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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

三 漁     船

 和漁船を見うけることがもう稀になってしまった。漁法の規模が大きくなり、操業場所が沿岸をはなれて遠隔海域にひろがり、かつは養殖・培養漁業が企業化して地先海面を埋めつくした。くわえて漁船の動力化は手押櫓による網船とその漁撈組織を消滅させた。時代の趨勢である。近時、わずかに小型漁船としてその命脈を伝えていた木造舟も化学的材料によって押型によって製作される。船大工の技術は伝統工芸として伝承さるべき運命にある。ましてや和漁船造船儀礼や禁忌などの心意伝承が徐々に漁業従事者たちの心からその姿を消していくのは当然のことであろう。しかしながら漁民の固陋ともいえる伝承意識のなかには船霊信仰などは強く生きながらえている。海という自然への憧憬と恐畏・不思議が鋼製大船漁船の船橋に船霊さまを祀らせ、豊漁希求が網霊さまを尊ばさせている。昭和三七年、西海町を採訪したとき、すでに二艘一組の網船は陸上に揚げられ、傍には手船がカワラを上にして伏せられていた。沖合には真珠養殖の筏が浮かびはじめていた頃であったかと思われる。網船による漁業が養殖漁業に転じ、もはや漁撈組織としての網船操業に必要な構成員を確保できなくなったこともその原因であったかもしれぬ。しかしながらその目の前の海上には真網船と逆網船の一統の網船が舫っていた。思えばこの頃が南宇和郡のみならず宇和海全般においても和船網船の消滅の時期であったのではなかろうか。
 和漁船の構造は船底板(カワラ)・底外板(カシキ)・船側外板(タナ)の三枚が縫い合わされて縦の船形を作るのが基本である。内側を横に支え、縦三枚の板を船形として保持するために横並びに何枚かの戸立板(船梁)がある。
 船大工の親方は棟梁と呼ばれた。現場作業の責任者は浜大工であって、その指揮のもとで船大工がそれぞれの部署で作業をした。船大工は多いところで二〇人ほどいた。住み込みの弟子がいて仕事を習った。弟子には定給はなく、盆正月に棟梁からいくらかの小使いを貰い、船下ろしに際して船主から御祝儀を贈られた。建造にあたっては手斧始め(チョウナハジメ)・瓦据え(カワラズエ)・棚揃え(タナゾロエ)・オワキオロシ・フナオロシの祝いをした。船首材に手斧を切り込んで建造の起工を祝するのが手斧始めであり、吉日吉潮を選んで船の基体部であるカワラを据え実質的な建造開始を祝するのが瓦据えである。以後、船底外板(カシキ)・船側外板を付け終わって船の主体が出来上がったのを祝う棚揃え、すべての部品を装着し終えるのを祝うオワキオロシがあって船下ろしの祝いがある。船下ろしに至るまでの祝いでは船主は御神酒を工程進渉の部位に注いで建造の順調無事強運を祈り、棟梁はじめ船大工に酒を振舞った。船下ろしは、お性根入れ・餅撒き・盤木外し・進水・宴会・母港での祝事がある。

 船霊さま

 お性根入れは棟梁が祝詞を唱えながら船に船霊を納めることをいう。船の中央部の筒の下部船梁に納める。船霊は家の形にした桧材で高さ五寸七分~七寸、幅二寸七分、深さ一寸五分の外形に、高さ二寸七分、幅一寸七分を穿ち、その中にデコサンと呼ぶ白紙製の男女雛一対を御神体として納め、柳材の賽・神札・五穀(米・大麦・粟・稗・小豆)・賽銭十二文・女性の髪・紅白粉を入れる。船霊は御神体と供物を指すのであるが、実際にはその容器とともに総称される。船霊の寸法はすべて奇数寸法で作られる。現在でも漁船には船橋左舷側に祀られているのが一般である。
 賽は柳材で左右二個作り、中央部は鋸目を入れて底部を切り残したままでつながった状態にしておく。賽の目は「天一・地六・舳三合・艫四合・取舵御荷物・面舵御苦労」あるいは 「天一・地六・中荷を積んで・表三合わせ・とも四合・櫓擢ごとごと」と称して図の如くする。二箇取り賽は柳材の元が左舷、先が右舷になるように目を入れる。船霊を入れるのは船主が棟梁に船代金を支払ったあとで行われるのが慣例であった。以上は宇和島市明倫町の船大工からの聞き取りであるが、造船業であった森然太郎は「船霊の由来」と称する呪文を伝えていた。原文は宣命体であった。

