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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

4 除災儀礼―稲祈祷・雨乞い・風祭り

 稲の害虫

 稲虫の代表といえば〝うんか〟であろう。昔からうんかの害に農民は苦しんできた。うんかの害といえば享保一七年(一七三二)の大飢饉をだれもが考えると思うが、松山叢談によれば、

 ○七月朔日諸郡とも稲虫害有之候に付道後八幡宮にて御祈祷被仰付諸郡にても追々存寄祈祷致、毎夜太鼓かねにて虫送りをなす。
 ○同月九月水過候に付虫付候様にも申触れ、依之未虫付無之稲者干付候様触有之。
 ○同月十四日当年田畑へ浮塵子と云虫付……
  味酒社日記云享保十七壬子年六月中比より稲にうんかと云虫わき候て郡々村々昼夜大勢寄合候て逐候得共中々止不申夫に依り郡々稲実のり不申(以下略)             (松山叢談第六)

『農家業状筆録』には、うんか・すむし・青むし・しゃくし・日いもりなどの病害虫を挙げている。うんかは、風も吹ずあめもふらず、蒸たつるようにし、わるあつき天気つづくと、虫をかもし出す事にて、うんかむしには胡麻種の油、また魚の油を少しさしてよしといへり。されども水のかれたる田へはさされず、水のあって、さて天気快晴し日のよく照時、昼四つ時頃より八つ時までに入ればよくきくもの也。「青むし」は、水戸を留置、笹の葉にてはらひおとし、水戸を切て流す也。「しゃくし」は手にひろい捨る事也。「すむし」は二里も地癖にて出来つけたる処は、兎角災をなす。高岸村、大久保村(現双海町)辺おほく仕かたなきものなり。また「いもる」といへる一病あり。重山蔭水冷き所、或はふけ田にて水過、又は時節不相応なる冷気よりも生じ、又旱年には「日いもり」とて旱りに有病也。……

 右資料は病害虫の発生と駆除対策に触れたもので江戸時代後期の農業事情が理解できる。この病害虫対策の一環として、虫送りや稲祈祷が村落共同体の行事として行われたのである。虫送りは現在もなお各地に行われており、全国ほぼ一致した形式がある。本県の場合は疫神送りに類似した行列形式と大数珠を繰って行う念仏形式がある。また夜間に松明を手に手に行列して廻る形式もある。以下、本県の虫送りの民俗を概観することにしたい。

