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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

一 陸 上 交 通

 伊予の古道

 古代、讃岐の国府(香川県坂出市)から伊予の国府(今治市)に通じた南海道の官設の道があった。この官道は「延喜式」(九二七)の諸国駅伝馬に「伊予国駅馬、大岡、山背、近井、新居、周敷、越智各五疋」の記事によって知られる。伊予国内に駅を設け、各駅に五頭の馬を置くことを定めている。延暦一五年(七九六)には四国山地を越えて土佐国府(高知県南国市)へ至る新道が開かれ、山背駅はそのために設けられた新駅である(日本後紀)。官道の道筋は各駅の跡地比定などの研究によって解明されていくと思われるが、その細部には諸説がある。讃岐の杵田(観音寺市)から大岡駅(川之江市)へ入る道は余木崎の海岸道と山田井沿いの山越道の二筋が考えられている。近井駅(宇摩郡土居町)への道は国道11号線の南二〇〇~四〇〇mのあたりを通っていたのではないかと推定される。新居駅を現在の新居浜市松木とする説に従えば、経路は関ノ峠を越えて池田・東田・高須・松木となり、そこから中村・萩生と西に進み周敷駅(東予市)に至ることになろう。道前からは周桑平野のほぼ中央を横切る里境線に沿って北西に進み、大明神川を渡って越智に達し伊予の国府に至ったと推定される。それより以西は官道の後にあって道後と考えられた。土佐への道は大岡駅から堀切峠を越えて銅山川の縦谷に下り、山背駅の跡地と推定される馬立川上流の馬立(宇摩郡新宮村)から急坂を登り、笠取峠などを経て笹ヶ峰の鞍部で四国山脈を越え、土佐の丹治川駅(長岡郡大豊町)・吾椅駅(本山町)・頭駅(香美郡土佐山田町か)を経て土佐国府に達したのであろう。
 道後温泉は日本最古の温泉のうちのひとつである。大国主命と少彦名命の伝承があり、「伊予国風土記逸文」には景行天皇と皇妃八坂入姫・仲哀天皇と皇后息長足媛(神功皇后)・聖徳太子の、『日本書紀』には舒明天皇・斉明天皇と皇太子中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の来湯を記録する。ことに聖徳太子の湯の岡の碑文、額田王の作といわれる熟田津の歌、山部赤人の伊予温泉の歌は著名である。『日本書紀』巻二十六は……「七年春正月丁酉朔壬寅(六日)、御船西に征きて始めて海路に就く、―(中略)―庚戌(一四日)御 船伊予熟田津の石湯の行宮に泊る(熟田津此をニギダツと云ふ)、三月丙申朔庚申(二五日)、御船還りて娜の大津に至る」……と記す。斉明天皇は七年(六六一)正月六日に西征のために難波より乗船し、途中で大伯海(備前国邑久郡於保久)に立寄り一四日に道後に到着、三月二五日に娜大津(筑前国那珂郡)に赴かれた。熟田津の歌はこの時に歌われた。この時代、伊予熟田津の石湯へ至るには都から海路による道があり、それは山陽道に沿って西に航海し、芸予叢島を南して伊予に至ったかと思われる。この航路は近世になっても松山・宇和島藩などの参勤交代の経路でもある。燧灘を直接に東西に横切る航路は多分に危険であり、四国北岸に沿うには迂遠にすぎたのであろう。『古事記』『万葉集』には軽太子と軽大郎女の悲恋の歌がある。松山市姫原に比翼塚がある。この伝承における流論経路は不明であるが、同じき伝承が川之江市に伝えられていることからすれば、あるいはのちの官道か四国北岸沿い航路によったのかも知れぬ。中世になって源平の争覇のとき、源義経が平家を追って壇の浦に迫るが、いま温泉郡中島町に義経鎧掛松の伝承がある。義経の軍勢を乗せた船の航跡は西に向かってどのように描かれたのであろうか。また伊予水軍の活躍の航路は瀬戸内海の図上にいかに記されるのであろうか。

 南予の道

 近世になって徳川幕府の体制下に伊予八藩が成立すると、それぞれの藩はその支配態勢を確立し領内の現状を把握して安定を図った。宇和島藩庁においても租税台帳ないし郷村の明細を集録した『大成郡録』が編纂された。それは藩家老の神尾外記運慧が郡吏山田七左衛門正冨・史職目黒十次郎・同職不破幸七郎・中見役兼史松江嘉兵衛の協力をえて宝永三丙戌(一七〇六)四月に完成したものである。『大成郡録』は各村浦の見出しの下に里程を記入している。

①御庄組  松之庄 <正木村> 御城下より道法 僧都通十一里半余 笹山通九里 柏通十二里半余 庄屋蕨岡助之允…… ……②松之庄 <外海浦> 御城下より道法 僧都通九里半 柏通十里 海上十里…… ……③津嶋組 <高田村> 御城下より道法 三里余 庄屋勝兵衛…… ……④保内郷 <三崎浦> 御城下より道法 陸路拾八里 海上拾五里 庄屋助右衛門…… ……⑤来村郷 <日振浦> 御城下より道法 海上八里 庄屋清家九左衛門……

 ①は僧都・笹山・柏の三道があることを、②は僧都・柏の二道によるの外海路をたどることを、③は一本道を、④は一本道と海路を、⑤は海路のみであることを示している。同書所収「県名録伊呂波倚」は村浦名をいろは順に分類していて、まの項には、御庄組 正木 僧十一里 笹七里柏十二里半 と略記されているが、同書宝永三年(一七〇六)本所収の「領境辨往録」は

御城下より……僧都村通小山村迄 南当・正木村迄南東当・柏村通外海浦迄 南当・上家地村迄 東当・下大野村迄 北当・川津南村迄 北当・横林村迄 北当・惣川村迄北当・三間通西村迄北当・三間通白髪村迄北当・法花津峰通東多田村迄・法花津峰通津布理村迄 西当・笠木通野田村迄 西北当・笠木通三崎浦迄 西当・野村迄之道法

と……宇和島藩領境界までの経路と里数が列挙されている。小山村迄の僧都道、正木村迄の篠山道、外海浦迄の柏道はつぎのように記されている。

<僧都村通小山村迄> 一、御城下より来村まで 道法拾四町 来村より祝森まで 同一里(朱書)此間中川弐ヶ所 一、祝森村より野井村迄 同壱里(朱書)此間中川壱ヶ所、弐拾町程上り下り坂也 野井坂 一、野井村より岩淵村迄 同弐拾壱町(朱書)此間川弐ヶ所、内壱ヶ所大川壱ヶ所中川、弐拾四町竿道 一、岩淵村より秀松村迄 道法弐拾町 一、秀松村より僧都村迄 同三里半(朱書)此間中川弐ヶ所、三里程上り下り坂也、中野々平小かんとう 一、僧都村より緑村まで同弐里(朱書)此間中川壱ヶ所、壱里半程上り下り坂也、大かんとう 一、緑村より広見村迄同壱里(朱書)此間川弐ヶ所、内壱ヶ所中川、八町程上り坂下り坂也、赤坂 一、広見村より小山村迄 同弐拾五町 (朱書)此間壱町程小坂也、舟越坂 一、小山村より土州境傍示杭迄 同弐拾壱町 此間道法上り坂也、松尾坂 道法合拾壱里拾壱町 (朱書)竿道二〆拾壱里拾四町 <正木村迄> 一、御城下より来村迄道法拾四町 一、来村より祝森村迄 同壱里 (朱書)此間中川弐ヶ所 一、祝森村より野井村迄 道法壱里 (朱書)此間中川壱ヶ所、弐拾町程上り下り坂也、野井坂 一、野井坂より山財村迄 同壱里(朱書)此間大川三ヶ所、三拾町竿道 一、山財村より御内村迄 同壱里弐拾弐町 (朱書)弐里竿道 道法合九里 (朱書)竿道二〆九里八町 <柏村通外海浦迄> 一、御城下より来村まて 道法拾四町 一、来村より祝森村迄 同壱里(朱書)此間中川弐ヶ所 一、祝森村より高田村迄 同壱里半(朱書)此間小川三ヶ所、壱里程上り下り坂也、松尾坂 (朱書)此間大川壱ヶ所 一、高田村より岩松村迄 拾八町 (朱書)此間大川壱ヶ所 一、岩松村より芳原村迄 道法拾町 一、芳原村より下畑地村迄 同拾三町此間中川壱ヶ所 一、下畑地村より上畑地村迄 同拾八町(朱書)此間中川壱ケ所 一、上畑地村より柏村まて 同弐里拾七町(朱書)此間壱里半程上り下り坂也、柏坂 一、柏村より摺木村迄 同壱里(朱書)此間小川壱ケ所 一、摺木村より長洲村迄 同壱里(朱書)此間小川壱ケ所 一、長洲村より平城村迄同拾八町 一、平城村より城辺村迄 同拾三町 此間大川壱ケ所 一、城辺村より外海浦迄 同拾八町(朱書)此間道法四町程上り下り坂也 道法合拾里拾三町 但僧都村道ハ九里半