かけまくも船の由来を唱え奉れば 紀伊国牟婁の郡乙無川において 近江獄大人と言へる聖のありけるが ある日河を渡らんとしたまふに 不思議かな 唐土にてささがにと言ひ 我が朝にては蜘蛛と言ふ毒虫の舞ひ下り 浪間に漂ひ風に吹き流されて 既に一命の危く見へけるところに 柳の一葉落ち来れり 蜘蛛は賢くもこれに乗り 長き二本の足を延ばし櫓櫂となし 体内より銀色の糸を出し 女綱男綱とあやつり やすやすと彼方の岸と渡りけり 此の有様を目前に大人いたく感ぜられ 蜘蛛にさえ工夫をこらし此の大河を渡る 万物の霊長たる人にして何か工夫のあるべしと 種々に心を砕きたまふもさらにその甲斐なし 遂に祈願をこめ熊野三社大権現に三七の断食をもって籠らせたまふ 満願の夜童子一人現はれ出でて 吾こそは熊野三社大権現なり 汝水上を渡らんと欲せば これより遙か川上にあたり船玉山といへる御山あり この御山に楠の木三十六本あり そのうち十二本を残して船玉十二社大明神をまつり 残り二十四本にて船をしつらへ渡れよとの御告げにより 艫の戸立てを船始めとし 表の舳を納めとなし底が浮洲の大明神 船中の悪魔を払ふ 帆柱大杉大明神 帆車天東大口如来 帆は法華経の八の巻 帆桁が鞍馬の八天狗 帆びらは熱田の大明神 二十八本の女綱男綱控え網 綱は綱曳天満宮 右ののぞきが金剛界 左ののぞきは胎蔵界 此の両体より天東大日如来と表し奉る さて船の間取りと申するは 一の間には天照大神宮 二の間の宿りは春日大明神 三の間は正八幡大菩薩 晴海の間は和歌の三神人丸玉津島住吉大明神 表のみおしは浪切不動明王 櫓前引きが六稲荷大明神 水桶水天宮 釜戸は三宝大荒神 焚樹は行者の護摩木なり 火は不動の火炎なり 錨は金山竜蔵権現 錨丸の護部は大聖魔利支天王 柁塚関孫大権現 帆塚のもとには船霊十二社大明神を勧請なし奉り 帆筒には賽二つ 雛形一対 水引添へて納めたるは 向ふ見合せ中荷も一杯 魚漁も沢山仕合せよきを顕はすなり 面柁は五女力明王 採り柁は五大尊明王 上には七つの北斗北極北辰妙見大菩薩 粟島大明神 下には天一地六の法宮十二支天には梵天王守らせ給ふ 此の船霊を表する時は船若丸と名づけ 羯諦羯諦の陀を取り 波羅僧羯帝の帆を揚げて 菩薩そわかと漕ぎ寄せば 荷も船子も息災延命 月日も違はずそのまま入船 殊に念ずる諸願も叶い 厳信粛祥言祥円満 別して海上安穏船中安全 守らせたまふ御神々は 讃州金刀比羅大権現 備前の国では瑜珈大権現 遠州秋葉大権現 加賀は白山大権現 越中立山大権現近江竹生武島弁財天 沖に渦まく護王権現 竜宮界に八大竜王 日夜擁護ましまして 海上安全に守護し給へと祈り奉る

