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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

一 衣生活の歴史

 倹約令と衣服の記録

 南予地方を領有した宇和島藩は、けっして裕福とはいえない土地柄もあってかしばしば倹約令を出し、庶民の奢侈な生活を制禁したことはよく知られている。なかでも衣服に関する法度は、武家以下庶民に至るまで存外に多かったようである。
 例えば、寛政三年(一七九一)の倹約令に関連して、農民たちの着丈について藩当局と代官所との間で次のような意見が交わされている。すなわち、
  百姓ども丈長の衣類着留候につき相伺われ候趣承知致し候。(中略)農業山働其外御城下近在の者ども御家中へ売物等に出候時分、すべての心得半着物着用候様相心得べし。然れども銘々在宿仏参社参吉凶其外余儀なき筋御家中へ館入の先へ要用につき罷り出候節の義は丈長の衣類着用候とも差免し候。(『宇和島藩庄屋史料-亀甲家史料-』)
とあったり、法度の中にも、
  百姓ども始め無縁の者に至るまで夏冬着用の品すべて半切の外丈長の衣類無用。其年御年貢の米皆済候者どもは着用勝手次第。但し年始三日間はすべて差免し候。(同右)
などと見えて、普段の着物はすべて脛丈くらいの半着物とされ、丈長のものは社寺参詣や正月、婚礼、葬儀など特別なハレの場合、もしくは年貢納米の終了した冬季のみに限られていたわけである。あるいは「百姓ども始め末々迄男女とも衣類空色浅黄鼠色のほか染色無用、尤股引脚半の類は浅黄に限るべきこと」と、衣類の染め色についても、二、三色に厳しく限定されていた。
 そして、武家などの衣服についても「於御国衣服之定」として次のように制禁しているのである。

     於御國衣服之定 (寛政三年七月)
  虎之間以上衣服之定
  一 御家中御一門始侍中平日上着木綿に可限年始並に大禮之節たりとも熨斗目、服紗、小袖不及着用事但年始御禮申上候節依格式長袴可致着用候
  一 夏羽織は隠居、醫師の外無用事
  一 羽織袴は竪横の内糸交り候品不苦、裡は茶丸にても不苦、其外無餘義古物相用候義は絹以上勝手次第之事
  一 衣服裡下着等絹以下勝手次第之事
  一 絽肩衣麻肩衣受着用勝手次第之事
  一 帯は絹以上の品たりとも不苦事
  一 小児は男女に不限継衣類たりとも絹以上上着に相用候義産衣宮参り之節たりとも無用之事
    但七才以下之小児帯紐絹類相用候共不苦事
  婦人衣服之事
  一 侍中妻女平日は勿論年始其外重き規式之節たりとも上着内外共木綿相用事
    但裏は近年被仰出候通可爲木綿候
  一 下着は絹類勝手次第巻物或は縫箔之品は袖口等も無用事
  一 帯は一統木綿を可相用候糸交候品は不苦抱帯は絹以下勝手次第事
  一 櫛笄金銀鼈甲水牛其外結搆之品無用事
  一 青傘相用候義勝手次第事
  中之間侍中衣服之定
  一 平日上衣木綿に可限年始並に大禮之節たりとも綾、紗、小袖着用無用事
  一 夏羽織は隠居、醫師の外無用事
  一 羽織袴たりとも竪横之内糸交候品無用裡は茶丸にても不苦、其外無餘義古物相用候儀は絹以上勝手次第事
  一 衣服裡絹類相用候義無用事
  一 下着絹以下勝手次第事
  一 絽肩衣着用無用事
  一 帯は絹以上たりとも不目立相用義不苦事
  一 小児は不限男女たとへ繼衣服たりとも絹類上着に相用候義産衣宮參り之節たりとも無用之事、但七才以下之小児帯紐絹類相用之義勝手次第之事
  同婦人
  一 年始其外重き規式たり其上衣木綿相用可申事、但裡は木綿に可限事
  一 下着絹以下勝手次第袖口たりとも絹以上の品決て無用事
  一 白小裡着用不相成事
  一 帯は木綿に可限糸交りの品無用事
  一 櫛笄金銀鼈甲水牛其外結搆之品無用
  一 日傘は小児たりとも無用菅竹の皮相用可申事、御徒以下御目見以上衣服之定
  一 平日は勿論年始其外とも綿服之事
  一 夏羽織隠居醫師の外無用事
  一 衣服之裏は木綿に可限下着は紬以下勝手次第事
   但年来五十才以上は不目立絹裡下着に相用候義は被差免候間、右年来致着用候面々は其節相達置可申事
  一 羽織の裡は絹以下の品相用候義勝手次第之事
  一 横麻(衣へんに上、衣へんに下)用事 但自分役之外脇方より譲受候品は勝手次第之事
  一 越後縮無用事 但右同断事
  一 下帷子無用事
  一 裡付袴無用事
  一 帯は絹以下相用候義勝手次第事 但七才以下小児たりとも帯紐絹候無用事
  同婦人
  一 年始其外重き規式之節たりとも上着裡表共木綿相用可申事
  一 下着は裏たりとも絹類無用太織の類は勝手次第之事 但袖口等に不目立絹相用峡義不苦
  一 帯は木綿に可限
  一 越後縮は無用事
  一 下帷子無用事
  一 櫛笄金銀鼈甲水牛其外結搆之品無用事
  一 日傘小児たりとも無用前々之通菅竹之皮類可相用事
  右之通分限差別を以被相定候へ共、人々倹約之ため隨分粗服相用之義尤之事に候、如何躰見苦候其御搆無之候間たとへ御前躰相勤候面々たりとも、無益取粧候躰之義決て有之間敷銘々分限よりは内端に相心得可申事

