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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 非常時下の医療活動

 報国隊挺身班結成要綱と挺身診療の実施

 改組された医師会には、非常時下の健民健兵に対応して医療報国に挺身することが期待された。県医師会は、昭和一八年一一月の総会で「愛媛県医師会報国隊挺身班結成要綱」を決定した。これにより各郡市地区に挺身班を編成し、県医師会長が大隊長、郡市支部長が中隊長となり、中隊長は管轄区の挺身班員の中から班長を任命し、これらの長が挺身班の指揮監督と督励に当たることになった。事業内容は、皇国医道の昂揚、防空救護訓練の徹底化、非常災害時での救護機関の完備、医師隣組の徹底化、健民修練に対する指導、母性並に乳幼児の養護、結核撲滅運動並に結核患家管理、助産婦・保健婦・看護婦の指導、国民学校児童給食指導、農山村における栄養障碍対策の樹立などであった。
 結成要綱にそって各地区では挺身隊が生まれ活動を始めた。その挺身事業は多方面にわたったが、とりわけ県医師会は乳幼児保健指導に力を入れた。すでに県医師会では、昭和一八年四、五月に松山など六市で延べ二、〇五五人の母親を集めて母性乳幼児保健指導講習会を開催した。挺身班が結成されてからは農山村の栄養改善対策をも加味して特定の農村を指定し、県医師会の経費捻出により保健指導及び診療の実施を励行することになった。昭和一九年度は越智郡渦浦村・新居郡大島村・宇摩郡上山村・上浮穴郡参川村・喜多郡立川村・東宇和郡貝吹村・北宇和郡日振島など一九か村を指定した。翌二〇年度は無医村を中心に実施することにして、五月「無医地域挺身診療実施要綱」を定め、各郡市支部は管轄内の無医村中か
ら特に医療に恵まれない地域を選定し、医師一名・助手一名の挺身班が定期的に出張診療と保健指導に当たることになった。
 挺身診療は昭和一九年九月の県内政部長の通告で、航空機増産突撃運動に協力して県下六三か所の重要工場の産業戦士健康保持に対する積極的な指導に当たるとともに診療にまで拡充することになり、九月八日安井会長は各支部長に依頼状を発送した。これには「重要工場に対する挺身診療実施要項」が付随してあり、これには期間を昭和一九年九月から一一月の三か月とすること、挺身方法として挺身医は主として指定工場従業員の軽症者の診療を行い簡単なカルテを調整すること、挺身医は交替制としその方法は各支部長で決定する、挺身医は工場医と協力して従業員の健康管理を行う、薬品衛生材料は工場か官憲で準備斡旋する、挺身診療は無償とするなどが明示された。支部内の重要工場に対する挺身診療計画は支部長の責任で遺漏のないようにすること、挺身診療は少なくとも週二回以上とすること、実施工場は本県知事から通知されるが、工場名などは極秘取り扱いとすることなども付記された。
 また、挺身診療では学童、とりわけ遠く親元を離れて愛媛県各地に集団疎開している疎開学童の健康管理にも意を用いた。県医師会では、昭和一九年一一月「疎開学童健康査察要綱」を定めて、各支部挺身班はその地区の疎開学童の身長・体重・胸囲などの測定、寄生虫検査、眼疾特にトラコーマの有無、ツベルクリンの反応、疾病発生の有無・体力検定などを実施し、必要な場合は簡単な治療投薬を行うよう各支部に指示した。この外挺身班は在郷軍人の身体検査や風水害・海難救護などにおいても挺身活動を各地で繰り広げた。

 防空救護活動

 太平洋戦争激化に伴う本土空襲の危機が迫るにつれて、各都道府県医師会では日本医師会の指令に従って防空救護班を設置した。本県医師会でも昭和一八年八月二八日「愛媛県医師会防空救護規程」を定め、その趣旨を会員に徹底させるとともに日本医師会主催の講習会を受けた安井会長・倉本専務理事・千秋四郎住友病院医師が講師となって、各地で伝達講習を行った。この規程は、救護班の編成は医師三名ないし五名に、歯科医師一名・薬剤師一名・看護婦・保健婦若干名・事務員一名・警務団員若干名で一班とし、班長を定めておくこと、救護班は他県または県内他地区にも出動することなどが規制された。
 さらに昭和一九年になるとアメリカ機による本土空襲が始まったので、日本医師会は現下の防空情勢にかんがみ医師会として確乎不動の防空救護態勢を緊急に整備するとともに、厚生省指導の下に応援救護班出動の団体訓練を全国的に実旋することにした。三月に立てられた「防空救護に関する団体訓練実施計画」では、都道府県医師会は現存の出動命令により配置につくこと、服装は国民服か警防団服・巻脚絆・戦闘帽とし、出動に際して医薬品及び衛生材料・三日分の食料品・毛布・外科用具を準備しておくことなどを指示し、昭和二〇年三月二七日午前六時を期して京浜・名古屋・阪神・北九州の重要地域が空襲を受けたとの想定の下に、応援救護班訓練を実施することにした。
 県医師会は、これに備えて同年三月「愛媛県防空医療応援救護対策要綱」を作成した。これは日本医師会の計画する応援救護訓練に適用するだけでなく、実際に県内の地域が空襲災害を受けた場合を想定して立てたものであった。同要綱は、「応援救護班ハ空襲災害地ニ於ケル救護機関ノ応援救護ニ従事スルモノトス」に始まり、県医師会支部ごとに編成する地区応援救護班と医師一〇名以上勤務する病院応援救護班の二種類とすること、応援救護班は医師三名・歯科医師一名・薬剤師一名・看護婦六名・事務補助者若干名をもって一班とする、出動命令は電信電話または特便をもって指示する、班の装備は手術に必要な医療器具一組、外傷八五人・火傷四〇人・瓦斯傷二五人の三日間の治療に要する数量、救護に必要な雑品、服装は防空服、携帯品は衛生表・医療器具・燈火用具・鉄兜・防毒面・水筒・食糧二日分・その他身廻品とする、といった事項を指示した。
 空襲想定はやがで現実となり、この要綱は実際の救護活動に運用されることになった。松山市は、昭和二〇年七月二六日空襲によって市街のほとんどが灰燼と化した。市内の医師は、わずかに焼け残った市内の教育会館・国学館・盲唖学校及び郊外の道後久保病院・和気公民館・円明寺・朝美町景浦信敬宅・石井村駐在所・松山脳病院・北条町公民館を防空救護所として、八月九日から戦災市民の救護活動に従事した。これに互して温泉郡支部では久米役場に総合救護所を設け避難民の医療救護に全力をあげた。宇和島市は七月一三日と二八日に空襲を受け多数の罹災者が出た。宇和島市医師会は直ちに浄念寺・仏海寺・龍光寺を防空救護所として医療活動に従事した。