 伝馬の記録

 伊予八藩においては、宇和島藩と同様に領内各地への里程を記載した諸帳があり、記事に応じた領内地図が作成され、かつ直接に村浦を支配した庄屋はさらに詳細な地図を必要に応じて作図した。松山藩和気郡堀江村大庄屋門屋家が作った地図はその一例である(「松山市史料集」第五巻 近世編4所収口絵)。なお、門屋家所蔵文書「伝馬所記録」中の明治元年辰九月「南街道堀江宿人馬賃銭井川口書上帳」には伝馬賃が記載されている。

一、南街道 当宿より北条宿迄道法弐里八丁 当宿より三津浜宿迄道法二里 北条宿迄人馬御定法賃銭 人足壱人・元賃銭三十六文・当時同弐百三十一文 本馬一疋・元同七拾壱文・当時同四百六拾弐文 軽尻馬・元同四拾七文・当時同三百文 三津浜宿迄御定法賃銭 人足壱人・元賃銭三拾弐文・当時同弐百八文 本馬壱疋・元賃銭六拾四文・当時同四百拾六文 軽尻馬壱疋・元賃銭四拾弐文・当時同弐百七拾四文 一、当宿より北条宿迄之間ニ川弐ケ所、但シ板橋渡り、内粟井川高山川 一、当宿より三津浜宿迄之間ニ川五ケ所、但シ板橋渡り、内郷谷川花見川大川久万川堀川

一、松山街道 当宿より松山宿迄道法弐里 当宿より道後宿迄道法弐里八丁 松山宿迄人馬御定法賃銭 人足一人・元賃銭三拾弐文・当時同弐百八文 本馬壱疋・元賃銭六拾四文・当時同四百拾六文 軽尻馬壱疋・元賃銭四拾弐文・当時同弐百七拾四文 道後宿迄人馬御定法賃銭 人足壱人・元賃銭三拾六文・当時同弐百三拾壱文 本馬壱疋・元賃銭七拾壱文・当時四百六拾弐文 軽尻馬壱疋・元賃銭四拾七文・当時同三百六文 一、当宿より右両宿場迄之間ニ川三ケ所、内郷谷川花見川此両川板橋渡り、鴨川土橋渡り 一、当宿より前後宿場々迄之間ニ川場賃銭等請取侯義無御座候

 明治の道

 半井梧菴は文久元年(一八六一)『西行紀行』を、明治二年(一八六九)『愛媛面影』を刊行した。また明治一一年一〇月『愛媛県地誌』が編纂された。梧菴の書物によって幕末のころの伊予の道の断面を窺うことができ、地誌の各郡・村記事のなかの里程・道路・橋などの項目記述を図面化することによって明治初期の道のありさまを推察することができる。愛媛県は明治四一年県史編纂計画を立て、大正六年八月『愛媛県誌稿』を刊行した。その第九章交通の第一節陸運に一、道路があり「道路は松山市を中心とし、県下各地に至るの路線之より四通八達す。其主なるものを二国道(四五里五丁)、二十三県道(一〇七里一六丁)、二百五十有余の里道とす。」と記し、次の路線を挙げている。

