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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 晴の食事

 年中行事と食事

 日常の展の食事に対して、晴の日には晴の食事がっくられ、晴の作法で食べられた。とくに年中行事にともなう晴の日の食事は家族ともどもの共食、朋輩・同業と同席での食事であったので、食事の準備の段階からあと始末まで多くの人が参加する機会があって印象深かった。
 文政(一八一八~一八二九)のころ、宇和島藩士であった桜田氏の随筆には年中行事にともなう食生活の記載が多く、晴の食事を考えるうえで興味深い。桜田某は宝暦四年一二月生まれであるから文政六年は六九歳である。以下、書名不詳なので「桜田随筆」と仮称してかかげてみることにする。
  「桜田随筆」
    宝暦十三癸未年は予が十歳の年にて、夫より文政六癸未に至れば六十一年を経る。此間の年月移り替れる事の大概を記す。
  正月
 賀正 此事は古き時代より初まる。
 元日、鶏鳴に起き若水迎へ。恵方に向いて神拝、書初、大福茶、梅干。朝祝迄の祝儀は賤が家に至るまで、程程の嘉例として大凡今に替ることなし。
  飾銚子、根松、簸かうじ、屠蘇酒。
  三つ土器。
 右二廉古例に替ることなし。又三つ土器を婚姻の節夫婦の盃に用る。親類中の盃には二ッ土器を用る人も有り。
  肴は三つ組の小重箱、或は三つ組の蓋茶碗に入組、軽き家にての仕形は
   一、かずのこ醤油ひたし
   二、石山牛蒡ごまかけ、又は煮豆或は酢牛蒡
   三、田作りのいり付
   此古風、下戸の家々には今に残れり。上戸の家々には添肴漸く出づ。昔は親類縁者来れば右の三種に三つ土器を出して実意に盃をすることなりし。道具とても今時の様なる手提重箱は御家中にても見られず。追々過分になりて末々迄も小提重、沈金彫の盃、丼鉢、てしほ皿、数箸、近頃は新渡の皿鉢、見込茶碗の類、其外妙器あげて算へがたし。昔は南京渡の鉢皿は数々ありたれども今の様なる物数寄はなし。
   宝暦明和の頃迄は節振舞とて親類中を相互に招きて、料理向は大方手作りの有合せにて祝儀の形儀を結ぶことを実意を尽すのみ。軽き家々の料理は、
   和へ鱠 大こんに田作りを焼て叩て入る   汁 かつを節に眞菜
   平 皿 ちくわ、人じん、大こん      香物 大こん
   飯   小豆めし
     中酒 かけめし済て膳は不取
   引おとし吸物 ひめち 富貴の頭
   硯蓋 ちくわ、さゞい、牛蒡、はつきり、いり芋、いか、胡蘿蔔
   鉢 酢漬肴、しよふが 各ならべ立る
    兜鉢 眞菜、しんきくの類 沢山に盛りて
    軽き家々には大概如此。御家中は少しく道具は宜しけれども目立つ事はなし。都て前酒といふことなく、膳後に酒を出すことなり。下戸も少く打寄快く食べ、誠に親類睦しき節振舞の寄合にて頼母しき事なりし。酒の価も壹升代壹匁二三分には不過。今時斯様の料理は親類ばかりでも出されず。自ら親しみも薄くなる。昔には帰らずとも親しみは忘れぬやうありたし。
七草、福わかし古来に替ることなし。菜を入れ餅を細く切て入る。
門松、四五十年前迄は家毎に門前に立て、幸木の上に鱠平皿の具食を少し宛備へたり。其内、真宗の門徒の家にはなし。
十五日の朝、とうとをはやすと言て、松竹注連縄の類を焼く。此の火の中に鏡餅と橙とをあぶりて帰る。之を食へば悪病を除くと言ひ習はせり。
十五日、あまのかゆと言て小豆粥をたく事、今以て変ることなし。
    二月
