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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

六 淡 水 漁 業

 河川池沼などの淡水に生棲する魚類蟹類などは農山村の人たちにとって重要な自給食料であり、かつは換金魚獲物でもあった。海游魚捕採に必要な大規模漁具労力に較べるとまことに少ない仲間や組、あるいは個人で遊漁的に捕採してきた。しかしながら内水面漁業権は確固として継承されている。藩政時代すでに献上鮎が課せられていた肱川の鮎、広見川の大門鰻、西条乙女川のお川狩りなどは著名である。
 河川での採捕は藩政時代すでに届出がなされねばならなかったことが東宇和郡野村町でうかがわれる。

覚 簗関 二ケ所 野村 同一ケ所 釜川村 同一ケ所四郎谷村 同一ケ所明馬(ママ)村 〆五ヶ所  草関 一ケ所四郎谷村 一ヶ所鎌田村 〆ニケ所  右之通当辰秋御留川筋之如紙面関立候間此如御届申上候已上  壬辰十二月 蔵良村松本左半治野村 緒方与次兵衛 鹿村品助様 宮瀬三平様 松沢明之亟様

 野村町を経て肱川町・大洲市を流れる肱川はお川留めを監視するために鹿野川鮎御小屋番が置かねていた。とくに河川漁業では魚類の保護が重視され漁獲期間・場所・漁具・漁法などはきびしく制限されてきた。明治一二年の「漁業規則」はつぎのように内水面漁業右海漁業と同じく漁業規則によるべきことを定めている。

第八条 湖川ニ於テ漁業ヲ営ムモ尚此規則ニ準ス 然レトモ旧慣ノ據ルヘキナク或ハ望人多数ナル等ニ於テハ最寄村浦ニ広告シ入札法ヲ以テ収穫金高ヲ定メ貸与スヘシ 尤湖川漁場ハ漁区外タリ 但川裾等ニテ海面ニ接続シタル場所ハ此限ニ非ス
明治一八年四月二五目、布達甲第五六号「河川漁事制限之儀」でつぎのように規制している。
一、諸河川及ヒ海口ニ於テ毎年一月一日ヨリ五月三一日迄鮎児漁業ヲ禁ス 但シ普通釣業(餌釣及ヒ蚊頭釣)ハ此限ニアラス一、諸河川及ヒ海口ニ於テ爆烈薬及ヒ注毒(石灰煙草山椒皮汁等ノ類モ含有ス)捕魚ヲ禁ス  一、伊予国喜多郡肱川筋柚木村字作場後ヨリ阿蔵村字柿ノ木瀬迄ハ該川ノ養魚場トシ水族産育ノ淵源トナシ一切ノ漁業ヲ禁ス 但シ時宜ニ依リ一時漁業ヲ特許スル事アルヘシ  一、肱川本支流ニ於テ瀬違漁及ヒ懸ケ鮎漁業ヲ禁ス  一、肱川本流ハ喜多郡大谷村字石丸其対岸東宇和郡予子林村字硯見通シヨリ下流海口ニ至り支流小田川ハ喜多郡大瀬村字梅津ヨリ鹿野川ハ同郡山鳥坂村字カジ谷ヨリ本流ニ至ル迄ハ一般ノ禁止後(六月一日後)ト雖モ毎年十月三十一日迄は○投網○ナケ網○サデ○ヤス○四ツ手網〇桶漬及ヒ石班魚引ノ外各種ノ漁具漁法ヲ用ヒ漁業スルヲ禁ス 但シ無害ノ旧慣漁法及発明又は改良ノ漁具ハ之ヲ特許スル事アルヘシ  一、右各項ニ違背スルモノハ本県違警罪第一条ニ依リ処分ス