<国道第三十一号線> 俗に讃岐街道と云ひ、松山市一番町県庁前より起り、市の東南端新立を経て東し、温泉郡久米田窪(ママ)・横河原を過ぎ川上に至り漸次阪(ママ)路となり桧皮田峠を越えて所謂桜三里の峡谷なる中山川に沿ひ、東北走して周桑郡の平野に出て、来見・大頭・小松町を経て東の方新居郡氷見町に入り、加茂川を渡りて西条町の南方を過きり大町・飯岡・大生院・岸ノ下等を経て、土橋に於て別子銅山用鉄道を横断して泉川・角野を過ぎ、国領川を渡り船木より関の峠を越えて宇摩郡に入り上野・土居・三島町を経て川之江町に至り、東方一里余にして香川県に入る。道程二十五里六丁、途中桧皮田峠あれとも、道路概ね坦々として車馬を通するに便なり。 <国道五十一号線> 松山市一番町県庁前より市の西方萱町を過ぎ、温泉郡雄群村を南に走り、重信川を渡りて、伊予郡郡中町に至り、之より漸く西方山地に入り犬寄峠を越えて、中山村に出て、峡谷に沿ひて喜多郡内子町に達し、新谷に至りて大洲盆地を西方に走り、肱川を渡りて大洲町より西走し、夜昼峠を越えて西宇和郡に入り川之内・松柏を過ぎて八幡浜に達す。道程十九里三十五丁、概ね山地なりと雖も車馬の往復に難からす、国道三十一号線と共に、本県交通系の大幹線たり。 <県道>の主なるものは次の如し。 <高浜街道> 松山市大字西堀端町国道第五十一号線より分岐して西北走し、温泉郡三津浜町の東端を過きり、同郡新浜村の高浜港に至る。二里二十一丁。 <土佐街道> 松山市大字小唐人町二丁目に於て国道第三十一号線より分岐して市の南端立花橋を過ぎ、温泉郡に入り重信川の平野を東南に出て、森松に至りて県下の最長橋たる重信橋を渡り、漸次阪路となり、三阪峠を越えて久万盆地に出て久万川に沿ひて南下し、弘形・柳谷等を経て中津村大字久主に至り、高知県に入り終に高知市に達す。十五里二十五丁。 <今治街道> 松山市大字本町一丁目札の辻県道高浜街道より分岐して、市の北端木屋町を過ぎ温泉郡堀江村に出て、海岸に沿ひて北条町に至り、鴻ノ阪を越えて越智郡菊間・大井・乃万等を過ぎ、今治町に達し、同町大字本町に於て県道西条街道に接続す。十一里九丁。 <道後街道> 松山市小唐人町二丁目、一番町角国道第三十一号線より分岐して東雲町より道後村を過ぎ道後湯之町に達す。二十二丁。 <堀江街道> 温泉郡和気村大字馬木に於て県道今治街道より分岐し、同郡三津浜町大字三津住吉町に於て、県道高浜街道に接続す。一里十四丁。 <郡中街道> 伊予郡原町村大字麻生に於て県道土佐街道より分岐し、伊予郡郡中町大字灘町に於て国道第五十一号線に接続す。二里十六丁。 <小田町街道> 上浮穴郡久万町大字野尻県道土佐街道より岐れ、西方鴇田峠・真弓峠等を越えて、同郡小田町村に出て、小田川に沿ひて西に走り、喜多郡内子町に於て国道第五十一号線に合す。九里二十三丁。 <波止浜街道> 越智郡波止浜町大字波止浜字蛭子町海岸より起り、同郡今治町大字本町に至り、県道西条街道に接続す。一里十八丁。  <西条街道> 新居郡西条町古字東町県道大町街道より岐れ、沿岸地方を縫うて周桑郡壬生川町に入り、北走して越智郡桜井村を経、蒼社川を渡りて今治町に達し同町大字本町二丁目に於て県道今治・波止浜両街道に合す。八里八丁。 <壬生川街道> 周桑郡中川村大字湯屋口国道第三十一号線分岐点より道前平野を東北に走り、同郡多賀村大字三津屋県道西条街道接合点に至る。三里四丁。 <小松街道> 周桑郡小松町大字新屋敷国道第三十一号線分岐点より起り、同郡同町同大字に於て県道西条街道に接合す。十三丁。  <大町街道> 新居郡西条町大字栄町に於て県道西条街道より岐れ、同郡大町村大字大町に於て国道第三十一号線に合す。十一丁。 <新居浜街道> 新居郡泉川村国道第三十一号線分岐点より、同郡新居浜町大字新居浜浦に至る。一里十三丁。 <阿波街道> 宇摩郡川之江町国道第三十一号線分岐点より東走し、金生川に沿ひ同郡川滝村大字下山に於て徳島県に入る。三里二十八丁。 <立川街道> 宇摩郡新立村大字馬立より起り同郡金田村大字金川に於て県道阿波街道に接合す。三里十八丁。  <長浜街道> 喜多郡新谷村大字新谷国道第五十一号線分岐点より起り、肱川に沿うて、同郡長浜町大字長浜海岸に至る。三里二十一丁。 <若宮街道> 喜多郡大洲村大字若宮国道第五十一号線分岐点より起り同郡大洲村五郎に於て県道長浜街道に接続す。二十一丁。 <宇和島街道> 喜多郡大洲町大字大洲本町三丁目国道第五十一号線より分岐して西南に走り、鳥阪峠を越えて東宇和郡に入り、東多田・宇和町等を経て更に法華津の難阪を過ぎ、北宇和郡立間村に出て、吉田町より宇和島町に達し、大字追手通に於て県道城辺街道に接続す。十三里十丁。 <卯之町街道> 東宇和郡中川村大字大江県道宇和島街道分岐点より西走し西宇和郡に入り、八幡浜町字矢野町にて国道第五十一号線に接続す。三里十九丁。 <吉野街道> 北宇和郡吉野生村大字吉野より起り、三間盆地を西に走り松丸・近永・好藤等を経て窓ノ峠より光満谷を南走し、高光村大字高串に於て県道宇和島街道に接合す。五里二十七丁。  <城辺街道> 南宇和郡城辺村県道深浦・宿毛両街道接合点より起り、僧都川を渡り平城・菊川・柏等を経て柏峠の嶮を越え、北宇和郡岩松に出て更に松尾阪を越えて来村を過ぎ、宇和島町大字追手通に於て県道宇和島街道に接続す。十一里六丁。  <深浦街道> 南宇和郡城辺村県道城辺・宿毛両街道接合点より南し、同郡東外海村深浦港頭に至る。二十三町。 <宿毛街道> 南宇和郡城辺村に於て県道城辺街道に接続して起り、東して一本松村に入り、広見・小山等を経、松尾峠に於て高知県に入る。未だ全通するに至らす。交通不便なり。三里六丁。

 遍路道

 四国八十八力所のうち、伊予には四〇番平城山観自在寺(南宇和郡御荘町)から六五番由霊山三角寺(川之江市金田町)まで二六か寺の札所がある。伊予の遍路道は高知県宿毛市三九番延光寺から観自在寺を経て宇和島城下に通ずる宿毛道にはじまる。宇和島からは大洲まで宇和島道、大洲からは内子(喜多郡)までは松山に至る大洲道をたどり、内子より別れて久万町(上浮穴郡)に入り、同町西明神で土佐道に合流、三坂峠を下って松山道後平野に入り四六番浄瑠璃寺。松山からは高縄半島を海岸沿いに迂回しながら今治道を、今治からは山沿いに進み、難所として知られる六〇番横峰寺などを経て西条で同半島基部を東進してきた金毘羅道に合し、伊予国最終の三角寺に至るのがその道筋の概要である。述上経路のうち大洲道をそれる内子―久万―松山の道は伊予国の諸道のうちでも遍路のたどる最も特色のある道といえよう。四三番明石寺は東宇和郡宇和町にあり、四四番大宝寺は上浮穴郡久万町にある。この間一七里三四丁の長丁場である。
 内子町の北で分岐して大宝寺に向かう水戸森峠の遍路道の傍らには、元禄二年(一六八九)の道標「これよりみきへんろミち」が立つ。道は小田川の流れに沿ってさかのぼり、小田町突合で左折して田渡川をさらにさかのぼり、倉谷・浮舟・本成・上畦々を経て下坂場峠を越え宮成に出てもうひとつの峠鴇田峠を越え久万町に至る。
 久万の町には町の創設を大師に請うたという一本杉お久万大師堂がある。町から大宝寺まで八町、四五番岩屋寺までは二里一九町ある。大宝寺から一〇町にして標高七一二mの峠御堂を超すが、久万町との標高差は二〇〇mである。一五町下ると下畑野川である。下畑野川-岩屋寺間の一里二五町は打ち戻りである。住吉橋を渡り山路に入り独鈷坂のだらだら坂を一里行くと道は左右に分かれる。右の道をとり岩屋寺まで二五町、途中に七町登りの引立坂があり標高七一二m。岩屋寺から次の四六番浄瑠璃寺までは六里二町ある。三坂峠に出るには千本峠越えと六部堂越えの二つの道がある。一つは下畑野川の河合から千本峠を越え高野・槻之沢・高殿をたどって西明神で国道三三号線に出る。もう一つの道は下畑野川から有枝川をさかのぼり六部堂越えをする。上畑野川の西ノ浦・明杖を通ってのだらだら登りで一里五町行くと川之内であり、左への細道に入り一八町で六部堂越えの峠となり急坂一六町を下ると国道と合する六部堂である。国道を行けば西明神―六部堂は一里である。
 六部堂から三坂峠までは一五町。標高七一六メートルの峠からは道後平野と伊予灘・斎灘、防予諸島は一望のもとにある。宇和島からの遍路道は山また山であって、ここに至って再び海を見ることになる。峠には正岡子規の「三坂望松山城」と題する漢詩碑がある。峠から浄瑠璃寺までは一里三二町。二二町の急坂を下ると松山市桜、一三町行くと網掛石がある。大師が法力をもって二つの石を網に入れてここまで来て担い棒が折れて落ちたと伝承されている。石には網目の紋様がある。榎を過ぎて八町で丹波、一五町行くと出口橋、寺まで一〇町である。四七番八坂寺までは八町。寺を出て左の田圃道をたどる。四八番西林寺まで一里二町。途中、恵原に番外文珠院徳盛寺があって遍路の始祖衛門三郎を祀り、背後の田の中に八塚がある。四九番浄土寺へ二九町。五〇番繁多寺まで一五町、途中、日尾八幡宮があり星岡の古戦場、伊予国風土記逸文の天山が望まれる。五一番石手寺には国宝の仁王門はじめ文化財が多い。ここから松山市街に入り道後温泉を経て五二番太山寺、本堂は国宝である。ほど近くの円明寺が五三番である。少しく行くと鴨川で今治道に合する。今治道は西条市のあたりで金毘羅道と合し、遍路道はほぼこれをたどる。

