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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 保健指導機関の設定

健康相談所

 昭和六年の満州事変勃発後における国際関係の緊張は、国防力増強を国家の至上目的たらしめ、その人的資源として国民体力の向上が強く望まれた。そのため、国民の健康増進、母子衛生、伝染病の徹底予防、結核花柳病の撲滅が叫ばれ、衛生行政もこうした国民保健の問題に高度の関心を払うようになった。なかでも、結核は金融恐慌によって失職した労務患者が続々帰郷して菌をばらまき都市農村をとわず憂慮すべき状態にあったから、時局下の衛生行政の目はまず結核予防に向けられ、健康相談所が設置された。
 結核予防相談所は欧米では早くから整備しており、昭和七年から日本放送協会がラジオ受信料数一〇万円を年々結核予防施設費として提供した。政府はその資金で健康相談所を開設することにし、七年度には二六県に分配して設置方を指令した。全国有数の結核県である愛媛県もこの選に入り、三、〇〇〇円が支給されたので、県当局は松山市・今治市・宇和島市・西宇和郡八幡浜町・新居郡角野村に健康相談所を置き(松山市は県庁衛生課内、他は警察署内に併設)、警察署勤務の衛生技師・技手を所員に任じた。
 昭和七年九月二〇日に布達された「健康相談所設置規程」によると、健康相談所は結核予防及び患者の相談・指導・診察を行うところであり、医療の資力のない患者は相談所で診療票を交付されると公私立病院や開業医の診療を市町村負担で受けることができることになっていた(資近代4 二三一)。
 こうして健康相談所が設立されたが、その役割りが県民に知られておらず、また県庁や警察署の中に開所されていたので利用しがたい状態にあった。そこで、松山市の健康相談所は昭和一一年から市内三番町の民家を借りて診療を行い、ついで同一六年には結核予防会の寄付金で出淵町二丁目に診察所を新設し、レントゲンその他結核診療器具を備え、医師二名・レントゲン技師一名で相談診察に当たったので、利用者が急速に増加した。つまり、開所当所の昭和八年に三六人の利用者しかなかったのが三番町移転時の昭和一一年には三、五二九人と増加、同一三年には実人員二八九人延人員五、六八七人がレントゲン検査二、三七六回、赤血球沈降反応測定一、六八七回などの諸検査を受けており、一日当たり二〇人強が健康相談所を利用している。
 松山に続いて、今治健康相談所も昭和一四年に市内常盤町の済生会診療所内に移転し、他も同一八年までに宇和島市広小路、新居浜市繁本町、八幡浜市矢野町に診療所を設けた。

保健所

 昭和一二年四月五日「保健所法」が制定された。これにより、道府県に対し人ロ一二、三万人に付き一か所の保健所を設けることになり、国庫から創設費の三分の一、経常部のニ分の一が支給された。保健所は、国民の体位を向上させるため地方において保健上必要な指導をする所であり、具体的には衛生思想の涵養、栄養の改善及び飲食物の衛生、衣服・住宅その他の環境衛生、妊産婦及び乳幼児の衛生、疾病の予防とその他健康増進に関する事項を指導する保健機関であった。
 県当局は、最初の保健所を地理的に遠隔で医療機関に恵まれない南予地方の中心地宇和島市堀端通りに設置することにして昭和一三年一月一七日に起工、敷地面積三一七坪の上に一五坪の木造洋館二階建てが建築費及びレントゲンなど諸設備費二万九、五〇〇円を要して七月四日竣工した。同保健所には所長一人、指導員三人(内女子二人)、保健婦二人、技手一人、書記一人が配され、七月一五日から業務を開始した。その担当区域は宇和島市と津島郷を除く北宇和郡一円であった。その事業内容を一覧すると表4―1のようである。
 この年の通常県会で、当時県会議員であった山田庄太郎医師の質問に答えて、衛生課長村山午朔は「宇和島保健所で一〇月中に三九一名、一一月中に三五六名の者が健康相談を受けており、二か月間に保健所が外に出て指導した町村が一二か村、検査を受けた者が八三二名に達している。今後とも保健所を督励して期待に背かないような活動をさせていきたい」と述べている。
 宇和島保健所が開設されたのを機に、以後設置される各地保健所の基準となるべく、県は昭和一三年七月五日に「保健所規程」を定め、所長一・技師二・技手一・書記一・指導員若干・保健婦若干の職員定数、執務時間、設備使用、業務についての規定を設けた(資近代4 四六六)。その後の保健所は、昭和一四年八月宇摩郡三島町に土地は地元負担、建築と設備費は県費と国庫補助で三島保健所が設けられて九月より開所し、ついで同一五年には大洲地方に結核患者が多いのにかんがみ、国費一万円、県費一万九、〇〇〇円、地元負担六、〇〇〇円で大洲保健所が建てられ、一一月開所した。さらに、同一七年一一月には東宇和郡卯之町と上浮穴郡久万町に保健所が設けられた。
 こうして、昭和一七年までに県内五か所の保健所が開所し、疾病予防と各方面の保健指導に活躍することになったが、同一七年の「国民体力法」改正によって、地方長官の職権の一部が保健所長にゆだねられるなど、漸次行政庁としての性格を帯びてきた。

