データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 大正期の女学生

 五年制の女学校

 大正九年七月、「高等女学校令」が改正され修業年限五年が認められるようになったので、県立松山高等女学校は大正一〇年(一九二一)二月に修業年限五年、生徒定員一、〇〇〇名に改める変更願が認可され、同年四月より施行された。当時の女学生の実態をかい間見ると、同年三月一五日~一六日付の愛媛新報に松山高女の校長高橋勝一は「生徒の性質は快活で無邪気であり、純真にして蝶の如きである。女子は元来男子に比較して、優柔不断、独立心に乏しい。本校ではこの方面に着眼して自覚、自習、自治の精神を養成したい。女子の思想問題も欧州戦争後台頭してきたが、本校生は過激思想はなく穏健である。」と語っている。大正期の県立松山高等女学校生徒の進学状況を示すと表1-3のようである。
 卒業生が一二〇~一三〇名ぐらいとすると大正八年の段階で進学率は二〇%を超えていない。ほとんどの生徒は家庭で二年ばかり花嫁修業をして結婚というコースを歩んでいた。大正一〇年九月二八日付の「海南新聞」は「高等女学校五年制の否定」という論評を掲載した。学力の上から観れば女子は男子に比して一般に頭脳の低さは否定できない。女子教育は結婚して良妻賢母となるための準備であるから高等教育は不要であるし、学年を延長すれば父兄の負担も苦しい。男子が女子の修学程度を結婚の第一要件とし、高女卒業を以て一般標準とする傾向がある以上、社会政策の見地からみれば、学力の高下より広く教育を受ける機会と設備を主眼としなくてはならぬと説いている。これに対して、県立松山高等女学校長高橋勝一は大正一一年三月二〇日付の「愛媛新報」で反論した。女子の上級学校への進学志望は増加している。そこで女子高等教育機関の設置をのぞむ。なぜなら、女学生は学習が自発的でない。これは女子であるが故というより上級学校に入学するという奮励の刺激が中学生のようにないからだ。父兄からはより良妻賢母として家庭の人となり得るように教育せよといわれる。私共は淑女として一般に陶冶する程度の方針をとっている。家事・裁縫は二〇歳で結婚するとしても家庭に三年間在って十分修養を積み重ね得る。政治、社会方面の事象について全然無知といってよいくらいで、教師をして知らしめようとしていると述べた。
 この時期は大正デモクラシーの風潮下に「新しい女」が叫ばれ、婦人解放運動も進められており、それを心配する父兄、世間は松山高女が上級学校をめざす普通教育校となっていくことに懸念したのである。服装についても大改革を行っている。大正二年九月より県立松山高女では着物の長袖を短袖に改め、木綿の着物とし、上履を靴にし、こうもり傘を黒色に統一した。飾りたい乙女たちや父母の非難もあったりして筒袖論議でにぎわった。洋服が制服となったのは大正一二年開校した県立松山城北高等女学校のほうが早く、冬は紺、夏は白黒の縞のセーラー服であった。県立松山高女も大正一四年よりセーラー服、スカート、靴の制服となった。
 そんななかで、県立松山高等女学校である事件がおこった。大正一〇年一一月二六日、県会議員が県立松山高女を視察した折に、当日松山高等学校で開かれた賀川豊彦の演説会のビラがはってあった。議員の一部や学務部長は彼の演説は労働者を対象としているものであって女学生などの聞くべきものでないという意見を述べた。これに対して一一月二八日付「愛媛新報」は昨今の女学生は昔の良妻賢母時代の女学生ではない、新聞、雑誌においても世界の思潮の流れがどうなっているかという事を知ろうとして熱心である。婦人に対して政談演説会を聞かせないというようなことは婦人を侮辱するものであると思っている。県当局や教育家は若い婦人の心理を理解して時代に順応して之を指導する必要があると論じた。この出来事より約半年前には、県立宇和島高等女学校において校長不信任の同盟休校が起きている。宇和島高女では新任の校長と教職員の間にわだかまりがあって、有能な教員が次々と辞職していたと
ころ、昨年赴任して来たばかりの教頭が広島県の高等女学校へ転任することになった。生徒たちは留任運動を起こし、同年五月二四日校長と対した。翌日は三、四年生はほとんどが登校せず西江寺墓地に集合したが、学校側の説得で登校することにした。学校は二五日に当分休校の通達を出し善後策を講じた。市内の有識者、父兄らも協議を重ね、県からは視学官が来て事情聴取を行った。事件は二名の論旨退学、一三七名の停学者を出したが、六月四日停学解除により平静となリ六月六日より授業を再開した。少女たちに団結して行動する力を与えたのは、やはり大正デモクラシーと女性に自立することを教えた婦人解放運動の影響であった。

表1-3 大正時代の松山高等女学校の進学状況

表1-3 大正時代の松山高等女学校の進学状況