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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

2 手づくりの生活

 共同施設

 むらの行事だとか共同施設の使われかたをみると、カミ、ホトケをはじめ山川草木虫魚など、魑魅魍魎の霊の管理にあたったと考えてさしつかえない。本来そこではむらの人々の手をとおして祭りが行われ、外来者の立ち入る余地はなかったようである。例えば、今みられるむらの施設のほとんどは通過儀礼に使った隔離施設の小屋から発達してきている。ところによっては集会場を青年会場と呼ぶことでもわかるように、むらの寄合いに使っている施設はもともと若衆宿であった。むらの若衆が一人前の大人になるための修練を積むところであった。若衆、いわゆる青年団の活動から機能分化したのが警防団あるいは地域の消防団である。集会場に隣接して消防小屋や、火の見櫓が設けられた。
 葬式につかういろいろな道具を山道具という。山道具は集会場に置いたり、六地蔵の近くに建てられたお堂(地蔵堂・観音堂)に置いているところもあるが、本来、山道具は一度使われると捨ててしまい次には新しくしていた。越智郡大西町宮脇では葬式につかう鉦は死者の出た喪家から喪家へと引きついでいる。最近いろいろな祭りの道具を集会場で保管するようになってきた。北宇和郡吉田町魚棚では、旧魚市場の事務所跡を地区の公民館として使用しており、ここには古くから伝えられた町内の書付や帳面、亥の子の道具、ホタとか祭礼の練り行列に使う人形や衣裳を保管している。祭り道具の保管場所として神輿倉とか獅子倉など特別な倉や小屋を用意しているむらもあったが、祭りを世話する家とか、頭屋の家々で道具を持ちまわりにすることもあり民俗の古態を示している。宇和町明石で子供達が使う牛鬼の胴体は、子供大将になる家で次の年まで保管していた。
 それでは、今ある集会場の機能をもった施設は一体なんであったのだろうか。寄合いのしかたをみてみると、神社とか寺がその役割をもっていたようである。大西町宮脇では、春夏二回部落大会と呼ぶ寄合いがあり、夏の部落大会は宮脇の村寺法隆寺で行っている。夏の大会を百万遍と呼び、寄合いを始める前に、むらの長老の音頭と太鼓で百万遍の念佛をあげている。
 またむらには、茶堂とか地蔵堂といった旅の人々を接待する施設が数多く残されている。四国遍路を旅する人々もさることながら、六部とよばれる民間祈祷師がむらむらを訪れ、むらにある庵や、茶堂で寝泊りすることが多かったという。

 常夜燈

 むらの夜に明りを点したのは常夜燈であった。火袋の四角い木枠のはり紙を通してともる淡い光はむらの息づかいを伝えていた。松山市久谷地区には三二基の常夜燈があり、年寄のなかにはヤトウサンと呼ぶ人もある。
 事例5 ヤトウサン 松山市久谷地区では子供のころ常夜燈の前に組中の者が寄り集まって、焚火をかこんで飲食したり、相撲などの余興をして、オツヤをして拝んだ。
 事例6 愛宕さんの常夜燈 上浮穴郡柳谷村立野地区では、愛宕さんの信仰が篤い。火ぶせの神様だといい、旧一月、五月、九月の二四日に各戸がお堂にあつまり般若心経十二巻をあげてまつっている。お堂のそばに常夜燈があり、各戸に当番の旗がまわり、夕方燈をともしに行っている。これが愛宕さん献燈で、五百年前からずっと毎夜毎晩欠かさずに行っていると伝えられる。
 事例7 メアテの火 越智郡大三島町宮浦の上条のお寺の上の方に常夜燈があり、秋葉大権現を祀っていた。火伏の神様で信心しておれば火事にならないと伝えていた。昔はオミヤダニの人が毎晩燈明をあげていた。このあたりを通る舟の船長は、秋葉さんのオヒカリをメアテの火にして航行していたという。
 事例8 石鎚大権現 村々を歩いていると辻や部落境などに「石鎚大権現・金比羅大権現・奉燈」または「金石」と略記した常夜燈の一つや二つは必ず見かける。自然石を利用した素朴なもの、美しい均整のとれた精巧な組石のものなどいろいろである。これら常夜燈の設立年代を松山市周辺の地域でみてみると、文化五年から一三年くらいの一〇年前後の時代銘のものが多い。
 事例9 西条市氷見新兵衛埠頭の常夜燈は大きいもので、「石鎚山常夜燈 明治廿四年卯一一月吉日備中後月郡足次村、備後品治郡大橋村、小野村、矢川村、粟根村、芦原村、湯田村、八尋村、上領村、沼隈郡、郷分村、備後福山春日丸―後略―」とある。明治中ごろより、中国路から多勢の石鎚山参詣の船が、中山川口を遡って、新兵衛の港に着船していたという。

