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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

第四節 自然物採集

 うるしかき

 宇摩郡新宮村大窪の宮地にはうるしかきが行われていた。九月の前半月がシーズンで、兼業だと五貫ないし七貫しかとれない。大正初期には五人のうるしかきがいたというが、当時は一人一〇貫も出していた。
 うるしは漆の木から出る樹液である。これをとるにはウルシガマで木の荒皮を削り落とし、カナで切り口をつける。この作業は朝早いほどよいといい、カナクチを下から上へ切ってあがる。表を四〇㎝ほどの間隔で切り、裏はその中間へ切り込んでいく。カナの表でひきまわし、裏であやを入れる。よく切れていないところをもう一度切るが、これをハリするという。都合一〇本ほどのカナクチを切り、漆の樹液が出てきたものをトリベラでこさげ取り、竹のうるし筒に入れる。竹を湯でやわらかくしておいて縁を軽く叩き、ハケを出してトリベラから取りやすく工夫している。周囲三〇㎝、深さ二〇㎝ほどのもので、底部は桐の木で蓋をして漆で塗っている。このうるし筒に集めた漆をツツクリで桶にうつし、桶一杯で一貫目となった。なお、とれた漆の大半は今治市桜井の漆器工場へ出した。

 天然氷

 人工的に氷が作られる以前に、冬季にできる天然の氷を夏場まで、貯蔵しておき、夏祭や病人用とかに利用することがあった。その貯蔵施設を氷室とよぶ。松山市下伊台に「氷室」の地名があるし、長浜町の金山出石寺の山中にも、かつて「金山氷」をつくった氷室があったように、各地に氷室が存在したと思われるが、ここでは南予の鬼が城の山々にあった氷室についてみておくことにする。
 鬼が城山系には、氷室が滑床谷の梅が成付近にニ室ほど、大久保谷の寺ノ駄場に一室、篠駄場に一三室が残されている。うち篠駄場の氷室は、天然氷の採集方法やその量からみて他にまさっていたので、以下、篠駄場の場合についてのべる。
 一三か所の氷室は、エンヤガハナに七か所、中駄場に六か所となっている。いずれも自然の傾斜面の頂部にあたる位置に立地しており、氷室内の水はけをよくしている。
 平面は、方形ないしは隅丸方形で、竪穴の形式をとる。氷室の内側壁は野面積みの石垣であって、エンヤガハナの№3と№4の石垣の保存状態がよい。
 宇和島製氷株式会社が設立される大正四年以前には、これらの氷室をつかって天然氷が貯蔵されていたのである。
 〈氷棚〉 石などの混り物がない氷を得るには、氷棚を作る。麦撒きのおわる頃(一二月初め頃)、熊谷・桜水・大樅の谷・オタカ滝に氷棚を設けた。棚は、高さ二間ほどで、岩壁ぞいや狭い谷間に櫓のような形で組まれ、その一番上にハジキ板をのせて、そこに竹樋をかけ、落ち水を散らして氷の凍結を促す。
 〈氷の運搬―氷棚から氷室まで〉大寒のころに氷柱が発達すると、朝六時から夕方四時ごろまで、氷棚に凍結した氷をヨキ(斧)で、できるだけ大きい氷塊になるよう取り出しモッコやホゴで、三〇分以内で(距離で約二㎞)氷室まで運ぶ。男なら日に四往復し、一回につき三四~三五貫の氷を運んだ。ひとタマ五~九貫の氷塊を四タマほどずつ運ぶ。
