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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

五 漁 獲 分 配

 四歩六制

 文化三年寅年三月一五日、御手洗庄兵衛実道が御手洗庄吾に宛てた「網方譲り状」(i)に

 一、七歩三中魚 一、菜色時見合 一、番魚 右同断 一、交魚 年中の苫代 一、高引 定之通 一、玉取供六人廻り 但壱人づゝ、尤手船より壱人出之、右廻り当番之者えは村君より見合にてほね折可遣 一、小廻 壱人づゝ 但壱桶遺之時見合
一、代参ハ村君中供六人之内可指遺 一、荒手分三歩方より仕出 一、船一宇 七歩方より仕出 一、多がい不残三歩分方より可指出 一、たで草右同断 一、網蔵屋根替へ 手飯米之事、藁縄三歩方より可指出也 一、村君九分口 不仕出之

 安政二卯年正月一一日、庄屋所が所方網子中へ〝仕栄え通可相心得事〟と示した「網方定法改正之事」(ⅱ)に

一、網方仕成向網井船等は不及申、大引縄類、苫、たがひ等に至迄、不残網方構之事 一、御鰯俵前々網子中構之処、此度より網方構、仕成向は網子ども可致事 一、漁事高之内壱分水魚にて計渡之事但糞等相済候得ば網方へ相渡可申事 一、高引是迄之通 一、歩分け之義は七歩網方へ、三歩網子中之割渡可申事 一、ぬれ魚、小廻、たま取として、高引に残高壱貫目に三拾目づゝ可相渡事但、拾匁ぬれ魚拾匁小廻拾匁たま取 一、網蔵屋根替、網舟等團峡節は、葺茅網子中構之事 一、網船、手舟、たで修理網子中可致事、尤たで草網子構也 一、風雨之節船潔、朝夕汐掛け、無油断可致事 二漁事之節放しもの者、三歩之菜計分け遣し、三分は不相渡事 但網乗本人諸役に参候而放候節は、三歩可指遣、家内にて諸役に参若網乗本人不参之時は放に可致事……一、表書之通申渡候、是迄仕栄え義相変り候而も如何敷儀故、以来は握菜井酒等呑候儀も考滸可仕候間、何様是迄之通呉様再度断出に付、格別之以了簡を当壱ヶ年左之通相定中聞候処、一統承知之旨正月十九日横目半兵衛より中出る 一、引高之内にて雑用引、残高を壱貫目に付弐拾目小廻相渡、全
残六分網方へ受取、壱歩菜三分網子歩分け都合四歩相渡遣し、漁事之節ざる拾盃迄は表柄長壱つ 廿ざるにも相成候はゝ手船に有之二升入柄長壱杯づつ、其余は其時々出精次第に而可指遺、尤是迄之通多分は不指避事、尤一日に壱度限網番数遺候とも決而不指遺候間其旨可致承知、萬一心得違のもの有之多分菜等貰度中出候に於ては表書定之通可被計事 但村君は、七分に三歩に相成候はゝ壱口半可指遺事 一、たまとりは骨折候ものへ、時々見計にて可指遺事

