データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

第一節 婦人団体の新たな出発

 終戦直後の婦人会

 昭和二〇年一〇月一一日、マッカーサーと幣原首相が会談し、五大改革の指令を受けた。指令の中に長年にわたり婦人にとっての念願であった「男女同権」が含まれていた。国策遂行のための婦人会でなく、民主的団体としての活動が約束されることになった。文部省は昭和二一年一〇月三一日、「婦人教養施設に関する件」、「婦人教養施設の育成強化に関する件」の二つの通達を出して公民教育の徹底と新しいリーダーの養成ならびに自主的な婦人団体の育成をめざした。昭和二一年になると県地方事務所長名で、「婦人啓発運動の実施」「婦人政治教育の徹底」など各種の通牒が発せられた。
 終戦後間もなくの昭和二〇年九月に越智郡の亀岡町婦人会・菊間町婦人会が結成された。昭和二一年には喜多郡の肱川町や東宇和郡の旧宇和町で、翌二二年には伊予郡の原町婦人会(現砥部町原町)など県下各地に続々と婦人会が誕生した。しかし、この時期に結成された婦人会は戦前の婦人会を継承したものや男性が会長となっている会もあった。

 軍政部の指導

 婦人会を自主的な参加による結成、民主的に運営する団体として育成しようとしたのが軍政部であった。四国地方軍政部(高松に設置)の民間教育課婦人問題担当官としてカルメン・ジョンソンが昭和二二年一一月に赴任した。彼女は昭和二六年二月に離任するまで(途中から民間教育補佐官)四国四県の婦人団体の指導をした。ジョンソンが著した「占領日記」によると「四国の婦人は如何にして民主的団体を組織すべきか、如何なる活動が民主主義婦人団体にとって価値あるものか、如何にして役員の選定をすべきか(中略)四国の婦人に対し彼女らの権利とその行使方法について教え、働きかける」といった決意がみられる。指導するに先立って、昭和二二年四国四県の婦人会の第一回調査を行い、次の内容を把握した。
一、戦時中の指導者が現在の指導者の中にかなりいる。二、多くの婦人組織の会長はまだ男性である。三、会員は主として主婦である。四、組織は名目上は多くの会員を有するが、ほとんどの会員は事実上会議には出席しない。五、多くの連合組織が県、郡、市町村、部落に存在する。六、会議はあまり開かれない。
 ジョンソンが要求した婦人会は行政の指示を受けず、補助金も受けず全く自主的に女性のみで運営され、加入も個人の自由意志で行われるものであった。昭和二三年一月に松山に来て集会をもち、組織の民主的手続、役員選挙と投票の仕方などについて指導をした。
 婦人会の指導については、昭和二五年に県軍政部のスナイダー大尉とジョンソンが連合婦人会の民主的運営について指導をした。ジョンソンは婦人問題担当官であったから、婦人団体の指導の他に女性公務員との会合も多く持っている。当時の労働省婦人少年局長山川菊栄とも東京や中四国婦人会議で面談している。四国各県の婦人少年室長とも会談している。本県ではレーヨン工場を室長と共に訪問して、女子寮を視察していることが前掲書にみられる。県内の地方でもよく講演をしており、昭和二三年には宇和町などで「民主団体について」という題で婦人たちに話をしている。
 昭和二四年六月、「社会教育法」が制定されて行政の支配を受けず、補助金を受けない自由な活動を行う団体としての婦人会が発足することになった。

