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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 消防・警防組織の整備

 公設消防組の拡充整備

 明治四四年以来、公設消防組の設置促進に努めてきた愛媛県は、消防組の整備充実と組員の質的向上を図るため、大正二年一二月、「消防組規則施行細則」と全面改正し(資近代3六八八~九三ページ)、消防組の設置及び維持管理の基準を厳格にした。設置状況をみると、大正元年には一五二組、一万九、三八三人であったが、その後増加の一途をたどり、大正一五年には、二七一組、三万九、三七九人に達し、公設消防組設置市町村は二六六、未設置はわずか一八、設置率九四%になった。
 その後、昭和九年をピークに市町村合併に伴って消防組も統合され、組数・組員数ともに漸減している。警防団に改組する前年の昭和一三年末における県下の公設消防組は、組数で二六二、組員三万八、六九四人であり、東予の山村七か所を除く各市町村に設置されていた。
 一方、消防の装備についても逐次改善が図られ、徐々ではあるが近代消防への整備が進められた。消火機器では、大正二年県下で腕用ポンプ四四一台、龍吐水五九台、雲龍水一一台であったが、昭和四年に腕用ポンプが一千台を超えた。また、ガソリンポンプは、大正六年に温泉郡道後湯之町消防組が最初に導入、昭和三年には県下で五八台となった。消防自動車の最初は、昭和五年一一月の松山市配置であった。昭和一三年末現在では、自動車ポンプ九、ガソリンポンプ一二一、腕用ポンプ一、〇八二、龍吐水等五二となっている。
 県内における常備消防は、大正一三年一二月、松山市消防組に常設消防手六人を置いたのが最初であった。出淵町の松山警察署構内卿筒置場と木屋町の第五部消防器具置場に配置されたという。また、昭和七年九月、松山署内に火災通報専用電話「火事番」が設置され、同月一一日開通している。
 ところで消防組員の服装については、大正二年以来法被を支給し、組頭・小頭に対しては詰襟洋服を支給することができるとされていたが、昭和六年九月、内務省は全国消防組の服装を統一するため、「消防組員服制図例」を定め、庁府県長官にあてて訓令した。これを受けた県では、翌七年一二月に「消防組規則施行細則」の一部改正を行い、甲種(立折襟洋服)と乙種(法被)の服装を定め、いずれかを支給することとした。
 こうして整備、拡充されてきた消防組は、昭和一四年四月一日の警防団発足まで、警察の補助機関あるいは市町村の自衛警防機関として、水火警防等に大いに活躍したのである。

 警防団の設置

 近代戦を背景として防空体制の強化の必要性を検討していた政府は、昭和一二年四月「防空法」を制定し、日中戦争開始後の一〇月一日、これを施行した。これに伴い、六大府県には警察部内に防空課(のも警防課)を設置し、愛媛県などでは警務課においてこの事務を所掌した。その後、戦時体制の強化を図るため、内務省は、県をはじめ関係当局と協議の結果、昭和一四年一月二四日、「警防団令」(勅令第二〇号)を制定し、同年四月一日施行した。これによって、「消防組規則」は廃止され、明治以来の歴史と伝統を持つ消防組は解消し、新たに警防団として発足することとなった。警防団は、防空・水火防その他の変災の警防に従事することを任務とし、地方長官が職権または市町村長の申請によって設置し、団長・副団長・分団長・部長・班長及び警防員をもって組織された。このうち、団長・副団長は地方長官の、その他の団員は警察署長の任命によるものとされ、団は地方長官が監督し、その命を受けて警察署長が指揮監督する完全な官制団体に衣替えしたのである。なお、費用は従前同様市町村負担とされた。
 愛媛県では、昭和一四年四月一日に県令第九号「警防団令施行規則」(資近代4四九三~五〇一ページ)を施行し、松山警防団ほか二六四警防団の設置を告示した(資近代4五〇二~七ページ)。ここに、県下二六四の全市町村に警防団が誕生したのである。
 昭和一六月一七日、県警防課では、警防団の活動方針として「警防団の業務実施要領」(防第一七八六号)を作成し、平時災害発生の場合ほか防空時の事態に応じた業務内容を詳細に規定した。この年一〇月現在の組織表(表2-1)をみると、団数は二六二、団員数は四万五、五四九人で、うち在郷軍人一万五、一二二人、青年団員一万〇、五五〇人となっている。
 太平洋戦争勃発によって、警防団活動は特に防空警防に重点が置かれるようになり、貯水槽・家庭用防空壕の設置などの協力指導、警報伝達、空襲の際の消火・救急・避難指導、建物疎開の協力など第一線で活動することになった。戦局の緊迫化に伴い、警防団は県民生活の中核あるいは推進母体となって努力を続けることとなったのである。(愛媛県警察史第二巻)

 私設消防組と防護団

 私設消防組は、公設消防組整備までの過渡的措置として、設置維持を黙認されてきた。そのため、運営については地域住民が維持管理費を負担したほかは消防組規則が準用され、公設消防組と同様に警察の指揮監督のもとで活動した。県内における設置状況は、大正元年末には六〇組、約二、〇〇〇人の組員がいたが、その後、県の指導により公設消防組への改組や廃止によって激減した。しかし、その後公設消防組の補助を目的として回復し、昭和一〇年末には、組数一〇六、組員三、八〇一人に達していた。
 昭和一四年四月、警防団設置に伴い県下の公設消防組は解消したが、このときに際し私設消防団もまた新設の警防団に吸収され、消滅した。ただ、私設消防組のうち、会社や事業所などに設置されていたものは、同一四年四月一日施行の県令第一〇号「防護団規則」(資近代4五〇一ページ)に基づき、防護団として改組された。これは、空襲または水火災その他の災害に対する自衛を目的としたもので、設置対象には、常時一〇〇人以上の従業員を有する工場・鉱山・事業場・会社・銀行・商店、五〇人以上の病床を有する病院、収容定員五〇〇人以上の興行場・集会場、五〇〇人以上の学生・生徒・児童を有する学校、その他前記に準ずるものとされていた。この防護団は、所轄の警察署長への届け出、署長の指導・指示を受けて訓練及び活動することと定められていた。

表2-1 警防団の構成

表2-1 警防団の構成