とある。両書は『吉田藩漁村経済史料』に収録され、漁獲分配についての取り決めを記す。網師と網子の代分けの基本的取り分はいずれも網師七歩・網子三分と定めている。しかしながら後書(ⅱ)においては、安政二年(一八五五)〝当壱ケ年〟は「六分網方へ受取、壱歩菜三分網子歩分都合四歩(網子へ)相渡遣」と、網師六分・網子四分を実施している。これとても現状六分について網師側からの七分改訂要求に対し、網子側が〟是迄之通致呉様再度断出〟たので網師七分が実施できなかったことを物語っている。吉田藩においては前書(i)のごとく七・三代分けの例もあったが、大部分は六・四代分け制であった。
 御郡所からの享保一二年(一七二七)七月二六日の文書「大島浦網定之事」には「一、年中干鰯仕立申節、浜にて四歩六歩に引分受取可申事」とあって、さらに「一、年中引立之儀、今年より六歩方へ引受干可申由申出候処、近年地下人痛申に付以了簡中干に申付候、若時節に寄六歩方不勝手之義も有之候時は、地下人より無異義六歩方えも干させ可申事 四歩方出し目、或者藁大引縄、其外従先規相定る四歩方入用分無手支様可仕事」とあって、網師は「六歩方」・網子は「四歩方」と称されている。しかしながらこの六・四制が定着した時期については分明でない。文化六年(一八一二)、吉田藩法華津湾六ヶ浦網師が御浦方役人に提出した文書には「一、歩分之儀、七三・八二・四六・或は廿人網様之浦々に而仕栄御座候に付、只今相改候時は至て及面倒可申と奉存候」とあって代分けが浦々によって一定でなかったことを示しているが、天保三年(一八三二)八月二二日、御浦方役人が漁夫を召寄せて読み聞かせ仰せ渡した文書の写しには「漁事之時分網子への分魚浦々並々趣相聞候其時々一宇浜揚四歩六歩に分に可取計事」と六・四制で取り計うべきことを明示している。さらにこれが定着したとうかがわしめるものに天保八酉年二月九日の立間尻浦庄屋御用掛清兵衛の「網二歩分け之事」の冒頭に「一、大網小網漁事候節高引残四歩六歩定 一、六分は網方へ受取 四分は網子中え相渡」の記事がみえる。以後、天保一一年四月御浦方覚「漁事之節魚歩分之儀は一宇汕上にして左之通計可申事 六歩網師 四歩網子」の類の記事が少なからず見受けられる。六・四代分け制が天保の初め頃から一般的になったであろうことが推測される。「六歩四歩」といい「四歩六」というとき、それは網師六・網子四を示すものである。漁業の雑用のすべてを差引いた漁獲高を一〇で割り、その六を網師が、四を網子が取ったのである。日振島ではこの四歩の配当を四歩のアタリといい割り戻りとも称した。

