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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

六 伝染病撃退策

 伝染病予防法令の整備

 時局下人的資源の確保がやかましく論じられるようになると、年々幾多の人命を喪失していく伝染病の予防強化が叫ばれた。
 愛媛県当局は、昭和一二年の国民体位向上対策の中で伝染病特に腸チフスの予防に努めることの項を挙げて、断えず計画的に前年度患者と家族及び飲食業者の保菌検査をすること、例年患者の発生の多い地方に対しては衛生技師を派遣してその原因を探究させ、防疫上の実際指導に当たらせること、飲料水・便所・下水溝などの環境衛生の改善と相まって清潔の徹底を期すること、予防注射を奨励すること、衛生組合の普及活動を促し予防知識の涵養に努め、蠅の駆除その他予防施設の改善充実を期することなどの具体策を示した。昭和一三年一一月二九日には明治三九年制定の伝染病予防施行細則・同法施行細則取扱手続を全文改正し、雑多な防疫関係法令を吸収してこれを一元化した。
 「伝染病予防法施行細則」は、第一章伝染病発生の届出、第二章疑似症並びに病原体保有者の取り扱いと病原体の検査、第三章清潔方法及び消毒方法の施行、第四章患者死体及び物件の処置、第五章交通遮断隔離及び健康診断、第六章検疫委員、第七章罰則その他、附則などの四五条からなり、病原体を最寄りの細菌検査所に提出する手続方法、検査材料の摂取法、定期臨時清潔法、消毒法、伝染病院、隔離病舎の強制収容範囲、自宅療養における患者などの遵守事項、死体埋葬の許可手続、交通遮断の施行範囲、検疫委員体制などを規定した(資社会経済下七一三~七二〇)。「伝染病予防法施行細則取扱手続」は、第一章通報、第二章病原体保有者、第三章清潔法及び消毒方法、第四章患者発見方法及び防疫措置、第五章患者死体及び物件の処置、第六章交通遮断及び隔離、第七章検疫委員、第八章雑則などの四一か条からなっていた。
 昭和一四年六月六日には「市町村伝染病予防費補助規程」を改正して、予防に要した費用の三分の一、隔離病舎、消毒所の設置改築などに支出した費用の四分の一を県費で補助することにして、その手続き方法を指示した。
         
 予防注射の普及

 戦時下の防疫で注目されるのは予防注射の普及があげられる。昭和三年から同一二年の一〇年間にわたる愛媛県下法定伝染病発生状況を病類的に見ると、腸チフスが伝染病総数の五九・四〇%と過半数を占め、赤痢がこれについで二〇・八六%で、両者を合わすと各年伝染病患者総数の八〇%近くに達していた。とりわけ、腸チフスは昭和一〇年には全国第四位の高率を示し、前後の年も全国平均二倍強の発生をみていた。
 県衛生課は腸チフス予防注射液として昭和一二年以前には北里研究所製造感作ワクチンと伝染病研究所製造の加熱ワクチンを購入して各市町村に使用を呼びかけたが、高熱を発する副作用を伴い有料でもあって実施数は極めて少なかった。昭和一二年に至り県衛生課付属細菌研究所で県内菌株をもって加熱ワクチンの製造が可能になったので、三月二六日「腸チフス予防液交付規程」を発布して、市町村・各学校・会社工場に対して予防液を無償交付することにした。利用者は急速に増加、同一二年県下で二二万九、一五二人(全人口の一九・六七%)、同一三年三〇万九、九六四人(二六・六〇%)が予防注射を受けるまでになった。
 市町村のうち予防注射に熱心なのは今治市・南宇和郡・新居郡などで、昭和一二年には今治では四万一、五七〇人の市民が、南宇和郡では郡内のほとんどの人々が予防注射を受けたほどであり、新居郡西条町では星加医師を中心に新居郡医師会が積極的に乗り出し町民二、三六四人に注射を実施した。いっぽう不熱心なのは松山市と八幡浜市で、昭和一二年時松山は九五一人、八幡浜は一五人しか注射しておらず、両市は県から悪疫予防に冷淡であると警告された。予防注射普及後の腸チフス流行状況を今治市に見ると、予防注射を実施しなかった昭和一〇年には二〇九人、同一一年には一六五人の患者が発生しており、県下で上位の流行地であったのが昭和一二年に予防注射を徹底したところわずか一八人に減じ、同一三年には九人とさらに減り県内各郡市中有数の無伝染病地区になった。
 こうした予防注射の効力を知った各市町村は、次第に注射励行に力を入れはじめたので、これに力を得た県衛生課は昭和一四年一月二六日に一層の予防注射普及をはかり銃後防疫の万全を期するよう関係方面に通達するとともに、腸チフスワクチンのみならず赤痢内服ワクチン及びジフテリア予防注射液アナトキシンも無料配布することにした。さらに翌一五年一月二〇日には全市町村に対し、三、四月ごろ「一二〇万県民漏れなく予防注射」を合い言葉に衛生組合を総動員して一斉に腸チフス予防注射を実施するよう通牒を発した。
 この結果、昭和一四年には三七万六千余人、同一五年には五四万三千余人(全人口の四六%)が注射を受け、腸チフス患者は昭和一三年の八五四人から同一四年には七一九人に減った。しかし昭和一五年八月に県内一二、三か村で爆発的に流行、九三五人の患者を出した。この年一二月の通常県会で、岩崎虎雄医師は「今年度腸チフスの流行は予防注射の普及方が不充分なためである」と指摘、「腸チフスをおさえるには県民に予防注射を受けるよう義務づけるのが一番良い方法である」と要求した。岩崎議員の期待した予防注射の義務規制は実現しなかったが、「海南新聞」昭和一六年一月八日付は「県衛生課では十六年度においては県下の市町村ならびに衛生組合と協力して時局下人的資源の確保を期待し防疫陣の強化を図ることとし、具体的方法を研究中である。特に腸チフス予防に対しては予防注射の徹底に努めることになってゐる」と報じている。