 宿毛道

 遍路道を南からたどったので、諸道についてもこの順序による。土佐宿毛から宇和島までをかりに宿毛道と呼ぶことにする。以下、宇和島道(宇和島―大洲)・八幡浜大洲道(八幡浜―大洲―松山)・金毘羅道(松山―中山越―西条―伊予三島―琴平)・土佐道(松山―久万―高知)・今治西条道(松山-今治-西条)とする。
 貞享四年(一六八七)、僧真念の『四国遍礼道指南』に、四〇番札所平城山観自在寺から四一番稲荷山竜光寺への道を「これよりいなりへの道すぢ三有 一すぢ なだ道すぢ 一三里 一すぢ 中道 大がんどう越 のり一三里 一すぢ ささ山越 のり一里半 三すぢとも満願寺ニ至ル」と記している。満願寺は北宇和郡津島町にある。この三道についてはすでに述べたが明治になっても変わっていない。現在の国道五六号線は〝なだ道〟に沿い他の二道は忘れられてきた。宿毛から南宇和郡一本松町までの道は一筋である。宿毛トンネルが完成し国道が開通する昭和一〇年までは、大深浦(宿毛市)から上り一八町、下り二〇町といわれる松尾峠を上った。土佐では元禄三年(一六九〇)の大定目に道番所の定ができて、「遍路は其身之国手形見届、札所順路に候条甲浦口、宿毛口より入可申也。其外の道口は堅可差留、東西二ヶ所之番所より添手形を出し出国の節、番人請取置通可申也」と遍路は宿毛口のほかは出入を禁じた。宿毛口は松尾峠で、大深浦の番所は松尾番所といった。峠には二基の領界標があり、それぞれ「従是東土佐国」「従是西伊予国宇和島藩支配地」と刻まれているが建立年はない。幡多郡訴諸品目録(橋田庫欣資料)によれば、土佐石標は貞享五年四月七日、伊予石標は同四年三月に予上両国からの検分立会のもとに建立されたという。峠には茶屋二軒があった。峠からキコシタを下り北西に橋を渡ると宇和島藩の小山番所(一本松町)で、小山本村の茶堂にあった。御番所井戸と通称される古井戸だけが残っている。一〇畳と十二畳の番所は維新後、導心学校・小山学校に転用され明治三三年まで使用された。一本松・札掛を通って灘道と中道の分岐点である上大道に至る。山頂を削り取ったような台地集落でタテイシと呼ぶ道標があって「これより左 くわんじざいへ壱里半 松野□助」と読める。上大道で分かれた灘道と中道は宇和島市祝森の柿の木で合し、保田・寄松を経てお城下に至る。

 (1) 灘道 南宇和郡城辺町を僧都川沿いに下り、御荘町の平城・長洲・菊川を通り内海村柏までは宇和海に臨み国道とおおむね軌を一にする。この道は柏から津島町茶堂・上畑地へ越える柏坂を経るので柏坂越とか柏道と呼ばれる。近世以降四国巡拝が盛んになるにつれて遍路一般の通り道となった。『四国遍路日記』の著者澄禅は承応二年(一六五三)観自在寺をたって「夫より二里斗往きて柏卜云所ニ至、夫ヨリ上下二里ノ大坂ヲ越テハタジ(畑地)ト云所ニ至ル」と記している。灘道の難所は柏坂だけであり、中道・篠山道よりも楽なだめ巡拝者の多くがこの道をたどり、おのずから宿毛―宇和島間の遍路道とされるに至る。柏坂は上り二二町・横八町・下り一六町といわれ、峠道は松並木であったがいまその姿はない。坂を下った茶堂の家は屋根の鐙瓦は天狗・お多福の顔を交互に組み合わせている。道は芳原川沿いに岩松に出て岩松川を渡り、熱田・上谷を通り一六町の松尾坂を上る。下り一八町で柿ノ木に達する。

 (2) 中道 幕府巡見使が通った。巡見使道ともいう。上大道から西へ僧都川を渡った緑(城辺町)は代官所が置かれ地域行政の中心地であった。左谷を経て峰地(御荘町)からは白石山への尾根道で、天狗の腰掛松がある。難所の大岩道で白石山の西尾根を越える。天亀二年(一五七一)織田信長に比叡山を焼かれた延暦寺座主上岡道近が伴僧とともに御荘に逃れるとき身の処し方を話し合ったという相談の森がある。万治元年(一六五八)まで左右水と表記されていた僧都では二本松が道をはさんでいる。つづく難所の小岩道を越えると上槇上(津島町)であり、佐新田・元屋敷・岩淵を通り颪部で岩松川を渡って野井坂を越え柿ノ本(宇和島市)に至る。

 (3) 篠山道 広見の札掛(一本松町)から増田・中組・いずり谷・正木・御在所を経て篠山に至るので篠往還ともいわれた。道はさらに御内を経て野井坂に通ずる。修験道の篠山権現は広く信仰され旧暦九月一八日の篠山祭には参詣者で賑わった。篠山の観世音は御荘の観自在寺の奥院として番外札所であった。雲石堂寂本は『四国遍礼霊場記』(元禄二年=一六八九)にその霊場を描写し、元禄一二年には正木村庄屋助之亟が経路を記している。御在所の登山口には見合地蔵と並んで「備中国阿賀郡新見木助□□ 従是寺迄五十丁 元文五庚申六月吉日」と刻まれた碑があり江戸中期の旅人の足跡を伝える。しかしのちには、遍路は札掛で巡拝札を掛けて済ますようになり、あるいは広見に荷物を置いて篠山参りをして引き返すようになった(四国遍路日記)。山口常助は篠山観世音寺が金毘羅権現などとならぶ重要な札所であり、かつまた満願寺が『四国遍礼道指南』の頒布所であり、述上の三道がここで合流していること、さらには『宇和旧記』にも「四国遍路の札所なれば」とあることを重視している。

 宇和島道

 宇和島から宇和町を経て大洲に至る。宇和町までは、北宇和郡三間町を経て歯長峠を越える札所竜光寺と仏木寺を通る歯長道と、吉田町を経て法華津峠を越える海岸道の二道がある。宇和町皆田で合し北進して大洲に至る。『四国遍路日記』承応二年九月に「十五日宿(宇和島市本町三丁目今西伝介)ヲ出テ戌亥ノ方へ往、八幡宮ニ詣デテ、夫ヨリ猶戌亥ノ方エ往テ坂ヲ越テ稲荷ノ社ニ至ル。観自在寺ヨリ是迄十里ナリ。(中略)夫ヨリ廿五町ヲ往テ仏木寺ニ至ル。(中略)夫ヨリ大坂ヲ越テ皆田ト云所ノ慶宝寺ト云真言寺ニ一宿ス。十六日寺ヲ立テ川ヲ渡リ、西北ノカノ谷ノ奥エ分入リテ明石寺ニ至ル。仏木寺ヨリ是迄三里。(中略)扨、山ヲ出テ卯ノ町卜云所ヲ行テタダ(多田)ト云所ニ至ル。是迄伊達殿領分ナリ。爰ニ関所在、番衆ハ山下吉左衛門ト云侍ナリ、律義ナル仁也。夫ヨリ戸坂(鳥坂)卜云所ニ至ル、是ヨリ西六万石加藤出羽守殿領分也。此所ノ庄屋清右衛門ト云人ノ所ニ一宿ス。(中略)十七日宿ヲ出、彼戸坂ヲ上リ峠ニ至、夫ヨリ一里余下ル他、下リ下リ大津(大洲)ニ至。」と記す。道は宇和島市伊吹八幡の西を進んで根無川を渡って光満谷をさかのぼり、三間町に入る窓峠を抜けて務田から戸雁-則の成妙道を竜光寺・仏木寺と拝し歯長峠を越える歯長道で、宇和町皆田に至っている。『領境辨往録』に「御城下より法花津通東多田村迄」と記載されている道である。

