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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 明治期の女子教育

 女子だけの寺子屋

 明治五年(一八七二)学制が頒布され近代的な体制での教育が開始されたが、本県における女子の就学率は男子より相当低かった。そうした時代に県下で女子の教える女子だけの寺子屋が二校存在していた。一校は東予の周桑郡小松に開校されていた丹美園の塾であり、いま一つは和気郡三津浜藤井町の石崎なかの三津屋塾であった。特に三津屋塾は一〇〇名を超す女子が入塾している大規模な寺子屋であった。指導者の石崎なかは三津浜町の木綿問屋「三津屋」の女であった。なかは幼時から手習いをはじめ女子としての諸芸を修め、高い教養を身につけていた。長じて城下町の古町の酒造家和田又四郎と結婚したが、家業倒産にあい、夫婦で上洛し夫は京都で国学の私塾を開いた。夫の死後なかは実家に帰って家督を相続し、教養を活かして女子専門の塾「三津屋塾」を開いた。万延元年(一八六〇)ごろのことである。三津は商人の町であり三津屋塾の寺子もほとんどが商家の子女であった。なかは彼女らに読み・書きのほか、裁縫・家事・茶の湯・生け花など町人の子女にふさわしい知識、心得などを説いて導いたので、親たちからも信頼されていたのである。明治五年、学制頒布により寺子屋が廃止された後もその存続が認められた。同年に第三中学区四番女児校の名称が三津屋塾の三津町にみられるが、これは石崎なかの塾を引きついだと考えられる。なお、翌年には第八五番女児小学校と改まり、生徒数一〇九名を有する学校の四等教官として一人で指導にあたっている。当時五四歳の彼女はその後も明治一〇年代まで教育にたずさわったようである。石崎なかは女子の初等教育推進に大きく貢献した女性であるとともに明治初期において自立した生き方をした数少ない女性の一人であった。

 女子の中等教育

 女子の教育については、初等教育以上のものは無用とする意見さえあり、男子よりも立ち遅れていた。しかし、小学校卒業者の中には進んで中等教育を受けようとする者もあり、県外の学校へ遊学する子女も出るようになった。こうした情勢の中で、明治一九年九月一六日、松山教会の牧師二宮邦次郎がキリスト教主義にもとずく人間教育を目的とした四国最初の女学校である私立松山女学校(現在の松山東雲学園の前身)を創立した。場所は松山市出淵町東堀端(現在の三番町五丁目付近)で、校長二宮邦次郎、増田シヅら四名の教師と生徒三名(明治一九年九月一六日入校重松テイ・喜多川トク、九月二〇日入校大井上ツチ「明治一九年九月ヨリ生徒姓名簿松山女学校」所収-松山東雲中・高等学校提供)で民家を借りてスタートした。明治二三年には二番町に洋風校舎を新築したが、この時代にはキリスト教に対する風当りが強くなり初期の方針をもって教育することが困難となった。
 いっぽう、婦徳婦技を磨き良妻賢母となる教育を女性に与えるべきであることを痛感する人々は、明治二四年九月私立愛媛県高等女学校の設立を渡部明綱ら六名が願い出て許可され、松山市二番町に仮校舎をつくり一〇月一〇日に開校式を行った。この年には四三名の生徒が学んだ(「校友会雑誌」第六号)・しかし、その後は経営難が続き廃校寸前までになったこともあったが、女子教育を絶えさせまいと努力が続けられ、女子に必要な実用学科を加えたり、資格を備えた高等女学校には県が補助金を出すようになったので、諸規則を改訂して適合するなどの努力をした。

  愛媛県令第十一号
  高等女学校補助規程県会ノ決議ヲ経テ左ノ通之ヲ定ム
    明治三十一年二月八日
                                                   愛媛県知事 篠崎五郎
      高等女学校補助規程
  第一條 女子高等普通教育ノ普及ヲ図ルカ為メ毎年県歳出金ヨリ之ヲ補助ス
  第二條 補助ヲ与フル学校ハ高等女学校規程ニ依リ尚左ノ各項ヲ備フルコトヲ要ス
   一 修業年限 三個年
   一 入学程度 高等小学校四年程ノ教科ヲ卒業シタル者若クハ之ト同等ノ学力ヲ有スル者
   一 教科目  修身、国語、地理、歴史、数学、理科、家事、裁縫、習字、図画、音楽、体操、但随意科トシテ教育ヲ加フヘシ
   一 生徒定員 百二十人以上
   一 生徒授業料 一ヶ月五拾銭以上壱円以下
  第三條 補助額ハ毎年其学校ニ於テ定ムル所ノ経費予算額三分ノ二以内トス但一校ニ対スル補助額ハ千五百円ヲ超ヘサルモノトス
  第四條 補助ヲ与フル学校ハ三校以内トス
   同一又ハ近傍ノ地方ニ二校以上ヲ設立シタルモノニ就キテハ一校ノ外ハ補助セス補助ヲ与フル学校ヲ定ムルトキハ県参事会ノ意見ヲ聞クコトヲ要ス
  第五條 補助ヲ受クル学校ハ知事ノ監視ヲ受クヘシ
  第六條 補助ヲ受クル学校ニシテ其設備又ハ教育方法ニ就キ知事ノ指示ニ従ハサルトキハ知事ハ其補助ヲ廃止スルコトアルヘシ
  第七條 補助ヲ与フル学校ノ会計其他必要ノ規程ハ知事之ヲ定ム
  第八條 補助ヲ受クル学校ハ知事ノ許可ヲ経ルニアサレハ之ヲ廃止スルコトヲ得ス
  第九條 本規程ハ明治三十一年四月一日ヨリ施行ス

