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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

一  屋 敷 取 り

 集落の構成

 人間の住まいする家屋である住居を構える土地が屋敷地であり、そこにおける個々の建物配置や利用法が屋敷取りである。そして、屋敷地および家屋の集合体としての居住空間である集落には、山村・海村というような総体的な景観としての異同とともに集落内部においても、個々の家ごとの差異や同質性がみられるのである。
 例えば県下の農村は一〇ないし二〇戸程度で一つの組としての小集落が形成されることが多いが、集落内部における屋敷地の立地条件はさまざまであり一様ではない。すなわち、集落中央部や上手の水の便や日当たりのよいところにはムラの草分けである本家・旧家筋といわれる家が屋敷を構え、面積的にも広い土地を占めている。これに対して分家や転入戸は、集落周辺部などに立地することで一集落を形成しているのが一般的な集落景観である。
 このような集落構成は、また山村においてもみられるものである。松山市米野町は石手川の最上流に位置するムラであるが、ここにおける集落構成は図1-6に示したようである。米野町においては、草分けとされるABCの三家および比較的早くに転入したDEの二家を中心にその分家や新しい転入戸が周りを取り囲むようにして集落が構成されていることが窺える。もちろんこの場合にも、本家に対する分家の方角や軒の高さなどについてのさまざまな禁忌を伴うわけであるが、ともかくもこのようにして一つの集落が構成されてきたのであった。そして、屋敷の取り方にもそれぞれの個性がみられたのである。

 家屋配置

 個々の家ごとの屋敷地には、凡そ私生活の区切りとして周囲との区画が設けられてきたが、伊予三島市中之庄や寒川などの地域では一つの区画としての屋敷地を総称してツボノウチといっている。また東宇和郡や北宇和郡などでは建物を設ける土地をすべてヤジ・ヤジトコと称している。しかし、現在のように堅固な塀で外に対してはっきりと内部を区画してしまったのは最近の傾向で、本来外に向かって開かれた空間であることが伝統的な住まい方であった。この屋敷地のなかに母屋を中心として門や倉、駄屋、納屋、風呂、便所などいくつかの付属屋をもって住居が構成され、母屋が孤立して建つことは一部漁村地域を除いて例外的なことである。母屋が小規模であることもあるが、要するに東北日本などに較べて家屋の機能分化が進んでいるともいえるであろう。
 さらに農村の住居であれば、区画された屋敷地内にカド・オモテ・ソト・ニワ・ヒヌルワ・ヒノウラ・ヒノリバ・ヒノラ・センダイなどと称される広い屋外空間である前庭が存在し、穀物などの筵干しや農作業の場、盆や正月に代表される様々な神祭りの場として利用される。それは、土地の限られた島嶼部や海浜の農家においても同様であった。
 他方、農家ほどには仕事と住まいの一致しない漁村地域ではオモテの面積は極端に狭くなり、住居周辺のゆとりの空間がみられなくなる。しかし、漁村あるいは農漁村においてはハマが農家のオモテなどの屋外空間に代用される。八幡浜市大島では、母屋のある屋敷地と一間足らずの道路を隔てた浜辺に各家ごとの作業場が確保されていた。この空間をハマヤシキといった。一戸当たり一五坪ほどの広場で、地表面を赤土、石灰、塩を混ぜて固めている。そして広場の一角に納屋を設けたり、網さばきや麦打ち、イリコ干し、キリボシ作りなどに利用したのである。ハマという島における唯一の平坦地を公的私有地としてムラ人に割り当てたわけである。ところがハマは、区画されない共有地であることの方がより一般的である。宇和島市蒋淵でもハマは共有地で、部落ごとの網組織が使用していた。横浦二〇〇坪、豊の浦三〇〇坪ほどのハマを各部落で所有し、芋の切り干しをつくるときに限ってこれを総代が地区民に分割したのである。ハマチン(浜賃)を徴収し、部落会計に組み入れたという。温泉郡中島町二神島は今日もハマを多目的に利用している島であるが、ここでは昭和三〇年代までハマが人々の行き交う唯一の主要幹線路でもあった。県知事の来島を契機に道路が設けられたのであるという。ともあれハマは生産の場であり、祭りや盆・正月に人輿ともできる屋敷地の延長としての多目的な共有空間であった。
 山村では山の斜面を削って石垣を築き、横に長い屋敷地を造成した。そのため屋敷裏のヤマが一つの有効な利用空間であったし、共同利用の広大な入会地も確保されていた。伝統的な農山漁村において住居とは、母屋をはじめとするさまざまな個別空間の集合体であったわけである。