 また、同市同町の棟梁松田与三郎は船霊のお性根入れには次の呪文を唱えた。

 謹みうやまい拝し奉る 紀伊の国は音無川の水上に建たせ給ふ 舟玉山船霊十二社大明神 そもそもお船の始まりと申すは 天にてもあらず地にてもあらず 神代の昔大山祇命と申す 神国に渡らんとせるに大河あり いかにしてこの河を渡らんと七日七夜の荒行をなせし あら不思議 河上より柳の葉流れ来り 天にてはささくもと申す虫舞い降り かの柳の葉に乗り移り 八本の足を櫓擢にし 二本の角を帆柱となし 向う岸へと渡りける人間万物の霊長なるものこのさまをみて悟り 奥山にわけ入り 楠の木三十六本をきり出し船を刻ませ給う 舶は船始め 艫の戸立ては船納め 荷の間天照皇太神宮 三の間金毘羅大明神 火床間は三そう大斧の大神 帆柱風間の八天宮 帆のもじりと申すは鹿島の神の要ぞと ところどころの神々おわしますれば この御神言を唱え いかなる悪魔も払いたまえとかしこみかしこみ申す かしこくも船霊十二社大明神 本日お迎えするお船は□□丸(船名)であり船主□□□□(氏名) 大工棟梁□□□□(氏名) ともども海の幸山の幸をお供えし □口丸の海上安全 漁業繁栄御加護あらせ給えと かしこみかしこみ申す。

 船下ろし

 船霊の筒の両側前に二重ねの餅六個ずつ、計十二重ねを供え、筒の前には米八合、鮮魚のお膳に扇一本を添えて供える。艫に船幟を、船主の選んだ場所にタサバナ(笹花)を立てる。笹花は葉付笹竹に短冊・手拭・美事に引いた鉤屑を飾ったもので、これに蓑笠を吊す。蓑笠は船下ろしののち舳に格納しておき、航海中霧のため視界がとざされたときにこの笠をかぎして進路を見定めるとよく見えるという。棟梁は紋付袴で船主と船上に坐し祝儀の餅撒きののち盤木を外して進水する。船主の主催による酒宴での上席は棟梁が占める。船主は棟梁・浜大工・船大工への祝儀を棟梁に贈り造船の労をねぎらった。酒宴では棟梁が祝い歌をうたう。「紀伊の国は音無川の水上に 建たせ給うは舟玉山 船霊十二社大明神 さて東国に至りては玉姫稲荷がみめぐり狐の嫁入り お荷物をかつぐは強力稲荷様 たのめば玉ちのお袖づりの さしずめ今宵は待女郎 コンコンチキナコンコンチキナ 仲人は真先真黒な黒助 稲荷につままれて 子までなしたる信太妻」。題して「紀伊の国」。
 進水式のあと船は船主の港へ回航される。造船所を出て夷山の恵比須鼻を通るときはエーオの櫓声を三回あげて夷さまに神酒を撒き献げて大漁祈願する。新造船は母港に帰ると港内を三回左舷廻りし、エーオの櫓声を三回はりあげて氏神に挨拶して、浦の人たちに披露する。接岸する時には船主に近い新妻か娘が正装して艫縄をとりに出る。艫縄を取った瞬間、船からつるべにくみ取っていた潮水を投げ掛けて港入りを浄めた。そのあと棟梁を海中に投げ込む風習もあった。接岸した新造船からは餅を撒いた。船下ろしに撒く餅はその前日についた。一俵以上の餅米を要した。母港での祝宴のため網元の場合は役付きの漁夫が、個人の場合は親戚の男衆が漁に出て必要な魚を採り、女衆はもっぱら料理に忙殺された。