一、御城下より高串村迄 道法壱里(朱書)此間川三ヶ所、内壱ヶ所大川 弐ヶ所中川 一、高串村より皆田村迄 同三里拾八町(朱書)此間道法壱里半程上り下り坂也、法花津峰 一、皆田村より松葉町迄 同拾八町(朱書)此間大川壱ヶ所 一、松葉町より下松葉村迄 同拾壱町(朱書)此間小川壱ヶ所 一、下松葉村より上松葉村迄道法六町 (朱書)此間小川壱ヶ所一、上松葉村より坂戸村迄 同拾町 坂戸村より賀茂村迄 同六町 賀茂村より東多田村迄 同三拾壱町 道法合七里
 宇和島-皆田間のもうひとつの道である法華津峠越えはまず黒の瀬峠を越える。宇和島市街から藤江の見返坂を通る。須賀川の付け替えによって掘り割られ、いま見返橋が架かる。黒の瀬刑場で打ち首になる罪人がこの世の見納めに町を見返る山越え坂であったという。大浦を経て緩やかな上り坂に薬師堂があり茶店が二軒あった。宇和島の鮮魚行商人が一〇貫目の魚を天秤棒で担ぎ大洲まで往復したという。黒の瀬峠を越えると吉田湾が見える。知永を過ぎると吉田三万石の陣屋町である。陣屋には表御門番所・裏御門番所があり、陣屋町の周囲および各要所には北口(立間口)・将棋頭・中・横堀口・東口(大工町口)・南口(御舟手)・川口・聖人寺口・鶴間口・黒門口・御裏・御兵庫の各番所が置かれていた。とくに中番所は厳しく旅人を取り締まり、御家中(武家屋敷街)の通行を許さず、すべて石場道を往来させた。立間の医王寺下を経るとまもなく峠道となる。法華津峠は宇和海の展望を左に見ながら登る。讃美歌四〇四番「山路越えてひとり行けど主の手にすがれる身は安けし」は西村清雄が明治三六年に宇和島への途中で作詞したもので峠に詞碑がある。
 皆田から宇和川沿いに卯之町に入ると今も旧道には宿駅の面影が残り町並が保存されている。北へ進むと東多田には宇和島藩境の番所があった。大洲藩もその北側、鳥坂村月中に天保年間(一八三〇~四四)番所を設けた。道は峠を越え札掛・北只・柚木を通り大洲の城下に入る。

 八幡浜大洲道

 八幡浜を出て夜昼峠を越え、大洲から犬寄峠を経て松山に至る道で延長一九里三五町。大洲から松山は大洲道ともいう。九州との海の結び道であり宇和海の主要な港でもある八幡浜を出て松柏・川之内を過ぎると夜昼峠である。宇和海がわは陽光をうけて透きとおったまっ昼間の空であるが、峠を越えた大洲盆地は霧あくまで濃くいまだ夜の明けやらぬたたずまいであることから名付けられたという。文政元年(一八一八)九月二三日、日本九峯修行の行脚に明け暮れた日向国の泉光院野田成亮がこの夜昼峠を大洲から八幡浜へ越えた。その日記に「夫(大洲)より峠を越え、豊後渡船の津八幡浜に下る、峠下に上り、切手改めの番所あり、手形持参無之故に、裏道を通りたり、八幡浜町油屋善兵衛と云ふ醤油屋へ宿す」と書きとどめている。抜け道である裏道を案内する者がいたのかもしれない。大洲では肱川を渡る。『四国遍礼名所図会』に徳島阿南の九皋主人は「大洲城際の川船渡し壱文宛」(寛政一二年=一八〇〇)と記録している。のち浮橋となり、いま肱川大橋となる。東に行き新谷藩庁陣屋町新谷に至る。途中、番外札所十夜ケ橋永徳寺があり国道コンクリート橋の下に弘法大師の寝姿像がある。橋の傍らに「行きなやむうき世の人を渡さずば一夜も十夜の橋とおもほゆ」の歌碑がある。さらに東すると内子町である。高昌寺の門前に廿日市・六日市・八日市の市がたも、また江戸後期からは木蝋の町として栄えその町並みが保存されている。内子町の手前に千人宿接待施行の碑がある。善根宿の記念であろう。内子町から小田川に沿うて遡ると久万への遍路道であるが、北上して中山川に沿うて中山町に至る。大洲藩の在町であった。秦皇山を東にめぐり佐礼谷から犬寄峠への道があるが、いまは榎峠・東峰を経て犬寄トンネルへ通ずる。犬寄峠には山犬伝説がある。犬寄の峠道を下りると伊予灘の海が開ける。伊予市は寛永一二年(一六三五)に松山藩領から大洲藩領となったいわゆる御替地である。大洲藩は以後ここ米湊(郡中)を港として育成したので領内物産の集散地となった。松山藩領北黒田と大洲藩領南黒田の境に建っていた「従是南大洲藩」の標石はいま伊予市灘町の彩浜館に残されている。北上して松前町を経て重信川を渡る。出合橋ができるまではこの川を渡し舟で渡った。重信・石手の川の合流点が出合で、正岡子規の「若鮎の二手になりてのぼりけり」の句碑がある。道は余戸を通って松山に入る。「松山札辻より一里」の道程標石は伊予鉄道郡中線余戸駅の近くにある。