 防疫の強化と挫折

 この時期の防疫態勢の強化は、銃後の人的資源確保を至上命令として進められた。県衛生課は昭和一四年一月七日、警察署長・市町村に通牒を発して昭和一三年時の伝染病流行を繰り返さないため、一、二月中の冬季の終息期に昨年の罹患全治者の検便を行い、保菌者に対して療養指導をなし、保菌者家族の便所は衛生組合の協力を得て消毒をほどこし、病毒撲滅に努めるよう指示した。ついで同年六月六日には「伝染病隔離病舎設置管理規則」を定めて、伝染病隔離病舎管理の徹底を期し患者の隔離病舎収容を絶対化するとともに、家族・看護人が自由に出入りすることを禁じた。
 こうした処置にもかかわらず、昭和一四年度も赤痢・腸チフスが流行するきざしを示しはじめたので、県当局は防疫を徹底するため「予防注射や内服薬で安心しすぎるな、一切外食をするな、蠅のとまったものや、宵越しのものを食うな、裸になって寝たり、傷のあるような果物を食うな、下痢せぬように生水、アイスキャンデーに注意せよ、水道以外の水を飲むな、寝冷えするな、子供や弱い人を過労させるな、食べる前には手指をよく洗え」などの遵守事項を作成して、市町村を通じて各戸に回覧、県民に夏期衛生の注意を喚起した。また八月には保安課と連携して、清涼飲料水・食料品の検査を強制施行して多くの不良品を摘発、防疫職員を各地に派遣して隔離病舎など防疫施設の実地調査をさせ、伝染病発生地では防疫指導をさせた。県衛生課の奮闘に接して、市町村も伝染病を出すことは地区の恥として防疫を競い合い、とかく県から防疫に不熱心と指摘されていた松山市も、衛生組合を動員して患者の早期発見・予防注射の徹底的励行などを喧伝した。
 県令市町村の努力で、昭和一四年度は同一三年の流行に比べると伝染病は幾分減少、同一三年八月時の患者六〇一人、死者八〇人に対し同一四年八月は一五九人、六四人であった。昭和一四年度の成果と反省の上に立って、県衛生課は防疫を一層強化させるために、県民の衛生知識を日常生活の常識となるまでに普及させることの必要性を確認した。その方法として、昭和一五、一六年度に従来伝染病の比較的多かった町村を防疫強化地区に指定し、その地域の衛生組合を動員して保菌者の検索、健康診断、予防注射などを強制、住民に身をもって防疫の必要性を痛感させることにした。これの実施強化地区として昭和一五年度には松山市三津・新居浜市泉川など五八か町村、同一六年度には西条市氷見町・伊予郡郡中町など二三か町村を指定した。また昭和一七年一月九日に「汚物掃除法施行細則」・「公共便所取締規則及屎尿汲取運搬取締規則」を一元化し、汚物掃除の改善を図った(資社会経済下七四九~七五三)
 しかし戦局の悪化で防疫態勢は急速に活力を失い、一般県民も栄養不良と汚染の耐乏生活を強いられた。非常時下の昭和一九、二〇年は無防備のまま赤痢・腸チフス・パラチフスが猛威を振うにまかせたのである。