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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 連合婦人会

          二 連合婦人会
 文部省はかねてより地域単位の婦人会の設立を呼びかけてきたが、これらを全国組織にまとめて管理指導を徹底しようと昭和五年一二月二三日、大日本連合婦人会を結成させた。本県では、昭和七年になってようやく県連合婦人会の創立について具体的な話し合いがなされた。当時、上浮穴と南宇和の二郡を除いで県下三市一〇郡に連合婦人会が成立していたので、三月一五日県庁展望台に於て各郡市連合婦人会長と県より竹崎学務課長、浦社会課長、荻野主事等が出席して協議会を開いた。県連合婦人会創立を満場一致で決め、さらに会則、昭和七年度予算及び事業計画、役員等について話し合い決定した。

      愛媛縣聯合婦人會會則
   第一條 本會ハ愛媛縣聯合婦人會ト稱し事務所ヲ愛媛縣廳社會課内ニ置ク
   第二條 本會ハ愛媛縣内各婦人團体相互ノ連絡提携ヲ圖リ其進歩發達ヲ促シ特ニ家庭教育ノ振興竝ニ生活改善ノ促進ヲ期スルヲ以テ目的トス
   第三條 本會ハ愛媛縣内各郡市聯合婦人會ヲ以テ組織ス
   第四條 本會ハ第二條ノ目的ヲ達スル為左ノ事業ヲ行フ
     一、家庭教育、生活改善、其ノ他必要ナル事項ノ調査研究
     二、婦人大會ノ開催
     三、講習會講演會並ニ映寫會ノ開催
     四、家庭教育、生活合理化巡回展覧會ノ開催
     五、協議會、懇談會ノ開催
    六、視察旅行
    七、會誌ノ發行
    八、家庭教育、生活改善其他婦人ノ智徳ヲ涵養スルニ適切ナル印刷物ノ刊行
    九、縣内各種婦人會ノ事業助成
    一〇、縣内優良婦人會並ニ會員ノ表彰
    一一、其他必要ナル事業
  第五條 本會ニ左ノ役員ヲ置ク
    一、總 裁
    一、顧 問   若干名
    一、會 長   一 名
    一、副會長   一 名
    一、理事長   一 名
    一、理 事   若干名
    一、幹 事   若干名
    一、書 記   若干名
  第六條 總裁ニハ本縣知事ヲ推戴ス
    顧問ハ理事會ニ於テ推學ス
    理事長ハ理事ノ中ニ於テ會長之ヲ委嘱ス
    理事ハ縣下各郡市聯合婦人會代表者ヲ以テ充テ其他ハ會長二於テ委嘱ス
    幹事並ニ書記ハ會長之ヲ委嘱ス
  第七條 會長ハ會務ヲ總理シ本會ヲ代表ス
    副會長ハ會長ヲ輔佐シ會長事故アルトキハ之ヲ代理ス
    理事長ハ會長ノ命ヲ承ケ會務ヲ掌リ會長副會長共ニ事故アル時ハ會長ノ職務ヲ代理ス
    幹事、書記ハ會長、理事長ノ指揮ヲ受ケ會務ヲ處理ス
  第八條 理事會ハ會長、副會長、理事ヲ以テ組織ス
  第九條 理事會ハ毎年一回會長之ヲ招集ス、必要ニ應シ臨時ニ招集スルコトアルヘシ
    理事會ノ議長ニハ會長之ニ當ル
  第十條 理事會ニ於テ審議スヘキ事項左ノ如シ
    但緊急ヲ要スルトキ及理事會ノ開會不可能ナル場合ニ於テハ書面ヲ以テ理事ノ意見ヲ徴シ會議ニ代フルコトアルヘシ
    一、木會々則ノ變更
    一、本會役員ノ推擧
    一、豫算ノ審議並ニ決算ノ認定
    一、其他重要ナル事項
  第十一條 理事會ニ於テ理事事故アルトキハ代理者ヲ理事會ニ列席セシムルコトヲ得
  第十二條 本會ノ會計年度ハ四月一日ニ始マリ翌年三月三十一日ニ終ル
  第十三條 本會ノ経費ハ補助金、寄附金、負擔金其ノ他ノ収入ヲ以テ之ニ充ツ
  第十四條 本會則実施ニ關スル細則ハ必要ニ應シ會長別ニ之ヲ定ム

