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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

1 地 域 分 類

 ひとつの全体

 ヤマ・ジゲ・ムラ・ザイ・マチ・ハマ・ジカタ・シマ、などの地域を総括的にとらえた語彙をみることによって、人々のくらしは、むらのなかでひとつの全体としてまとまりのある一個をかたちづくっていることがわかる。そうして、ひとつひとつの世界が何ものにもかえがたい独自な世界を展開させながら、相互に有機的な関係で連合していた。越智郡では島嶼部をシマと呼び、そのシマに対して四国、広島の陸地部をジカタと呼ぶ。シマとジカタとを結んだのが渡海船と呼ばれる海の便利屋であった。海岸部では、農村をジゲと呼び、漁村をハマと呼ぶところが多い。ジゲとハマがひとつのむらを形成している場合もある。今治市桜井では浜に開けた町をマチと呼び、長沢、郷といった近隣の農村をザイと呼んでいる。西条市の東之川あたりでは小松、氷見に出てゆくことをサトに行くといった。高知県本山村への出作りは土佐に行くという。越智郡大西町では、玉川町竜岡、葛谷あたりをサンブといっており、さかんに行き来がある。竜岡木地の人々は、温泉郡の人をウンセンモンといった。

 連帯の輪

 松山市日浦地区では、中世末の土地の領主奥の城主の非業の死を語るむらむらがひとつの伝承圏をつくっており、福見川の堤婆踊、東川・河中・水口・藤野の川幟、川之郷の川念仏、青波の大念仏の行事が残されていた。落城伝説は、愛媛の各地にある小高い山々で語られ、白米城、椀貸し、黄金埋蔵など多様な口頭伝承の世界を展開させながら、そうした山々を仰ぎみてくらすむらむらの関係を強固な連帯の輪によっていく重にも連鎖させていた。
 西条市黒瀬山はダムの中に水没した。ここに黒瀬の旧領主、黒瀬飛騨守の慰霊の為に奉納する笹踊りという芸能があった。盆の一五日に飛騨守をまつる神社の境内で、むらの青年達が大笹を持って「ノッポイダーヤ・イッポイダーヤー」とはやしながら二組に分かれて激しく打ち踊っていた。この黒瀬山を含めて大保木山・中奥山・西之川山・東之川山と石鎚北縁の山地にひろがるむらむらを「五ヶ山」と呼んでいた。愛媛の農民騒動史のなかで特異な位置を占める大保木山騒動(一六四四年)の舞台となったところである。五ヶ山ではほとんど米が穫れなかった。伐畑によって玉蜀黍・稗・粟・豆・芋を穫って生活しており、騒動は、年貢の米納をやめ、銀納にして欲しい旨の嘆願書を出しかことから始まる。米の穫れない山地での米納はとても厳しい。米納という納税方法は、当時の在地支配の典型であり、秩序であり、権威であった。しかし、それはあくまで稲作水利社会に固有な論理であり価値指向であった。山岳地帯の環境は自ずと平地に開けた社会とは異なった別の生きかたなり価値指向があってしかるべきだとする五ヶ山の主張があったのである。中奥山にはこの騒動の犠牲となった人々の石碑を念仏講中の人々がたてており、首謀者治兵衛をまつる治兵衛堂の前で盆踊が行われ年々の祭祀を怠らずに続けているという。