十五日、釈迦涅槃、此日まめいり備。茶湯をすること古来より変らず。
彼岸、仲春仲秋七日を限り期とす。
   彼岸団子と言ふて手作の粟・黍・小豆取合て餅米に真米を沢山に交て粉にして丸め蒸立つれども餅米少き故コロコロとすることなりき。昔は黒砂糖を入れることは、すべて無之、常々の話にも餅米はあまく、其中へ小豆の味あるものを入れること故、砂糖を入れるものではないと言ふ事にて、軽き家にはなきことなりき。然れば明和年中初の頃、年始の餅を焙りて砂糖醤油をつけて馳走に出されし故、内へ帰り味の能きこと話したるに、それは奢なりと申されし事ありし位なり。今はこしあんに黒砂糖もたんと入れねばならぬやうに成れり。
  半季勤の女、藪入と言ふて正月と七月には主人に願ふて一日の隙を貰ひ出る事、昔は其日に手近き一家うちへ往き、すぐに宿へ往て母の手を休め夕方も手早く帰る事にて在しが、今は宿をりの日、かねて母へ申遣はし置、扨其日に至ると平日は起される程の寝太郎も夜の内より起き早々と出還、宿へ鳥渡往き、気任せに高歩行して、夕方に成て宿へかへりて、お土産は未だ出来ぬかとせがむ。母は朝からたすきがけにて一人働き、やうやう入相頃に出来揃へば、娘は金の催促に来た顔附になりて取て帰れば、母は溜息にて、先づ藪入が済んで安心といふ。昔の藪入とは黒白の差なり。
    三月
雛遊、雛のこと宝暦明和の頃迄は御家中始め床に御定の寸法の紙ひな三対を備有事何方も同じ。乍去追々譲り受けたる雛も有らば、奥の方にて人の不見所へ長持等の蓋の上へ並べ立て夫に膳を供へる事なりき。
   初節句の処は右三対の雛の前にて酒を飲む。肴は正月の引合にて、数は不増。何方にも万苣のしたしものに釣干大根のハリハリ胡麻かけは有れども、今時の様に鯛の浜焼、夫もかうじて炮焼・雉子の羽盛、何時から取出すか鯉の活盛。兎角、いり酒は口に付く刺身肴、生身がないと飲めんと言ふ放気者もあり、価の高い酒を飽くほど飲むに及ばぬ 事。昔は此の様な事はなかりき。
    四月
漆仏、四月八日釈迦誕生と言て寺に花堂を作り、其中に釈迦の姿して立たしめ、甘茶を入れて、其甘茶を頂にかける事なり。昔は其頂にかけて拝して其茶を手に受けて目鼻へつけ、又呑もし、又拝をして帰る。今時は細き徳利を持ち行き汲込んで帰りしが、追々募りて中位の徳利を持往き取て帰り又幾度も行くものあり。至て不作法なることなり。畢意、子供の育て方悪しき故なり。聊の様なれども人慾恣になるの萌か。寺々にては大釜にて甘茶を煎して幾度となく入れ替ふ。子供の事故賽銭はなし。寺も迷惑なるべし。
    五月
端午、予は宝暦四甲戌十二月朔日の生れにて、翌亥の年初節句の由。少し物覚へては六七歳の事を考出してみれば、紙幟一本に子持筋並紋二つ下に少しの絵を書き、小短く婦人にても建下しの成る程のもの。鎗も有れども麁品にて、何方も同様なり。
  右何れも烏散なる事、価は対にて五分には不過。此頃は軽き家々に上方下りの長刀都てなし。進物贈答も安く、多分鯖・鯵・いさぎの内三ッ、少し心持あらば五ッ位も遣す。されども内祝は粽贈りて祝儀の実意は立る事なり。今時は下りも及ばぬ鎗・長刀の地細工、大道具はかな引の苧を費し、其外兜・弓・鉄砲・小人形の細工、目を驚かす品々多し。皆地方細工故、国の為じやと言ふ人もあれども些か了簡違なり。他国へ売るはよけれども、仕立つる品は上方より下す故それだけ国の費なり。
    六月
冰餅、雪水に浸して餅を乾かし、六月朔日に之れを食す。則夏冰を用ふる遣意なり。是は正月の餅をかきもちにして置き六月朔日には歯固めと言ふて食す古風なり。又、
土用入には、小豆(男子は七粒・女子は十四粒)を用、蒜つるし柿
