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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

四 災害復旧と治山治水事業の進展

 災害復旧と国庫補助制度

 明治四四年三月、治水費資金特別会計法が公布され、従前の災害準備基金特別会計が廃止された。この結果、基金の使用目的の一つとして「各府県災害土木費ノ補助ニ要スル財源ノ補充」規定が消滅するため、この趣旨を継承する必要上、特別法として同時に「府県災害国庫補助ニ関スル法律」を制定公布した。同法に関係する災害土木費国庫補助規程(妓四・)及び災害土木費国庫補助規程施行細則(%詰)によれば、府県災害土木費がその府県の地租年額七分の一を超えた場合、国庫はその超過額に対し、そのうち地額二分の一以下の金額については一〇分の四以内、地租額二分の一を超える金額には一〇分の五以内を補助し得る、また、二年以上引き続き地租額二分の一を超過する災害土木費を要する府県に対し、右の歩合によって算出した金額の一〇分の三以内を増加して補助し得るというものであった。これにより国は、従来の国庫補助制度を継承するとともに、補助に関して詳細な準拠を定めたのである。
 愛媛県でも、明治四四年三月、「災害土木費補助規則」を制定布達していた。
 大正八年三月、災害土木費国庫補助規程は改正され、補助割合を土木費額に応じて細別し、さらに一般に補助の程度を引き上げた。それによれば、従来、災害土木費がその府県の地租額七分の一を超過した場合には、超過額中地租額二分の一を超える金額については一率に一〇分の五をもって補助の限度としていたが、改正法では、これを細別して、地租額二分の一を超過し地租額三倍以下の金額には一〇分の五以内、地租額三倍を超え五倍以下の場には一〇分の六以内、五倍を超え七倍以下は一〇分の七以内、七倍を超える金額には一〇分の八以内と定め、補助割合を増大した。また、災害土木費が二年以上引き続きその府県の地租額二分の一を超過する場合の第二年以後の補助金額に関しても、従来よりも一層詳細にこれを規定し、その整備を図っていた。
 この制度は、一般的な制度として昭和二四年度まで適用されていくのである。なお、この間、大災害については、そのつど特例の勅令が制定され、高率の国庫補助が行われた。その一例として、大正一三年八月に制定された震災による府県災害土木費国庫補助規程があり、大正一二年の関東大震災、昭和二年の京都府震災、同六年の神奈川・静岡県震災、同八年の宮城・岩手県震災などがあった。
 愛媛県の場合、後述のように、昭和一八年七月の大風水害に対し、同年一〇月二三日付け勅令第七九一号「風水害ニ因ル愛媛県災害土木費国庫補助規程」が公布され、先の災害土木費国庫補助規程によらず県工事費の八割五分以内、下級公共団体に対する県補助費の一〇割以内を得るとの高額補助の規定がなされていた。
 ところで、これらの災害復旧制度は、明治以来原形復旧主義がつらぬかれてきたが、昭和九年の室戸台風による兵庫・鳥取・岡山の各県及び四国地方の激甚災害の発生を契機にして、従来の原形復旧のみでは復旧の目的が達成できないため、昭和一〇年から、新たに災害復旧と併せて行う改良工事に対する補助制度が創設された。これが現在も行われている、いわゆる「災害復旧助成事業費補助」である(内務省史第三巻)。

