データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

一 行商の民俗

 行商の里

 行商とは、消費者のもとへ生産物を売り歩くことをいうのであるが、市商や店商の方法が行われにくいところに発達した商法である。交易の古い形態には、呼売り、振売りなどの小規模で近距離のものから、富山の薬売り、大島の油売りなど全国的に足跡をのばした大規模なものもあった。
 以前にはこの行商人がしばしば村里にやって来た。天秤棒で担って来る者、大風呂敷を背負って来る者、振り分け荷物にして来るなど、独特のスタイルでやって来た。現在も移動販売とか訪問販売というのがあるが、昔の行商人とは趣かすっかり変わっている。昔の行商には、行商仲間の縄張りみたいなものがあり、定期的にやって来て、支払い方法は掛け売りが主体で、盆と節季の二回払いになっていた。しかも米麦による物々父換が可能であったのを特徴とする。
 行商の種類は、反物・陶器・けんど(篩)・蓑笠・箒・籠などの竹製品から、売薬・髪油等々の日用雑貨品に魚や塩などであった。しかし、これは時代により、地域によって事情が異なるので一概には言えないことである。たとえば、東宇和郡城川町のような山村地域では、反物売りは八幡浜や宇和島から来た。イリコ売りは浜のイリコ売りと呼んで、俵津や吉田町から売りに来ていた。
 本県には薩南の椿油売りや富山の薬売りのように遠来の行商人もあった。椿油は「ビンターテカテカ」と呼んでいた。薬売りは「越中富山の薬屋さん」で、「オチニ」と呼んでいた。特有の鞄を肩から下げ、洋傘を持ってやって来、持っている薬の効能を述べたあと、必ず「オチニ」というていたという。昭和になってからは黒色の大風呂敷の荷を背負うた薬売り姿になったが、来ると四角い紙風船のおまけをくれるのが楽しみであった。
 さて、本県からも広範な行商圏をもって行商に出る一団があった。松前のおたた、睦月・野忽那島の縞売り、今治市桜井の漆器、越智郡大島の椀船などである。これら行商の里の歴史的背景についても触れなければならぬのであるが、そのことは省略して、以下民俗について述べることにする。

 松前のおたた

 松前のおたたは行商の古態を伝える最も注目される行商である。オタタとは、ゴロビツ(御用櫃)と呼ぶハンボ(木製桶)に魚を入れ、それを頭上に載せて、絣の着物に、手甲、脚絆、前帯、前垂、草鮭履きという特有の服装で、近郊の町や村へ魚を売り歩く女性をいうのである。すなわち、松前のおたたは頭上運搬の習俗を伝えているのが大きな特色であった。これについて『松山叢談』に次のように記している。

録者云。此里は男子漁をなし、婦人是を市に持行て商ふならいなり。是を運ぶに御寮櫃とて嫁の櫃を云ふ方言平たき桶に魚をいれ、頂きにのせて数里を行につかるる事なし。男子の擔つぎ売にもまさるものもあり。ある時御城の普請あり。御国恩に報ぜんと石運びを願ひ、数百人出て小石をひろひ、右桶にて運びしに二十貫余も載きしものも数人ありしとぞ。

 オタタの語源および起源のことは諸説あってよくわかっていない。伝説としてお瀧姫の貴種流離譚があるのがおもしろい。魚売りの女性をオタタと称したことは、井原西鶴の『絵入好色一代男』(天和二年―一六八二刊)や俳書『泊船集』(元禄一一年―一六九八編)などにある「たたじやう」と同意語で、松前だけの特有語でなかったことが知られる。現に北九州市小倉区の町はずれ長浜では頭上運搬の魚売り女をオタタといっている。
 参考までに好色一代男巻三「袖の海の肴売」の条をあげると小倉に着て、朝げしきをみるに、木綿かのこのちらしがたに茜裏をふきかへさせ、どしの帯前結びに、平ゆいふとくすべらかしに結びさげ、盤切のあさきをいたゞきつれて、我からぬらす袂まくり手にして、浮藻まじりの桜貝・鰆・いとより・馬刀・石王余魚取重て大橋をわたりて、おもひおもひに道いそぐときけば、「是なん此所の肴売内裏、小嶋より出るたゝじやう」と申。〈日本古典文学大系〉

