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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 愛媛県の防災体制

 災害警防活動

 愛媛県における災害警防事務は、明治二〇年七月五日の「愛媛県処務条規改正」により、保安課が設置され、「水火防禦ニ関スル事項」の規定で長らく所掌されてきた。
 昭和一二年七月の日中戦争勃発から、戦時体制下の警察では、戦争目的達成のための新しい分野における特殊任務を遂行するため、平時とはかなり異なる特色を持つことになった。昭和一三年六月三日、「国家総動員法」(法律第五五号)の施行に伴って、警務課事務分掌中に「非常警備並ニ総動員警備ニ関スル事項」が加えられ(県訓令第一二八号)それぞれ別個の整備計画を策定して、国防目的達成と治安維持に万全を期することとなった。このうち、非常警備は、災害・騒擾等の非常事変の場合、迅速に警察力を集中して早期に鎮圧または防止し、事変の範囲・被害等を最小限度にとどめることを目的とした。さらに、昭和一四年一二月、「愛媛県処務細則改正」(県訓令第二一八号)により、災害関係の分掌は保安課から
警務課に移管された。警務課の分掌には、新たに「七 警防団ニ関スル事項」「八 水火警防其ノ他変災ニ関スル事項」が加えられた。
 昭和一六年三月、日中戦争の激化と国際情勢の緊迫化に対応して、警防課が設置され(県訓令第六六号)、非常警備・総動員警備・防空・警防団・水火其の他変災警防に関する事項を独立して所掌することとなり、終戦に至るまでこの体制が継続したのである。

 水防と水難救護

 明治以来、水災警防は警察の所管とされ、警察は消防組を指揮してその任に当だってきた。愛媛県では、大正二年一二月九日、県令第三九号で「消防組規則施行細則改正」(資近代3六八八~九三ページ)を行っているが、第六条に「水災警防ニ関スル事務ハ消防組ヲシテ之ヲ兼ネシム」とその任務を明記した。大正四年一〇月二六日、近年の度重なる風水害に苦慮した愛媛県では、県訓令第三六号により県下の郡市町村に対して水防対策の強化を指示、水害予防のため消防組未設置の市町村に「水防組」の設置を促す(資近代3七〇三~四ページ)とともに、「水防組規約準則」に関する県告諭第三号(資近代3七〇五ページ)を併せて県民に達し、その結成を求めた。これによると、設置目的は水害予防のため堤塘護岸樋閘その他の工作物の保護を励行することにあって、保護区域(河川筋の左・右岸、海岸)ごとに居住で任意の自治組織を設け、行政庁の指揮監督を受けて共同で工作物の保護に当たることとされた。具体的な任務としては、水害予防材料の保管、行政庁より指示された雑草木の刈り払い、欠損等事実関係の調査、臨時水防作業などであった。
 また、地方長官会議においての議論を背景として、災害防御その他に対する国民の自衛計画として、全国的に「保安組合」の結成が進められた。愛媛県では、大正九年二月、県下各警察署長に命じてその結成を各市町村内有志に対し勧説した。その結果、翌一〇年五月には、県下二市二九五か町村中二六一組合、組員八万一、四二八名の結成をみた(資近代3九一八ページ)。以後、同組合は、警察の指揮のもとに消防団・水防組と協力し、昭和一五年ごろまでの約二〇年間にわたって、組合事業の一つとして水火災の予防に務めたのである。
 水難救助については、水上警察が警察船をもって当たり、沿海の消防組・保安組合・青年団その他の協力を得て救護活動に当たったが、帝国水難救済会の存在を見のがすことができない。
 帝国水難救済会は、明治二二年五月、香川県金刀比羅宮宮司琴陵宥司が主唱して、香川県庁内に海難救助を目的として設置されたもので、同二五年に本部を東京に移し、各府県に委員部が設置されたものであった。愛媛県では、同二四年に県庁内に「愛媛委員部」が設置され、委員総長(知事)、委員副総長(警察部長)、主事(警務課長)、のほか書記が置かれた。救済機関としては、救難所・救難支所・救難組合を設置し、救命機艇や救難具を備え、事故発生の認知とともに救助員を非常招集し、救助活動をすることとしていた。
 大正五年には、温泉郡堀江・三津の二か所に救難所、同北条に救難支所、喜多郡内の青島・黒田・出海・沖浦の四か所には救難組合が設置されていた。大正一三年七月、愛媛県では、愛媛委員部を「帝国水難救済会愛媛支部」に改組、役員を支部長・支部副長・主事・委員とし、救難所長・支所長及び組合長には従来どおり地元警察署長または町村長その他を選任し、民間水難救護機関としての機構を整備した。
 昭和一〇年一月、愛媛支部の事務を警務課から保安課に移管しているが、当時の状況は、救難所七か所(三島・今治・北条・堀江・三津・郡中・長浜)、救難支所七か所(波止浜・近見・波方・亀岡・菊間・釣島・神浦)、救難組合四か所(青島・出海・黒田・沖浦)で、会員数三、五七七人、資金二万六、二七六円余を存していた。その後、昭和一六年三月の警防課新設に伴い、海上防空・海上見張り等警防事業と密接な関係を有するため、事務は警防課に移管された。同年一一月の施設設置状況をみると、救難所一二(菊間・松前・上灘・東外海・西外海が新規)、救難支所七(青島昇格)、救難組合三となっている。ただし、救難三組合については有名無実による廃止や、東宇和・西宇和・北宇和の三郡には施設がないため新規に設置することが検討されていた(資近代4九五五ページ)。