 金毘羅道

 讃岐道ともいう。松山から高縄半島の南基部を東に向かい、西条からは燧灘に沿って讃岐に至る。伊予からの金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)参詣者が歩いた道で、西条からは遍路道でもある。現在の国道一一号線とほぼ同一経路で交通・経済上の重要路である。 松山札ノ辻から小松(周桑郡小松町)の間は中山川沿いの山間を行くので中山越えとも呼ばれた。江戸時代、松山藩は道前平野の物産を松山へ運ぶ道として重視し伝馬継場を設け、小松までの一一里一町の間に一里ごとの道程標石を配した。「松山より諸国道法」(松山叢談)によれば、札ノ辻から久米村伝馬継場まで一里二一町、松瀬川伝馬継場(温泉郡川内町)まで二里二〇町、来見村伝馬継場(周桑郡丹原町)まで四里三町、小松藩領大頭村伝馬継場まで一里一一町、小松まで一里一八町とある。この道中、松瀬川と落合(丹原町)の間は桜三里と呼ばれる難所である。
 道は松山札の辻からまず南東に繁多寺を通り久米に出る。日尾八幡神社を南下する。伊予鉄道横河原線の踏切手前に寛政二年(一七九〇)の金毘羅常夜灯がある。旧道は久米小学校北西角の遍路道標で遍路道と南北に交差して東し平井に出る。この文久二年(一八六二)の遍路道標は九〇度左に回転して固定されている。逆打ちとなる西林寺への「きやくへんろ道」の刻字面が裏面となり、本来正面であるべき指印のある「みきへんろ道」刻字面が右側面となっている。しかし、本来左側面であるべきものが正面に据えられているのでその「道法」が印象的である。それには……松山札之辻二里 三津浜三里 道後湯之町一里 久万町六里 来見六里 郡中三里……とある。「県下のへんろ道 道標・丁石等の調査記録」によれば松山市八坂寺近くの土用部池堤防にある自然石道標を最古(貞享二年=一六八五)とし県下に五六四基あるという。金毘羅道は横河原(温泉郡重信町)で重信川を渡る。梅雨どきには山手農家に飼育を委託される「あげ牛」が首だけ出して川渡りする風景がみられた。川上(同郡川内町)は石鎚山の「お山市」のときは宿泊者で賑わい、旅宿米屋では二〇〇人もの泊まり客があり畳一枚に二人寝の有様であった。松瀬川には庚申様があり石鎚の前札を受けていた。旅の守り神としての庚申は宇和島市野井坂・砥部町久保田・川之江市境目などにも路傍に祀られている。
 道は半里の七曲坂を上って檜皮峠へ出、土谷から山越して田桑で中山川を渡る。橋はさや橋(別称あけぼの橋)と呼ばれ、檜造りの屋根付きであった。『久米郡手鑑』には「田桑の大橋 ご公儀普請」と記している。千原(周桑郡丹原町)で中山川を渡る。千羽ケ岳の絶壁が真向に迫る。旅人は「千原千羽ケ岳夜で越すときにゃ親に是非ない妻恋し」と唄ったという。臼坂を経て笹ヶ峠となり「松山城下札の辻より八里 金比羅大門へ廿三里」の道標石があって、宝ケ口(湯谷口)に着く。ホケは火気で湯気をいう。つまりここの温泉に入る。湧出は聖武天皇の御代と伝承されている。下って来見は宿場町、釜之口渡で中山川を渡り明穂に出て山ぎわを大頭―小松陣屋へと進む。小松はもと塚村といったが寛永一三年(一六三六)西条藩主一柳直重の弟直頼の一万石分知で陣屋町となり、同一五年小松と改称した。道は国道の南を氷見・湯の谷と進み、交差して北の安知生・東光で加茂川を渡り、今治からの道と西条陣屋町の大町で合流する。大町には旅宿が並んでいた。野口までは現在の国道と重なり、東へ飯岡となり「金比羅大門より十七里」の道標石をみる。道は以後国道と交錯して進む。岸の下(新居浜市)に出る。新屋は小松以東で最も古い旅宿といわれる。吉岡で国領川を渡り、池田から旧新居・宇摩の郡境関ノ峠を越える。峠付近にはかつて十数軒の旅宿があった。関の原(宇摩郡土居町)から関川を渡って土居に入る。土居の町では天保年間(一八三〇~四四)から誓松の下で市が開かれ、土居市とよばれた。豊田(伊予三島市)は駅場で三月中旬頃は金毘羅詣りや遍路で賑わった。海岸に沿って寒川・中之庄から棘抜き大師として知られる村松大師を通り、仲之町で金生川を渡り川之江陣屋町。町を抜けると右に山が迫り、道は燧灘の波に洗われるように予讃の国境余木崎に達する。旅人や船乗りが目当としていた長須の西行松は枯れてしまった。

 今治西条道

 松山札ノ辻から北に向かい高縄半島を海に沿って進み今治城下に至る。国道一九六号線とほぼ軌を同じくする。今治からは海岸沿いに西条に連なる。この道筋における江戸時代の村方番所は堀江村・田坂中(和気郡)、原村・浅海・北条(風早郡)、波方村のうち二ヶ所、種子村・壬生川・三津屋・寄合(桑村郡)に置かれ、制札立所は堀江、柳原・北条(風早郡)、菊間・波方・来島・大井・新町・波止(野間郡)、桜井(越智郡)、三津屋・新市・丹原・来見(周布郡)、壬生川・新町(桑村郡)にあった。
 札ノ辻と本町は江戸時代松山随一の繁華街で老舗が軒を並べていた。道は札ノ辻から木屋町を北に抜けて山越の土手に出た。松山六ヵ所の公儀番所の一つである三津口番所はその途中にあり、木屋町にも木屋町番所があった。姫原から鴨川に至る間は長戸池を挾んで道が曲折しているので七曲と称し北からの来襲に備えたものといわれ、その北の室岡山蓮華寺の森は侵入者から松山城を隠すものとされていた。堀江の旧道は花見橋を渡って町中を過ぎ粟井坂に向かう。「耶蘇会士日本通信」豊後篇上に「永禄八年(一五六五)伊予と称する国の内、豊後より四十レグワの町、堀江と称する所に着きにしとき」と堀江が名を出している。堀江の札場は旧庄屋門屋家の西広場にあり馬継場でもあった。粟井坂は海岸に迂回路ができてからは通る旅人はないが、旧道には「郡境従是北風早郡 従是南和気郡」の標石がある。粟井坂を下ると伊予灘からの西風が吹きつけ高縄山からの風が吹き下ろし、風の色も変わるかと思われる。風早の郡とはいみじくも名付けたものである。風早郡は替地前は大洲藩領で代官所が柳原(以下北条市)にあった。中江藤樹は初代の代官を勤めた祖父の下で少年期をここで送った。高浜虚子もまた幼少年期を西ノ下ですごした。その大師堂の傍に「露のわれ」の句碑が建てられている。北条辻町は当初は法善寺の門前町で江戸時代には松山札の辻から四里の宿場町であった。胡子町・浜町を経て立岩川を渡り石風呂の手前から右に折れて鴻ノ坂を越える。坂のとりつきに大師松のある鎌大師堂がある。寛政七年(一七九五)小林一茶がこの坂を越えて風早に入って来た。このときの句は碑として北条に三基建てられている。鴻ノ坂には旧道と明治四五年開通の旧県道とがあるが、昭和一五年に波妻の鼻を迂回する国道開通ののちは両旧道を歩く旅人の姿を見ることはできない。この坂は追剥と、四国には珍しく狐が人を化かす難所であった。浅海原から菊間に至る窓坂には「従是北乃間郡従是南風早郡」の標石が、「松山札辻より六里」の里程標石は明田(菊間町)の奥の新池の近くにあった。菊間町は菊間瓦を産し、菊間港は瓦土を運び入れ瓦を積み出し、浜村には伝馬継場があった。大井(大西町)には野間郡を支配する代官所があった。五四番札所延命寺からの遍路道は再び乃万道と合流して今治の街に入る。城の北を金星川が流れ北の外堀を形づくる。ここに架かる橋は辰の口橋だけであり、今治からの里程の基点となっていた。今治から南に向かう道は小松からきた金毘羅道と大町(西条市)で合する。今治から桑村郡(東予市)に入り、三芳の宿場は中町・南町・北町の三筋の町筋がある。大明神川を渡った国安は伊予奉書紙の本場である。三津屋を過ぎると北条の手前に標石がある。「従是南小松領」である。中山川は川口近くに渡し場があった。なお、昭和の初めに架けられた新兵衛橋は個人の経営で、干潮時五厘、満潮時一銭の通行料であったという。対岸の新兵衛(西条市)は西条の港で常夜燈があり「金比羅大門へ十九里」の標石がある。禎瑞新田から大町への旧道には二説ある。一つは古川橋から加茂川の洲之内に出て金毘羅道に合流する道、他の一つは橋を渡って加茂川の右岸をたどって大町に入る道である。