 東予地方の虫送り

 虫送りを「虫祈祷」「百万遍」などという。百万遍は、組中の者が寺や堂に集まって大数珠を繰りながら百万遍の念仏を奉唱するの言うのであるが、鉦と太鼓をたたきながらすることから「どんでんどんぶり」と呼んでいる所もある。
 周桑郡小松町新屋敷では、村中の者が寺に参集して、円陣をつくって大数珠繰りをする。それが終わると少年らが鉦をたたきながら行列になって田の畦をあちこち廻って虫送りをした。
 同郡丹原町田野地区では、土用中に寺院や庵に籠って虫祈祷をする。まず、当日の朝、賄い番(接待役)の者が米と銭を集めて廻り、大きな黄粉むすびをつくり、神酒を供えて僧侶に祈祷をしてもらう。終わると大人たちは酒宴を開き、部落の協議や相談事をしたりするのであるが、子供らが虫送りをする。祈祷で封じた虫を笹竹につけて川に流し捨てるのであるが、昔は旗を持って多勢の子供が太鼓・鉦ではやし、「稲の虫、つくな」とか「稲の虫死んでしまえ」など、大声でわいわい騒ぎ立てながら川に送り流してもどったのである。
 今治市などでも鉦・太鼓ではやしつつ「ナンマイダー」を連呼しながら虫送りをした。
 北条市あたりの虫送りもほぼ同様であった。たとえば同市庄では、土用祈祷といって土用入りに行っており、部落一戸当たり米五合を持ち寄り(以前は田があってそれを充てていた)、檀那寺の十輪寺にて虫祈祷をする。終わって共同飲食をする。一方子供らは幟のついた笹竹をかざし、それに虫の弁当である握り飯を竹皮のスボに包んで肩に掛けさせ、鉦・太鼓をたたきながら「ナンマイダー」の念仏を奉唱しつつ立岩川まで行き、笹竹を川に流し捨ててもどる。このとき後ろを振り向くと虫が生きてついてもどるといわれ、後ろを見ないことになっている。虫送りの道中では「稲の虫ァ送った。サネガモリがひしいだ」とはやす。同市難波地区では、大数珠を繰りながら百万遍念仏を奉唱するのであるが、二組が交替で休止せずにした。夕刻になってそれが終わると、旗をさし立てて「稲の虫を流すぞよ」と、鉦・太鼓ではやしながら浜辺まで送って行き、旗を海に流してもどる。終わると後ろを見ずに駈けもどる慣わしであった。
 越智郡大三島町では、田植終了後に部落総代が日時と役割担当を村中に伝達する。虫送りの役はふつう二名の長老を選んで行うことにしている。老人は麦藁船と幟をつくる。幟には「五穀豊饒・家内安全」と書いている。船には虫を入れてある。これを二人の老人が持って、部落の山手から下手に向かって「ナームーアームダーブツ」の念仏を唱えながら、田中を歩き廻る。以前は鉦・太鼓のはやしがついていたが、今は麦藁船と幟だけになった。最後は海に出てこれらを流してしまうのである。この麦藁船を越智郡宮窪町ではゲドブネまたはムシブネと称している。温泉郡中島町などでも虫舟をつくっている。この虫舟をつくるのは島嶼部の民俗的特色のようである。
 中予の松山地方における虫送りも以前は主として夜間に行い、松明をともし、太鼓をたたきながら田園を「稲の虫が目むいだ」の文句を唱えながら右往左往していたのであるが、その行事はやらなくなって、現在では庵や堂に集まり、念仏を奉唱したあと、飲食して別れるだけに簡略化している所が多くなった。なお、このあとで村(部落)の境にセキフダ(関札)を立てる風の所がある。

