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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

三 間取りと住まい方

 間取りの祖型

 県下の民家の間取り形式は、現在では整形四関取型(田の字型)ないし食違い四間取型が殆どであるが、古民家からその祖型を復元してみると二種類に大別できるようである。一つは土間添いに二室を設け、その奥にザシキをとった三間取型であり、いま一つは、土間添いに一室とその奥にもザシキ一室をもつ桁行の長い二間住居である一列並型である。
 このうち三間取型は東予地方に、一列並型は南予地方に主として分布し、中予は両形式の接点となる混合地帯であるという。また二つの形式が独自な発展をとげたのちに併合され、今日の四関取型に移行したもので、その間の過渡期には三間取型の逆形式である広間型の民家も出現したといわれているのである。
 さて、三間取型の代表的民家が川之江市山田井の真鍋家住宅(重要文化財)である。県下最古の民家遺構で、昭和五三年に解体修理が施されて図1-8のように復元された。桁行五間、梁間三間の柱を塗り込めた大壁造りで、窓も少なく、一七世紀代まで溯るものと推定されている。土間添いに二室(マエ・オク)と奥に一室のザシキを設けた三間取型の典型である。
 これに対して南予地方の一列並型は、かつては間取り形式の主流を占めたものと考えられており、のちに広間型から江戸時代末期には四間取り型へと移行したり、土間に床を張ってチャノマが設けられていったのである。西宇和郡双岩村(現八幡浜市など)では、明治一〇年前後から建物に拡張を加えて従来の土間の一端に物置部屋を設けたり、その正面を茶の間として囲炉裏を移し、勝手の間を二分して寝室と中の間にするなどの改造が加えられてきたという。図1-9は東宇和郡宇和町明間の民家であるが、もとはチャノマもふくめて土間であり、ネノマとオクノマの仕切りもなくてザシキ・ネノマの二間取り、すなわち一列並型の形式であったことが窺える。なお、ザシキに続けてエンガワを設けるのも南予地方の民家の特徴である。

 土間の多様性

 伊予の民家は一般に土間が広いという。ことに農家の土間は広く、母屋の三分の一から半分ほどの面積を占めることが多いようである。道後平野の農村では新築に当たってヨマは狭くともニワ(土間)だけは充分にとるといい、床張り部分を二間だけにしてザシキを後日に建て増しすることもあった。したがって、ときには床張り部分を上回るような土間もあり、愛媛県の民家および住生活における土間の持つ意味を考えさせるのである。
 さて、土間のことをニワと呼ぶことが多いのであるが、ツキニワ、ウチニワまたはフミゴミともいっている。雨天時や夜間の作業場、また物置きとして多様な機能を果たしてきた屋内空間であった。殊に農家では納屋・長屋が普及して家屋の機能分化が進展する以前には、籾摺りや夜なべの縄ない、俵編み、莚編み、草鞋編みなどを行ったり、穀物の精白や製粉作業などに利用された。米倉のないところでは土間に俵を積み上げたり、その一部を仕切って俵戸棚とか内倉と呼んで穀物の貯蔵に用いている地域も多いのである。東予市や周桑郡ではイチブといっている。また、土間から床下にかけて一坪あまりもある穴を掘ってイモツボとしたり、養蚕地帯では桑の葉の貯蔵穴として利用したのである。さらに漁村においても、土間は網や漁具の収納場所や繕いの場として使われることが多かった。
 しかし、なかには宇摩郡新宮村から別子山村にかけた銅山川流域のように、フミゴミ程度の土間しかない民家が見うけられる地域もある(図1-10)。旧山中家住宅(重要文化財)などもその一つである。こうしたところでは、囲炉裏の周辺が夜なべ仕事の場として利用されたのであるが、土間の狭少さは徳島県祖谷地方や高知県山間部との関連によるものと考えられる。
 さて、かつては土間の一部を利用して炊事場らしきものが設けられていたが、しだいに仕切りを付加したり、別棟の釜屋へと発展していった。城川町ではショタイバと呼んだ。そして『農村生活実況調査報告』は「内庭ヲ仕切リテ炊事場トナシタルモノ最モ多ク六割六分ニ達シ、別棟ノモノ及内庭ト共通ニテ仕切ナキ最モ単純ナルモノト稍同数ニシテ一割七八分宛ニアリ」と大正末期の今治市阿方地区の状況を報告している。平野部農村では、これ以降しだいに別棟釜屋が普及発達したのであるが、母家裏側に庇を継足した形式も多い。ちなみに井戸は、母屋の裏側に掘られていることが多く、阿方では炊事場との距離は平均して三二間であった。またクドも大正期以降は煙突を有する改良式のものが広まる。焚物は薪がほとんどであったが、個人山や入会山を持たない松山市余戸、保免などの平野のムラでは麦藁を使用することも多かったのである。ともあれ、土間は民家における極めて重要な空間であった。
 一方、床張り部分であるヨマにしても一般民家は竹座または板間であり、畳が普及するのは新しい。南予山村の城川町ではザシキに畳を敷く家さえ稀で、竹座に莚を敷いた。とくにナンドのチャノマから入ってすぐの裏側のみは、板敷きに改造したのちも一畳分くらいだけユカンのために竹座にしていた。湯かんがすむとイリコを置いて莚を敷き、「ここは野原じゃけん来られんぞ」といったのである。また、死者の出たときには、畳を入口に対してタテに敷き直す習いであった。『農村生活実況調査報告』は、旧乃万村で一戸平均一五・七枚となっており、最多五〇枚、最少三枚であった。そのため、畳無尽を組織して畳を普及導入した地域もあったのである。

図1-8 真鍋家住宅復元平面(同住宅修理工事報告書)

図1-8 真鍋家住宅復元平面(同住宅修理工事報告書)


図1-9 南予山村の民家(一列並型)

図1-9 南予山村の民家(一列並型)


図1-10 土間の極端に狭い徳島県の民家(新宮村新瀬川)

図1-10 土間の極端に狭い徳島県の民家(新宮村新瀬川)