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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 屋根の葺きと形

 萱葺きと瓦葺き

 今日でこそ萱葺きや小麦藁葺きの民家は珍しい存在になってきたが、ほんの数十年前まではむしろ民家の主流を占めており、瓦葺きの屋根は少なかった。ことにジカタの農山村ではその傾向が強く、マチや漁村、島方のむらに比べて瓦屋根への転換が遅れた。県下では萱葺きあるいは小麦藁葺きの民家をクサヤと呼んだ。これらをもって葺草にしているところからそう呼んだのである。南予方面ではクズヤともいったが、これは伊達家の移封とともに仙台地方からもたらされたものと考えられる。しかし萱場の少ない平野部や島嶼部では小麦を主体にした麦藁葺きのワラヤが多く、萱葺き屋根は一部の上層農家に限られ、ムラ内に数戸であった。
 さて江戸時代以来の瓦製造の町として知られる越智郡菊間町浜でも、瓦葺き民家の発達は遅かった。瓦葺き屋根がかつて地域社会の権力的象徴であったこともあるが、安政四年(一八五七)の『野間郡浜村根方帳』によると当時すでに母屋を瓦葺きとしている民家は町方を含めて三三九戸中の一二○戸にすぎないところから、村方に限定すればごく少数であったと考えられる。家々が軒を接する町方では火災予防のためもあって瓦葺きの民家が多かったのであるが、村方の瓦屋根化は一般に母屋よりも付属屋が先行し、母屋が瓦葺きになるのは遅れたのである。それでも島嶼部の集落では比較的早く、温泉郡中島町小浜では明治九年の『建物調書』によると一九七戸中の六四戸が母屋を瓦葺きとしているのであった。
 また、松山市福見川町に瓦葺きの母屋が建てられたのは明治一七年のことであった。しかし、前年に新築した二軒と同年新築の他の一軒は草葺きであり、農山村における瓦屋根化か遅かったことが窺えるのである。明治一九年の『建物取調帳』によれば、当時二四戸の福見川町に大小合わせて六一棟の建物があり、このうち瓦葺きとなっているのは土蔵や駄屋など八棟の個人持ち付属屋であった。そして村中持ちの諸施設はすべて草葺きとなっている。近くの東川町でも同様で、明治九年の『東川村建物調書』によると一七戸の母屋はすべて草葺き、すなわち萱葺き屋根であったようである。
 しかし、大正期になると平野部農村などでは瓦葺きあるいは瓦と小麦藁の混合葺きの屋根が多くなり、藁葺きのみのものは少なくなっていった。例えば越智郡乃万村(現今治市)の大正一三年当時の状況を示したのが表1-7である。これによると乃万村全戸六八八戸のうち瓦葺き平屋が二五六戸、同二階屋が四二戸で全体の四三%、庇を瓦葺きとした藁混用葺きが二七六戸で四〇%と大半を占め、小麦藁葺きは一一六戸と少なく一七%ほどであった。このように藁葺きは瓦葺きの普及とともに逐次減少の傾向にあったわけである。特に道前平野ではこうしたクサヤの消滅が早かった。