 土佐道の里標石

 松山から三坂峠を登り、久万(上浮穴郡久万町)、七鳥(同郡美川村)を通り、土佐の池川(高知県吾川郡池川町)に至り高知に通ずる道であった。現在の国道三三号の経路とはその様相を異にする。江戸時代の土佐道は松山から土佐境まで一二里一八町であった。
 「松山より諸国道法」(「松山叢談」)にその経路と伝馬場・各伝馬場距離の概略をつぎのように記している。……温泉郡立花村、久米郡浅生田村―吉木川―石井村―居相村 浮穴郡井門村・伝馬継場・一里二九町内川―森松村―重信川―荏原川―上野村―荏原町村・伝馬継場・一里六町二一間―浄瑠璃寺村―久谷村・伝馬継場・二〇町三九間―井手口川―榎川―窪野村―東明神村・伝馬継場・二里二八町―久万町村・伝馬継場・二七町―宮野前川―菅生村―有枝村・伝馬継場・一里一七町―高橋渡瀬―七鳥村・伝馬継場・一里一六町―吉野瀬川―東川村―土州境・二里一八町……
 土佐道は札ノ辻から石手川を市内立花で渡る。立花橋の架橋は文政二年(一八一九)で、僧堯音が浄財を募って石手川に架けた八橋のひとつ。天山までは現国道とほぼ重なり右に伊予豆比古命神社を見て南に進む。重信川を渡って荏原(恵原)に向かい、御坂川の谷を進んで三坂峠登り口の丹波に至る。五軒の茶屋があった。正岡子規の「旅人のうた登り行く若葉かな」の句と漢詩「三坂即事」が併刻された碑がある。その先の桜は桜休場といわれる休憩所であった。ここから峠の坂道は険しくなる。馬子賃はここから久万の東明神まで「一里八丁」の割り増しであった。三坂峠を越えて久万の町に入った道は宮ノ前からは山中に入り越ノ峠を経て上谷(美川村)で有枝川を渡るが、途中にもう一つのはじかみの峠がある。さらに東に向かい色ノ峠を越えて程野に出て面河川の小支流を下り合流点の手前のカシガ(返)峠を経て七鳥に出る。そこで面河川を渡って東へ高山・簑川と進み、二箆山の屋根を伝って土佐の国境に出、雑誌山の頂を右にして池川に達する。
「寛保元年(一七四一)三月、御領界、郡界并里塚、立木に有之候故、数ケ所に付、年々御修復御手も不離候へば立石に相成、御領界立石伊藤浅右衛門雪且、里塚立石裕筆水谷半蔵、郡界立石は書簡荒井又五郎認之」(「松山叢談」顕徳院限定喬公)の記事を見ることができ、その前年「元文五申年、御領境、郡境、里塚、石ニ改、里塚四十基ハ左之五人書之、御祐筆水谷半蔵、間室又五郎、鹿田又左衛門、秋山六左衛門、山ノ内万右衛門」(「松府古志談」)の記載をも併せ読むことができる。松山藩は江戸幕府五畿七道一里塚設置に做い、札の辻を基点として領内今治道・中山道・土州道に三六町一里ごとに里程標木を建てていたのを標石に建て改めた。宇和島藩でも主要な道に里塚を築き松を植えさせた。西宇和郡伊方町川永田の一里松は寛文一三年(一六七三)に植えられ、保内町喜木のそれと同じくその姿をとどめていたものであった。
 松山藩領内四〇基の「松山札辻より他領江往還里数并馬次場所」は次のとおりである。

今治道 一里 和気郡谷村 二里 同郡堀江村 三里 風早郡鹿嶺村 四里 同郡北条辻村 馬次 五里同郡浅浪原村 馬次 六里野間郡長坂村 菊間浜馬次 七里ノマ郡浜村ノ内葉山 八里 同郡佐方村 九里 同郡大井浜村 大井新町馬次 十里 同郡県村 但波止浜道ハ樋口村ニ有 十一里 今治領国分村迄 十二里 越智郡桜井村 十三里 同郡孫兵衛作 十四里 桑村郡中村

中山道 一里 温泉郡樽味村 二里 久米郡畑中村 三里 久米郡西岡村 四里 同郡北方村 五里 同郡松瀬川村 六里 同郡川之内村の内土屋 七里 馬次 周布郡鞍瀬村の内桜谷 八里 同郡来見村 九里 同郡田野村 十里 同郡願蓮寺村 馬次 川より向安井村にも有

土州道 一里 久米郡天山村 二里 浮穴郡森松村 三里 浮穴郡荏原村 四里 久万山 馬次 久谷村 五里 同窪野村之内桜休場六里 同東明神村 七里 馬次 久万町村 八里 同菅生村 九里 同有枝村 十里 同七鳥村 十一里 同東川村 十二里同つづら(くさかんむりに縮)川村

大洲通 一里 伊予郡保免村 二里 同古泉村  三津 一里温泉郡山西村

 土佐道の里標石については、自身の脚で踏査してその現状を報告した伊藤義一の「埋れた土佐道」のすぐれた報告がある。「十二里 つづら(くさかんむりに縮)川村」の里石を上浮穴郡美川村黒藤川に探訪したその一節を掲げてみよう。

十二里石を求めて県道の面河みちの方から簑川部落に登る。簑川の高度六〇〇メートル。ここから十二里石のある「猿楽」を経て土佐国境まで約八キロ、さらに約四キロの「水峠」の大師に詣ったり、約一二キロの池川町に馬の背で荷物を運んだりするために、このコースは大正初年くらいまでは繁く使われたという。しかし、ここ十年くらいは山仕事の人以外の旅行者の通ることは全くないという。簑川から土佐道にとりつく高度九五〇メートルの地点までは杉の植林の中を縫う、全く胸つき坂で、あえぎあえぎ登る。ようやく屋根道である。(中略)だが、この尾根道はひどくなる。ほとんど道とは言えない。本の根、岩かどを踏み、丈なすすすきを押しおけて進む。古図で見ると、このあたりに「盗人石」というのがある筈である。長さ三メートル、幅二メートル程の平らかな石だそうで、何でも石鎚山で賽銭を盗んだ男が天狗につかまって空中高く・(てへんに放)上げられたのが、ここに落ちて、石になったのだそうな。しかし私どもは道を失ってしまい、やむなく道らしいものを北に求めて進んだ。やや下り坂になるのを気にしながら行くと、突然に道が開け、前方に予期しなかった三、四戸の草屋根の人家が沈んでいるのを見て、思わず立ちすくんだ。われわれは一たい、どこへ来たのだろう。こんなささやかな人家は二万五千図にも記されてない。目を疑う思いで訪ねると、北の麓の中村から人作をしている日浦老人一家のすまいだった。三椏、とうもろこし、大豆などを家のまわりに作っている。郵便も新聞もここまでは届かない。冬の間は雪が一メートル以上も積り、中村との交通も絶えてしまうという。その長い冬籠りの暮しがもう近づいている。このあたりを「一本木」と呼ぶそうな。今は藪に埋もれ立入れぬという「盗人石」の下方に二抱え半もあるオモの木があった。見事な古木だったが中が空洞で、山火事のたび火が入るので先年伐り倒したという。むかし土佐に嫁入りした女がよくある夫婦喧嘩で家をとび出し、伊予の実家に帰るべく荒涼たる雑誌の深山を越えたら夜になった。盗人石まで来ると山犬がうなり声をあげて牙を行き、跳びかかって来た。女は辛うじてオモの木によじ登ったが山犬は二度、三度と跳躍して女を引き落し、食い殺した。「源五郎恋しや、オモの本は!」と別れた夫の名を呼び、頼みにならなかった本を恨んで絶叫した、という哀話を伝えている。日浦老人から教えられたように、左の道をのぼる。杉林になっているが高度一、一〇〇メートルにもなると杉も伸びが悪い。道は東にのびる土佐道にはいる。わずか歩くと左にトタン張りの堂が見え、百年もたったと思われる杉木立があって、その前に「松山札辻より十二里」の石がある。古図にはつづら(くさかんむりに縮)川村猿小谷とあり、いま「猿楽」と呼んでいる所である。石標の里の字が土に埋れていたので、土を掘って写真におさめる。土佐道最後の里塚石である。「じゅう(けものへんに柔)楽石」と五万の図に記されたのは、道の南側に亀甲形にわだかまった巨石がある故で、目測でたたみ四十畳敷以上と見た。たまたま近くで営林署の仕事をしていた老人は、「猿が集まってこの上で踊りをしたという伝えがあります」という。猿楽の字から思いついた話であろう。東西の古道は断たれているが、このあたり南北の部落の山越えの往来はあるらしく、所々に南北道が通じている。ここでは以前には年々相撲があって、土佐をはじめ中村、水押、つづら(くさかんむりに縮)川などの近郷から人が集まったという。石の前の一面のすすき原の所に土俵が出来たというから、この巨石はいい見物席となったろう。そんな時、力じまんの若者がここから一町ばかり土佐よりにあった十二里石を引抜いてここがよかろうと担いで来て建てたのだという。もとの場所を探す方法がない。