 明治三二年二月七日「高等女学校令」が公布せられ、高等女学校は中学校と法制上対等の地位におかれることになった。府県の負担で高等女学校を設置する方針が明らかにされ、この気運に乗ってこの年に設立された町立の今治高等女学校と宇和島高等女学校とともに明治三四年(一九〇一)県立に移管され、愛媛県立松山高等女学校、同今治高等女学校、同宇和島高等女学校が開校した。これをもって女子中等教育の土台はひとまず出来上がったといえよう。

 教育に情熱を傾けた女性たち

 女性でありながら中等教育機関の設立に寄与した人たちを三人取り上げてみたい。先ず、漢学塾を開いた三輪田真佐子である。彼女は公家の女で、儒学者であった父から漢学を教えられ、さらに梁川星巌の塾に学んだ。明治維新の年から岩倉具視の女を教授していたが、温泉郡久米村出身の三輪田元綱と結婚し、一子元孝が誕生した。夫の病気により東京から久米村へ帰って来た。夫の死後、元孝の養育のために漢学の素養を生かして生計を立てる決心をし、松山に出て湊町四丁目に明治一三年(一八八〇)三月私塾明倫学舎を開設した。明治一五年県に提出した「私立学校創置之件」によると、男子七〇余人、女子三人が学び、入塾の資格は年令一五歳以上で「日本外史」の講義を終えている者であること、三年修了の教育課程が組まれ、寄宿者もいたようである(「明治一五年~一七年類似学校」)。折から修身科の設置を強調していた文部省は明倫学舎の学科に修正を要求し、修身科と読書科を設置するようにした。その後、三輪田真佐子は明治一七年八月、愛媛県師範学校附属小学校女教場取締に任命された。明治二〇年、子息の教育のため明倫学舎を閉校し、東京に移り住んだ。しかし、彼女の教育への情熱は衰えず、私立三輪田高等女学校の経営を続けた。大正六年(一九一七)一月七日付海南新聞に「大正女列伝」三輪田女史の記事があり、「漢学の塾には士分の子弟は女のお師匠さんなんかに教えてもらふのは男の恥だと云って滅多に入門するものはなかったが、町人の子弟に入門するものが大分あった。(中略)教授は男子にも劣らずとうとうとして説き去り説き来り子弟を教へて居たものであるが、尚ほ一日の業を終はるや、一合五勺位の晩酌を引っ掛け、興に乗ると朗々として詩吟などを行ったものだそうな」とある。まさに明治の女傑の感がする。
 三輪田真佐子の後を受けて女性による学校経営に一生をかけたのが澤田カメと船田操の二人である。澤田カメは高知県の出身で東京に出て裁縫の技術を習得した人であった。松山へ来て、裁縫伝習所を開いたが、すすめもあって明治三五年九月三日私立澤田裁縫女学校の設立許可をとり、一貫した裁縫指導を行ったため、高等女学校には行けなくとも技術を身につけておきたいと思う子女たちが入学を希望し、評判がよかった。
 一方、船田操は明治三八年勝山婦人会を結成し、同年私立勝山女学校を創設、さらに明治四〇年家政女学会を開設し、目立った活躍をしていた。明治四一年七月、澤田カメの澤田裁縫女学校と船田操の家政女学会の合併が行われ、愛媛実科女学校として発足した。さらに、明治四四年四月勝山高等女学と愛媛実科女学校を合併して済美高等女学校を設立した。以後二人の指導者は資金面の危機も克服し女子教育に尽力した。船田操は男まさりの勝気さで経営や外部との交渉を、澤田カメは生徒と起居を共にしながら生活指導をと二人の特質を出し合って済美高等女学校を発展させていったのである。