 船霊の習俗

 船霊さまは左舷を使われるというので、船の接岸・旋回は左舷着け・左回りである。右舷は死人の揚げ降ろしに使われるのみであった。なお、船の繋留は船首を港内陸地向けにつなぐ入船着けとし出船着けを嫌った。宇和島市日振島の船の乗り初めは正月二日である。船霊に神酒を供え撒餅する。そのあとで鰯網のオオゴ(網子)ギマリする。網元から任ぜられた五人のオキヤク(沖役)を中心に網子たちは網元の家に集まって役割分任を決めた。このヒトワリ(人割)が終わると網元から酒が出されて祝宴となった。鰹釣船はその年の初漁の初魚を御神酒とともに船霊に供え、帰港して氏神に供える。船主は船霊に供えた鰹を刺身にして船方一同と初漁を祝った。また出漁ごとに初魚の心臓を最年少の炊事役のカシキが船霊に供えた。これをウスゴと称した。オキアガリというのは大漁を祝う宴である。必ず船霊に魚と神酒を供えた。不漁が続くとマンナオシ(潮直し)をする。船霊に祈願して大漁を願うのである。またの名をオミキマツリともいう。さらに不漁が続くときは棟梁を呼んでお性根を入れ替えてもらうことがある。死人を揚げたときもお性根を入れ替える。網を染め、あるいは仕立かえた時には船霊の前で酒五升又は三升を飲んで祝う。これをクリオケという。クリオケは網を干して船に積込むときに行う浄めの祝いであるともいわれた。また船霊がイサムということがある。天変の予兆としてチリンチリンと音を発して警告を発するという。また大漁があるときにも船霊はイサンで合図をする。風雨の予兆と大漁の予兆はイサミかたに差異があることは勿論である。船の吃水線下の船材には虫がつく。これを焼くために船をたでる。タデ棒で左舷を三度叩き船霊に降りてもらって船たでをする。終わったなれば同様に叩いて戻ってもらう。越智郡魚島では船霊は女神であるといわれているので、寝るときは足をもたせかけるものであるとされ、頭をもたせかけると襲われるとて忌む。同じく宮窪町では船霊を入れる切込穴は地蔵幅(一寸二分)に天神長(二寸五分)観音深さ(一寸八分)である。穴は舳に向かって腰当の取舵側に舟下ろし当日の潮の八合満ちの時刻に彫る。彫り込むときは取舵側から酒肴を積み込み、祝い込むときはチョウナ・カナヅチ・ツボカネの道具を供え、金槌で取舵側の方から三つ叩くと、酒肴はオモカジ側から下ろした。伊予郡松前町では船霊はジージーといさむものであるという。船霊が嫌うものは女・蛇・猪・猿・猫・味噌・ラッキョであるといい、船上では忌みことばとしてこれらの名を口にしないものである。

 網 船

 船の長さ八尋三尺、胴張九尺四寸、尾長さ五尋三尺五寸幅三尺二寸厚さ三寸五分松を用ゆ、カヂキ三尺三寸杉、上棚一尺五寸厚一寸八分、トダテの肩五尺二寸厚二寸松 船首長さ一丈五尺二寸幅一尺四寸厚五寸桧の本を用ふ、下り長六尺五寸棕櫚皮なり。ヨコガミ桧幅一尺四寸厚二寸 大立の胴付二尺八寸幅六寸五分厚一寸八分長八尺、トコ松、ろどこ五本四寸に二寸五分角、船梁桧の本十一本、根朶木杉桧を用ゆ、簀板杉厚一寸七分 深さ三尺三寸、トモの持三尺五寸、表の持二尺三寸、筒の長六尺五寸、幅七寸厚四寸、台長四尋四尺幅五寸厚二寸五分、釘瓦落し一本の目方七十目(ママ)、下通平二十四匁、上通同二十二匁、尚小針を用ゆ、はぎ落し廿二匁、かいをれ六七匁より十一二匁迄を用ゆ、外に小釘かすがいを用ゆるなり ○ともろ長一丈八尺幅五寸八分、四丁ろうで幅一尺長さ六尺三寸、四丁大わき長さ一丈六尺五寸幅五寸二分、うで幅八寸長さ六尺二丁 小肱ろ長さ一丈六尺幅四寸八分、うで幅七寸長さ六尺、二丁強棒二本長さ一丈三尺と二尺一尺三寸廻りなり、柞の木を用ゆ、碇二丁(ママ)目方十四メ目、小いかり二丁(ママ)目方五メ目づゝ、しゆろなわ七十尋、藁桧索はかぎりなし、(宇和島藩吉田藩漁村経済史料)
と記されているこの図の網船は、本間・表の間・アカノ間・イワノマ・ニノマ・アバノマ・トモノマに分かれている。

