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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

四 建築の工程と儀礼

 伐採と山出し

 家屋を建設するための材木の調達は、町場や平野部の農村、また漁村地域などの山林を所有しないところでは大工の請け負いとなるのが通例である。伊予郡松前町あたりでは大工が郡中(伊予市)から材木を揃えてきたという。ところが、森林地帯でなくとも山沿いの地域であればたいてい家ごとに普請用の山を所有していたもので、一部または全部を持ち山か共有林で調達したものを大工に渡す方法がとられてきた。越智郡大西町別府でも各戸が松林を所有し、上具用の大きな材を確保してきたのであった。しかし、家屋に用いる木材の種類は地域的な相違もみられ、里の方ではマツが圧倒的に多いが、山方ではツガ・ケヤキ・クリなど硬質の材が併せて使用されてきたのである。
 温泉郡重信町上村では、木材の調達はそれぞれの持ち山で行ってきた。上村の山は土地が悪いので木の太りはよくないが、かえって木目がつんでいるので材質はよいという。まず大工が図面をひいてキドリをしたのちオソマと相談して伐採する。このとき神酒を供えてヤマハジメを行ってから取りかかるが、初日はお下りの神酒を飲んでヒトメシ(二~三時間)ほどの簡単な仕事をして一人役となった。
 伐採はモトバライから始める。伐り倒す木の下の雑木を払い除け、キリクチを入れてウケクチをつくる。三分の一近くもウケクチを入れないと本が裂けてしまうのである。伐採後に小さく切断してしまう木は下方や斜めに倒すが、スギやヒノキなどの長さを必要とする材は上手に向けて倒す。材木は根元の方をモトといい先端をウラと呼ぶ。伐った本はウラの方の枝を三尺ないし六尺ほど残して枝打ちをするとウラの枝葉から水分が蒸発して木が枯れてゆくのである。「竹の八月、木六月」といって竹は旧八月、マツは花の済んだ旧六月が伐り時であるといわれる。この時期に伐ると虫が入らないのである。これに対してスギ・ヒノキは春秋の彼岸がよいという。彼岸のころには木が表皮と木質の間に樹液を多く含み、杉皮や桧皮が剥ぎやすく木の艶がよいのである。これを木のツワリと呼んでいる。しかし梅雨時はアイがくるといい、木肌に斑点ができるので避けられた。したがって春に木を伐採して夏に普請を行うのを理想としていた。伊予三島市富郷ではツワリの終わった秋の彼岸から翌年二月くらいまでの間に伐り出すのを最高とし、次は盆から彼岸までの間がよいとした。俗に彼岸一まわりといったのである。なお、戊(ツチノエ)の日は忌みた。
 さて、伐採して乾燥させた材木の山出しは、組または村のコウロクで行われた。上村ではマキヅナとワンカケおよびベタビキの三方法があったが、普請木は地面を曳っぱると砂をかむので木材の伐口にテンコロを打込んで牛に曳かすベタビキは大工が嫌った。またワンカケは重量八〇貫くらいまでの比較的小さな木を出すときに用いられ、木に縄をかけて棒を通して前後二人ずつの四人掛かりで担ぎ下ろす方法である。マキヅナはムナギゲタやウシギ(棟木下の材)など五間ものの大きな木を出すときに行った。根元に近いスエクチを前にして一本の長い綱を緩く巻きっけ、重量に応じた本数の棒を通して左右に並んで担いだのである。綱を緩くするのは、その緩み具合によって地面の部分的高低に関係なく担棒の高さが一定に保たれるからである。すなわち、長い材木であっても各人均等に重量が掛かるように工夫されているわけであった。
 材木の重量はマツを基準にしてスエクチ二寸・長さ二間のものが四サヤ=四貫目である。したがってサヤの目方いくらということで担手の人数が決まった。一人当たり一五ないし二〇貫であった。また株のついた材をシャカツキと呼ぶが、この場合は特に重くてマキヅナもシャカ側の間隔を狭くするのである。ちなみに山を全伐したときには、傾斜地ではキンマ、平坦部ではドツグルマを用いて山出ししたが、これらは専門業者によるものであった。
 また林業地域の上浮穴郡ではスラ(修羅)が利用された。伐木する林内の傾斜が緩慢な場合にはとくに設備を要さずに滑り落として集材したが、急傾斜で木材の破損があるときや間伐材の集材で他の立木に損害を与えると思われるときには「止め」を設備して落下する材を一旦受けとめ、勢いをそいで再び落とす。そして、ある程度集材した段階でスラの中を滑走させたのである。スラは搬出する木材を用いて図1-11のような樋形の道をつくり、この中を滑りおろすもので、運搬が終われば上の方から取りはずしつつ順次に集材するしくみになっている。スラをつくる方向に縦に枕を二本敷き、この上に横に二本のリンを並べて両端から前後に四本の矢を入れ、さらに木材を並べて道をつくったのである。しかし、スラは林業地域でも相当に大きな山出しの場合に限定された。
 さて、スラと同様に山地において行われてきた方法にキンマがある。キンマミチに長さ一m内外、直径六~八cmの枕木を敷き、その上をキンマで滑走させた。台木の上に枕を置き固定して積台とし、木材を積載してカスガイでとめる。キンマの先端部には二~三mの木を一本固定して梶棒とし、布製のケサを取りつけて曳っぱったのであるが、大変な重労働であった。
 大洲市東宇山には常設のキンマミチがあって同市柳沢方面の木材を肱川沿いの五郎地区まで中継でおろし、更に河口の長浜町まで船や筏で送っていた。柳沢方面で伐った木材を牛に曳かせたり背につけて宇山まで運び上げ、キンマに載せて一直線におろしたのである。これをスラシと呼んだ。宇山のキンマミチは枕木を敷きつめたものではなく、地面を直接に曳き、加速のつかない平坦部のみ枕木を用いた。そのため降雨のときにはキンマミチに溝を掘って損壊を防いだというが、同市新谷から柳沢に至る道路が通じてからはキンマミチもなくなった。