 愛媛県連合婦人会の結成

 昭和二一年から二二年にかけて県内各地に婦人グループが結成されていった。昭和二二年十二月一日にそれらの連合団体が高橋イクを中心に結成された。翌二三年には愛媛県連合婦人会として会長に則内ウラが就任し、会則も決まり、会員数四万五、〇〇〇名の多数で出発した。各地区の婦人会の指導助言を行っていた軍政部から連合婦人会は「民主団体の運営」について指導を受け、民主団体としての基礎づくりを行った。
 現在の県連合婦人会の発展の基礎は、昭和二六年綾井章江が会長となり、第一回えひめ婦人大会を開催して全県的な集まりをもち、機関紙「えひめの婦人」を創刊して会員のつながりをつくったことによる。この年は日本がサンフランシスコ平和条約に調印し新しい第一歩を踏み出した年であった。翌二七年、全国地域婦人団体連絡協議会が結成され、県連合婦人会も加入した。以来、「えひめ婦人大会」は昭和六〇年で第三五回大会を迎え機関誌「えひめの婦人」は同年八月で第一二五号を数えるに至っている。

 地域婦人会の活動

 松山市の近郊の砥部地区を例に、日本が高度経済成長をしていくなかで、都市近郊農村地帯の婦人会活動かどのように変化していくか追ってみよう。昭和三〇年は神武景気と名付けられた好景気の年であり、家庭生活もようやく戦後を脱しかけてゆとりが出てきた。この状況下で県連合婦人会(松本久子会長)は婦人会の会服を指定し、食生活の改善、新生活運動の推進に取り組んだ。砥部地区では昭和三〇年町村合併により地域婦人会として戦後成立していた砥部・千歳・原町の各婦人会は連絡会も密になって行事等も歩調をそろえて行うようになった。県連合婦人会のスローガンを受けて、砥部町原町婦人会では新生活運動についての講演を行ったり、結婚改善、新生活を築くための貯蓄などに取り組み、また蛔虫駆除、清浄野菜栽培を部落単位で推進することをやっている。砥部地区は後から誕生した農協婦人部(昭和二六年発足)に加入している婦人も多くなって合同の研修会が多くなり、役員を兼任するものもいた。昭和三四年の第九回えひめ婦人大会で愛媛県婦人会館の建設が決議され、地域婦人会も協力することになった。県連合婦人会は昭和三七年第一〇回全国地域婦人団体研究大会を松山市・今治市で開催し、原町婦人会の会員も参加した。
 昭和三六年、池田内閣の高度経済成長のスローガンにそって所得倍増政策が打ち出された。東京オリンピックをめざし、東海道新幹線と名神高速道路開通に代表される一大建設ブームが興り経済界は活気を帯びてきた。物資が豊富になり、生活に余裕が出てきて進学率が急上昇するのもこの時期である。県連合婦人会も「楽しい家庭づくり」「花いっぱい運動」などが活動目標にのぼって、一歩上の心の豊かさを求めるようになっている。そして昭和三九年念願の愛媛県婦人会館が松山市高砂町に完成した。
 この間、原町婦人会ではどんな活動をしているか。婦人会館建設の募金活動がはじまり、原町婦人会は寄付金一、〇〇〇円を一口として一〇口の割り当てを分担することを決めた。昭和三八年度には、楽しい家庭の実現、青少年の不良化防止、婦人労働の現状と対策、物価対策などのテーマが取り上げられている。
 昭和四〇年代に入ると、県連、地域婦人会とも活動に大きな変化がみられた。県連の婦人会長には日野豊が選ばれた。四〇年からの新しい試みは活動のモデル地区を設定したことである。また、四〇年代前半の活動目標に目立つのが、青少年非行防止、交通事故防止に関するものである。
 砥部地区では、昭和四〇年代に入ると松山市の近郊として住宅開発が盛んになり、団地が拡大していく。いっぽう農協婦人部とメンバーが重複する問題もあった。昭和四四年には小グループ活動として生活学校、団地婦人学級、若妻学級が運営され、翌年には原町婦人会と城南農協婦人部原町支部が合併して問題点の解決につとめた。高度経済成長は過密と過疎をつくりだした。砥部町でも千歳婦人会は過疎地域のため若い婦人は少なく、年輩の婦人は集会に出席するのを嫌うようになって昭和四六年ついに解散してしまった。いっぽうで、新興住宅地はさらに増え、地元住民との協調が必要となって行政担当者や農協役員、婦人会役員と団地の婦人が話し合い協力するようにした。