とある。「たたじやう」の「たた」が生魚行商の女、「じやう」は、ごく軽い敬称で「さん」といったところである。つまり「たたさん」ということで、「おたたさん」はさらに愛称および敬称である。なお右引用文で注意されるのは、「木綿かのこ……我からぬらす袂まくり手にして」の描写である。これは松前おたたの服装や状態を再現したような描写であり、写実的である。従っておたたの風俗は江戸初期には既に行われていた風俗であり、他の地域にも見られた生魚行商女のスタイルであったことが知られる。
 また『泊船集』は「長崎より来る去来子書中に、小倉にて七夕のひる」と題して、

  七夕をよけてやたたが舟躍り

の句を掲げ、「たたは、漁夫の女、舟躍りは、雨乞なり」と注を付している。この句で注目されるのは、たたが舟躍り、つまり雨乞いに関与していたことである。西鶴の好色一代男といい、泊船集といい、これは松前おたたの生態を理解するうえの傍証となろう。
 とにかく、松前のおたたには他の行商に見られない民俗的事象が包含されているところが注目されるのである。一つは前述の『松山叢談』の記事中の、松山城築城及び修理等の際に奉仕して与えられた振売りの特権であり、一つは農村と深くかかわって得意先の販売網を保持していたことである。そしていま一つは雨乞いに関与したことである。
 おたたの行商圏は、松山市および温泉、伊予、上浮穴の諸郡であったが、東予方面まで販路をのばした者もあった。また交通機関の発達に伴い、大正年間にはその範囲をさらに拡大し、時には一泊あるいは二泊して帰村する者も出るようになった。
 年齢的には一二、三歳からおたたに出始め、かなりの高年齢まで続けた。しかも松前では上手におたたのできぬ者は、嫁に貰い手がないなどと言われたので、女はみんな行商に出る風習になっていたのである。つまり、女一人前の条件とする通過儀礼と見なされていたのである。もうずいぶん前のことになるが、わが家に出入りしていた当時七六歳のおたたさんに聞いた話では、頭上運搬の量目は、一三歳で四、五貫目、一七、八歳なら一〇貫目をかべった。道中は一里毎に休む。そのときは休む得意先をオタタ宿と称していた。午前二時に起床して、それからおたたに出ていたというが、一五人から二〇人くらいが連れ立って出発したということである。
 取引は物々交換が主体であった。煮干の場合、煮干一升と麦三升、米なれば一升五合で交換していた。支払い方法は掛け売りが基本で、盆と節季の二回払いを通常としていた。それでおたたの間では、米麦を商店で購入するような主婦は働きのない女といわれ、世間の物笑いになったという。
 その後、おたたのなかには魚行商から反物行商や乾物やかんづめ行商に転向し、遠く九州・北海道方面にまで行商に出向く者も現れ、娘たちは嫁入り仕度をこれでかせいだ。

 おたたと雨乞い

 松前のおたたについて特筆すべきことは、彼女らが雨乞いの霊能者として関与していたことである。松山地方で旱天がうち続き、稲が枯死しそうになると、決まって雨乞い祈願がなされたが、その方法には幾つかの方法があるが、その一つにおたたの協力奉仕があったことである。凶作になれば、農村地帯を得意先とするおたたには、その生計に直接響くことであったから、日頃の恩義と共存共栄の精神からこのような習俗となったものであるが、なおおたたには本来的に巫女性が認められていたのであろう。

 雨乞いの際は、全員行商を休み、身体を清め、夜明けに浜辺に勢揃いし、潮水をゴロビツに汲み、隊列を編成して延々三〇㎞の道程を、温泉郡川内町の奥地の天滝淵に至り、潮水をここに投入するのである。この間、蓑を着け、「雨をたもれ竜王様」の文句を唱え、身振りをつけて行進するのであるから大変な大役奉仕である。また「御面雨乞い」と称して、松山地方特有の雨乞い神事が藩政時代にはあって、代官立会のうえ斉行されたが、この場合もおたたの関与があった。

 このような特権や農村との深い結びつきから、おたたの魚を買い渋ると、おたたたちは「龍神様の御初穂」だといって無理にも置いていく仕末であった。それで百姓たちの中には、丹精して作った収穫物を「おたたに載かれてしまう」と冗談まじりにこぼす者もあった。しかし、初売りに際しては農家の方で雨乞いしてくれるからということで御初穂をサービスすることもあった。