 網船は真網船と逆網船の二艘で一統をなすが、操業に際しては大手船・中手船・前刈船が加わる。乗組員は網の規模により人数を異にした。宇和島市日振島の鰮網では網船一艘乗組八名、大手船三名、中手船三名、前刈船二名で、このほかにトリツキ(取付)と呼ばれる少年が数名乗り組んだ。
 網船にはイワオキ(網の沈子を取扱う責任者)・アバオキ(網の浮子を取扱う責任者)・艫押し(船頭)・セガイ押し・大脇押し・小肱押し・中櫓押し・内櫓押しが乗船しそれぞれの部署の櫓を受け持った。このほか櫓をたてる部署として胴櫓・アバ櫓があった。セガイは真網船をヒヤマ・逆網船をアイセガイともいった。大手船には大村君・大舵子・脇舵子が、中手船には村君・舵子二人、前刈船には沖村君・ハムラグミが乗り組んだ。大村君は網廻しで総指揮である。真網の艫押しは網船の総船頭である。トリツキは網船の櫓に取付き加勢をする見習補助員である。
 網子の人割りは網師・網廻し・村君・沖村君・浜村君の五者が前年末の大決算日に予め定めておき、明けて正月二日の乗り初め当日の船祝いの酒盛の席上で上席の網廻しより指令される習わしであった。人割りは個人の能力によって適役を割りふられるのではあるが、その役割りは漁における経験年数、つまりは年齢に応じて、より重要な部署につくのが通常であった。一五歳になると一人前の待遇をうける漁村青年は新乗りとしてまず中櫓押しの役を与えられる。順次小脇→大脇→内櫓→セガイ→艫押になる。船頭役である艫押しを勤め終える頃になると体力が下り坂となるが豊富な経験を積み重ねた年齢となる。ついで浮子置きとなり終わりに沈子置きになる。沈子置きは網船の最古参者であって浮子置きとともに櫓を漕ぐことはない。これらはすべて年齢による推移で、各役割りは三年間を勤め先にすすむのが通例であった。但し村君は例外で漁場・漁法に通じ、体力があり、人望厚く指揮者として優秀な人物を年齢にかかわらず網師と網廻しが選抜した。村君は沈子置きより上位であり酒席でも上位を占め、漁獲物分配率配当でも分がよかった。越智郡魚島村では三日目ごとの仕入れに際して、脇櫓押しは米、浮子櫓押しは薪木、内櫓押しは醤油・漬物・酒の仕入れを担当した。また胴櫓押しは水くみを、外櫓押しは炊事を分担していた。