  右、各々西の方に向いて水に浮かして飲む。又、土用中に蒜を一つ宛焼いて毎朝用うれば暑に中らず。此等の事も古に変ることなし。
嘉祥、六月十六日の嘉祥は仁明天皇嘉祥二年六月十六日、豊後国より白き亀を献じたるを吉兆として賀したるより起れりといふ。
廿三日、四日。和霊宮神事。諸国より参詣、群をなす事年々に増す。
  右和霊宮、承応二癸巳年六月廿四日に御遷宮、元禄十五午年より神輿昇・宝物持夫とも下村・中間村より出す様被仰付、此頃より御幸ありて、北町目中場へ御旅所建。御兵具並市中よりねり物出るものか細々の事は未引合に不渡ねりものも質素な事なりしが追々物数奇になり、裏町三丁目のカラ獅字は古めかしとて止めたり。此唐獅子は、そのかみ仙台より来る。彼御国にてもてはやさるゝ事の由にて仕出したりと伝へ聞けり。今も仙台にては用ゐらるゝよし。歌のとなへも此辺の作とは思はれず。仙台の風にてあらば神慮を慰むるは道理か。さて又、廿三日、四日は取々の賑ひ多し、北町は家毎に親類縁者知己を招くなれども、極暑の事故料理立は不出来。家々にて大概左の通
  煮染  香の物  赤飯    之れは古風今に変らす
  肴は三種拵へ置、同し品を盛替に出し、酒は火の入り詰めたる茶の煮からしの様なる色合のもの
  今は肴も種々にて目を驚かし、酒は薄手にて味もよく、都て茶の煎しからしの様なる色も見ず、昔程の酔もせず、水加減の器用なること他国に及ばず感心なり。併しながら酒の費は多し。
    七月
七夕祭、瓜菓のそなへ其外古風に変ることなし。其内七日の夜に祭ることを不知人多しといふこともあれども六日の夜子の刻より七日の夜亥の刻迄は七日の事故家々仕来りの通にてもすむわけなり。
孟蘭盆、うらぼん会十四日、五日。家々のいとなみ古風に違ふ事多し。昔はおしなべて十三日の夜半より団子等を拵へ、夜明けに暖なるを備ふる事を専とせしが、二三十年程前よりは十三日の夕方拵へ、暮頃より備ふる事となれり。之れは夜分蚊に食はるゝことを厭へる故と見へたり。亡者への志は薄くなりたる心地す。又おかしきは迂遠の輩は廿四日、五日を裏盆といひて盛物団子を備ふ。表盆・裏盆といふこと更になし。されども仕来れる家々には止められもせず、正月廿日は穢多の正月と言ひなしたると同じ事にて、昔団子好きの人々の仕出したることなるべし。
燈籠燈しの事、十三日の夜明よりいろいろの燈籠を持って各々の檀寺をけじめ親族懇意の亡者の墓所へ参燈することにてありしが、五七年以来は十三日の夜五ッ頃より燈し、又近頃は暮前より燈し初むる様になれり。これも十四日の昼大汗になる事を除き、夜の涼しさを好むと見えたり。
三十日 燈籠焼、新亡者のある家々には七月朔日より晦日夜まで毎夜燈すに、初年は一口にて燈し、翌年は燈し揚げといひて二口ツヽ燈す。此の燈籠も昔は白張にして、しで紙も白。小兒の亡者は色紙にて仕立て、麁末なるものなりしが、今は置上の文字に種々の彫もの等をつけ目の覚めたるものなり。朔の夜は燈し初めといひて親類懇意の人来るにつき、昔はコロコロとしたる団子を出して、濃き晩茶を出して過来し昔の事共を緩々話して、涙交りに帰ることにて殊勝なりしが、今は何かと種々の肴を拵へて酒宴をすることゝなれり。薄情にして費多し。晦の夜は燈揚げといふて右に同じ。
十四日、五日。百八燈といひて之れも新亡者のある家々には、初年は百八口の明りを燈し、翌年は二口づゝにして二百十六口の明りを燈し揚げといふて燈す。是は百八煩悩とやらいふ事より出でし事の由。