 建築工程

 山出しをした材木は建築現場の近くに設けられた普請小屋に納められ、チョウナハジメが行われる。着工祝いであり、本来は吉日を選んで祭壇をしつらえ、神まつりを行ったのである。木の表皮はコビキが多少は削っているが、柱や角ものは手斧で荒削りを加えてゆく。大きな構えの家であればこれだけで五、六〇人役を要したという。もっとも梁はコビキが挽いた材を使用する。そして木取りをし、墨つけをして切り組みを始めるのである。
 一方この間に普請場の地形を行う。家屋の礎石や周囲を搗き固めておくことは古今とも建築上の必要不可欠な作業であり、ドウ搗き・地搗き・クボ搗き・カメノコ搗きなどといった。ドウヅキは重量も重いので支柱のタチマチを組み、女八人ほどが綱を曳き、ドウヅキを移動させるテゴと音頭取りの男が一人ずつついて行われるのである。またカメノコは支柱を設けず、御影石のカメノコに八本ばかりの綱をつけて上下させるもので、松山地方では八貫目の一番ガメから四貫目のコロコロガメまで数種類あって使い分けられる。もっとも家普請には一つで事足り、径一尺二寸、厚み五寸ほどのカメノコが用いられた。中央に取りつけた八個のワンに藤蔓を二重に通し、その先に綱をつけた。藤蔓は地面を這っているものが粘りもあってよいといい、これを二つに裂いて輪ぐね、常時水に浸して乾かないようにした。一般にカメノコは女が搗くものだとされ、八人が綱を曳き、ボデンを持って拍子をとる音頭取りの男が一人ついた。
 家の外まわりを先ず搗き固め、次にハシラグチや内部の柱の基礎を固めるわけである。喜多郡内子町や伊予郡広田村などでは大黒柱から地搗きを始め、左回りに搗いて大黒柱へもどる。最後は八八回搗いておさめるものだともいう。また、大黒柱の下を一番に搗いて戌亥から始め戌亥でおさめる(日吉村)とか、大黒柱から始めて右回りに搗いて大黒柱でおさめる(宇和町・広見町・面河村など)、大黒柱を搗いて明き方から右廻りで明き方におさめるなどさまざまであるが、大黒柱から始めることは概ね共通して全県に亘っている。そして、日吉村などの石亥の子地域では大きめの亥の子石をカメノコに当てることが多い。
 こうして基礎を搗き固めた上に柱を支える礎石を配置してゆくのであるが、北宇和郡津島町や広見町では地形石といっている。宇和町や小田町ではイシノクチ、日吉村や久万町畑野川ではイシグチ、重信町上村ではハシラグチと呼び、三尺三寸間隔に配していく。したがって大壁造りではない。また上村では内側の柱を支える石をタマイシ、束を支えるものをツカイシと呼び、ハシラグチ間の小舞や壁部分の下部にはメンドイシを並べた。畑野川ではスエイシという。高さの加減は糸を張って差金で見たりミズモリで水平を測定し、表面の平らな川石を据えつけたのである。山石は冬季にしみて割れることがあるのであまり用いない。そして地形ものちには周囲の礎石に切石を用いたり、ダイワ・ドダイなどと称する柱を支える横木を据える構造へと変化してゆくが、これは瓦葺屋根が普及してゆく明治中期以降のことであった。