 頭上運搬の風習

 ついでながら頭上運搬の風習は、瀬戸内海の周辺をはじめ、北は宮城県の江の島から、南は沖縄まで日本各地にみられる。そして、この分布状態は、関東以南の島や海辺に特に多い。また、この風習が女性のみに限られているのが大きな特色である。さらにまたこの風習は、朝鮮大陸をはじめ、南方諸島にもみられる。それで、頭上運搬は海人族の運搬形式の一つであったと考えられている。
 本県での頭上運搬の分布は、松前町浜・魚島(越智郡)・興居島(松山市)・浅海(北条市)などにみられた。魚島では、島の段々畑に入れる肥料から米俵までかべる。越智郡地方では頭に物を載せることをカベルというのである。このほか、本県での特筆すべき頭上運搬は、大洲市八多喜の祇園神社祭礼にみられる神供のカイゴブネの神子による運搬と、大三島町大見における祭礼の頭屋からの神供運搬の風習である。ともに神事における頭上運搬習俗として貴重な存在といえる。このような祭礼習俗は香川県の金刀比羅宮や徳島県鳴門市撫養町の宇佐八幡神社の祭祀(おごく)にも行われている。

 睦月の縞売り

 温泉郡中島町睦月や野忽那はいまはみかんの島であるが、以前は「縞売り」の島で行商が盛んであった。「野忽那の食い倒れ、睦月の門倒れ」という俗言があるが、睦月の民家は特に立派な門構えが目立つのである。それは行商でもうけて建てたものだといわれる。縞売りが始まったのは古いことではなく幕末頃からである。最初は「沖売り」であった。沖売りとは、潮待ちする沖の船に島から野菜や薪炭を供給したり、反物を売ったりするのを言ったもので、これをオクリと称した。
 睦月の反物行商は慶応年間(一八六五~七)に楠屋徳三郎が長崎の商人と取引しており、その頃はニグロ縞を売っていた。それが縞売りの起こりである。それを沖売りから沿岸の村々に行商して販路を拡大したのが、睦月縞売りの成功した原因であるが、それを始めたのは松本ミヱ(明治23年6月10日没・六九歳)であるという。明治二〇年代には瀬戸内の島や沿岸の漁村にも販路を広げ、二人一組で船を宿にして行商した。
 縞売りが最盛時代は大正末期から昭和初年で、機帆船三十隻、行商者五〇〇人にも及んだ。陸路を行く者もあり、その足跡は北海道、壱岐、対馬、奄美大島、朝鮮にまで及んだのである。
 睦月行商の民俗的特徴は、船二隻が一組をつくり行動することで、これを「リュウセンする」というのである。行商地ではこの船を寝宿にする。行商期間は半季で、盆と正月には島にもどる。この半年間の行商期間を一タテという。行商中、留守宅では毎朝オシオイ(潮汲み)をする。氏神に参拝し、角樽型につくった竹筒に潮を汲んで帰って家の神棚を祓い清めるのである。これを「潮をあげる」という。また陰膳をした。これは毎日する者もあるが、シキワごとにする程度の家もあった。「アセが出なかったら悪い」といい、縁起をかついた。すなわち、その湯気のつき具合で吉凶を判じていたのである。
 なお、縞売り船の出船の時は、神職に祓ってもらう風もあった。親戚、近隣にいとまごいに行くと、先方は酒を用意し、冷酒一献をすすめて前途の無事安泰を祈るのである。その門出の酒をデヨミキと呼んだ。
 船が島にもどって来たときは、船印を掲げて威勢よく港に入り、それから船主の家で祝杯をあげた。これを「入り船」と呼んでいた。そのとき出船のときに祝ってくれた人々には土産を持って挨拶に行くのが仁義であった。
 なお、ついでながら、睦月、野忽那からは海外に雄飛する者も多かった。明治四一年末調べによると、アメリカ六名(男)、ハワイ三四名(男二四名、女一〇名)である。それで睦月ではこれら海外居住者のために寺で無事息災と繁栄を遙かに祈る風であった。これを「ハワイ祈祷」といったのである。

 椋名の椀船

 越智郡吉海町椋名には漆器行商のおわん船があった。天保年間に村上茂吉(文久二年没)が始めたもので、紀州黒江塗、京都塗等を仕入れて瀬戸内海沿岸を販路としていた。彼が所持した法南寺発行の往来宗門手形から、天保一四年(一八四三)には既に行商を始めていたことが知られる。