 屋根型の分布

 さてクサヤは瓦葺きに比べて屋根型の部分的な相違特徴がはっきりしているが、本県の民家についても屋根型による地域性が窺える。すなわち愛媛県の古民家の屋根型は大きく寄棟型と入母屋型の二形式に分かたれ、概して前者が支配的であった。四国の他の諸県についても同様で入母屋造りの屋根は四国山地の中、西部を中心とした地域に桐密な分布を示すのみであり、その他は概ね寄棟造りを基本形式としてきたのである。
 入母屋型の屋根は萱を葺草とする地域に見られるもので、上浮穴郡・松山市や伊予郡および温泉郡の山間部から喜多郡・大洲市を経て西宇和郡・東宇和郡の一部に及ぶ地方に集中的な分布を示している。また石鎚山系の北麓や銅山川流域の地方にも見られるし、かつては高縄半島西部の越智郡菊間町や北条市にも多かった。そして、他の地域は概ね寄棟型を中心とする屋根型分布が窺えるのであるが、南予地方や道後平野の周辺部など両者が混在しているところも多く、入母屋型のことを破風付き・スミツキなどと称している。なお寄棟型の葺草は、平野部や島嶼部が小麦藁を主体とし、山間部や富農層は萱を用いてきた。
 さて、これらのクサヤは、フキオロシ・フキサゲであるのが本来であったが、平野部を中心として江戸時代中期以降は周囲に杉皮や瓦葺きの庇=下屋を付け加えた二重屋根の形式が流行していった。この庇部分を一般にオーダレ・オダレあるいはゲと称している。ゲは下屋の省略であろう。特に道後平野においては顕著な発達をとげ、四周に本瓦葺きのオダレを設けた屋根形式の四方蓋造りが中流以上の農家に普及したのである。この地方では寄棟屋根が多いことから、「寄棟四方蓋」と名づけられ、松山地方における代表的な民家の屋根形式となっている。初期のオダレは上屋根の雨水をうけるのでマルブセ(本葺き)でなければならないといったが、しだいにキョウソデ(平瓦)へと移行していった。これには六尺の間に何枚入るかによってココノトオリ・ヤトオリ・ナナトオリとあり、今日ではヤトオリが一般的である。また、間に六枚しか入らない大きな瓦をゴンロクと呼んでいる。
 ちなみにオダレの普及は従来のフキオロシ民家の増改築を促し、屋内空間や軒下の面積を増大させていったが、山間部ではあまり発達をみなかった。

 棟じまい

 屋根において最も大切なところは棟である。そのためクサヤでは、棟を縄で締め上げたあとの針目からの雨漏りには殊のほか細かな注意を払ってきた。いわゆる針目覆いであるが、県下では棟じまいといっている。道後平野の民家では、寄棟・入母屋ともに大きな瓦を伏せた形式が多く、ムナガワラ・ガンムリ・ガンブリと呼称している。いわゆる雁振瓦のことである。たいてい棟の長さに合わせて瓦屋が焼き上げたもので、棟の中央に中つぎ瓦を置いて左右に葺いていく。巾二尺、長さ一尺五寸ないし二尺、厚み一寸五分のもので七貫目ほどもあった。しかし、納屋などの付属屋は杉皮で棟じまいした。棟を三角形に整え、ヒラ側の両面に長さ一尺五寸の杉皮を並べ、さらにその継目を覆うように重ねたうえに長さ三尺のものを二つ折りして重ねてゆくのである。これを真竹の丸竹を継いで押え竹とし、固定した。
 これが入母屋型民家になると雁振瓦は少なくなり、あわせて棟の反り具合などもあってなかなか多様であるが、県下では総じて杉皮を用いている。両面からの葺草を合掌にあわせて杉皮で押さえ、これを五木ないし九本の棟竹で締めるのである。さらにこの上に棟の長さに応じたタワラ(巻藁)を三か所、五か所ないし七か所、時には九か所ほどのせて固定し、棟の補強をするとともに飾りとする地域も多い。宇和島市や北宇和郡ではホテといい、内子町ではシモノ、上浮穴郡ではナワヨケと称している。銅山川流域の地域ではタワラの上にスズメバシリといってもう一本竹を渡して装飾を加えたり、破風の先端にカラスドマリをつけて棟を飾っており、県下における特徴的な棟じまいの形態を示している。なお南予地方の高知県境にも散在し、南宇和郡城辺町僧都ではカラスオドリと呼んでいる。東宇和郡城川町はカラスオドシといった。
 また、東宇和郡から北宇和郡の山間部には、棟を切り取って木枠をはめ、瓦葺きとした箱棟型の棟形式が見られる。形態的には雁振瓦と同様のもので伊予郡広田村にも見られるが、箱棟が普及したのはそんなに古いことではなく昭和になっての改造が多い。すなわち、一見すると入母屋型の変型とも見えるが、本来は寄棟型の杉皮による棟じまいが施されていたが、棟が最も傷みやすいために耐久性のある箱棟形式としたのである。また箱棟ではないが石鎚山麓の地域でも入母屋型のケド(破風)の上に木枠をかぶせた形式の棟じまいが多く、小松町黒川などはほとんどがそのようであった。ちなみに塩田の釜屋の破風をケドと称していた。
 ところで棟の反り具合に特徴のあるのが大洲盆地の民家である。入母屋型を中心とするこの地域の屋根は、破風を大きくとると同時に棟の両端を上方へ反り返らせて弓型状の曲線を描いている。肱川水系の上流域にもこの影響が見られ、中山町や野村町などにも少し反りのある棟形式が及んでいるが、大洲盆地のものに比べて反りが浅く、破風の穴も小さくなる。
 また、屋根の勾配は割合にゆるやかな傾斜のものが多く見られるが、それでも山間部の萱屋根は四五度~六〇度近い傾斜をもっているものがある。特に北宇和郡日吉村には急勾配の屋根が多く見られ、屋代造りと呼ばれている。明治初年に流行した建て方で、屋代島(周防大島)の万蔵大工が考案した形式だという。山村の多雨地帯の屋根形式としてこの地方の特徴的なものとなっていた。