 棟上げ祝い

 地形ができあがると吉日を選んで柱を立て、横木を渡して凡その枠組みをつくり神祭りを行う。これをムネアゲ・タテマイなどと呼び、建築工程における最も大きな儀礼となっており、親戚や組に触れて応援を求める。親戚はこれに対して八木(米)や餅などの歓びを持参するのである。そして大工の指図によってコウロクの組や村の者たちが木組みを行ってゆく。
 大洲市東宇山では葬儀と棟上げのコウロクは必ず受ける義務があるといい、予め隣り組合に頼んでおくと手伝いにきた。そして大黒柱から建て始める。八寸ないし一尺二寸がダイコクの平均寸法で、これにオオゲタ・ノキゲタ・ハリと渡して棟木が上がると棟上げ祝いとなる。これには祭壇とさまざまな飾り物が伴うのであるが、一般に南予地方は棟に弓矢を、松山地方はボンデン、東予地方は扇子と御幣をとりつける。
 北宇和郡吉田町付近では棟の上に座をしつらえて御幣を三本立て、鬼門と神門にそれぞれ大きな弓矢を曳く。鬼門だけの場合もあり、棟上げ祝いのときどきに二間ないし二間半ほどのものを竹でつくり、家主から貰った白木綿を弦として張り、残りは切らずに垂らしておく。これに一間程度の矢を型どった板をつがえて縛りつけたのである。御幣に神霊を勧請して肴二尾、神酒、餅二重ねを供え、棟梁が禊祓いの祝詞を奏上する。祭りが終わると四方固めの餅を撒き、小餅を一俵ないし二俵ほど撒餅するのである。なお矢は大工送りのときに大工が貰い受けて戸口に飾っておく。白木綿は妊婦が腹帯にすると産が楽になると伝えている。
 また同郡広見町奈良では東に白木綿の弦を張った弓矢を飾り、西方に六本骨の扇子を立てる。三方に米と魚二尾を載せて供え、大工に神酒を振舞うと主人に家渡しを行う。日吉村黒川では御幣と幟を立てる。幟は木綿の反物で弓を形取り、棟には大工が矢をつくって立てる。終わると反物は大工に贈ることになっている。三間町では棟の両端に弓矢をとりつけ、中央には御幣と扇子、四方の柱にも御幣を結びつけて神職に拝んでもらうのである。東宇和郡城川町のタテマイには棟に弓・矢・吹流しを立て、鏡・かもじなどを一緒にまつり、餅投げをする。大工が四方固め餅を東西南北の順に投げるわけである。
 松山地方では棟木を上げ終わると仮座を設けて御幣五本とボンデンを立てる。ボンデンは二寸角で長さ二間ほどの角材に七・五・三の印をつけ、先端に五色の布、鏡、女の髪の毛、かもじ、末広などをとりつける。そして尺杖や手斧、墨壷、墨さし、曲尺などの大工道具と神饌を供え、棟梁が祭主となって上棟祭を執行する。伊予郡広田村でもボンデンを立てて鏡・麻・五色の布・毛髪などを取りつけて御食御酒など五種類の供物をし、図板の上に墨壷・手斧・金鎚・曲尺・尺丈を置いて祭るが、尺丈だけはあとで棟に上げておくという。越智郡や周桑郡では扇子二本と御幣を割竹で挾んだものを棟に打ちつける。
 さて棟梁の祈念が終わると各地とも餅撒きを行うのが一般的である。小田町上川ではまず四方固めの餅を四隅へ投げ、次いで小餅を一斗ないし一俵程度撒き、最後に大黒餅とて大きな餅を大黒柱の方向へ投げることになっている。津島町高田でも四方固めの大きめの餅を大工が撒き、次にお鏡を四~五個、そして小餅を撒く。日吉村黒川では五合餅を一〇個、切り餅と小餅を一俵ほど準備して撒餅することになっている。重信町上村あたりでも一俵くらいの餅を搗き、満ち潮どきにまず棟梁が艮・巽・乾・坤の順で四方固めの餅を投げる。次に小餅を撒いて最後に神饌を投げるが、これをオオドミといって棟梁が上台、家主が下台を投げる。なお、オオドミの餅を拾うと家の普請をしなければならないといわれる。
 越智郡宮窪町浜では一俵半から二俵もの餅を搗く。お重ねの大餅は一つを家主が投げるが、一つは棟梁が持ち帰る習いである。次にお金を入れた角餅を大工が家の四隅へ落とす。また同町余所国では普請が完成して家移りしたのちに棟上げ祝いをし、餅撒きをするのだという。周桑郡丹原町では硬貨を入れた一重ね五合のスマモチを家の四隅に東西南北の順で投げたのち小餅を投げる。