 男は米俵をといたもので氷をくるんで、サシ棒にたて付けにして(横ゆれ防止のため)運んだ。女は一回につき一二貫以下の氷をホゴに入れて運んだ。運び賃は一貫につき七厘。一人当たりの日当は男で八〇銭~一円であった。一日の「氷にない」の参加者は三〇~四〇名ほどであった。こうして、氷とりの作業は、ひと冬に五日間ほどつづき、ひとつの氷室に二日がかりで、二〇〇~三〇〇貫の氷を貯蔵した。
 〈氷室での氷詰め作業〉 図2―43のように、氷室の底に木の板をしき、オガクズやナラ・カシワ等の枯葉と氷をたがいちがいに室内に詰めこむ。側壁との間にもオガクズなどを二~三尺の厚さにし、一番上層部は、雪でかためたり、オガクズでおおう。さらにその上は萱葺の屋根をふく。入口(氷の取り出し口)は、人の出入りがやっと出来る程度の高さにして、入口と反対の方にむけては斜めに丸木をハリとしてわたし、屋根をふく。氷の取り出し口は、石積みをした上に赤土をねったものをたたきつけて完全に密閉する。
 以上の氷詰め作業の始めと終わりには、氷社(コウリシャあるいはヒシャ。薬師谷の薬師神金吾が経営する天然氷貯蔵業の会社)が、権現様(鬼が城山系にある)の神札を受ける神事を行い、これを氷室に立てて氷の保存具合を祈念した。その際、酒肴が氷社から作業員に振る舞われ、その労がねぎらわれた。
 〈氷の出荷〉 旧暦六月一日以降に出荷され、それまでは病人用の氷に限り特別に取り出された。出荷には、強健な体つきの人夫が雇われた。一度に二〇~三〇貫の氷を竹籠で運ぶ。篠田徳治(明治二七年生)は、宇和島市の社会保険病院の地にあった氷問屋まで四〇貫の氷を一度に出荷したことがあるという。そのほか、日に二回(夜・朝)、吉田町まで二五貫の氷を運んだ人、御荘町の観自在寺まで夜中に運んだ人等について語り伝えられている。出荷の労賃は、氷屋渡しの計量によって計算されることが多く、その金額は、明治末期頃の一般労賃に対して一・五倍の一円二〇銭くらいであった。それは天然氷三貫匁の代金に相当する額であったという。平井作太郎(明治一一年生)は、津島町岩松の小西家の老婆の頭を冷やす氷一〇貫を運んで一円(一人役)をもらったという。これは例外の労賃の額であった。
 滑床谷の氷は和霊神社の夏祭りに売り出され、大久保谷の氷は権現様の祭り(旧六月一七・八日)にアザミ峠などの参道で売り出され、その残りは篠駄場の氷社に売却されていた。篠駄場の氷もまた、権現様や和霊様の夏祭りに氷社から神前に献上されるとともに、祭日に出荷販売されていた。
 〈歯固め氷〉 宇和島市周辺の南予地方には、氷の出荷がはじまる旧暦六月一日に、氷を食べると虫歯にならないとか、歯が丈夫になるという「歯固め氷」の風習があった。全国的に六月一日は「氷の朔日」といい、また宮中で氷室の節会が行われた日である。歯固めといえば、正月の餅をやいて食べるのが普通であるが、この宇和島地方の歯固め氷は、きわめて古風な習俗を伝えてきたといえる。
 高知県には、土佐郡本川村越裏門の手箱山に氷室があって、平安時代の昔から京の都へ献上するため氷を村送りで運搬していたといわれる。その運搬コースを「雪道」とよんでいる。今日、ほぼその雪道と想定されるコースに沿って「氷室天神社」とか「氷室天神宮」の名の神社が分布している。その祭神の多くは少名彦名命で、日本書紀では病気災害を払う呪いを教えた神として知られる神である。田中欣治は、氷室と解熱(医療)との関係に注目し、「氷の朔日」習俗が病よけの意味をもつことや、南予の氷室が薬師信仰と結びついていることを予想している。しかし、篠駄場の氷室の近くには、弁天さんをまつる祠のみで、田中のいう「薬師信仰」との直接的関連は今のところ明確でない。