 金毘羅参り

 伊予吉田藩町医岡太仲に文久二年(一八六二)「讃州金毘羅宮」参詣旅日記がある。三月四日出立東多田村泊、五日内の子町泊、六日郡中町泊、七日土谷村泊、八日大町泊、九日豊田泊、十日和田浜泊、十一日金毘羅町着昼八ッ時 十二日九ッ時より出立観音寺町泊、十三日関の戸泊、十四日大頭町泊、十五日道後着十九日迄滞留、十九日九ッ時出立郡中泊、廿日内の子泊、廿一日東多田泊、廿二日吉田帰着の日程であった。旅日記の記事のうち、道程についてのみ摘記して道中経路の概略をうかがってみる。
<四日> 曇天之所夕より雨降 卯之町馬場かしら松本屋清之丞宅小休-七ッ時過る頃東多田村庄屋古谷綱左衛門宅、<五日> 曇天東多田村出立-鳥坂茶堂ニて小休-藤の茶屋休足-昼九ッ時大洲中村垂井様昼食-新谷なことや小休-七ッ半頃内の子町よしや着、<六日> 曇天朝内の子よしや出立-五ッ時立山蟹瀬の店屋ニて小休-程なく出渕-十丁ばかり行ば中山の町昼食-犬寄の峠-半道行て大平村小休- 一里半行て郡中七ッ半時米屋伊介宅泊、<七日> 晴天郡中米屋出立-壱里斗行てうへの村松本屋小休-たのくぼ迄三里昼食―川上宿大黒屋ニて小休-小ひわた-土谷村茶七宅泊、<八日> 晴天土谷茶七出立-落合の橋-来ル見の町-長野村―大頭村入口松岡屋休足昼食-小松陣屋町―氷見-タ七ッ時大町着田のや泊、<九日> 曇天大町田の屋出立-岸の下-関の戸辰巳屋昼食-土井迄壱里半小休-常町-七ッ半豊田の宿あづまや泊、<十日> 曇天豊田あづまや出立―川の江上かどや昼食-七ッ半過和田浜あたらしや着泊(此日わ雨暮迄不止して一統眉にしわをよせて道をいそぎける)、<十一日> 雨天此朝和田浜あたらしや出立-丸井村大滝と云宅ニて小休-牛屋ロー幸田村店屋ニて小休-八ッ時金毘羅町着虎屋泊、<十二日> 曇天こんぴら町虎屋出立-登山参詣-善通寺町西内田屋昼食-八ッ時弥谷着―二里斗大村-日の人に漸観音寺着丁字屋太平宅泊(観音寺より和田浜まで二里 此間の二里わ思の外ちかし しばらく松原有)、<十三日> 晴天観音寺丁子や出立―ニ里行て和田浜新屋昼食弁当持参(此所より今治迄渡海、十八里海上有、運賃金二歩二朱と相定賄船頭より指出約定 一賄七十文ツヽ ふとん壱枚借候時は七十文ツヽ 船頭名は千代治と云ものニ而有之 乗船候所殊の外古船ニ而帆わ破れたる前垂の如し かじつかさへも古棟のおれにてあかわそこそこより入込あか取間はたびたび故おそれて八里斗下りて関の戸近き所下野田村と云所へ着船いたす 是ハ関の峠と豊田との間浜辺にて此の所より上陸)―土井村(此所一本松見事也)-漸暮に関の戸あたらしや着泊-、<十四日> 晴天関の峠あたらしや出立-石の湯とてあらたに湯出ルと云る是を見物)-大頭町大和屋豊八宅泊、<十五日> 曇天大和屋出立-壱里帰りて来見町と成(此所より土谷迄荷馬壱疋求め代四百二十文)-落合茶屋にて小休-四ッ時土谷茶七にて小休-桜三里大檜皮峠(ツサカトモ云)小休-松瀬村三軒屋(柳屋娘おさき此店ニやき餅名物)―九ッ時川上町志満屋喜十良宅昼食-おひおひと道後近と相成 小川壱ケ所有以の外の麁相成古板ニて橋かけ有―タ七ッ半過る頃道後着冨屋喜平宅泊、<十六日> 晴天道後町とミ屋逗留尤十九日迄(此日の九ッ時より手賄と相成ル)、<十七日> 晴天、<十八日> 曇天、<十九日> 晴天四ッ時より出立-七十丁帰り出合ノ川を渡て森田屋喜兵衛宅小休-郡中米屋伊助宅着泊、<廿日> 晴天郡中米屋出立-火寄の峠-昼食中山島五宅-七ッ半過内の子よしや弥太郎泊、<廿一日> 快晴此朝内の子よしや出立-四ッ時大洲着垂井様にて酒宴-九ッ時出立鳥坂札掛小休-漸暮におよび東多田庄屋古谷綱左衛門宅着泊、<廿二日> 雨天此朝東多田出立-(五更の頃より大雨)九ッ時卯の町松屋で昼食予定のところ手違いにて塩屋で昼食-ほけづ峠(打こし坂の麓なるしゝぐちにて出迎いを受く)―吉田帰着。

 茶堂のある道

 高知県幡多郡と境を接する南予の城川・野村町、河辺村には道の辺に茶堂がある。城川町にはむかしの道に沿って五九もの茶堂があり、大師・地蔵・庚申などの石仏が安置されている。旅商人たちが歩き疲れてこの茶堂で憩い、遍路が地区の人たちから茶などの接待をうけた。方一間、茅ぶき方形造り、三方を開放し正面奥一方のみが板張りで棚を設けて石仏を祀る。床は板張りで地面からの高さ一尺五寸。旧暦七月一日より末の三一目まで、地区から毎日各戸輪番に朝九時ごろより夕刻までお茶を沸かす。まずお大師さんに献茶。漬物や煮豆・かき餅などを準備して通行人や子どもたちを接待する。お茶供養という。茶堂の呼び名の由縁である。七月一七日には各戸より一人ずつ茶堂に集まり西国三三番の御詠歌を流す巡礼講を行う。月の二一日はいうまでもなく大師講がありお念仏を唱える。庚申の日には青面金剛を祀り五色の餅を供えたりもした。田休みには鉦や太鼓をたたいて念仏をとなえて悪虫を退散させる。実盛さまがお通りになるとき休息されると、胸に吊された袋の中から供え物を戴き、新しい供えものを入れた。戴いた供え物によって夏病みを避けた。春秋の〝おこもり〟には部落中総出で茶堂に集まり、茶堂のまわりに座を設け重箱持参の宴を開いて呑みかつ歌った。安永二年(一七七三)一〇月「御巡見御用差出帖」には〝辻堂〟とあって、その数も現状と一致する。城川町教育委員会は『ふるさとの茶堂と石佛』を出版し、城川町の石仏・茶堂とその行事を記録している。

図3-1 半井梧菴「愛媛面影」伊予国全図① 明治2年

図3-1 半井梧菴「愛媛面影」伊予国全図① 明治2年


図3-1 半井梧菴「愛媛面影」伊予国全図② 明治2年

図3-1 半井梧菴「愛媛面影」伊予国全図② 明治2年


図表『大成郡録』

図表『大成郡録』


図3-2 宿毛道(「四国遍路細見図」宝暦13年=1763開版)

図3-2 宿毛道(「四国遍路細見図」宝暦13年=1763開版)


図3-3 中山越 曙橋(愛媛面影)

図3-3 中山越 曙橋(愛媛面影)