 大工送り

 撒餅のあと祝いの宴席がもたれ、大工には祝儀を渡す。広見町奈良では、このとき餅一重ねをつける。しかし棟梁については宴席の解散後に贈物を持って自宅まで送り届ける風がある。これを一般に大工送りと称しており、大正期のころに消滅してしまった地域が多いのであるが、地域によっては現在も行っている。久万町畑野川では米一俵と酒一~二升にお重ね餅を担いで届けていた。広見町奈良には大工見舞いと称して米一升と肴を届ける家があるという。
 喜多郡河辺村では大正中期まで大工送りが行われ、米一俵と棟上げ祝に用いた弓矢を届けていた。大洲市東宇山でも八木のうちの一俵と酒を一〇人ばかりの行列で大工の家まで届けに行った。到着すると大工の側ではこの者たちをまた賄ったのであるが、大正期以降は八木を届けるだけである。
 温泉郡重信町西岡あたりでは棟上げの翌日に行った。棟梁のもとへ建前に用いたボンデンなどを添えて八木、酒樽、肴、祝儀を届けたのである。棟梁側では使いの者に心づけを出し、樽ひろめと称して心安い者や弟子たちと祝宴を開いたわけであった。同町上村でも一俵ないし二俵の八木を贈るが、届けに行った者たちはまた大工の家で祝いをしたという。届けられた八木は、結局はこうした祝宴の経費に当てられてしまうのであった。なお大工送りは、かつて大工が特別な技術者とされた時代の待遇表現の名残りであろうと考えられている。
 さて、越智郡大西町の旧庄屋・井手家が明治二四年に改築したときの手控え記録には、棟上げ祝いや大工送りのことなどを次のように書き留めている。

  明治廿四年 新五月廿七日・旧四月廿日 本家并牛馬屋上棟式執行、六畳玄関表ニ櫓ヲ構エ上ニ大八ツ足壱机、小八ツ足ニ机ヲ居、鬼門ニ大弓ヲ張、櫓下ニ八木弐俵ヲ飾ル、大幣帛壱柱小幣帛十柱ヲ建、
   龍神諸神 勧 請
     造酒二樽   生鯛一折
     八木二重   大鏡儒一重子
     四方堅メ鏡糯四重子中ニ金ヲ入ル
     投糯二重子并大荷擔ニ壱荷
     投銭金壱両但小浅ニ
    神前之大幣帛ニ扇子七本ヲ用
      差図板、差金子、墨坪、槌貳梃
    捧棟ニ大幣帛
  奉御祓 式済ンデ祝盃ヲ廻ラス
    四方堅ヲ投小餅金銭ヲ投ル
     拾フ者村内他村ヨリ来リ
     群集シ表ニ遣ル
仝時ニ牛馬屋上棟式執行
  大幣帛、捧棟式済
棟梁代祭主辰五郎上下着用
     餅銭ヲ投ル
 棟梁 菅岩次郎羽織袴着用
   右