 雑用
 
 網師・網子間の代分け比率は表面まことに簡明であるが、実際の取高計算にあたっては漁船漁網漁具の推持・操業に要する直接経費などの〝雑用〟の複雑さが浮かびあがってくる。諸魚五分一の運上も雑用の一部であって、総漁獲高から網師網子両者が負担すべき雑用を差し引いた残りを四歩六に代分けしたのである。網船漁網は網師の、手船は網子の負担であるが、両者の共同負担となるべき雑用として日振島では飲食費・諸初魚・浜年貢・漁業税・網染燃料・菜の魚その他代分け以外の配当が挙げられる。天保一一年(一八四〇)庚子四月の宇和島藩御浦方の「覚」に「一、漁事祈祷入用並焚寄松代、時に網子へ為給候神酒或は飯米、其外網方要に付所々へ出役之節、修(ママ)入用等四歩六歩割合、六歩網仕四歩網子相辨可中事」とある。
 (1) 諸初魚 年頭の乗り初め、漁期の始め不漁の際の漁祈祷、和霊神社祭礼日における網霊(エビスアバ)に対する大神楽、その他関係神社への初穂料などの費用は諸初魚と呼ばれて雑用とされた。また高知県幡多郡四万川の龍王様への参詣奉納金も諸初魚として処理された。
 (2) 浜年貢 網干しに使用する浜の借地料である。「網干場之義浦々勝手ヶ間敷仕業も有之哉に相聞不相当之事に候 何れ之網も成立候様一統可相心得事(網方心得之写)」とあるように浦方においては網干場を確保することは網漁業にとって必須の条件であった。網干場をつぶして居家地としたり耕地にしたりするのは勝手がましい仕業であり不相当な事柄であった。網干のための浜が私有地であれば浜料を出して借用しなければならぬ。
 (3) 菜魚 雑用にくみこまれる配当のうちサイまたはサイノウヲと称せられるものは「一、菜魚 時見合」(網方譲状)とあり、「菜魚望候はゝ油揚置候手船之魚時々菜魚に遣可申」(伊方浦漁夫総代渡辺金蔵所持文書写)、「前々より菜魚と名付網子共に遣来候由前格之通配分可中候乍然猥成義無之様網子頭取之者より請差図配分可申事」(網方掟)と藩より分配について達を出していたが配当の割合いは定まっていなかった。その後、天保一一年四月の「覚」には「一、菜魚之義は引立二十桶以上有之時は二桶網子、一桶網仕(=網師)  一、同十桶より二十桶迄は壱桶網子、五合網仕、附り、六十桶以上相応溜り候節は、中魚に応じ時に見計を以て二桶三桶も余分に網子へ遣可申事、尤右魚は網子(仕カ)手元へ買取代物遣可申事 一、村君の者へは四歩割合の外、五十桶引候時一人に付二合五勺宛、百桶引候時は一人に付五合宛、其余多分とも右割合にして遺可申事」とあるように藩は菜魚の細部に至るまで規制を加えてくる。菜魚配分割合も天保のころ定まったのであろうか。日振島では菜魚は一桶三斗三升入りのハカリ桶で水揚百桶につき生魚五桶で、これを網師・網子で折半した。吉田町玉津では水揚の一割を菜として取り一六人の網子に平等頭割りに分配していたという。
 (4) 骨折・たいし玉取・番の魚・ネヅナ・弐歩魚 「網子之内たいしと名付又玉取と名付候而網船繋修理致候之者、漁事之節魚すくひ候者杯へ為骨折と引立水魚少々つゝ前々より遣来候由聞届候間、前格之通村君見合を以可遺之事(寛政七年五月・吉田藩網方掟)」、「一、たいし玉取賃御定八桶にて受取可申事(享保一二年七月二六日・大島浦網定之事)」、「一、番魚 時見合 一、玉取供六人廻り 但壱人つゝ、尤手船より壱人出之右廻り当番之者には村君より見合にてほね折可遣(網方譲状)」、「タイシ 網子中の当直のもの(享保一二年)」、「番の魚たいしに遣ス魚(文化三年)」などにそれぞれ、たいし・玉取・骨折・たいし玉取・番の魚の名称が見える。また、…「一、ぬれ魚・小廻・たま取として高引に残高壱貫目に三拾目つゝ可相渡事 但拾匁ぬれ魚 拾匁小廻 拾匁たま取(安政二年正月・吉田藩網方定法改正之事)」、「一、小廻 壱人つゝ、但壱桶遣之時見合(網方譲状)」には、ぬれ魚・小廻の呼び名がある。日振島に於ては対子とは網子のうちの当番役をいい、この当番が受ける配当を番魚といった。対子は村君や網廻しを除く一九人の平舸子に七~一〇日目ごとに廻ってくる役で、一網はトモダイシ・アバダイシ・アカマダイシ・オモテダイシの四組に分かれ、一組は四~五人であった。当番組はその当番時の漁獲高の約百分の一を当番として配当を受け、組の者へ平等に分配した。船の淦取りや風雨荒天時の船繋などがその役であった。鰯揚げの時には網子が当番で庄屋の籠に鰯を揚げた。三斗桶に二五杯の鰯を揚げるのを対子としての骨折一人役としていたので五〇杯の漁獲の場合は二人役となった。二四杯以下のときは無役であった。骨折一人役は三斗桶に六合の鰯であり、無役は三合であった。これは玉取りと称せられる雑用であったかと思われる。村君・網廻し・浮子置き・沈子置き・艫押しには水揚の百分の一のネヅナを充てた。天保一一年の覚に…「一、村君之者へは四歩割合之外、五十桶引候時一人ニ付一合五勺宛 百桶引候時ハ一人ニ付五合宛、其余多分とも右割合にして遣可申事」…とあるのはこの配当を指したものか。また…「引立諸魚弐歩通者網子之者共へ配分可申、右弐歩魚之外前々より菜魚と名付(寛政七年の五月・吉田藩網方掟)」…とある弐歩魚もこれに類した雑用であったかと想像される。
 (5) 魚貰・貰魚 鰯網置時は魚貰舟須叟にして雲の如く集まり、その網曳を助け而后魚を貰帰、これ又風習なり(漁業図説・鰯網解説)、一、漁事之時分魚貰之者数多有之趣相聞不〆之事に候 以来其網付之外無用之事に候 右者猟場にて手伝等致候者へ村君了簡次第之事(天保三年八月二二日達書・網方心得之写)、貰魚之義余方に不散様太段網付網子家族之外は一切遣申間敷 乍去手伝等致候者へは村君了簡次第之事(八幡浜市向灘大網師田中新平所持文書)にいう貰魚は臨時雇(加勢人)への配当であって、網操業の責任者である村君の裁量による臨時分配であった。日振島ではヤトヒド一五人には水揚高の百分の七程度を分配していたという。なお「今に大網の引あげにはモラヒドと称し人々漁船に寄り集り抄手網を出して沢山の魚を乞ふ習慣あり、漁獲少き時には貰人の方却て多くの魚を得る事等珍しからず(日振村誌)」とあるのは菜引の習慣があったことを物語るものである。上述のほか雑用には諸魚五分一運上や献上鰯などがある。
 (6) 灰掻 網子に分配される鰯はその少量を食料とし、麦・甘藷のための必要量の肥料としたほかはすべて網師が買集めて干鰯肥料とした。「鰮網曳子の歩取魚は干鰯に製するを得ず、自家用の肥料は他に売却せしめざるか為めに、土灰を交へて之を製せしめ、灰掻と名く」「鰮自家食料(給魚を云)の外は少々たりとも庄屋網師手元へ買集せしめ、網曳子等に於ては干鰯を製するを得ず」「貰魚等は庄屋又は網師手元へ買戻し干鰯を製せしめ、漁師共直売又は品替等を為すを禁ず」と、網子が干鰯を製造することを厳禁しているのは干鰯が藩の専売品として藩財政の収入源の一つとして位置づけされていたためと思われる。