 むらの景観

 むらの姿を空からながめてみたいと思い始めたのは何も近代に入ってからの考えかたではない。伝統のなかにも春山入りとか国見といって、ふだん生活しているところから視点を移し、ひとつ高いところから己が住みかをながめてみるという行事があった。むらの人々の生き様はまずむらの景観のなかに如実にあらわれてくる。「年寄がいれば田が四角になるが若い者だと丸くなる」というのがそのことである。老人の仕事ぶりはうまずあかずきちょうめんに田畑の隅々まで耕し、若者はというと、一時の力でやりとばしてはいるか大まかな力仕事しかできなかった。ことに屋敷を構える、道路を拡げるといった大事業となるとふだん気がついていなかったいろいろな言い伝えやしきたりが顕在化してくる。それは目の前に開かれている現実の景観のなかにあるのではなく、人々の思い描く「伝承の論理」のなかに見い出すことができる。例えばどこのむらでも、ここの木を切るとバチがあたるとか、このあたりには家を建ててはいけないといった言い伝えがある。むらで生きる人々にとって「よくないということは、進んですべきでない」とする生きかたが多勢であったために、むらの景観はそのむら固有の「伝承の論理」によってふちどられていた。
 事例10 ナワメ 越智郡玉川町小鴨部と別所部落の境の道にそって、ナワメと呼ばれる土地があり、毎年二月四日の節分の夜遅く、首のない人が首のない馬に乗ってナワメを通るという。首なし馬に出会うと縁起がよいとされ、どんな人でも出世できるといわれた。昔の人はナワメに家を建てるものではないと言っていたという。
 事例11 ナワメスジ 伊予郡広田村高市では昔から大山の大尾根通りの山筋をナワメといい、魔性筋といって嫌い、不気味な所とされている。猪、狐類も此の筋を通るという。このナワメスジに建てた家は、枕返しをすると云い、朝起きてみると反対向きに寝直っているという。
 事例12 ナワメ 松山市伊台で、ある家に魔物が通るということを聞いた若者が、納屋のワラの上に寝ていると、寝ていた方向がいつのまにか反対の方向になっていたという。東枕で寝ると西枕に、西枕だと東枕にされたそうである。
 事例13 ナワメ 北条市小川の西岡組から隣組へ、一条の細道が山の稜線を横切って通じている。そこは俗にカミミチ(神道)といい、神輿の渡御道になっており、その付近をまた昔からナワメと呼んでいる。そこは家を建てても繁栄せぬ土地と信じられている。

 世界樹

 越智郡宮窪町友浦に、ドンドロ松がある。むかしは椎や杉の木がおい茂り、海岸にはカワウソが住み、夜には高坊主という妖怪も出ていたという。このドンドロ松も近年各地で被害が報告されている松食い虫の害するところとなり、ついに伐り倒されてしまったという。根上り松・相生松といった樹木もなくなった。愛媛では一体どのくらいの名木を失ったのだろうか。
 伊予市森の山にあった扶桑木の巨木は、その影が九州の豊後にまで届き、越智郡朝倉村の楠はその影が遠く朝鮮にまで届いていたという。このような樹木の伝承からむらの人々の空間認識のありかたを知ることができる。各地で人々に愛された樹木は地域のたからでありしるしであった。そのことはまた、人々の認識のレベルにおける世界樹でもあった。その構想は、例え伝承の樹がむらの中央にあろうが、端にあろうが、人々の住まいのありかを如実に指し示していたのである。だから木を伐るということは人々の世界についての描きかたを変えるということに他ならなかった。松枯れ現象にみられる自然のゆりもどしのなかで、人々は多くのなつかしいふるさとの樹木を失うことになったが、実はそれ以前に、エネルギー消費型社会の到来のなかで、道路拡張などの開発によって、これまた多くの名木を失っていたことを忘れてはならない。