 南予の実盛送り

 南予地方では虫送りをサネモリオクリと称している。この呼び方は南予地方の特色でもある。また稲祈祷と呼ぶ所もある。日は一般に旧六月一日で、昔はかなり盛大に行っていた。
 南予地方の実盛送りは、一つの川筋単位で隣村地域と一体になって実施しており、川上から川下へと順次送り下げて行くなどスケールが大がかりであり、またサネモリサマと称する藁人形を作って送りついで行くなどの特色がある。
 たとえば、西宇和郡伊方町では、六月入りを稲祈祷とか山祈祷という。九町・二見・伊方の三部落でそれぞれ藁人形を作り、幟・旗を押し立て、松明をともして寺に参集して念仏を申す。終わると子供らが太鼓を打ち、拍子をとりながら大数珠をかつぎ廻って念仏を唱えるのである。それから各自の部落内の山畑をめぐって行くのであるが、途中他部落の行列と出合うと競り合いをする。それが終わると各戸毎に念仏を唱えて廻り報謝を受ける。
 同郡三瓶町では、大小たくさんの足半草履と注連繩を寺の本堂に山積みにして百万遍の念仏を唱える。また、村の東西南北の入口や各家の入口にも草履をつるした。鉦・太鼓ではやしながら松明をかぎして虫送りをする。これをウンカオクリとも言っていた。各戸主が庵に参集して念仏を申したうえ、大きな御幣を持って田畑をめぐる。夜に入ると松明をともして巡行する。そして最後に川口の渕にこれを投じて帰ってくるのである。
 実盛送りに足半草履を作って村境につるすふうは「オビトの草履」と称して西宇和郡内の特色である。この民俗は南予地方一帯に見られる民俗になっているけれども、一般的には小正月に行っている。
 東宇和郡城川町も大がかりな実盛送りをしている。喜多郡肱川町予子林、北宇和郡広見町目黒などでは、半夏生の田休みの日が実盛送りである。北宇和郡の実盛送りは特に盛大であった。藁人形をつくり、鉦・太鼓ではやしながら川上から川下へと村送りして行くリレー形式の共同性の強い虫送りである。同郡広見町では、旧六月入りにしていて、旧愛治村大宿から出発して順次村送りしてから最後に高知県の江川崎まで送って行き、四万十川に人形等を投じて終了したのである。この間一週間にもわたる行事であった。現在もなお一部の地域で行われている。
 また同郡津島町岩渕でも、旧六月一日が実盛送りで、奥地の増穂部落が実盛様をつくって、岩渕―拝高-岩松―畑地―須之川と順送りして行っていたとのことであるが、須之川までに一週間を要したという。これは昭和二〇年頃まで実施したようである。
 南宇和郡一本松町では篠山権現の火をもらって来て虫送りをした。同町増田では実盛様の石碑がある地蔵堂に法師を招いて御祈祷をしてもらい、念仏を申し、夜になってから篠山権現の火をここで受け取り、五色の旗を持って行列を組んで虫送りをする。同じような行列が付近の部落からも繰り出して来て、それが合流するから盛大な虫送りになる。当地方では実盛様は虫除けの神だと信じられているのである。