 此事も軽き家々にては戸板の上に砂を置いて、其上へ細き土器を百八並べて両日共刻限を定めて親類打寄り燈す事なりしが、今は細き行燈の様なるものを拵へ、表に百八燈並に法名を置字にして、其中へ大土器を入れ油を沢山入れて朝から晩迄来る人毎に一口二口づゝ燈し、酒肴も来る人毎に振舞ふ事流行り出したり。之も昔の様に百八を一度に燈せば手向ともなるべけれど、近頃の様なる仕方にては来る人毎への手向とはなるべく、亡者への手向とはなるまじ。志は薄く費は多し。
念仏まうしといふて売り念仏をするものもあり。他の国には無きことなり。
中元に、白蒸の強飯を蓮の葉に包み藁筋を紙にて捲き立て、夫にて蓮飯をからけて、さし鯖を二つ差して三宝に置。又父母へ供す。此古例今に変ることなし。
    八月
八朔-田実朔、田の実の朔といふ事にて農人の家々に稲の溝苅をして、其籾を煎りて平米にしてお伊勢様をはじめ氏神様へ備へると申す事、昔も今に替る事なし。此の起りを聞くに、此の備へ物をして次に御物成を計ると農家の老人の申せし事を考へて見れば、則新嘗会の心なるべく、いと貴き心地す。
十五夜、月見の供、昔に変る事なし。
十四日、五日。中間村八幡宮祭礼。
廿三日、四日。来村三島宮祭礼。
  右両社の祭を世人はちようせん祭といふ。今はあだ口にて笑ふ。宝暦・天和の頃迄はてうせんを家々にてつかひたり。其献立は
  一番に甘酒を出す、  摺生姜   前酒なし
  硯蓋、  鉢   酢漬肴   片き生姜ならべる
  兜鉢 あへもの浸しの類にて、三盃漬の類更になし。勿論三盃漬といふこと知る人なし。夫にてもすみたりき。
    九月
八日、九日。一宮の祭礼にて年増の賑ひなり。其内秋熟取入の時節故在分の出入は少なし。六月祭に比ふれば他国より来る人も少なし。両御門内は皆産土神の祭にてある故、八日夕方より一統の賑ひ、素より今明日は節句にて家々に一汁二菜の料理。八日夕は両御門外の親類縁者を招く。此時には南瓜は無し。
  一番に、甘酒すり生姜   二番に、鱠 汁   平皿、香物   小豆飯
  右畢て、酒肴三種   八月祭の通にて取飾る事なし。
重陽、九月九日は菊の節句。此日菊酒を飲めば災を遁れ不祥を祓ふといふ。
十三夜、後の月見といふて供物なと昔に変ることなし。
    十月
亥の日の餅、十月亥の日餅を食へば病を除くといふ。
宇和島・吉田などにては、亥の子もちといひて昔は藁縄にて石を縛してつきたる由。六十年程前には中程を細引にてかゝり、八方へ藁の引縄をつけてつきしが其頃より鉄輪といふものを拵へ、環も前とは違ひ念入りになり手丈夫にて、石も石屋にて切立させ、今日にては苧縄仕立の引縄になり、昔は見ることも出来ざりし小車を仕立して美しき幕を作り、供物の取飾まで町家の風を見習い、子供の遊びとも思はれぬやうになれり。悲しむへきことなり。北町辺は家数多き故昔は一軒より一銭つゝ集めていろ紙を買ひ短冊とし、六寸位の竹を貰ひて短冊をつけて恵美須大黒へ神酒・鏡餅二重・塩鰯・大根を木具に並べて供へ、当日は明け六つ頃より頭取の宅へ行き、麾と号して右の短冊をつけたる竹を立て、家々の門口へ持行き音頭を出して丁祝と言ふて家毎につきまはり其内には御浜御殿より呼にも参る故、直に参り音頭出しては褒めらるゝことなりしが、今の子供は要の祝詞は言はず、夜の中に町祝ひ音頭もなく麾も持たずして「お大黒ののふには」でザット済ます。夕方を待兼ねて千秋楽を早くしまひ、彼の麾としたる竹を切て配分す。斯様の祝ことは正しく行かねば子供の生ひ立ちにも宜しからず。既に廿ケ年余以来は頭取の宅へ格別の用事もなきに毎夜集まり騒ぎ遊ぶこと、宿の迷惑大方ならず。燈油は要り、戸障子はいたみ襖は破れ畳は損じ、其上亥の日の前夜は通夜と号して銘々手辨当にて集まり暁八時よりつき廻ることなりしが、追々夜中に小豆粥を出し、次第に増長して小豆飯にこくしよふを附け出し、近くは本膳にして出す所もあり、又芝居の真似をする所もあり、親々は見物に往く。かゝる子供の有様を見ては歎くべきが人情なるに、然はなくて却て自慢の顔付、是では子供の教は出来ぬ筈なり。今年文政六未の年の冬、子供教諭育方の事御沙汰筋有之、これまでの寝も覚め子孫の生ひ立ち風儀直るべし。御導き有り難き事なり。