 非常災害と復旧事業

 毎年のように風水害に見舞われる愛媛県においては、災害復旧が繰り返し行われていた。大正期においては、被害の大きいものをあげると、大正元年、七年、九年、一二年、一五年の風水害をあげることができる。特に大正後期は大きい台風にたびたび襲われ、その復旧費は県費だけでも約三五〇万円に及び、土木費総額の二四・一%と、明治二九年度以降最高の割合を示している(愛媛県議会史第三巻)・大正一三年「県政事務引継書」によると、「大正十二年六、七、九月ノ三回ニ亘ル豪雨出水ハ本県トシテ稀ニ見ル災害ヲ引起シ、道路・橋梁・堤防護岸ノ破壊流失等其被害甚シキモノアリ」「復旧工事費ニ対シテハ国庫ノ補助ヲ仰キ大正十三年一月十九日主務省ヨリ弐拾六万六千円ノ補助内定通知ヲ得タ」とある。大正期において、非常災害による特別の国庫補助金を得たのは、この大正一二年災害のみであった。このように国庫補助金が得られるのは大災害に限定されるところから、それ以下については県費もしくは県費補助を得て郡市町村等が行うこととされていた。その財源は、一般には国税附加税の制限外賦課によるが、臨時、突然的な災害復旧費の場合は、ほとんどが県債による傾向が強かった。
 たとえば、大正元年九月の暴風災害についてみると、東予地方を中心として県下各地に大被害をもたらしたものであるが、県当局は急きょ被害調査を実施して総額四〇万二、〇〇〇円余を復旧費として見積りした。応急工事をする一方、同年通常県会に、約三六万円に及ぶ災害復旧費を大正元年度と同二年度にわたる追加予算として計上した。内訳をみると、経常部土木費二七万円余で国県道の道路・橋梁、河川・海岸堤防・砂防の復旧工事、臨時部土木費では町村または水利組合の負担に属する河・溝・道路の復旧工事に対し、県費補助二万円余が計上され、その他関係諸費を加えて、追加歳出は合計二九万八、三一五円余であった。その財源としては、地租割宅地地租一銭一厘とその他地租二銭七厘の制限外課税により三万二、三六九円、戸数割一万六、六〇四円余を増徴したが、収入不足はおおうべくもなく、他に適当な財源がないところから、罹災救助基金二四万九、〇〇〇円を借り入れ、五か年償還の県債を発行して埋めあわせていた。
 以後、大正四・五年度に四二万円、大正七年度に二〇万円、大正九・一〇年度に九八万円余、大正一二・一三年度には二三〇万円余、大正一五・一六年度一四八万円余の起債が行われている。
 昭和期に入っても、例年風水害には悩まされているが、特に被害の大きいものとしては、昭和三年の風水害、九年の室戸台風災害、一三年や一六年及び一七年の風水害、そして昭和一八年の大風水害などがあげられる。このうち、高額の国庫補助金が下付されたのは、昭和九・一○年度で二四万七、〇〇〇円、昭和一三年度に一〇九万円余、昭和一六年度九一万円余、昭和一七年度二三〇万円余、昭和一八年度二、八四五万円余などであった(金額はいずれも土木復旧の当初予算のみで、追加・更正を含んでいない)。また、県費負担分や市町村等への県費補助分については起債によっていた。
 風水害のほか、昭和期では旱害の発生を忘れることはできない。特に、昭和九年は四国・九州を中心とする西日本各地が旱害となり、その対応は県会をはじめ国会陳情運動にまで発展した。ところがその矢先の九月二一日に室戸台風の猛威にさらされ、旱水二種の大被害をうけることとなった。相方あわせた災害対策予算は総計で、三五七万余円の巨費におよび、国庫補助金二二九万余円と県債九三万余円で二か年にわたり復旧に努めていた。また、昭和一四年の旱害も西日本一帯二九県にわたるものであった。県では、通常県会・臨時県会の二度にわたって総額二九〇万余円の干害対策費を計上した。そのうち、国庫補助金は一九八万円余であった。

 第一次~第三次治水計画

 国は、明治四四年一〇月、第一次治水計画を決定し、一八か年継続の治水費予算を組むとともに、治水費資金特別会計を設置して国の直轄治水事業を中心とした第一期河川治水事業を推進しはじめた。しかし、第一期河川の上流・支流や第二期河川の緊急改修に迫られる事態となり、大正六・七年の水害を契機に、同一〇年六月までに第二次治水計画を策定した。これには新たに五七河川が追加され、二〇か年以内の改修が予定されたが、第一次大戦後の恐慌や関東大震災などの影響で実施は停滞した。その後、農商務省の積極的な農政の展開とともに、農業水利改良の見地から中小河川の改修を用排水幹線改良事業の名のもとに施行する傾向が強くなり、大河川のみに対する直轄河川治水行政を行う内務省との間に対立が生ずるようになった。こうした背景から、中小河川改修に対する国の助成制度が始まり、いわゆる時局匡救土木事業には、府県施工の砂防工事や中小河川の改良事業が含まれることとなった。
 昭和一〇年、内務省では、従来の治水計画を見直し、第三次治水計画を策定した。この計画では、緊急を要する改修二四河川を重点的に取り上げたほか、それ以外の河川の府県改修への助成、府県の砂防工事への三分の二国庫補助、中小河川改修への二分の一補助などが盛り込まれた。しかし、着工・改修が十分に進まないうちに時局が緊迫化、戦争の開始とともに治水事業は空白化していくのである。
 なお、水害を防除し河水利用を増進する河水統制の問題、いわゆる河川の総合開発の問題も大正末期から検討されていたが、昭和一三年の大水害や翌一四年の大旱害が重要な契機となって、昭和一五年度から河水統制事業として国庫補助事業が始まった。しかしその後、戦時下のため大きな進展をみることはできなかった。

 愛媛県の二〇か年継続治水事業

 愛媛県で治水計画を本格的にとらえ始めたのは明治末年であった。政府の第一次治水計画の樹立を背景に、当時の知事伊澤多喜男は治水計画の策定に着手、庁内に治水調査委員会を設置して計画を立案した。後任の深町錬太郎知事は、これを受けて大正二年の通常県会に、いわゆる二〇か年継続治水事業案を提出した。事業内容をみると表2-2のようである。対象は県下一九河川で、砂防工事が中山川ほか一六河川で四九万円余、荒廃地復旧が肱川水源の宇和川及び黒瀬川ほか一四河川で三八万円余、その他雑費七万円余で、総額九六万円に及ぶ本県史上初の本格的な治水計画であった。その趣旨を当局者は、まず水源の植林・地盤保護、砂防工事から漸次着手し、しかるのちに河川改良工事を進行する計画であるとし、いわゆる山を治めて後、水を治めるとの考えであるとしていた。
 なお、対象河川のうち県下第一の大河「肱川」が入らないで、その水源である宇和川・黒瀬川が対象となっているのは、「肱川」が国直轄で改修されるいわゆる第一次治水計画の第二期河川に指定されているためであった。その後、この事業は継続年期及び支出方法更正を重ね、戦中・戦後にわたって継続していった。昭和二〇年度段階では、大正三年度から昭和二三年度継続で予算額は三七五万三、〇〇〇円におよんでい
た。