 また東予の今治藩でも、正徳二年(一七一二)の「郷村諸法度」に「衣類の儀は布木綿のほか一切無用たるべし。帯半えり並に妻子等の下着にも絹類用う間敷候。但し男女とも極老の者または病人の下着には持来る古物差免し候事」とある。同じく天明元年(一七八一)の「御触書」にも、「小役人以下町人百姓全く木綿着用申すべく候。もつとも下着半衿袖裏帯羽織の裏、笠の緒等に至る迄絹類一切無用。もつとも婦人帷子は布麁相成る晒相用べく候。裏模様櫛笄簪鼈甲類一切停止の事」と見え、専ら木綿の着用が義務づけられるとともに身の回りを飾ることが禁ぜられていたのである。

 衣服と生活のリズム

 こうした一連の文書資料からも、藩政時代における衣服に関する統制の厳しさが窺い知れる。しかし一方では、為政者からの禁令が出されるほど、また日常の生活が厳しいものであるほど、年中行事の節目や冠婚葬祭に代表されるハレの日の認識も、現代人に比してより重い存在であったのである。それは、つい先ごろまで私たちの暮らしにおける普遍的な生活の支配原理で、庶民の衣生活において、晴れ着と普段着・仕事着の弁別は極めてはっきりとしたものであった。
 では一般庶民は、いったいどのくらいの衣服を所持していたのであろうか。例えば、大正一三年に越智郡乃万村(現今治市)において実施された農村生活実況調査の報告書によると、同村阿方地区五〇戸の被服所有点数は一人平均一六・六となっている。さらにその内訳は、晴れ着九・四と普段着(仕事着を含む)七・二で、晴れ着の所持点数が普段着を大分上まわっている。これを個別にみると、成人男子は九・二-六・九、成人女子一三・五-八・九、男児五・八-五・五、女児七・三-六・六の晴着・普段着を所持していることになる。これがまた、県下における大正期農村の平均的数値であったと思われるが、晴れ着の占める比率の高いことは注目される。
 当時の調査担当者も「都市生活者ニ比スレバ決シテ多クヲ所有セリトハ称シ難キモ晴着ノ不断着ニ比シ多量ヲ有スルガ如キハ大ニ考慮スベキ点ナリ。(中略)農村ニ於ケル服装逐次華美ニ流レ其費用ヲ嵩増セシメツツアルノ傾向著シ」と、その意図するところは異なるものの、いみじくも述べている。とまれ、衣服の中にもハレとケの生活のリズムが存在するのが、私たちの伝統的な衣生活であったのである。

表1-1 被服所有点数調査(今治市阿方)

表1-1 被服所有点数調査(今治市阿方)