     十一月
   なし
     十二月
 朔日小豆餅、昔は砂糖を入れざりしも、今は砂糖を入れねば吝嗇なりといふ。
 八日誓文払、町家にて行ふ。
 臘八の粥、十二月初の八日なり。之は格別の費なし。
 除夜、鰯の頭を桜にさしトベラノキを取合せ門戸に飾り、又大豆を煎りて、暮に至るを相図にあき方へ向ひ、福は内福は内と唱へながら煎豆を投げ、それよりあき方を後にして鬼は外鬼は外と二口唱へながら豆を投げ、又あき方へ向ひ福は内と一口唱へ、其拍子に豆をなげる事昔と変ることなし。
 煤払、いかほど鬧敷とも此月に払いおく可きこと。これも故事のあることなり。
 門松・竹むかへの事、根松・やぶかうじ・鳳尾草・ゆづり葉・橙其他とも廿日過迄に追々揃置事吉例のごとし。
     右にて年中の行事は大概済。
 「桜田随筆」は宝暦一三年(一七六三)から文政六年(一八二三)の六〇年間の年中行事を、還暦にあたり回顧したものであるが、武士としての公的な城中のしきたりや職務としての役目むきのことどもを記戴したものではない。町に在っての生活の節目のなかでの家庭としての行事を書きとどめたものである。この随筆は家庭年中行事が食事ときわめてかかわりの濃いものであることを示している。月毎にめぐってくる行事に食事、とくに〝晴の食事〟が併記されている。六〇年間を通じて「古来より変らず」と旧慣が守られている行事もあるが、おおかたは次第に華美になってきたことをいくらかにがにがしい想いをこめて「昔は此の様な事はなかりき」と記し、あわせて「志は薄く費は多し」と書いている。行事本来の意味が忘られがちになり振舞のみが賑々しくなってきたのであった。とくに目立つのは砂糖が食事のなかでとり入れられてきたことであった。食事が人間の文化であるとするなれば、その発展が原料・調理・食具などに変化をもたらすのは当然のことである。しかしながら、年中行事のなかでの基本的な〝晴の食事〟は不変であり、それは節日の表徴でもある。「桜田随筆」に記載されている節日の食事を集約してみよう。
 餅…正月の鏡餅・雑煮餅のことは記載されていないが、一五日とうど焼きに鏡餅をはやすことがある。六月朔日の冰餅は正月餅をかきもちにしたものである。一〇月亥の子行事は「亥の日の餅」と餅が行事の名称となっていて餅行事が本来的に意識されていたことを物語る。
 小豆餅…一二月朔日。
 団子…仲春・仲秋の彼岸団子は餅米が少ないのでコロコロとしていたというのは印象深い。仏教行事にともなう団子は七月の孟蘭盆団子がある。「亡者への志は薄くなりたる」ことを筆者は歎く。二四、五日を裏盆と称して盛物団子を供える習俗があったことも興味深い。朔日の燈籠の灯しはじめに盆見舞に来た親類懇意の人に供された団子と同じものが、晦日の燈籠焼きをひかえて作られたとも思える。
 粽…五月端午の初節供に粽をつくり内祝祝儀として贈った。なお魚類として、鯖・鯵・いさぎが進物贈答として挙げられている。鯖は七月中元にはさし鯖として三宝に飾られ、父母にも供された。
 赤飯…六月二三、四日の和霊宮祭礼の食事である。「極暑のこと」ゆえ日持ちのする赤飯であったのか。