 双分制

 隣接したむら同士で富の交換をしたり、むらを二分して行う様々な行事のなかで一種の儀礼的な緊張関係を保ちながらむら社会を活性化する知恵があった。これがいわゆる双分制とか二分組織といわれ、村落構造のひとつの類型を示していた。例えば、各地の祭礼にみられるけんか神輿、牛鬼と四ッ太鼓のぶっつけあい、海岸部の和船、櫂伝馬競争をみてみると、今年こそはあのむらにまけてはならじといった若衆たちの血気が盛んであったことを伝えている。越智郡玉川町畑寺では、むらうちの渡辺氏は正月一一日の地祝いに、松の雌雄を田の水口に立てているが、一方の越智氏は杉の枝を立てて祀っている例がある。このように、むら社会で有力な草分け筋の家例がたがいに異なっている伝承もみられる。
 昭和九年一〇月、笹ヶ峠を越えて浮穴村(喜多郡河辺村)に採訪に出た桜田勝徳は、浮穴に巡視にゆく巡査から次のような話を聞いている。
 事例1 角力 峠の上に土俵があり、旧八月三日はここで小田町と浮穴村との対抗角力が行われる。殺気だって喧嘩になるのが例年のことである。この辺りの角力でおもしろいのは、喜多郡内子町と五十崎町の角力で、この角力に勝った方がその年の水利権を優先する。
 正月年頭に行われる愛媛の弓祭りには、むら社会の特徴を伝える習俗が残されていた。
 事例2 川之江市川滝町の百手 旧二月一日にモモテを行う。川滝町のなかでも荒魂神社を祭る北柴生(四〇戸)と新田神社を祭る南柴生(五〇戸)の両部落が隔年毎に当屋を定めて行っている。射手をイゴシと呼び「上矢」と『下矢』を南北両柴生か一年交替でつとめる。イゴシは部落七組からなるので、各組一人宛の計一四名が選ばれた。また、この新田神社の氏子は祭神の新田義守公がこの里へ落ち延びて来られるとき、きび畑のなかで亡くなったのできびを作らないことにしているという。
 事例3 大三島町肥海の弓祈祷 肥海では旧正月一一日、氏神肥海八幡神社の社頭で古式に則り厳修されていた。射手はイテまたはユミテと呼び、北側、向地条の二部落から六名宛の一二名を選ぶ。旧正月、松の内三日のうちに二部落の弓の師匠と元締(部落弓手総代)が相談して射手を指名した。射手は、それぞれの師匠についてジユミ(地弓)の稽古をした。これをユミナラシといっている。弓の師匠は、代々世襲で、北側、向地条の二部落にそれぞれ正副の師匠家があって、作法、儀式弓に差異があり、これは雌雄、表裏の別によるものと伝えている。
 事例4 関前の弓祭り 関前村岡村にある姫子隝神社の弓祈祷は旧正月一一日(現在は二月一一日)に行われ、ユミマツリ、モモテと呼ぶ。射手はイテといい、連中をイテノシュウ(射手衆)と呼び、宮浦と里浦から各六名、計一二名を選んだ。射手の衆に選ばれると、娘達が「矢ずれ」を贈った。人気のある若者は祭りの日に何度も矢ずれを取り替えたという。射手は正月の二日に里浦と宮浦にそれぞれ分かれて、マキワラ(巻藁)を決めた。神主を招きオカマバライをした後、射手の衆はこのマキワラに籠り、弓の稽古をした。

 象徴的空間

 「北条場所じゃが、猪木も場所じゃ、猪の出る場所じゃ」と歌われる田植歌がある。「広い平野に開けた北条の町も人の住むにはいい場所だねえ。北条もいいが、この猪木もいいところだよ。だって猪といっしょに住んでいるんだもの驚きなさんなよ」と、いった意味であろうか。北条市立岩の猪木は高縄山麓の谷間に静かに息づいている戸数一二戸(現五戸)の小さなむらであった。このような小さなむらが愛媛の地域社会の多様性を形成していたのである。

 例えどんなに小さくてもそれがひとつのむらとして存在していたとしたら、そこには人が住むにふさわしい快適な環境があった。決して豊かではないが貧しくもない満ちたりた手づくりの生活があった。むらは余分なものはつくらないが、かといってないものはなかった。奥深い山奥に移り住んでも、人々は谷の小川で精霊をまつり海へのおもいを忘れていなかったし、広い平野に住んでいても山々を仰ぎみる習俗を捨てはしなかった。例えば、八幡浜市川上町川名津の柱松神事につかう松の大木はむらの奥山から伐り出し、必ず海につけてから祭りの場に立てている。正月の松は暮の一三日に山から伐ってもどり、門松や幸木を飾り、正月の一五日、川辺や浜でハヤシている。

 こうしたむらの人々の生きかたは、喜びも悲しみも生涯の軌跡をむらの土地の上に刻んでいった。多くの場合、それは死後の世界にまで及んでいた。例えば盆草刈りとか盆前の墓掃除には、墓地と家々との人々の往来がさかんにあり、温泉郡中島町では盆に墓へ立てる花柴をホゴで運び、ホトケを背負って帰るという。体の弱い子供がいたら、道と道が交差した辻に捨て子にすると元気に育つと信じられていた。「産で死んだら血の池地獄 ながれ灌頂をしておくれ」という歌がある。流灌頂は産婦が死亡した場合、道端の小川のそばに四本の竹や板塔婆をたて、それに布を張って道行く人々に水を掛けてもらうと成仏できると信じられていた。ごく普通の生き方をした人々の生死観をみると、畳の上で往生した人の霊がホトケであって、若死にしたり、不幸な死に方をした人の場合は、特別の供養をしなければ成仏できないまま餓鬼や悪霊となって山野をさまよっているものだと信じられていた。県下には、盆に精霊棚をつくり、ホトケの供えものとは別に餓鬼のためにと食べものを供える風習を今に伝えているむらが多い。むらは、人々の祈りのなかで、さまざまな伝承がうずまく象徴的空間としてあったのではないだろうか。