 役員については、総裁に一戸知事(創立当時は久米知事)、会長に竹崎米吉学務課長、副会長に浦長贏社会課長、理事長に荻野憲祐社会事業主事、理事に各地域婦人会会長が就任した。理事には温泉郡会長の松山高女宮崎校長や松山婦人連盟の船田操などがいた。この時期の婦人会員数は次のとおりである。
 県連合婦人会の発会式は農繁期を避けて秋まで延期され、一〇月二三日、県立松山高等女学校講堂で行われた。県下二一○の婦人会、七万二、〇〇〇人の意気が結集したのである。出席者は、温泉郡内九〇〇、松山市二〇〇、その他各地域婦人会代表一〇〇の一、二〇〇名をこす婦人が集まり、準備された「愛媛婦人」、「育児カレンダー」各一、〇〇〇部は品切れになってしまった。開会行事のあと、文部省成人教育課長小尾範次郎から、我が国現下の難局を思い、婦人の自覚を促し、家庭教育の振興、経済生活の改善等に努力するよう婦人の責任について一時間にわたる講演があった。昭和七年度の行事は発会式以前から着手されており、大きい事業として家庭教育展覧会、生活合理化展覧会、家庭教育講演会などがあげられ、継続事業として「愛媛婦人」の発行がある。啓蒙活動を盛んに行って婦人の意識向上をはかろうとしている。「愛媛婦人」は「愛媛社会事業」の附録として昭和七年五月から発行されるようになった。本紙にあった婦人欄を独立させ、拡充したものである。家庭教育展覧会は県と共同で開催され、六月五~七日今治市公会堂で九、〇〇〇人を集め、六月一三~一五日松山市県公会堂で五、〇〇〇人が見学した。資料は文部省が収集したもので、外国の玩具、家庭教育に関する参考書、教育に関する諸統計などが展示され話題をよんだようである。家庭教育講演会は七月一八日八幡浜町公会堂で七〇〇名、川之石小学校講堂で一、二〇〇名が参加した。七月一九日には今治市公会堂で東京女高師教授倉橋惣三郎の講演に八〇〇名が集まった。生活合理化展覧会は県と共催で行い一一月に県公会堂、宇和島市公会堂、今治市公会堂の三会場で開催した。評判がよかったので、翌八年には農村部で開くことになり、宇摩郡三島町、喜多郡大洲町、北宇和郡岩松町、西宇和郡八幡浜町が予定された。
 昭和八年頃より「非常時」という語がさかんに登場するようになり、婦人会の行事にも講演会や座談会で取り上げられるようになってきた。婦人会報告によると、海南新聞社は八月一八日「非常時婦人座談会」を開催し、五項目の決議をし、実行につとめようと呼びかけている。一、家内に怠け者があってはならぬ。一、時を浪費してはならぬ。一、力を浪費してはならぬ。一、物を浪費してはならぬ。一、働くも遊ぶにも無計画であってはならぬ。
 又、越智郡農会婦人講座では、県からの講師による講演が行われ、「非常時に於ける婦人の心得」(松本能衛)、「非常時と婦人」(荻野憲祐)の話があった。昭和九年になると一段と非常時に対する意識の強化が進められた。県と県連合婦人会では、非常時対策婦人会幹部協議・講演会が開催された。昭和九年一月末に、今治市公会堂(六〇名)、県立西条高女(四〇名)、松山済美高女(七〇名)、宇和島市宇和支庁(一二〇名)で「非常時局と婦人の責務」の題で荻野主事が講演した。協議事項は(1)家庭経済と主婦の責務について、(2)家庭教育と母の責務について、(3)各婦人会の事業についての三題で話し合いが行われた。各町村婦人会の代表者一~二名が参加した。今治市公会堂で行われた非常時対策婦人会幹部座談会についてみると、婦人会長の体験談が語られており、盛口村婦人会長は家庭では野菜類を作って支出を減らし、婦人会では麻裏の製造方法を習って会員に教え、副業として奨励したことなどを語った。神戸村婦人会長は自ら求めて四人の子供の継母となって苦労したことを、波止浜町婦人会長は子供に趣味を与えて悪い方向へ向かうのを防いだことなどを述べている(「愛媛婦人」昭和九年三月号)。
 婦人会の中では最も自発的に成立し、自分たちの手による運営をしてきた主婦会であり、婦人会であったが、組織化されて連合婦人会となり、中央に結びつくにつれて、特色を失ってしまった。他の婦人団体と活動も競合するようになった。

表2-4 各郡市(町)聯合婦人会調

表2-4 各郡市(町)聯合婦人会調