 白蒸強飯…小豆を混入しない強飯のことであろうか。蓮飯は盆やしないとして父母への贈りものとされたのであろう。嫁の里・婿の里方の父母が健在であれば盆見舞を贈る風習は南予では現在も濃い。
 小豆飯…九月八、九日の一宮祭礼。亥の子の夜食。
 小豆粥…正月一五日の「あまのかゆ」、十月亥の子夜食。
 臘八の粥…一二月八日。こと八日の特別食として作られたものであろうが調理方法の記載はない。
 甘酒…八月一四、五日八幡神社、二三、四日の三島神社祭礼日。
 煎籾…八朔の田実朔の神への供物としての農家の行事。
 南瓜・大根…八月一四、五日の八幡神社、二三、四日の三島神社祭に季節の野菜を食べる。一〇月亥の子の供
  物としての大根は二股大根であったのか。
 次に年中行事にともなう食事の現状についてながめてみたい。(旧暦)
一月元旦、年取の膳。戸主が家族に鏡餅を戴かせる。煮豆・数の子・昆布を年取の膳に揃える。
  四日、福わかし。神さまに供えた雑煮やおせちを下げて雑炊粥にする。
  七日、七草粥をつくる。
 一一日、鏡開き。鏡餅を食べる。粉碾きはじめのハタキゾメ。穀類を煎って神に供え、イリゾメをする。
 一五日、お飾りはやし。トウドサン・シンメイハンの火で餅をあぶって食べる。
     かいつり。子供たちが近所の家々より餅を貰い集めて食べる。小豆粥をつくり神さまに供える。
 二〇日、麦ほめ。「大けえてもこもうても麦がよう出来ました」と麦畑で唱える。この日は腹いっぱいたべる。
二月二日、二日やいと。青年宿でやいとをすえたあと五目飯の食べ競べをした。カケロクといった。
  初午、命乞い。藁すぼに赤飯を入れ家族数の茅箸を添えて屋根に投げ上げ、鳥が持ち去れば吉兆とする。
五月五日、五月節供。米粉茅包・黍粉茅包を結び合わせ氏神に供える。下げてきて戸口に飾って魔除けにする。
六月一日、歯固め。韮雑炊をつくる。小麦団子をつくり焼餅節供をする。「桜田随筆」の「蒜つるし柿」行事の伝えられたものに、柿の葉のうえに蒜とかき餅を供え敷居の上でやいとをすえることがあった。
七月盆、お送り団子。背中に負うて帰れるよう丸長い団子をつくり送り火ともに祖先を送る。
    盆鯖。「盆に来い、鯖食わそ」「盆すぎての鯖商い」のことばがある。両親健在な者はこの日、鯖を食べた。
    盆飯。河原や浜辺に小屋がけして宿泊し、竃をきずき炊事する。ハマメシ・ナツメシともいう。
八月一日、たのもでこ。松山では紙雛、東予でしん粉雛。今治地方では新米で焼米をつくる。
 一五日、月見団子。他人の畑物盗みを許し、子供は月見団子を盗む風習があった。
  社日、ツクリバツオ。赤飯を炊き、作り初穂として焼米を恵比須神に供える。社前にカケホとして稲穂を吊す。
一一月八日、ふいご祭。鍛冶屋・木地師の道具祝いで蜜柑を供える。
  二三日、大師粥。虫けらさんの祭りといい小豆粥を炊いてお大師さんに供える。餅を竹に刺して祈祷をしたあとで畑に立てる。虫がわかぬといわれている。
  冬至、南瓜を食べると中風にならぬという。柚湯をわかし入浴する。
一二月一日、すべり餅。おとご(乙子)の朔日といい赤飯を神仏に供え家族で食べる。白粥を食べ悪事を聞かぬ。
   八日、八日吹き。嘘を焼くといい味噌田楽を食べる。「今晩せいもんばれ、親父の口は味噌だらけ」と唱える。
  一三日、松迎えで門松・幸木を迎える。黍団子をつくり、五目飯を炊いた。
  二〇日、山仕事・畑仕事・漁をしない。山で死んだ人のためにお膳を軒下に出して供えた。
 これらのほかに、五月田植休みのさなぼり、お日待ち、おこもり、講などにも餅・団子などの食事がある。