 ムラの住居

 このような性格をもつ住居は、私的な存在であるばかりでなくむしろそれ以上にムラという人間集団の大きな枠組みのなかで存在してきたものであった。すなわち農家のオモテなどは一定の区画を有しながらもムラ人が自由に通り抜けることのできる場所であり、ザシキなどの部屋は講行事や念仏、組寄り、ムラ寄り合いにも利用される公共的な空間でもあった。そこにおける人と人との触れ合いと意志の疎通は、閉鎖的な現代の都市社会に欠除する日常的なコミュニケーションを成立させてきたのである。こうした点が単一利用で職場と住まいの分離した私宅としての現代住宅と伝統的な農山漁村の住まいとの大きな相違点となっているのである。
 ちなみに多面的な居住空間である住居は、人びとが自己の生活空間を一つの世界として認識する場合の中心点とされるものでもあった。漁業を中心とする南宇和郡城辺町久良では、住居を中心として前方の海岸をハマ、海をオキと把え、後方の畑地をヤマ→ソラというムラの生活空間の構造認識がなされている。同じ宇和海の半農半漁村である宇和島市蒋淵でもそのようであるし、瀬戸内海の忽那諸島などの海辺のムラでは総じて同様な世界観を形成してきたのであった。

 屋敷取り

 屋敷地を選定して住居やその付属施設としての納屋・便所・風呂・駄屋などを構えるには、相応の必須条件が要求された。日当たりが良好であることはもちろんであるが、松山平野末端の温泉郡重信町上村では水の便がよく、流れ川に面して洗い物のできること、排水を流しうること、隣家の屋敷と田一枚ほどを隔てて火災時の類焼を妨げられることなどが屋敷選定の実質的条件とされてきた。南宇和郡一本松町では、屋敷取りについて次のようなことをいっている。すなわち、(イ)尾さき、谷口、仏のうしろ、神の前、庄屋の近くに家を建てるな。(ロ)三谷をひかえた家は悪い。(ハ)水のとまる所に家を建てるな。(ニ)地蔵の眼の向いている所は悪い。(ホ)入口の方が狭い入り船はよいが出口の狭い出船は悪い、という。
 また平坦地に乏しい山村部では、日当たりの悪いこともあって山の中腹に屋敷を構えるのが一般的である。山を背にした南斜面の前面あるいは三方に石垣を築いてやっと家を構えうるほどの平坦地を造成し、山際に寄せて家屋を建てたのである。また切り拓いた山の側にも高石垣を積み上げ、土砂の崩壊を防いだ。そして、こうした山村住居の場合は総じて奥行きが短く細長い屋敷地を構え直列的な建物配置をとるのが常であった。
 伊予三島市中ノ川では前面が開けて見晴らしのよいところに屋敷地を構え、母屋と納屋を別棟として一直線に配する構造で、どの家も背後の山の一部を刈り場として萱を植えていた。そして家を建てるときには尾先きを忌地として嫌った。尾先きとは山の尾根の突端が平地と接するところで、ここは山の神の使いである山犬や山の魔物が尾根づたいに歩いて来るので家を建てると必ず崇りがあると信じられているのである。また神社や寺の門前、その領域である堂の間も神仏の崇りがあるとして避けられてきた。
 松山市久谷町つづら川でも南面する山の中腹傾斜地を部分的に掘り崩して地均しをし、家を建てた。したがって住居の後方は山を垂直に切り取ったままか石積みを施して家に近接している。家の周囲は野菜畑とし、特別な境界を設けなかった。重信川上流の重信町山之内なども、流域の平坦地のほかに日当たりのよい山腹に屋敷を構える家が多かった。また、伊予郡広田村高市では中腹の緩傾斜地である駄場に五人組・十人組などのクミを基盤とした、段並びの住居が構えられた。前面は石垣、後方は切崖をなす屋敷が大半であった。ここに母屋・隠居屋・納屋・駄屋を設け、中流以上の家では土蔵を構えたのである。特に高市では狭い屋敷地を少しでも広げるために地形にかけ出し石垣を積んだり、建物の基礎に段差を設けたカケヤ造りの方法がとられたのである。カケヤ造りは島嶼部や南予の山村にも多く利用されており、隠居屋や納屋、物置などに見られる。
 南予山村の東宇和郡野村町小滝では南面した斜面の前方に石垣を築き、母屋と牛小屋、納屋を並列させた。同町惣川の天神地区は山腹の緩傾斜地に開けた集落で、山村住居としては比較的奥行きのある屋敷構えを見せている。やはり並列配置あるいはL字型構成をとり、母屋前面には充分な屋外空間が確保されて作業場となっている。しかし、同郡城川町遊子谷の上川地区などは集落形態をとりながらも平地に乏しいために屋敷の奥行きがなく、一列並びの建物配置となり、前後に高石垣を設けてわずかばかりのヒノリワを確保しているにすぎないのである。