 同郡城辺町僧都で旧六月入りの田植休みの朝この虫送りをする。「斉藤別当実盛、稲虫を送るぞ」と叫びながら、太鼓や鉦をたたいて虫送りをするのである。また七月八日には部落全体の者が寺に集まって稲祈祷をする。この時も鉦をたたいて田のあたりを廻ることになっている。
 宇和島市祝森では、土用入りに神社に組の者が集まり稲祈祷をし、終わって部落境にセキフダ(関札)を立てる。以前には当番制の宿があって、太夫さんを招いて一日三度の御祈祷をしてもらっていたという。当番は四人一組で担当し、組中が宿に集まって、共食したのである。宿はあとで祝餅と御幣二本をもって各家に配って廻る。二本の御幣は、一本は田に、一本は家の門口に立てるのである。
 この稲祈祷を同じ北宇和郡ながら広見町内深田では、「伊勢祈祷」と称して伊勢踊りを行っている。氏神の大本神社に参寵し、手に榊を持って伊勢踊りを奉納するので「伊勢祈祷」といっていた。榊はあとで田に立てる。

 火取り

 いま一つ虫送り行事に「火取り」「火貰い」の習俗がある。特別な聖火を受けてもどってその火を各家に分け、その神火の霊力によって害虫駆除をしようというもので、県下ではさきにもちょっと触れた南宇和郡の篠山権現(神社)の神火と大三島の大山祗神社、それに伊予三島市三角寺奥の院の護摩焚きの火が代表である。
 大山祗神社の場合は一般に「土用参り」と称し、「明神講」と呼ぶ講社があって、土用中に参詣するのである。松山市・伊予郡・温泉郡、あるいは越智郡などから代参を立てたり、特船を仕立てて団体参りをするので、「土用三嶋」と言ったりもした。信仰と観光をかねた農民のレクリエーションでもあった。神社側では「火取神事」と称しており、参詣者は竹や桧皮で製した火繩を神前に供え、祈祷をしてもらってから神火をこの繩にうつして村に持ち帰り、各戸にこの火を分与する。すなわち火繩に火をうつし、それを振りながら田中を歩き廻って虫除けの呪法を行うのである。
 宇摩郡土居町大字畑野など、この地方では三角寺奥の院の火を貰いに行く。松明を持参し、それに火を移して村に持ち帰り、まず堂前に集合して念仏をあげ、それから念仏を唱えながら田の中を練り歩き、松明を振り振り虫送りをするのである。川之江市金川でも奥の院の火をもらって来て虫送りをした。お大師さんの法燈の火ということで有難く思われており、それをめいめい分けてもらって松明に移し、稲田の中を振廻し「送った、送った」とか「悪い虫を送った」とか唱えて廻ったという。同市妻鳥でも奥の院の火を火繩につけて振って廻り虫除けをしていた。また虫除けの守札を竹に挾んで田に立てたりもした。