 県連合婦人会の活動

 昭和四〇年代後半の県連合婦人会の活動目標には核家族化への配慮がうかがえる。昭和四〇年の国勢調査では二世代世帯が五六%以上となっている。次第に核家族化か進行していくなかで、若妻学級の育成に力を入れるようになり、特に昭和四七年度のえひめ婦人大会では「乳幼児教育の推進」を大テーマにして二二郡市が活動報告をしている。また、このころから独居老人問題、老後の問題といった高齢化社会に近づいているわが国の実情を反映するテーマが取り上げられるようになってきた。昭和四八年一〇月、第四次中東戦争による石油危機がわが国を急襲した。主婦たちはトイレットペーパー、洗剤の買いだめに奔走した。翌年二月の婦人大会ではさっそく資源節約、計画的な消費生活などが研修テーマに登場している。
 昭和五三年、愛媛県連合婦人会は三〇周年を迎えた。しかし、その後の会の勢いは盛んとはいえない。昭和五〇年代になって就業婦人が婦人の半数を上回るようになってくると婦人会活動も変質せざるをえなくなった。昭和五八年一一月に愛媛県が実施した「婦人の社会参加に関する調査」(図3-1)によると、次のような結果が得られた。二〇歳以上の女性で就労者五八・六%、不就労者四一・四%であった。又年齢別の就業状況は、かつて婦人会活動の中核であった四〇代が七一・五%、五〇代が六二%の就業率である。職業についている理由は「生活費用のため」がどの年代でも上位にあるが、その他全体では「将来にそなえる」、「自分の自由になる収入がほしい」、「生きがいを感じる」が上位を占め、特に「生きがいを感じる」が四〇代以降に多くあげられている。これは自立した婦人の意識の表れであろう。さて、団体・サークル等の加入状況であるが、回答者の六四・二%が加入しており、一人平均二・二の団体に加入している。次の表から若年層は趣味・スポーツ・年齢が高くなると婦人会の率が増加するが、趣味・スポーツの率も高い。全体に低いのが福祉関係である。ボランティア活動よりも自分の趣味を活かす、健康維持もかねてスポーツをというのが現代女性の考え方である。このような多様化した婦人を婦人会に加入させるためには、婦人会の活動もまた魅力ある婦人会活動とは何か、若い婦人の参加を増やすための努力といった課題をかかえて新たな問題解決を迫られている。

 農協婦人部の誕生と神野ヒサコ

 農協婦人部は昭和二四年に滋賀・静岡・福井の三県に結成されたのを最初に全国に波及していき、昭和二六年に全国設立創会が開かれた。本県では昭和二六年になって県下の農協に次々と婦人部が結成された。その中心になって活躍するのが神野ヒサコである。当時、神野ヒサコは小松町婦人会長を務め昭和二四年より県連合婦人会副会長になった。また県社会教育委員をつとめた経歴もあった。その人が昭和二八年二月、愛媛県農協婦人部結成大会で初代委員長になったのである。部員数七万人を超える組織であった。県連合婦人会副会長の肩書をもつ神野ヒサコに対して、地域婦人会を分裂させるのかという声も多かった。地域婦人会のなかには混乱も起きた。それを指導せねばならない神野ヒサコはどのような取り組みで解決していったのか。
 農地解放がなされたとはいえ、封建性の強い農村で貧困と闘うためには健康を犠牲にしても働き続けるしかなかった農婦を護ることは出来ないものかという思いが出発点となった。自らを解放する運動、婦人が自らの力で生活と健康を守る運動を農協婦人部の活動に求めようとした。神野ヒサコは昭和二八年の全国会議でいきなり副会長に選ばれ、さらに二九年・三〇年の二期全国会長に選ばれたのである。当時婦人部員数は全国で二八〇万人に達していた。地域婦人会との関係を明らかにするために「婦人部の五原則」を産み出した。つまり農協婦人部の性格として次のように宣言された。
  一、農協運動を推進し、実践する組織であります
  二、農村婦人の組織であります
  三、自主的な組織であります
  四、同志的な組織であります
  五、政治的に中立の組織であります
 この五原則により婦人部組織は自主性をもって活動するようになったのである。初期の農協婦人部の活動が実際にどのようになされていたのか。昭和二七年に結成された温泉郡の三内農協婦人部を例にとって活動状況をみてみよう。(「川内町誌」)