 繁栄重宝記の漁獲分配

「田中氏舎則」第四十四条は漁獲分配を規定する。

……漁業上二係ル収穫(ママ)費用ノ分賦出納法ハ左項ニ依り之ヲ配当ス但収穫(ママ)高一割ヲ以テ特有漁具ノ経営ヲ負担セシムルトキハ特有漁具ニ係ル網元所得ヲ減シ其受負者ニ之ヲ分与スヘシ、第一、定雇漁夫ノ営業ニ対シ常用漁具ニ係ルモノハ其高十分ノ六分ヲ網元四分ヲ本漁夫ニ、又特有漁具ニ関スルモノハ其高十分ノ七ヲ網元三分ヲ本漁夫ニ所得ス 第二、臨時雇漁夫ノ漁業ニ対シ常用漁具ニ係ルモノハ其高十分の五ヲ網元 二分ヲ定雇漁夫 三分ヲ臨時雇漁夫ニ将タ特有漁夫ニ所得ス 第三、他村漁夫ニ対(ママ) 与シ特有漁具ノ営業ニ対シテハ其高十分ノ五ヲ網元 二分ヲ株主 三分ヲ当業漁夫ニ所得シ、株主ヨリ手船(朱書・漁船及荒手船)二艘其付属品並ニ干場等ノ供給ヲ請求スルモノトス(朱書・但第三十九条ノ後文ニ依リ特ニ経営ヲ委ネ常貸スル場合ハ第二項定雇漁夫の常用漁具ニ係ル配当ニ同ジ (貼紙)第三、他ノ営業者ニ特有漁具ヲ貸与漁業セシムルトキハ其高十分ノ五ヲ網元 二分ヲ株主三分ヲ該漁夫ニ所得シ株主ヨリ漁船及荒手船並ニ其副漁具干場業ノ供給ヲ請求スルモノトス 第四、特有漁具ノハツ(魚へんに發)袋ハ前項ニ依ラス特ニ損料トシテ自他一般其高一割ヲ網元ニ所得シ該売捌費ヲ除ク外費用ノ課賦ヲ負フコトナシ……。

 田中氏が網師として営む常用・特有漁具(三七〇頁参照)操業において、定雇漁夫・臨時雇漁夫網子との代分けを規定したものであるが、さらに以下において水魚等の処理法・経理・漁事担当者を定めている。