 虫送りと神輿

 虫送りに神輿をかついで廻る所がある。上浮穴郡久万町上直瀬では、田休みの日、神社で虫祈祷をし、神輿を出して組内を順次渡御して宮入りする。同じく下直瀬でも神輿を出す。夜は松明をつけ、鉦・太鼓で川下へ虫送りをする。虫送りに神輿渡御があるのは珍らしいことだが、その起源等は不詳である。

 雨乞い

 農作の過程で、降雨を祈って行う呪法を雨乞いという。その方法にはさまざまの方法があるが、一般的には次の五型に分類できる。
 ①山上で火を焚く型。最も広く分布するもので、「干駄焚き」と言ったりする。
 ②唄や踊りで神意を慰め雨乞いをする型。地域の盆踊りやその芸能を雨乞いのために奉納して降雨を祈るので、それを雨乞踊りと称する場合が多い。できるだけ多数の者が参加するほど効果があるということから「千人踊り」と称したりした。
 ③水神のすむ聖池を汚して、神を怒らせ、雨を降らせようとする型。たとえば水源である池や渕に汚物や金物を投入して水神を怒らせるのである。
 ④神社に籠り、降雨を祈る型。できるだけ多数の者が参加し、昼夜兼行で行う。
 ⑤聖池から水を貰ってきて、村の神社・水源池にその水をふり撒く。これは、途中で止まると、そこに雨が降るといわれ、それで昼夜兼行で歩き続けて持ち帰る。リレー式にバトンタッチする方法もある。
 その他、女相撲をとったり、百桝洗をして雨乞いをする例もあるが、特に本県の場合、中予地区において仮面を用いる雨乞いがあったことは
注目される。
 雨乞いは、村落共同体において対処的に実施するのが普通であるが、「藩雨乞い」などと称して、藩が特定神社を雨乞祈願所として指定し、代官等の差配によって祈願を実施した歴史的事例も多い。しかし、ここでは除外することにして、雨乞いの民俗を若干紹介するにとどめたい。上浮穴郡久万町では、組全員で樅の木の竜神に雨をもらいに行っていた(久万・野尻・菅生・明神)。大野ヶ原の龍王神社の渕の神水を受けて来る方法もあった。菅生では、第一段階は各戸から酒料を集め、各組の宮や堂に龍り、念仏を唱える。第二段階は、各組から代表が三人ずつ出て、樅の木の龍神に水を乞うた。ある時は菅生中通のように御神体を持ち帰ったりした。第三段階は、大野ヶ原龍神社に行った。また植谷では、曽我神社で祈祷した後、阿弥陀が森に登り、石鎚神社に向かって祈願し、雨をもらった。旧父二峰村の二名部落では、桂が森中腹にあるおかめさんに行き、瓶の中の水を持ち帰った。畑野川では、龍王神社に籠り、鉦・太鼓をたたいて念仏を唱え、団扇を上げ下げしながら念珠を繰って祈願をした。また各龍王神を川渕にまつり祈願した。上直瀬では、石墨神社に籠って念仏を唱えた。下直瀬でも龍神に二夜三日寵り、鉦・太鼓をたたいて百万遍念仏を唱え祈願した。
 久万地区は仰西翁の水路ができてからは、水の心配は他の地区ほどではなくなったが、一般的には高い山の頂上で焚火をして雨乞いをした。特例として明治初年に次のような大雨乞いが行われたということである。この年は稀な異常旱魃のため、周辺農民のことごとくが大宝寺に結集し、全裸体で蓑笠をつけ、腰に荒布を巻き付け、フリマラで千人踊りをしたと伝えられる(注、荒布は荒雨の意、フリマラは降るの意をかけたもの)。
 高い山上で火を焚き、念仏を唱えたり、雨乞い踊り・伊勢踊りなどの芸能奉納がもっとも一般的な雨乞い方法であるが、前掲の久万町二名の桂が森の瓶の水を持ち帰る雨乞い方法もよく行われる。石鎚山系の瓶ケ森山には、頂上近くに「瓶つぼ」という清泉があり、この水を神酒徳利に入れて帰って雨乞いをしていた。また瓶ケ森山につぐ高峰笹ケ峰頂上にも小さい凹地の水溜りがあって、その中に瓶が埋めてあり、この瓶中の天水に海水を汲んで行って交換して帰って雨を祈る風があった。
 大洲市の壷神山(九七一m)もその名称通り山上に二つの壷があり、この壷を動かすと雨が降る。壷中の天水を捨てて雨乞いをするのである。