 鰹釣船

 船惣長さ七尋七合八勺、幅九尺二寸。深さ三尺三寸。瓦長さ五尋一尺五寸、幅三尺二寸、厚さ三寸五分、松を用ゆ。とだての肩五尺八寸、厚さ同上、松を用ゆ。みよし長一丈六尺、幅一尺四寸、厚さ五寸、桧の木を用ゆ。かぢきの幅三尺一寸、杉の木を用ゆ。上棚幅二尺上杉を用ゆ。ともの持深さより(ママ)八寸。表の持二尺四寸。床幅五寸、厚さ二寸五分、松を用ゆ。船梁 桧。根朶、杉。簀板、杉、正八分。ちり、楠、厚さ二寸、幅五寸五分。間取、ともの間五尺八寸、脇の間五尺七寸、胴の間五尺六寸、あかの間四尺一寸、表の間六尺二寸、二段九尺。釘、瓦落し一本の目方七十目、下通平目方二十四匁、上通平同廿二匁、はぎ釘同二十目、其他小釘色々を用ゆ。
 (舟へんに尾)の長さ、一丈四尺五寸、幅二尺、頭六寸角、白樫を用ゆ。帆柱、二本、内大長さ七尋二尺五寸根元大さ五寸五分角梢三寸五分、替柱同角六尋二尺五寸。桧の木を用ゆ。帆桁長さ四尋、木同上。
 ともろ、樫・一位の類にて長き一丈八尺五寸、幅六寸四分、腕長さ七尺五寸幅一尺二寸五分、椎の木を用ゆ。わきろ・まえろ、長さ一丈七尺三寸幅五寸五分、腕長さ六尺幅九寸。大わき・五丁ろ、長さ一丈六尺五寸幅五寸二分、腕八寸長さ六尺五寸。かいろ・七丁ろ、長さ六尺三寸幅五寸、腕幅七寸長さ六尺五寸。
 帆、松右衛門、幅二尺五寸七枚半長さ六尋。下り身索、麻苧蝉に付、目方三メ目位。胴桶(餌活桶なり)、底四尺高さ三尺七寸胴張五寸ロの径三尺。其他道具図の如きを用ゆ。
 乗組は廿個(ママ)内外。而して船頭はともの間に居す、給八十円より百円(三月より九月迄七ヶ月の定め)。網張船頭同上給四五十円。へのりは表、梶の上、共に四十円内外。二番口、三番口、表、三十五円。ともロ四十円内外。脇の間三十五円。胴三十円。表二十八円。炊手廿円。中乗の内魚釣上等二十八円、下等二十五円。親父三十二三円。添二十七円。這親父添二名は添船に乗るなり。―(明治十五年頃)―
 筒、長さ三尺五寸幅七寸五分厚さ三寸五分。
 釣竿、長さ四尋廻り四寸より五寸の竹なり。釣針は三番中三番にて、長さ一寸二三分より四分を用ゆ。釣糸は地苧、針の根元深苧を用ゆるなり。
 釣季節三四月は土佐沖、五六月は県内、七八九月は瀬潟にて釣なり。

 繁栄重宝記

 宇和島市三浦の田中家は宝暦三年(一七五三)、勤勉の勲功により里正に任ぜられ、以来庄屋職にあって明治に至り、二一年「経済舎則」を定めた。舎則は漁業について、

 捕漁網営業資格一株 臨時費漁網営業手当費
   但、此準備器具 大網一帖、小網一帖、大地引網一帖、小地引網一帖、小網袋 予備網 鰯袋
    及び網船大小二掛 手船大中小三艘 各付属品 并に魚製器械とす

として会計処理勘定を規定した。さらにその実施取扱の細部について「捕魚網の営業」は網方器具細目記・魚製器械細目記・各網結法例規によるべきことを示し、詳細かつ具体的に漁具を列挙してその規模・補修・推持方法などを記している。舎則はのち、条文化され「繁栄重宝記」としてまとめられた。その三三条には漁具構成を掲げ、同条の第一は常用漁具、第二特有漁具、第三別段漁具と規定している。その漁業上の漁具漁法は第四章(三七~六五条)によるべきことを述べる。すなわちその各条は、37網元・38漁法・39特有漁具・40定雇漁夫・41網元の権利・42定雇漁夫の義務・43漁夫の権利制限・44漁獲分賦出納法・45網の需用・46網の調理法・47網の防腐法・48網遣・49特有網・50網使用法・51捕魚大魚中売・52網元所得水魚製造・53網元経理および水魚量製造担当者・54漁事担当者の義務・55漁具準備細目別員数(沖廻網・常用副漁具・特有副漁具・別段副漁具・特有漁具予備品)・56特有漁製器械の準備細目員数(水魚用)・57捕魚常備網・58捕魚臨時作用網・59前張網・60安波岩・61浮樽・62亀安波・63岩石・64網の頴合・65捕魚網の構造法…を微細にわたり定めている。大網・小網・大地引網・小地引網が必用とする漁具の細目がここに如実に示されている。(「三浦庄屋史料-田中家史料5」)

図2-36 船霊様の賽

図2-36 船霊様の賽


図2-37 鰯網船(逆網船)

図2-37 鰯網船(逆網船)


図2-38 鰹釣船

図2-38 鰹釣船