 北宇和郡日吉村犬飼でも敷地は狭く、背後は山に近接して住居を構えるために周囲を回ることも困難であった。往来の便利・水の便利のよいところを選び、畝先や谷の前、三方下りのところには屋敷をつくるものではないといった。また火災に遇ったときにはその跡地を忌みた。すぐ下手も縁起が悪いといって嫌い、元の宅地の上手に新しい家屋敷を設けるものだという。
 さて、山村同様に平坦地の乏しい島嶼部や沿岸部など漁村の住居は、また独自の集落立地や構造をもっていた。一般には浜に対して垂直に山の方へ伸びる小径に沿って家屋が山を這い上がるように立地するか、浜に平行に細長い集落を形成してきたのである。瀬戸内海の離島である越智郡魚島村魚島は極端に平地の少ない島で、海岸から山腹へのびる狭いショウジ(小路)に面して敷地いっぱいに家が構えられている。忽那諸島の二神島や津和地島なども同様であるし、宇和海の漁村も狭いサトミチ(里道)に沿って山を這いあがっている。
 このように山が海まで迫った漁村では、比較的広い谷を単位として居住地を定めてきたのである。越智郡関前村岡村島では宮浦・里浦の二つの谷に別れて住居が密集しており、これがまた弓祈祷などを通したムラの双分的要素の基盤となっている。また二神島の集落は、今日でこそ一集落のような形態となっているが、本来は五つのタニを単位とするものであった。庄屋のいるホンウラ、そしてコドマリ・ムカイ・トマリ・ワキノハマの五組からなり、それぞれに共同井戸を所有した。この組のことをタニと呼んだのである。タニの中央部にはハマからヤマに向かってショウジが通じ、各タニの名称を冠してウラショウジ・コドマリショウジなどと呼んでいるわけである。
 西宇和郡三崎町正野では水に近くて風の防げる山かげを選んで屋敷を構えてきた。自然林を防風林として残した開発が行われ、二~三mに及ぶ石の防風壁を築きあげた。これをヘイカサと称している。おびただしい緑泥変岩を積み上げたもので、講中の女が共同奉仕でその運搬に当たった。また山の斜面を切り取って石垣を築き、平坦地を造成したのである。また南宇和郡西海町内泊では川筋にしたがって家を建てないと栄えないといい、地区を流れる谷川と平行に家を構えた。「漁師は西前、百姓は東前」といってそれぞれ山の西方・東方に家を建てたのである。
 さて、内泊から分村した隣の中泊やそのまた分かれである外泊はさらに平地に乏しい関係から階段状の宅地を造成し、冬季の季節風を防ぐために高い防風石垣を設けていることで知られている。わけても外泊は「石垣の村」として名高い。中泊地区の二、三男対策として明治初年に始まった外泊浦の開発に際してはタニの中央部を川として改修し、この川を基軸として左右に集落を形成させた。ことに左岸には五本の小径が延びて戸別の屋敷を区切り、四屋敷を一単位として造成するとともにこのうちの三屋敷に住居を構え、残りの一区画を共同の野菜畑に当てるなどしている。それぞれの小径の交わるところには墓地を、さらに集落周辺部には段畑が開かれているのである。人々はこの急傾斜のタニに石垣を築き、上積みを加えて屋敷を囲み、海から吹きつける潮風(シマキ)を防いでいる。また屋敷中央に中庭を設け、漁獲の干魚作りや海草の処理、麦叩きなどの作業場を確保してきたのであった。
 このようにして人々はそれぞれの日常的な生産活動と結びつかせながら、農山漁村などの多様な所与の立地条件に適応しつつ住まいを設けるためのさまざまな工夫を積み重ねてきたのである。こうして造成された屋敷の面積は平野部の農村で四畝、山間部で二~三畝、島方や漁村では一~二畝で、総じて三畝程度が県下の標準であった。重信町上村では一二○~三〇坪だといい、中島町二神島では二五~三〇坪で四〇坪を越えると広い方であるという。同町津和地島では、明治五年の『津和地村屋舗取図』によると最小で四坪、最大一一四坪でやはり三〇坪前後に集中している。
 さて、今治市乃万地区は近年まで純農村地域であったが、当所の大正一三年当時の平均屋敷面積は一二八坪であった。乃万地区七大字ともほぼ平均しており、一一二坪ないし一四三坪となっていた。なお最大面積は四七二坪、最小で一三坪である。このうち阿方地区の五〇戸についての屋敷の利用状況が報告されている(表1-6)。
これによると屋敷の大部分は建物の敷地に当てられて総面積の四五%を占め、作業場を兼ねる物干場が二〇%でその他の利用にかかる面積はわずかであった。とはいえ菜園を有したり樹木を植え込む家の割合は半数を越えており、当時の調査担当者は「養鶏、野菜地は少ク庭園、樹林地ハ相当ニ広ク垣、通路ハ約一割ニ近ク其多ハ総平均約八坪内外トナルベキヲ以テ此点ニ就テハ尚利用シ得ルノ余地大ナレバ充分研究スルノ必要アルナリ」と考察を加えている。

図1-6 松山市米野町の家屋配置図

図1-6 松山市米野町の家屋配置図


表1-6 農村における宅地利用

表1-6 農村における宅地利用