 霊地・聖所の水をもらって来て雨乞いをする例も多い。川之江市などでは、三日ないし一週間神社にお籠りした。このときアラメ(荒布)、フロウ(豆)を供えた。同市金田町では新宮村の碗淵の水を汲み帰って行った。途中で停止するとそこに雨が降るというので休まずに持継ぎで走り帰り、氏神で祈祷をしたのち、乾田に少しずつ分けて注ぎ降雨を待ったという。また神社境内の龍神社の神体を海にかき出し、浜で松明を焚き、祭壇を設けて祈祷したりもした。金砂町中の川の黒蔵淵の水をもらって来る所もあった。川之江市手田地区では阿波の中津神社の淵水を用いたということである。三角寺の竜王渕も雨乞場になっていて、蓑笠姿で集まり、住職の祈祷に併せて火を焚き、太鼓をたたいて雨乞いをした。
 滝壷や淵に異物を投入し、龍神を怒らせて雨を祈る方法もある。周桑郡小松町石鎚地区では、加茂川の深淵に「ろんぎの踊石」というのがあり、そこに山菽の皮を投入して神職を招いて祈祷していた。山菽によって淵の主が出現すれば雨となるというのである。周桑郡小松町の安井谷の花園淵でも、耳うなぎが出現したら雨があるというので、花園社のオタマシン(神像)を淵に投入する風があった。南宇和郡御荘町長月の帆柱山の轟の滝にはしめ繩を投入すると、頸に白い輪のある金色の大蛇が現れ、しめ繩をくわえて沈むと、まもなく一天俄かにかき曇って大雨を見るといわれている。現在、滝の中腹に東竜王社が祀ってある。
 東予市の黒の谷の「おばあ淵」には、いばらを切って投入する風があった。そのいばらを取り出せば降雨があるというのである。東宇和郡の魚成の龍沢寺付近の成王瀬の淵でも、僧が法華経を読誦し、その要文を木札に書いて淵中に投じた(宇和旧記)。
 新居浜市船木の魔戸の滝壷や同市萩生の観音滝の滝壷へ金物を投げ入れると降雨がある。魔戸の滝には竜がすんでいて、昔、大旱魃があったとき、土地の中野城主の姫が樽舟にて鏡を持って滝壷に入った故事伝説があり、以来、鏡を投入する雨乞いが行われるようになった。宇摩郡土居町北野でも、金伽羅寺の梵鐘を関川の仁王の淵に投じ雨乞いをし、しばしば瑞雨の霊験を得たという。
 平野の湧水を持参して山頂の清水に混入して雨乞いをする事例は先述したが、特に海水を運んで行く民俗がある。新居浜市若水町のつづら淵(正月の若水に使用)の水を笹ケ峰の瓶穴に注いで雨乞いするのは真水の事例であるが、伊予郡松前町のオタタが潮を御用櫃に汲んで、温泉郡川内町河之内の雨瀧三島神社まで運び、下の渕に海水を投入して行う雨乞いは特異な存在になっていた。松前浜から河之内までは二〇㎞余りの道程であるが、それを頭上運搬で潮を運ぶのである。最近の実施事例は昭和三四年七月一二日で、翌一三日にはその霊験によるものか、大雨注意報が出され、二二・八㎜(松山気象観測所調)の降雨があった。なお、松前のオタタサンによる雨乞いは、オタタタサンたちの自主性によるもので、彼女たちが状況を見て行うもので、昭和四二年六月にも行っている。二一日夜、松前町浜の竜宮神社に彼女ら二〇数人が参集し、「雨をくだされ竜宮どん、竜宮界のオトノ姫、アラ 雨 大降りじゃあ、大降りしゃあ」と、太鼓をたたき、大声で唱える。これを以前は一週間もお籠りして行ったのである。
 また満願日を決め、その日には潮垢離をとって構え、竜宮神社へ奉納した潮水を御用櫃に入れて河之内の雨瀧さんに運び、渕にうつすのである。
 大洲市の神南山の石群中に弥勒様と称する石群がある。二基の立石と周囲に一三個の机状の石が配置されている。いわゆるストンサークルであるが、旱魃時には新谷地区の村民がここに登って来て雨乞いをしていた。すなわち、長浜から海水を汲んであがりこの立石に注ぐと、立石は潮水を忌むことから、その身を清めんとして天雨を降らせるのだとの俗信によるものである。
 なお、これは海水とは無縁であるが、岩のことが出たのでここに記しておくのであるが、越智郡朝倉村下朝倉の多伎神社奥の院にある一大岩石は、俗に「くすべ岩」と称されている。昔から雨乞いの時、柴草を焚いてこの岩をくすべると必ず霊験があるといわれてきた。そのとき紙を供えるのであるが、祈念が終わってその紙を検べて一枚うるおえば一日目が雨、三枚ぬれれば三日目が雨というふうに言われていた。またその験があるときは、大蛇が出てはうという。