 民家の大きさ

 県下ではシロク・ヨロク(四間×六間)の家ということをよく耳にする。奥行四間に間口六間の家というのが母屋の基本的な大きさであるというのであるが、実際にはそれほどの大きさはなく、シロクの家を大きな民家とした地域も多い。殊に南予地方を中心とする別居隠居慣行の盛んな地域では母屋も小さく、三間×五間(サンゴ)の家が標準となる。その中で比較的大きな家は、多くがヘヤモヤ(ヘヤオモヤ)といわれる同居隠居の形態をとっているわけであった。
 さて松山市福見川町や東川町は石手川の上流に開けた谷あいの集落であるが、ここでは四間×六間が基本であったらしい。先にも引いた明治一九年の『建物取調帳』では二〇坪以上三〇坪未満の母屋が福見川町で二四戸中一七戸をしめている。東川町でも一七戸中のうち明治九年の『東川村建物調書』によれば一四戸が二〇坪台であり、他は最大が四一坪、最小は九坪七合となっており、四間×六間を基本形式としていたことが窺えるのである。
 しかし、屋敷地の限定された急傾斜地の山村や漁村では少し事情の異なってくることはすでに屋敷地のところで触れたとおりである。宇摩郡新宮村などでは三間×五間が母屋の基本形であるといい、たとえ大きな民家でも奥行の間数をふやすことは地形的に困難なことであった。宇和海の漁村では二間半×四間が基本となり、瀬戸内の離島でもそのくらいであったという。たとえば佐田岬半島の三崎町井野浦では、明治初期のころで四七戸のうち四三戸が一五坪以下の小規模住居であった。忽那諸島の二神島でも明治中期までは一五坪の屋敷に二間×三間=六坪の母屋を構えた程度の家がたくさん見られたという。板張りに延を敷いた部屋と釜を築いた土間が半々であった。そして、四間×六間はこの島では最大の家だったのである。
 越智郡魚島も極端に平地の少ない島で、一〇坪内外の民家が海岸から山裾までひしめき合って建っている。ここでの民家形式は、比較的部屋数のある平屋のイエダテと納屋を兼用する二階屋のナヤダテの二形式がみられる。なかでも後者は、地形的諸条件を勘案した改良住居の一様式であるといえる。
 しかし島嶼部であっても中島本島などになると規模も大きくなり、地方と大差はないのである。中島町小浜の『明治九年建物調書』によると、一五坪未満の母屋が一九七戸のうち四五戸、三〇坪を越えるもの一一戸で、大半は二〇坪内外に集中している。また、付属屋を含めた建坪総数では五〇坪を越えるものが二一戸見られ、島嶼特有の密集村落でありながらも周辺の離島とはだいぶん異なって格段に大きなものであった。

表1-7 今治市乃万地区住宅構造其他調査

表1-7 今治市乃万地区住宅構造其他調査


図1-7 中島町小浜の民家(小浜村建物調査)

図1-7 中島町小浜の民家(小浜村建物調査)