 ……第五十一条 捕魚ノ大魚ハ中売ニシテ金員トシ小魚ハ水魚ニシテ量立第四十四条ニ依リ其都度配当スルモノトス 但シ交リ魚ハ中売トシ其金員ヲ網元ニ預リ以テ中入費ヲ仕払毎節朝勘定相立分当スヘシ 第五十二条 網元所得ノ水魚売捌余ハ本舎ニテ適宜製造シ其煮干ハ斗桝八三法ニ依リ取粕ハ拾六貫目ヲ干鰯ハ(五桶込卜称ス)無塩製拾弐貫目塩用製拾貫目ヲ一俵分凡袋込ノ定量トス 但水魚ハ都テ水魚桶摺切量ヲ以テ受授スルモノトス 第五十三条 網元経理ニ係ル漁具ノ管理及遣村君兼漁業上ノ監督並ニ特有漁具ノ経営八本舎地方在監護者ヲシテ担当セシメ 水魚量及魚製ノ処理並ニ魚製器械ノ管理ハ本舎家僕ヲシテ之ヲ担当セシム 第五十四条 漁事担当者ハ平素其業務ニ従事シ特有漁具ノ経営或ハ魚製及其器械ノ整理上ニ付繁忙ナルトキ八本舎ノ援済ヲ請求シ尚補充員ヲ要スル場合ニ於テハ舎首ノ認可ヲ得テ老若ノ薄給者(賃銭ハ通常ノ八掛以下トス)ヲ当雇シ遊惰ニ流レサル様監督使役セシムヘシ

 なお明治二一年の「田中氏舎則」には「繁栄重宝記」に条文化されていない旧慣のいくつかが散見される。手助人・加勢人・揚子・村君への慰労手当、菜の魚、基中入費(雑用)などの実態を推測することができる。

……慰労手当の給与方は手伝加勢人へは捕漁見込高百桶に付一人前上(五合) 中及加勢人并に船(三合五勺) 下(一合宛)(大地引網は半減とす)沖にて其都度手伝加勢に参着したる者に限り尻口網(不明)にて魚積船を十分に操出し網を離したる后(未だ網を離ささる内に押掛る船へは末尾の了りにて給与すへし)右の割合を以て量り与ふ 尤も手伝人は其証票と人面を目的に加勢人は其の証票と引換に給与す(参照三七二頁)又た水魚の揚子を使用したる節は其の揚子中へ収穫高百桶に付一桶の制合を 又村君ヘ一回分五十桶或は五十桶毎に桶或は一円を陸揚量立の上之を給与す 但捕魚の侭を直売する時は手助加勢人中へ高一割を此外は右に準し追て其代金を授与すへし 右の外網遣の際参着せさる手伝人又は加勢人の証票なきもの或は村君中へ給する収穫高未満の端数
に対する割合若くは交り魚に係る分又は網遣するも魚無き節其他右給与定外の輩等へは一切魚及其代金を与へさるものとする外に網子菜の魚は一日二度(一日一度の網遣なる時は其限りとす)以内に止め一度分凡一桶(中魚少き節は此限りに非ず)以内の見合を以て魚 救(ママ)ひ終たる上之を与う 且又目に指(ママ)たる魚の二桶以下と認る際は之を網子へ与へ其の余と思料する際は中魚に出さしむへし 若し魚の間を越させ又は下を潜らする等不正の所為ある時は更に亦之を中魚に出さしむ 右の授与は都て捕漁高の内より支弁する
 収穫及費用の分配当は前項の慰項の慰労手当を給与したる残高の六割(大地引網は七割)を網元、其四割(大地引網は三割)を網子の配当とす 但臨時雇網子に係る時は其高割を此定雇網子の所得とし左の経費も此割合を以て支出す 則ち基中入費に充る費目は官令又は網方の規約に依り支出する金品又は焚寄の松代或は魚中売用の諸費並に毎年一月二日網子役定の上其祝ひ儀式料として網子へ与る酒一斗米一斗五升金廿銭及び網結(網子の掛らさる時は此限に非す)又は収穫予定額の倍当を得たる時毎に慰労として網子へ与る印し御酒四升(小網は酒二升)と定め其他は倹約して教具費を用いさすものとす 尤も他人より酒等を貰ひ之か返礼と唱へ中魚より与ふることを得す 水魚量は網元の家扶をして掌理す 尤も摺切計とす

 共栄網の漁獲分配

 双海町上灘共栄網の持株組合員制における漁獲分配はその細則の第四章配当及損失・第五章経済・第六章救恤・附則・協議事項の条項において出欠勤に応ずる配当、財産負債の分担責任、日待神事、製造、共済などの細部を規定している。第三二・三三条においては無出勤にて配当を受け得る寝代銀規約が明記されているのが注目される。