主人井 手   武上下着用
  井 手 正 貴羽織袴着用
  新居田 宗三郎羽織袴着用
  〆

     (中略)
     棟梁菅岩次郎江贈物
一八木貳俵 為祝儀金壹円 樽壱荷
一生鯛壱折 包熨斗
  〆     (中略)
               宮脇村大工
一金貳圓 辰治     四拾銭 扇山弥平
     富村木挽      営村木挽
一金八拾銭 鴨頭弥平  五拾銭 越智周蔵
     新町村大工     新町村大工
一金五拾銭 田坂良次  貳拾銭 田坂寅次
     仝木挽       新町村左官
一金三拾銭 鴨頭太市  五拾銭 田坂卯喜次
     新町村左官
一金五拾銭 白石富蔵

 屋根葺き

 家屋を新築したのちも屋根だけは周期的な葺き替えを必要とし、菅葺きで一〇~二〇年、小麦藁葺きだと六~七年の間隔に一部または全部の葺き替え作業が行われてきた。そして、葺草は何にしても陽当たりの悪いところや湿気の多い部分から腐っていくため、屋根全体を一度に葺き替えるよりも部分的補修の方が多かった。また一度に大量の葺草を確保調達することも至難なことであったのである。
 さて萱葺きの地域では共有あるいは私有の萱場を持ち、順次に葺き替えを実施していったのであるが、城川町野井川の泉川部落では個人山の萱場一町三反を小作で借用していた。一戸当たり三人役の扶役無尽で萱刈りを行い、組の者が総出で葺き替えをしたのである。萱場からは径一尺で一、〇〇〇束の萱が穫れたが、全体を葺き替えるには必要量の半分でしかなかった。また組内に葺き替える者のいない年には刈り取って売却した。古い萱を残すと翌年に良質のものが生えないからで、竜泉では刈り取ったあと春先きに火入れをした。山の上から焼き下ろしていくが、横へそれた火は県境の土佐ベラまで延焼することがたびたびであったという。ともあれ、人々は萱場の維持管理には殊のほか気を配ってきたのである。
 さて、島方や平野部農村などの小麦藁葺きの地域では萱葺きのところに比べておのずと葺き替え作業も小規模であった。この地域は裸麦栽培地帯であるので二、三軒の家から小麦藁を融通してもらうか、さもなければ、まず前年に丈の長い小麦を必要量だけ播種することから始めなければならない。畝植えの小麦はバラ播きに比べてよく伸びたのであるが、葺草には特に長い品種を選んだ。松山地方では「エジマ」種が多く栽培されたという。茎の長さが二尺五、六寸あり、穂先のイガが長いので長雨にも腐りにくいのである。また裸麦を用いることもあるが、二年ほどしか耐用しない。