   往来宗門手形之事
一、予州今治松平若狭守殿領分越知郡椋名村茂吉九反帆水子共共七人衆此度諸国国江商売ニ罷出申佐宗旨之儀者代々古義真言宗拙寺旦那ニ紛無御座候。海陸御関所無相違御通被成可被下候。依而一札如件。
                   宗高御室御所尊永院室普代
  天保十四年卯三月日           同郡同村
                     法 南 寺(印)
  諸国海陸御関所御役人衆中

 その後、販路は専ら九州方面に拡大して九州一円に及ぶようになるが、さらに同業者も増加して、椋名の「お椀船」は西海に名を馳せるようになるのである。
 椀船の商法は、船一般に親方(船頭)、子方(売手)、カシキが乗り込む。子方は大抵四人位であった。カシキは船番役で、小学校卒業程度の少年が雇用されていて盆暮に着物や下駄と五円位の小遣いを貰った。子方は親方から品物を借り請け大体農民相手に貸し売りした。集金は秋の収穫後で、現金あるいは現物納(米)であった。
 親方は正月二日と盆の一五日に、売り子を招んで御馳走し、酒をふるまった。正月二日は「乗り初め」で、その行事をしたあと売り子たちは親方に迎えられて宴会をする。
 椀船行商は、今治市桜井の農民たちも行っていた。始めは、拝志ケンド(篩)、桜井漆器の天秤棒による振り売りであったが、次第に発展して小舟を操っての海の行商に拡大したのである。これをケンド舟と呼んだ。また一方漆器行商は椀舟となって販路を拡大した。今日の月賦販売の始まりは、じつはこの桜井の行商が元祖であるといわれる。なお、拝志けんどは旧藩時代から今治地方における特産物と目されていて、『今治夜話』の「今治譜」に「波布塩や拝志けんどう」とあって有名だったのである。

 その他の行商

 (1) 和紙の行商 伊予半紙とか大洲半紙と呼ばれた五十崎の和紙は藩の財政収益源になっていた。この和紙を「ぬけ紙」といって、他地方に販売して産をなした者もあったそうであるが、明治末年から大正になってからは、三椏を原料とした改良半紙が他地方で非常に珍重せられ、これを行商して多額の収益を得た者もあったという。
 (2) 塩の道 私たちの生活に欠かせない塩も行商によって運ばれて来た。松山市の東部の小野地区では、「朔日塩」といって、塩は縁起をいうので朔日に山西(松山市山西町)から決まった人が売りに来ていた。塩は吹という荒むしろで作った袋に入れていた。買った塩は塩籠に入れて鉢や桶の上に置いて苦汁をとる。この苦汁は自家用の豆腐製造や足痛や足の疲労なおしにも利用した。苦汁で温湿布をすると温める効能があったのである。
 塩売りは、一種の神秘性というか霊力のようなものをもっていた(松前のおたたも塩売りと関係があったのではないかと思われる)。たとえば「塩売淵」という伝説がある。伊予郡砥部町麻生に「塩売淵」と呼ぶ淵がある。ある塩売りがその淵辺にて昼寝をしていたところ、淵の大蛇が出て来て、この塩売りをひと呑みにしようと構えた。すると塩籠に入れてあった剣が、自然に抜け出て彼の大蛇を追放撃退したのである。この霊剣は塩売りが塩代のかたに取った剣であったのであるが、その様子を砥部の庄の領主大森彦七が知り、塩売りより乞い請けて所持することになった。この宝剣は、元暦年中(一一八四~五)平家が壇ノ浦にて亡んだとき、悪七兵衛景清か海中へ落とした刀で、その後百余年を経て讃岐宇多津の沖で漁師の網に掛かって曳き揚げられたもので、日本三銘刀の一振りであるという。これと同型の塩売淵伝説が、喜多郡内子町曽根の出淵にある渕にもある(「予陽郡郷俚諺集」)。
 愛媛県との県境に近い高知県の梼原方面の人は伊予へ塩の交換に出る者があった。山からはとうもろこし、大豆、小豆、棕櫚皮などを運び交換した。また塩売りの行商もきていた。県境の永野は売りじまいになる所だったので、越知面の人たちは、「塩を買うなら永野で買え」といい、塩の値が安くなるからだという。梼原から海岸部へ行くには一六里(約六四㎞)以上もあり、往路は一日、帰路は二日かかったという。