第四章 配当及損失  第三十条 統制網ノ漁獲ハ全部平等ニ廻配シ値立ハ浜帳台帳係協議ノ上決定スルモノトス  第三十一条組合員ハ浜価漁獲高ノ十分ノ四ヲ必要経費トシテ収入役ニ於テ其都度先取スルモノトス  第三十二条組合員中ノ冠婚葬祭及直系傍系ノ尊族卑族家族近所各種見舞公共ノ同(ママ) 務ノ場合ハ其旨役員及歩帳係リニ通知シタル時ハ一昼夜ノ休暇ヲ与へ尚正当ノ理由アル日数ヲ要スル場合ハ之ヲ追加スルコトヲ得  第三十三条 前条ノ場合ハ無出勤ニテ配当ヲ受ケ歩帳ハ半額ヲ記入スルモノトス  第三十四条 欠勤者ハ正当ノ理由ナクシテ欠勤ヲ役員歩帳係ニ通知セザリシ者ハ欠勤者トシテ左ノ各項ニ該当スルモノトス 一、欠勤者ハ漁獲物ノ配当ヲ受ケ製造シ浜価ヲ徴収ス ニ、欠勤者アル時ハ浜価四歩ヲ組合へ置キ七歩ヲ其時ノ出勤者へ金ヲ以テ配当ス但シ浜価四歩ノ配当七歩トハ浜価ニ対スル一割ノ増額ヲ云フ 三、欠勤者アルトキハ台帳掛ハ一番毎ニ漁獲高ヲ明記シ決算ヲ行フ 四、欠勤者 エ(ママ)ハ第一着ノ網干修理ニハ歩帳全部ヲ記入スルモノトス 五、欠勤者一月ヨリ四月末日迄ハ巾着網地曳網共其ノ網ノ鰮ヲ計り終ル迄ニ帰着シタル時ハ其網ノ分ノ配当ヲ受ケ得ルモノトスル但シ一月ヨリ四月末日迄ハ神仏参拝ハ認メ欠勤ノ場合ト雖モ歩帳ハ半額ヲ記シ其他ノ月ハ欠勤者トミナス 六、前項ノ期間以外ハ巾着網ハ鰮ヲ手船二取り終ル迄地曳ハ下先先(ママ)ガ掲(ママ)ル迄ニ帰着セザル時ハ欠勤トナルモノトス但シ帰着ヲ証スルニハ収入役ニ通告シ山見ハ山ニ船ノ者ハ網船ニ追掛ケルモノトス 七、組合員ニシテ本人及ビ家族ヲ問ハズ組合員ノ意志ニ反シ勝手ヲナシ出勤セザル時ハ製造ハ勿論株ニハ無配当トナス八、組合員ニシテ徴用及家長ナキタメ出勤スベキ家族ナキトキハ製造ヲナサシメ株ニ対スル配当ヲナスモノトス 九、歩合四分(必要経費)ト定メタルモ不足ヲ生ジタル場合ハ総会ノ決議ニヨリ徴収スルコトヲ得  第三十五条 組合員ハ六ヶ月以内ノ病気ノ場合ハ暦年末迄無出勤ニテ配当スルモノトス但シ歩算用ハ半額ヲ出金セシメ以後ハ代人ヲ採用シ病気卜雖そ第一回目ノ漁獲シタル日ヨリ通算シ年末以後ニ渡(ママ)リタル時ハ出入迄トス  第三十六条 出勤歩ハ一日金七円トス但シ歩不足ノ時ハ不足者ヲシテ其ノ仕事ニ当ラシム  第五章 経済  第三十七条統制組合ニ生ジタル負債及財産ハ組合百二名ノ平等負担及権利トス  第三十八条 組合員ノ正月二日ノ乗始式ハ酒四升ヲ以テ行フモノトス  第三十九条組合ノ日待祭ハ正月十一日トシ徹夜ハ七月末若宮社、八月十四日天一稲荷神社、九月好日三嶋神社ノ三度トシ、旧八月一日ヲ竜宮祭トシ神事ハ神職ト宿主人及専務補佐役卜限定ス 但シ経費等ハ其都度役員会ノ承諾ニ依ルモノトス  第六章 製品  第四十条組合員製品ハ漁聯ノ指揮ヲ受ケルモノトス第四十一条製品扱ノタメ代表者ヲ以テ之ニ当ル 製品掛ハ製品販売ノ事務ヲ担任ス  第七章救恤  組合事業遂行ノ為メ死亡シタル者ハ弔慰金トシテ株主曳子ヲ問ハズ金五百円ヲ救漁獲分配資金中ヨリ給与スルモノトス但シ負傷者ハ其時ノ軽重ニヨリ協議ノ上最大ノ救護ヲ決定シ金額ヲ支給ス  附則  第四十四条 第一項 曳子ノ歩合ハ五分 歩出シハ四分 株配当ハ一歩トス 但シ此ノ定メハ毎年通常総会ノ決議ニヨリ決定スルモノトス 第二項 漁獲物配当ニ関シテハ従来ノ計子ハ一般ヨリツノリ計賃ヲ十五銭ニ引上指揮者ヲシテ混雑ヲフセグコト 第三項 サイモラヒ 組合員外ノ子供等ハ絶対ニ船ニ乗ラサヌコト若不心得者ノアル時ハ本人ヲ仕事場ニ使ハヌコト 第四項 他町村漁業ニ従事シタル場合ノ費用ハ各自弁トス 第五項 郡中其他ニ避難ノ場合宿泊食費ノ正当ナル実費ヲ支給ス 第六項 組合権利内ノヨウ(魚へんに庸)漁業ハ一号二号交替ニ大網使用及巻網使用者トシテ自弁ニテ漁業ニ従事シ一尾タリトモ私シセザルコト若シ違反シタル時ハ其時ノ漁獲配当ヲ没収スルモノトス  決算参考 漁獲高百円ニ対シ五十円大網、五十円ヨウ網(四分網子 六分ヨウ網)  協議事項 昭和二十六年十二月二十三日 株主ト曳子ノ歩合ヲ変更セリ 株主五分五厘、曳于四分五厘