 屋根葺きの方法は萱葺きも小麦藁葺きも基本的には同様である。ここでは後者の場合として重信町上村の事例を示しておくことにしよう。まず三尺間隔で棟木から桁におりる垂木に垂直に下地の竹を縛りつける。棟木から下の方ヘ一本の五分縄で径一寸五分ないし二寸のオトコ竹を三寸くらいの間隔で縛りつけていく。こうすると下地がずれない。この上に厚み一寸ほどに稲藁を敷き、竹下地に小手縄で編みつけ、さらに小麦藁の束を置く。元を下に向けてモトグクリにしたさし渡し一尺二、三寸の束を並べ、四尺巾くらいを一まとめにして下地に縛りつける。縄はハリに通していく。屋根の裏側に一人入り、上からハリで突き指すと適宜の位置を指示したのである。都合、五〇尋の縄五、六把を必要とした。
 小麦藁を並べた上をシモトダケで押さえ、竹下地に固定する。藁の元から一尺五寸くらいのところをハリで突き指し、二回まわして職人が足で踏み、ずり落ちないように上から締めつけるのである。シモトダケには黒竹が小さくて手ごろであるといい、孟宗竹や淡竹は元が太すぎて適さない。また黒竹は二間余りと短いために二、三本を継ぎ合わせて締める。この上にまた藁束を並べて同様にシモトダケを施し、最後は両側(オヒラ・コヒラ)からの藁先を合わせてしまいをし、さらに径一尺七、八寸のオサエワラを置いて棟木に固定するのである。なお、ハリは長さ五尺ほどの樫の本の一方をとがらせてミミソ(針穴)をあけ、片方には小型の鎌を取りつけたもので、鋏・テイタとともに屋根替えの基本道具であった。
 こうして軒先を一尺五寸ほどの厚みに葺き終えるとテイタで叩いて表面を整形し、屋根の途中にはミチギの丸太を渡して下地の竹に縄で固定し、上部を葺くための足場をつくる。ミチギは屋根の広さによって本数も異なるが、二、三本あれば充分である。葺き終わると縄を切ってはずす。なお、四方にオーダレをつけていないフキオロシ屋根の場合には、周囲に丸太で足場を組まねばならない。
 こうして一通り葺きあがるとオサエワラの上にガンムリ(雁振瓦)をのせて棟じまいをし、表面を鋏で伐り揃えていく。終わるとシオバライをしてガンムリの下に幣紙を挾み神祭りをなす。なお、屋根屋の賃金はムラの公扶一人役(米三升六合)の二倍半から三倍であったという。一般的な民家で三、四人役の職人手間を要し、これに藁東を竹竿でつき出す者と上で受け取る者の二人が手伝ったのであるが、萱葺きに比べて小人数であった。
 葺き替え後、小麦藁が腐蝕してシモトダケが見えはじめるとカノコを打つ。古い藁を引き抜き、新藁を差し込んでいくのである。新築時に屋根を葺いたあとは五、六年ごとにカノコを打つだけで、全体を葺き替えるということはほとんどないが、屋根はしだいに当初よりも厚くなるという。
 ところで上村にも萱葺き屋根が三、四軒あったが、この葺き替えはイイで行った。多くは経済力のある家であるから職人を集め、日数をかけて行うのがハレなこととされていた。そのため、職人四人で一週間かけ、夜は歌い舞いで酒を振舞って葺き替えた家もあったという。萱場をもたない平野部農村などで萱葺き屋根が地域社会における社会的、経済的地位を示す象徴的存在であった所以である。