 雨乞いと白蛇

 蛇のことが出たので少し触れておくが、これは本県でもたいへん資料が多い。たとえば、昔、越智郡玉川町畑寺の竜口の谷に大蛇がいた。胴周りが五〇㎝もあったという白蛇であった。目が真赤であった。白蛇は神通力をもっていて、行動するときにははうのではなく、一陣の風とともに峰から峰へと馳けるように飛んでいたという。白蛇はいつも北向かいの竜口の谷にいるが、時々反対側のケタの谷に移動することがある。そこには地蔵が祀ってあり、旱天の際はここで雨乞いをしていた。この雨乞いのときに白蛇を見れば必ず雨が降る。それで村人は白蛇を神の化身だと崇拝した。
 ある年の雨乞いにその白蛇が現れ、もっと奥に来るようにと村人を誘うので、主だつ長老が後ろをついて行くと、ケタの山の頂上に上ってしまった。村人はそこに池を築造した。そして盆の二七日には、白蛇のお礼踊りを盛大に行うことになったと。
 後述する松山市湯山の天一神社の雨乞いのときにも白蛇が現れて、雨乞神輿の中に入り、中の皿の上にとぐろを巻く神秘が見られるということであった。

 雨乞ごもり

 部落中が総出で神社にお籠りして雨乞いをした事例は各所にあって多い。伊予郡広田村総津では、部落総出で氏神に集まり、太鼓と鉦を一日中間断なくたたいた。その間、簑笠をつけ「雨をくだんせ竜王様よ」と手足を動かし輪踊り(雨乞踊)をした。また「雨をたもれリュウオンノー」と唱えた。おかげがあるとお礼籠りをしていた。本県には龍神社、龍王神社と称する神社が多くあるが、たいてい雨乞信仰の対象とされていた。
 上浮穴郡美川村大字東川の中央北端、面河村境に接して聳える四辻ヶ森(一二〇一m)は雨乞山であった。付近農民たちが登って来て鉦・太鼓を打ち鳴らし、千人踊りをしていた。
 西宇和郡伊方町などでも、鉦・太鼓をたたき、「雨たもれ、ぎおんど、ぎおんどが焼けるぞ、焼けて焦げてしまうぞ」と、子供にいたるまで集まり雨乞踊りをしていた。各部落一時間交替で踊ったが、加周、田之浦、古屋敷、島津、大成、二児は一〇人組単位で三〇分から一時間交替で踊ったという。
 喜多郡河辺村でも各部落で行い、なかなか降らぬときは大氏神で村雨乞いや千人踊りをした。東宇和郡や北宇和郡では「伊勢踊り」で雨乞いをしていた。
 千人踊りのことは、文献にもしばしば記録されており、大規模な雨乞いであったからかく称されたものである。

 御面雨乞

 松山地方の神社、といっても主として東温地区の神社であるが、神宝の仮面があって、それでもって雨乞祈願をする事例がある。重信町山之内麓部落や大野部落のように鬼面を祭って念仏踊りをする所もあるが、「御面映し」と称して、仮面を池水や渕に映して霊験を得る雨乞いである。温泉郡重信町の浮島神社と徳威三嶋宮で、隔年保管することになっている仮面は特に有名で由緒ある仮面である。
 松山市藤野の天一神社、同市馬本町の善福寺にも雨乞面がある。藤野の天一神社のそれは、予陽郡郷俚諺集によれば、鬼王御前という老鬼女の面で、大旱魃の時に、渕にこの面を映せばたちまち瑞雨を見たと伝えられる。なお、当社には「雨乞神輿」と称する特殊の神輿がある。江戸時代にはしばしば雨乞祈願所となって雨乞いがなされたようで、元禄三年(一六九〇)六月には和気・温泉両郡による雨乞祈願がなされている。
 馬木町善福寺の場合は、鬼面を馬木の柳池に映して行うもので、昭和九年に行ったのが最近の事例である。同市居相の伊予豆比古命神社でも仮面を縦渕につけて雨乞いをしたとの伝承がある。

 楽頭

 重信町山之内麓の「楽頭」は、盆の一四日の念仏踊りであるが、旱天時にはしばしば雨乞踊りとして用いられた。室町期の仮面で「龍狸猜」と呼ばれ、部落開拓の祖加藤遠江守愛蔵の仮面と伝えられる。旧記は失われて伝わっておらぬが、近年では、明治三七年六月、大正六年旧七月、昭和一四年八月、昭和一九年七月と雨乞をなし、そのつど霊験を得たことが、村の「記録簿」(明治三六年一月起)に記録されている。

 日和乞い

 雨乞いに対し、長雨の続く場合は日和乞いをした。雨を止めさせて晴天を祈願する呪術で、神社で祈晴祭を行ったりした。しかし、これは雨乞いに比べると事例は少ない。日和申しともいう。
 上浮穴郡久万町槇谷では、曽我神社に集まって念仏や般若心経等を繰りながら唱え、晴天を祈願したということであり、昭和三〇年ころまで行っていた。

 風祭り

 風鎮め、風鎮祭ともいう。風による農作物の被害は甚大である。局地風による被害と台風による被害があるが、農作物を風の被害から守るために行われる儀礼が風祭りである。二百十日前後のころに行っている。百万遍念仏をあげるか、伊勢踊りを奉納するかが本県の民俗といえる。南予地方の伊勢踊り伝承圏では、二百十日前七日ぐらいに伊勢踊りをする所が多い。
 西宇和郡三瓶町蔵貫浦では、二百十日の前七日に神明神社にて風除けのお伊勢踊りを奉納し、あとで御幣を高い木の上に立てる。