 組合の日待祭 第三九条は共栄網としての漁祈祷・漁祭りを規定している。権利と義務の明確化をはかり網運営の近代化をめざした規定ではあるが、旧来の慣行の成文化であることは否めない。ことに信仰行事までが規定条文に示されていることは漁業慣行の強固さを物語る。日待祭を新聞記事はつぎのように報ずる。
 凍る夜空潮垢離厳し 豊漁願い伝統行事 双海 若者13人がアタック …伊予郡双海町の新春の伝統行事「おひまち」が十一日未明、同町小網の海岸で行われた。おひまちは、寒中の海で潮垢離し、大漁と海上安全を祈願して餅と注連縄を奉納するもので、百年以上も同町の漁業関係者の間に受け継がれている。今年は、小網地区の若者十三人が、身の凍るこの寒中行事に挑戦した。午前零時。肌を剌すような寒気の中、若者らは小網公民館に集まった。ここで餅搗・注連縄作りの準備。やがて午前一時も過ぎたころ、全員がおもむろに服をぬぎ始め、向かいの海岸へ。そして注連縄に使う藁束を片手に、一糸まとわぬ姿で次々海ヘザブンと飛びこんだ。海中は、手足がしびれ感覚がなくなるような冷たさ。「網玉」の力強い掛け声が闇の中に響きわたる。藁束に潮水がしみ込んだのを見届けると一気に岸へかけ上がった。海で体を清めた若者らは二班に分かれて餅搗きと注連縄作り。炭火で暖をとりながら約一時間がかりで作業を終えた。このあと注連縄や搗き上った餅を漁業関係者に配るまでのしばらくの間、大役を果たした若者たちはホッとした様子で杯をくみかわしていた。(昭和58年1月12日付・愛媛新聞朝刊)

 流寄鯨 鰯を追って宇和海に入った鯨は荒磯や砂浜に打ち上げられたり、浅瀬や入江に迷い込むことがあった。捕獲した鯨は入札によって落札され、価格の三分の一は地元の取分とされ、三分の二は藩に徴収された。