 萱 講

 さて、萱葺きを主体とする山間地域では、多くの労力を要することもあって各組を単位として萱講・屋根講・屋根替え講・萱頼母子あるいは屋根替労力奉仕組合などと呼称される相互扶助制度が形成され、村落共同体の仕事として屋根葺きが実施されてきた。例えば、重信町上林の花山部落の萱頼母子は二二戸の加入者で、約二〇年ごとに葺き替えを行っていた。萱刈り作業は一日三貫目宛を二日間刈り、一日ないし三日の葺き替え作業の合力をした。五間と二間半の家で二、〇〇〇貫の萱を要し、四日間かかっている。また湧水部落では共有の萱畑を持ち、各戸二日で六〇貫の萱を刈ったという。同町山之内神子野でも「萱ぶれ」があると三日間奉仕することになっていた。
 また城川町遊子谷の上川部落では早くから瓦葺きだった一戸を除いて屋根替講を、のち屋根替労力奉仕組合を結成し、組の者全員が寄ってクズヤの葺き替えをなした。同町土居へ向かう土居越しの付近に萱場があり、各戸二人ばかりが出扶して萱を刈り取って径八、九寸にカズラで縛り、一〇~一二束を負い子で背負い一日四、五回往復していた。五人役というのが義務づけられた平等歩であった。平均して二、五〇〇束の萱を使用し、古いものも合わせて葺き込んだ。屋根の四隅は屋根屋を四人ほど頼むが、ナカブキは組の者がしたのである。昭和四〇年ころまで継続していたが、瓦葺きの普及とともに消滅してしまった。
 また、部落共有の萱場からだけでは必要量の萱が取れない場合、広見町成泰では萱無尽を組織し、葺き替え予定者は部落に萱場刈取り願を出して許可を得るのである。そして、不足分の萱は萱無尽で落とし、材料の萱を確保していた。なお萱刈りは晩秋の農閑期から初雪の降る迄を目途にした。積雪をみると萱の下葉が枯れてしまって落ちなくなり、品質も低下するからであるという。また刈取りも鋭利な鎌で一度に刈らないと萱が割れてしまい、水が入って腐蝕しやすくなる。こうして成泰では径五寸の小束六つを一束として一〇〇束を準備し、一日で葺き終えたが、通常一一人役を要したようである。
 石鎚山麓の小松町中村では一五戸で屋根替組を組織し、一五年目ごとに屋根を葺き替えていた。屋根替帳に一切を記録し、順送りにしたというが、各戸の持参品として、①萱は周囲四、五尺のものを一戸当たり二三束、②シモトダケは五寸回りで二間ないし二間半のものを一戸当たり二〇本、③決められた長さの手縄がそれぞれ義務づけられていた。萱の刈り場をカヤバヤまたはカヤバヤシというが、中村の山の上に五反歩ほどのものがあった。一五戸が全員で刈取り、それぞれに春まで持ち合わせて乾燥させたのち屋根裏に入れてイロリの煙を通す。こうすると萱が朽ちにくく、雨にも耐用するのである。
 屋根職人を屋根替師と称したが、石鎚山北麓の地域では広島県から来ていたという。正月から麦刈りのころまでの農閑期を利用した、よい金儲けになったのである。「屋根屋ちゅうもんはええもんよ。食べさせてもろて、銭もろて、賞めてもろて……」と歌い、喜んで仕事をしていたという。屋根葺きに際しては、軒下に足場を組んでミチハシをつくり、杉板を渡してから始めたが、その資材は屋根替えをした家が翌年まで預かる慣習であった。
 その他、宇摩郡別子山村日の地の普請組の場合、屋根普請の萱替一戸の合力は、①冬の葉萱は五尺しめ三把ずつの九荷すなわち二七把、春の篠萱は四把二荷の八把、②萱縄を一人三〇尋一把で三把、③葺き始めから終わりまでの全員出夫が定められていた。また組員は豆腐一箱(一二丁)と大根一把にそばを持参し、そば汁、豆腐汁と酒を馳走になったという。このように、萱屋根の葺き替えには多人数の労力を必要としたのであり、その点で萱講は共同体の物質的精神的紐帯を維持していく上にも大きな役割を果たしていたのである。それだけに萱講への加入、脱退、また萱講自体の運営に関していろいろな取り決めがなされ、その規約を成文化している場合も多く、時代の変遷とともに改正事項が加えられてきたのである。

 萱講規則

 温泉郡川内町井内の大平部落では、明治二三年に次のような屋根葺替の規則を定め、その後、昭和二四年および二六年に部分的な修正を加えている。また、上浮穴郡美川村七鳥の長瀬部落でも、大正六年に「家屋葺茅契約証」を定め、萱講の結束を強めて円滑な運営をはかろうとしたことが窺えるのである。