 鉱 物

 〈砂金〉 銅山川流域の宇摩郡新宮村や別子山村において、大正年間まで、冬から春にかけての農閑期に農家の副業として、砂金採り(川受けともいう)をした。とくに凶作の年には盛んであった。新宮村広瀬の箱淵は、大水の時には多量の川砂が溜る場所である。その川底に砂金すなわち川金があったり、イソクサ・カヤツリグサなどの植物の根部に土砂とともに川金が沈着していた。
 砂金を採取する方法は、比重選鉱法である。その用具にネコダとユリバチがある。松・杉・トチの木などでつくられた木樋であるネコダは、多くのケタ(段)を刻んでいるので、砂金をふくむ川水をネコダの上からながすと金粒がケタのところにたまる。これをネコダナガシという。ネコダは一二~一五度の傾斜のある浅瀬に設置する。
 ネコダナガシによって金を含む砂が選別されると、ユリバチでさらに精選される。ユリバチは直径五〇~六〇センチくらいで、その中央に一五~二〇センチほどのくぼみがある。川水の中でゆすると、上ずみの土砂は流しすてられ、砂金は中央のくぼみに集まる。こうして選別された砂金を水銀の中に入れる。そうすると、砂は浮き、金は水銀の中に沈む。その水銀を鉄ナベで煮ると水銀は蒸発し、あとに砂金だけがのこる。あるいは鹿皮の袋の中に入れて揉むと、その毛穴から水銀がにじみでて袋の中に砂金がのこる。
 砂金取りの人たちは、適当に川で組をつくって、収穫された砂金を均等分にわけた。こうして取れた金は砂金買いがきて買ってくれた。
 新宮村大窪の古い家の勝手もとにはよくエビスダナがあり、正月にネコダやユリバチをそなえてまつったのである。また、金は貴重であることから、秘かに見つけた大粒の金を他人に見られまいとして、急いで口に飲み込んだという話や「砂金王」の桧玉作右衛門の伝承が新宮村大窪などに伝わっている。
 〈朱砂・その他〉 朱と水銀の原鉱が朱砂である。朱は、朱砂を蒸溜すると採取できる。顔料や防腐剤として古代以来、人骨や石棺に塗付されてきた。水銀は、第二硫化水銀を成分とする朱砂からとれる。来砂は、銅山川及びその周辺から産出したといわれる。
 その他、宮窪町余所国で切り出される大島石(花崗岩)、かつての別子山の銅、正倉院文書に「伊予砥」の名ででる砥部町の砥石、城川町窪野のオンジャク石などがある。そのうち、オンジャク石は蛇紋岩で、イロリで焼いた石をぬれた布で巻き、そのうえを乾いた布で巻いて夜具の中に入れて寝た。オンジャク石は、三滝山のツルツル石の中にある、角のとれた玉石のことである。いくら焼いてもボロボロにならないし、保温力もある石である。

 海・川の漂着物

 宇和島市三浦にのこる田中家(旧庄屋)文書をみると、宝暦六年(一七五六)のこととして、次のようなことが記録されている。「三崎之内 串浦ニて地下人 流寄物取隠置 相知レ多人数御仕(以下欠)」このことから、海岸に流れよったものが何であるかはわからないが、近世以来、漂着物を発見した場合には庄屋へ報告するなどの一定のきまりのもとに処理されてきたことがわかる。
 今日、中島町大浦では船が衝突して出来た流れものは警察にとどけている。工事用の小石や海藻をとるときは、漁業組合に歩銀をおさめるが、漂流して打ち寄せた海藻や流木は自由に自分のものにしてよい。それらを引き上げて乾しておくだけで、他人はいっさいこれらに手をつけない。中島町ではミカンの肥料として海藻を採ることが多い。石のイカリ・庭石・タクアン石等も自由に採ってよい。
 河川の場合でも洪水後に多くの流木・流失物を見る。別子山村瓜生野では、それらの発見者は、適当な位置に移動させて、その物件の上に石を二~三個置き、発見者としての権利(占有権)を主張しうる。流失物の持ち主が探しあて自分のものであることを発見者に告げて引き取ることがゆるされた。しかし、二~三か月を経過して持ち主が申し出ない時は、発見者の所有物となったという。
 松山市市坪では、田植え前や台風シーズンの九月ころ風呂焚きものの流木を拾いに重信川に出かけた。その占有権の標示としては、流木を寄せ、流木と流木の間に適当な棒をたてたり、大きい石をのせておく。流木は、乾燥しないうちに割ると、簡単に割ることができる。松野町蕨生では、石をのせておくほかにササ竹でゆわえておくことで流木の占有権を表示した。
 季節ごとの山菜などもまた、自然物採集の対象とされた。玉川町鈍川木地では、ワラビ・ゼンマイ・イタドリ・セリ・フキトリ・フキ・ヨモギ・ウド・ミツバ・スイバ・クジュウ(クサギ)・ツバナ・アマチャコ・タケノコ・ヤマユリ(根)・ヤマイモ・キノコ類(マツタケ・菜タケ・日本シメジ・ネズミタケ・ハッタケ・シイタケ等)を採る。佐田岬半島では、ツワ・ワラビ・ムラサキナバ等を採取する。城川町下遊子では、ワラビ・ゼンマイ・ウド・セリ・ヤマダリ・シメジ・ネズミタケ・マツタケ・フキ・ツクシ・ニラ・ノビル・九重菜・ミョウガ・スイジン・イタドリ等を採る(第一章「食」の項を参照)。

図2-42 氷室の構造(想像図)

図2-42 氷室の構造(想像図)