一、鯨 ながれ寄候時、直段は入札にさせ落札にて三ヶ一其所へ被下置、三ヶ二銀子にて公儀へ差上候事、附、身鯨油他領へ積出候時は、御札銭地船は壱艘三匁三分、旅船は六匁三分之事 五分一なし、片岡伝兵衛岡田彦右衛門支給の時如此、
 銀一匁三分 魚之油壱升之直段、但町外右油直段、寛文十年戌三月二日極、御町問屋与左衛門判、立間尻庄屋八郎右衛門判、御肴屋之権之進判
 銀一匁 鯨六百目づゝ、是は寛文十一年亥正月十日、立間尻にて生鯨子引申、大洲へ歩行越仕度由申出に付、如此に直段定、尾田五左衛門殿御判(『郡鑑』諸魚御直段付之事〕

 日振島・鰯船曳網

 明治中期から大正年間における宇和島市日振島の漁獲高分配法は藩政時代からの旧慣の名残りをとどめた「四分六制」であった。網師によって若干の差異はあったが大略下記のとおりであった。(イ)総漁獲高から一年間の雑費(雑用=操業経費)を差引き、残額の六割を網師が、四割を網子が収めた。網子はこれを平等に分配した。この配当を「四分当たり」と呼んでいた。雑用としては一年間の飲食費・諸初魚・燃料・漁業税・浜年貢・染料・菜の魚・賞与・骨折り・祝儀及び通信費が計上されていた。諸初魚は神職への謝礼が主たるもので年間四~五〇円程度、浜年貢は網干浜の借地料四〇円ぐらいであり、祝儀は網師の奥さんに対する網子からの謝礼である。(ロ)賞与は総漁獲量の十分の一をさらに八〇等分し、役付により定められた歩代(=配当率)に従って分配した。網遣い最高責任者である大村君は七口、三人の村君はそれぞれ六口、艫押二人・浮子置二人・浮子置二人の計六人はそれぞれ五口、セガイ押・内櫓押の各二人あて計四人はいずれも四口であり、残りの九ロを隠居役の大脇押・小肱押・少年乗組員カジコ・中櫓押等一〇人余りで分配するのが基本的な慣行であった。
 いまかりに一年間の総漁獲高を二、〇〇〇円とし、これを上記により具体的に示すとつぎのとおりとなる。
 まず二〇〇円の賞与を含む雑用を六〇〇円と仮定すればその六割八四〇円か網師、四割五六〇円か網子の収入となる。五六〇円を二五人(網師自身も一口分の配当を受ける)の網子が等分するから一人当たりの年間収入は二二円四〇銭である。これに総漁獲高の一割を算出した雑用たる賞与二〇〇円に役付割合を乗じて算定した各人賞与を加えると次のようになる。
(ハ)例外としてタイシ・バンノウオ・イワシアゲと称する(骨折といわれる)特典があった。タイツは五~七日ごとに担当する網船の世話役である。表・胴の間・脇の間・艫の間の四人一組のなかからそれぞれ一人あて輪番で当番にあたった。当番期間における魚獲が二斗桶で(ⅰ)一七以上三三桶までは一桶(ⅱ)三三以上四八桶までは二桶(ⅲ)以上一六桶増えるごとに一桶を増す魚獲高を四人で等分に所得した。なおある時期においては漁獲高の百分の一を番魚として等分していた網もあった。鰯揚げは漁獲魚の陸揚げに応じて出された骨折であって、二五~三〇桶を一人役と定めその倍数桶ごとに人数を増し、作業従事者にその現物および帳面上での三合宛の特典を与えた。この特典算出法はまことに複雑で当事者である網子さえ計算方法は理解できなかったという。(ニ)病気不参事故欠勤は一日当たり一〇~一五銭程度の不参金が課せられた。二五人制の網遣は操業の最低要員であり、かつ網操業が緊密な共同作業によるものであることから欠勤不参は極度に避けられねばならなかった、年間皆勤者は不参金合計を等分に褒美として分与されたが、皆勤は仲間に対する誇りでもあった。(ホ)しかし漁業慣習・社会通念による不参欠勤は出勤とされた。一般に寝代銀といわれるこの制度の主たるものに(ⅰ)赤忌(結婚二日、男児出生三日、女児出生六日)(ⅱ)黒忌(家族死亡七日、親戚一日、法要一日)があった。(ヘ)以上の諸要素を織りこんだ個人の年間収入は一一月末に決算された。

表2-2 鰯船曳網の漁獲分配一覧

表2-2 鰯船曳網の漁獲分配一覧