 肱川の改修

 肱川については、国の第一次治水計画において第二期河川に指定されていたが、計画遂行にあたって第一期の大河川改修優先原則のためほとんど対象にされなかった。さらに第二次治水計画では、大正一〇年内務省土木局長からの照会により、県下では肱川・重信川・中山川について調査回答をしたところ、肱川のみが計画編入採択となった。重信川流域
関係では、これを不満として重信川治水研究会が組織され、大正一一年四月以来、再三にわたって第二次計画編入を内務省に請願していたがその成果を得ることができなかった。
 国直轄河川となった肱川については、昭和一三年にようやく内務省の調査完了となったが、その後も県当局の再三の要望やたび重なる水害にもかかわらずなかなか対象に取り上げられなかった。結局、昭和一八年の大水害を待たねばならなかった。その改修は、昭和一九年度から三か年継続で総額三三二万一、〇〇〇円が投ぜられ、内務省の直轄工事となったが、県の負担額はそのうち一一四万円で、起債と地元の大洲町と新谷村の寄付を財源としていた。事業内容については、「昨年ノ洪水ニ因ル惨害ニ鑑ミ、差当リ大洲町ノ主要部ヲ囲続シテ強固ナル堤防ヲ築設、又支流矢落川ノ上流部ハ河積ヲ増大シ、堤防ヲ築設シテ洪水氾濫ヲ防止セントスル」計画で、局部改修にとどまった。このため、昭和一九年臨時県会では、全面改修を内務大臣に要望する意見書が提出され、満場一致で可決確定議となっている。
 この改修は、結局二年延長、四か年をかけて昭和二二年度に完丁している。さらにあわせて、砂防工事が同様直轄工事で行われ、県は昭和一九年度から四か年継続で総額四三万円余を負担していた。

 中小河川の改良事業

 従来国庫補助の対象とはならなかった中小河川改良事業は、昭和四年の河川法準用令の改正、昭和七年に開始の時局匡救及び農村其の他応急事業の適用対象となったことや第三次治水計画で補助対象が明記されたことにより、各地で積極的に計画策定が進められた。愛媛県では、まず時局匡救事業において、(河川法)準用河川である中山川の改修が行われた。その後、小野川(昭和一一年度から七か年継続、事業費二七万五、〇〇〇円)、岩松川(昭和一五年度から八か年継続、事業費一五四万二、〇〇〇円)、金生川(昭和一四年度から四か年継続、事業費二五万四、〇〇〇円、災害復旧工事を合わせ施行)、御坂川(昭和一九年度から三か年継続、事業費四〇万円余)などが、終戦前後にかけて施行された。当時は混乱期のため、金生川を除いては、年期及び予算額に相当の変動を生じている。

 水害防除の施設

 愛媛県では、昭和一三年の大出水を契機に、単なる災害復旧のみではいたずらに災害が反復するおそれがあるとして、災害復旧工事施行に併せて改良工事を実施することとした。この新規の水害防除施設事業の対象には、金生川ほか二八河川が選ばれ、護岸及び堤防の拡築や床留の工事を行うもので、総工費一七二万円で昭和一四年度から実施しようとするものであった。財源は国庫補助金のほか、大部分は県債を予定していた。この事業は、戦局の緊迫化や相つぐ大水害の発生によって災害復旧が充分に進行しない状況のなかで埋没していくのである。
 このほか、第三次治水計画で策定された砂防工事については、県では昭和一二年以降七か年継続事業として、総額一〇三万円、三分の二の国庫補助事業として施行した。さらに、昭和一九年度から三か年継続事業として一〇五万円の災害対策砂防費を計上施行したが、これは前述の継続治水事業費の中に組み込まれていた。
 河川統制事業については、本県ではまず、「加茂川河水統制事業」が着手された。この事業は、西条地方における旱害・水害恒久対策並びに西条臨海工業地帯の工業用水及び発電の目的をもつもので、国庫補助を受け昭和一六年度から三か年継続、予算六七七万円として行うものであった。昭和一六年臨時県会で議決を受け、翌一七年三月に国庫補助並びに工事施行認可指令を受けて着手した。昭和一八年六月には、堰堤地点の調査完了、実施設計書の作製や倉庫・事務所等の建築を完成するなどの進行をしていたが、決戦態勢の時局の中で事業は中絶のやむなきにいたった。そのほか、重信川・石手川・国領川など河川統制の計画調書は作成されて本省に送付されていたが、それぞれ無為に帰し、河川の総合開発は戦後に持ちこされたのである。

表2-2 継続治水事業明細書

表2-2 継続治水事業明細書