       綱     領
 (一) 私達は農村婦人の使命を自覚し、教養を高め、品性の陶治に努めましょう。
 (二) 私達は、連絡を密にし、団結の力によって、社会的経済的地位の向上を図り、農村婦人の解放を期しましょう。
 (三) 私達は、自主協同の精神に基き農村生活の改善合理化を促進し、進んで各農協の健全なる発達に寄与し、住みよい豊かな農村を建設しましょう。
       努 力 目 標
 (一) 他団体との連絡を密にする。
 (二) 家計簿の記帳と、生活の計画化をはかる。
 (三) 共同育苗を行い、家庭菜園の計画をたてる。
 (四) マーク愛用及び農協利用。
 (五) 生産増強と、貯蓄意欲の昻揚。

 神野ヒサコは全国会長を昭和三一年にいったん辞した。これからの二年間を県下の地域農協婦人部の農婦の中に入っていくのである。ヒサコの回想録『虹よ永遠に―農協婦人部とわたし―』によると、洗濯講習と布団の綿入れの指導をしながら五原則と農協利用の話し合いを行った。左記の事業計画表表3-2にもそれをうかがうことが出来る。
 そのころ、全国農協婦入部協議会は昭和三二年から取り組んでいる自主製作映画「荷車の歌」の製作中であった。農村婦人の解放の願いをこめて、部員三二〇万人が一〇円ずつ出し合って製作しようとしていた。この映画製作がきっかけで、再び全国の会長となった神野ヒサコは、昭和四一年まで前後一一年間農村婦人の先頭に立って進んだのである。
 本県では昭和三九年一月に一〇周年記念として「土に生きる」という文集を出した。この生活文集の発行が体験として生かされ、昭和四一年に機関誌「あしおと」が創刊された。愛媛県農協婦人部はたぐいまれな一人の指導者によって組織され、今日の発展の基礎がつくられたのである。

 婦人議員の誕生

 婦人が政治に参画できるようになったのは昭和二一年四月一〇日に実施された衆議院議員選挙の投票からであった。三九名の婦人代議士が当選し気をはいた。愛媛県の婦人議員については、昭和四〇年の統計では市議会議員四名、町村議会議員六名である。市会の婦人議員は松山市が一番多い。松山市議会の婦人議員第一号は昭和二二年四月の選挙で当選した宮本カヨである。その後昭和三〇年四月の選挙で松山市立城東中学校の教頭を辞した藤井アヤメが初当選して二名となった。昭和四一年五月の選挙では前記二名に池田せつが加わり三名となった。昭和六一年六月現在では市議会議員八名、町村議会議員五名の婦人議員が在職している。

表3-1 昭和41年度地域婦人会活動モデル地区 (その1)

表3-1 昭和41年度地域婦人会活動モデル地区 (その1)


表3-1 昭和41年度地域婦人会活動モデル地区 (その2)

表3-1 昭和41年度地域婦人会活動モデル地区 (その2)


図3-1 団体・サークル等加入状況(複数回答) (昭和58.11月調査)

図3-1 団体・サークル等加入状況(複数回答) (昭和58.11月調査)


表3-2 昭和三十三年度三内農協婦人部月別事業計画表

表3-2 昭和三十三年度三内農協婦人部月別事業計画表


表3-3 統一選挙における愛媛の婦人議員数

表3-3 統一選挙における愛媛の婦人議員数