     明治二十三年三月十日 屋根葺替規則録
        葺 替 期 年
  藁葺は本家肥家に不抱満七ヶ年、萱葺は本家肥家に不抱満二十年
   明治二十三年三月十日組方集議の上左の権限を議定す。
     屋根葺替取極り規則証
  第一条 本家萱屋根葺替の節共人より白米壱升五合を毎戸ヱ配萱掛目七拾貫目を毎戸より持寄べき事
   但し極貧民赤者老若及婦女にして萱前額掛目持参にて不能と組方より見込相立候節者米七合半を配、半額掛目三十五貫目を持参すべき事
  第二条 本家藁屋根にて葺替の節は藁一ト〆五尺丸を六貫宛右葺替の宅へ必ず持参すべき事
  第三条 肥屋萱にて葺替之節者其戸之より白米五合を配萱掛目二十四貫目を渡人宅へ持参の事
  第四条 同肥屋藁にて葺替の節者一ト〆五尺丸を三貫宛葺替の宅へ戸毎より持参の事
  第五条 第一条に掲る本家葺替者毎年一戸に限るべき事
   但し同年に二戸以上申出候節者組合協議の上一戸不得止と見込、相立分葺替為致且又協議に相成り就節者組合入札を以一戸と相定可申事
  第六条 第三条に掲る肥萱替者毎年二戸以下に限るべき事
   但し本家萱葺替有る年は肥屋萱葺替一戸に限るべき是亦二戸以上申出之節者前条に同じ
  第七条 第一条第二条同年に葺替之年柄者萱葺替の者より米七合半を配萱掛目三十五貫目持参藁葺替の者へは藁五尺丸を三貫持参すべき事
  第八条 萱屋根にて萱替を思立の者は葺替前年旧十一月山神通夜前迄に組長へ必ず申立べき事、組長に於ては該通夜の節人別へ通知協議の一定可為致事
   第八条は年始祈祷の節と変更
  第九条 木屋肥屋共繩合力之越者毎戸成沢山に持参べき事
  第十条 本家肥家共葺替の節者第一条より九条迄の規約専らに用ゆべき事
前書之通組合集議の上決定候上者為後日異議なく連署の上捺印候也
  下浮穴郡三内村大字井内部落字大平藤原
 明治二十三年                            北川 徳次郎(以下16名略)
 昭和二十四年一月十六日
組方協議の上屋根葺替の規約の内を左の通改正増補ス
一、本家肥屋共葺替の年限の来る際萱葺を成す際萱合力を受け其の家主鹿の子修繕を成すも差支へ無し此の場合は葺替を成したる者として萱替の年限来らざる時は萱合力を受ける資格ナキモノトス
一、肥屋(納屋)を瓦又は杉皮葺となすものは其の家主の本家葺替の節本家合力萱七十貫目の外に弐拾四貫目を増し合計九十四貫目を組方組合員より合力するべきと協定す。
一、第八条の葺替申出で時を「旧十一月山神通夜の節」とあるを其の年の年始祈祷の節と変換す
  右協定を確守する事
           大平葺替組合中
一、壱戸で本家納屋弐棟分一度に合力萱を受ける場合には葺替をなす方へ篠萱を持って行き葺替をせない方は葉萱を持って行く事
       昭和二十六年十二月七日組方協議の上附則す。

   大正六年旧九月二十日 家屋葺茅契約証
   当組に居住する全員協議の上、左記条項を決定す。
 一 本戸三十戸以上ある時は一戸前茅五尺二寸〆(しめ)を以って十〆、三十戸以下の時は十二〆、及び立金五銭と縄一束を出すこと
 二 駄屋、隠居の場合は本戸の十分の五と縄二十五ヒロを出す定め
 三 瓦、板、杉皮葺の時は其時期の茅相場を以て相当する額を出す
 四 本屋葺替年限は二十五年以上を一週とし、駄屋、隠居は十五年以上、然れ共、水火風災の不幸の時は年限この限にあらず
 五 本契約を誠実に実行したため、茅無しと認めたる者には葺替者及び契約総員間で成べく安価に譲り合うものとする
 六 葺替該当者多数ある場合は最も古いものから本戸一棟、駄屋一棟を実施する、通常は本戸一棟の定め
 七 他より組入する者は本契約に加入する、然れ共、誠実満五年実行の後でなくば其者は願出をなし得ず
八 葺茅取扱人は葺替者の組の伍長と定める、もし組長・伍長に当る時は乙の伍長が取扱う、この手数料として本屋は四十銭、駄屋、隠居は三十銭と定め、何れも総員にて支弁するものと定める
 九 葺替者、吉き日を三日定め、十日以前に願出をなさば早速総員は茅をかり揃えること
一〇 葺替請求該当者は前項四の一週年限に満つれば葺替えを保証される
一一 本契約は若し家屋を他人に売買する時は年限一週に満ざる時は茅葺年数不足する時、時価相当の代金に引直し請求することが出来る
一二 家屋を他人に売買する時は能々本契約を承認すべきである、然れ共、家屋が本宅地を動かず、動くと雖この組内を離れぬ時、又買主が引きつづき実行する時は適要せず
一三 契約組織以前の家屋については年齢を同じとみなす
 左記総員を以て誠実に実行することを決定す、依て本契約かたく守るため総員連署し調印すること如件
  大正六年九月二十日組織
                                 川井 福次(印) (以下三六名省略)

図1-11 止めと修羅の図(久万町誌)

図1-11 止めと修羅の図(久万町誌)