むらの初寄りになっており、念仏を唱え、むらの一年の行事を打合わせている。また金剛草履を作り、小豆飯を藁スボに入れ注連縄に結びつけ、むらの主要な通路のうえにはり渡した。
 事例26 上浮穴郡では、正月一六日にむらにあるお堂や会堂にあつまり念仏を唱えている。年のはじめにむらの者が一堂に会するいい機会であったので、むらのハツヨリを兼ねている場合が多くみられるという。この日はむらごとに大きなワラジを作った。これは、むらに災いが及ぶのを防ぐために行い、わらじができあがると左右に長い縄をつけ、むらの境界へ道や小川をまたいで吊るした。これを鬼の金剛といっている。柳谷村や美川村では、一月五日のオヒマチが行われ、むらの出入口に注連縄を張り、大般若経の守り札を立ててむら全体を祓いにいったという。久万町直瀬の一月五日のオヒマチには明けの明星を拝んだあと、昔の弓矢を使って五、六間離れたところの的を参会者全員が射て行事を終えた。
 事例27 鬼の金剛つり 広田村高市では、正月一六日に組寄りをして念仏を唱え、各組境へお寺で摺った版摺りの大般若の関札を立てた。寺へはお年玉の鏡餅を持って行き、百万遍の家内安全祈祷札をもらい、各家々に持ち帰っていた。鬼の金剛つりは道渡し、川渡しに吊り、各組毎に吊る位置が決まっていた。それぞれ張り渡す長さの縄をない、その中央に大足半、飯すぼ、一六膳の箸と杓子を結びつけて厄除けとした。また、むらに災いがあったときには、張り切りの祈祷をした。むらに伝染病が出たようなときに限って行うもので、張り方は鬼の金剛と同じであるが、飾足がふつうは七五三であるのにたいして、この場合には、一五一三の注連縄を使ったという。