 保健婦の養成

 今日母子衛生面で活躍している保健婦が、法規上登場するのは昭和一二年の「保健所法」が最初であった。愛媛県でも同一三年の「保健所規程」で保健婦若干名を保健所に置くと規定し、実際に宇和島保健所に保健婦と称する女性二人を勤務させており、さらに同一五年までに宇和島・三島・大洲の三保健所に各四名の一二名、松山など健康相談所に六名、結核予防模範地区に七名、合計二五名の保健婦を任命した。しかし、これらの女性は正式に保健婦の免許を得たわけでなく、いずれも看護婦や産婆の資格しか持たなかった。
 保健婦の資格・職務などについては、昭和一六年七月一〇日発布の「保健婦規則」で定められた。同規則では、保健婦とは疾病予防の指導、母性または乳幼児の保健衛生指導、傷病者の療養補導、その他日常
生活上必要な保健衛生指導の業務を行う一八歳以上の女子で地方長官の免許を受けた者と定義づけた。免許を受けるには保健婦試験に合格した者で三か月以上保健婦の業を修業した者または厚生大臣(後に地方長官)の指定した学校、講習所を卒業した者でなければならないこと、試験は地方長官がこれを施行するとして、その科目を定め、一年以上看護または産婆の学術を修業した者でなければ受験できないとした。しかし時局は規則に沿って保健婦の養成を図るほどの余裕を許さなかったので、保健婦規則では応急措置として看護婦か産婆の資格を持つ者で現に一定期間保健婦の業務に従事している者には地方長官が免状を与えることも認めた。
 県当局は、昭和一六年一〇月三日「保健婦規則施行細則」を布達して、保健婦試験は毎年学説及び実施の二種について行う、保健婦試験を志望する者は願書・履歴書・戸籍抄本・精神病伝染性疾患でないことを証明する診断書を提出することなどを明記したが、政府の臨時措置に従ってとりあえず保健所などに働く無資格保健婦二〇数名に正式な資格を与えた。ついで市役所町村役場の公的機関に雇用されている看護婦や産婆(当時巡回指導員と公称)の中から、市町村長の推薦を受けた者を同一六年一〇月に県医師会館に集め、一か月の保健婦養成講習会を受講させた後、試験を経て三〇余名に保健婦免許を与えた。翌一七年三月と一〇月にも同様の講習会を行い、学科・実施試験を経てそれぞれ三〇名前後の保健婦を急造した。
 こうして昭和一七年までに一七六人の保健婦が生まれた。県衛生課は保健婦相互の連絡と意思統一を図るために愛媛県保健婦協会を結成し、同一六年一一月二六日に県医師会館で発会式を挙げた。ついで同一七年一〇月二日に「保健婦設置規程」を発布して、保健所・健康相談所・警察署などに配置する保健婦は保健婦免許状を有する者の中から知事が任命する、保健婦は疾病予防の指導、妊産婦及び乳幼児の保健衛生指導、傷病者の療養指導、日常生活上必要な保健指導を職務とするなどと規定した。さらに保健婦の執務状況を規律化する必要から同年一二月一八日に「愛媛県保健婦執務規程」を定め、保健婦は常に保健精神の昂揚に励み、県民保健生活の安定を期し、担当地域内の保健状態を調査し、職務執行上必要な知識技能の習得錬磨に努めること、保健婦相互間は勿論関係方面と絶えず円満な協調を保持し、職務執行に当たっては公平を旨とし、指導を必要とする者に対しては人格を尊重して親切丁寧に接し、処置は敏速確実を期すること、随時担当地域を巡視して家庭訪問を行い、職務上知り得た他人の身上に関する事項は他に漏さないよう注意することなどを明記した。
 保健婦免許状は、昭和一七年についで同一八年にも五月・一〇月に市町村長の推挙を受けた看護婦・産婆に講習会・試験を実施して合格者に与えたが、本格的な保健婦の養成機関の設置が期待されていた。県当局は、保健婦と同様に養成が望まれていた学校衛生担当の養護訓導と合わせた養成所を松山高等女学校内に設置することにした。昭和一九年三月一〇日「愛媛県立保健婦養護訓導養成所規則」を定め、一〇〇人の生徒を養成して本県で保健婦もしくは養護訓導の職に従事する義務を負わせることにして、修業年限・学科などを示した。養成所はこの年四月一日に開校したが、一九年度は準備期間もなかったので、市町村長や高等女学校長の推薦状で生徒を入学させた。翌二〇年四月から正式に公募して試験で入学者を定める手筈であったが、戦局が厳しさを増したので生徒は募集されないままで終わった。

 衛生組合とその連合会

 県内各市町村には伝染病の予防機関として衛生組合が組織されたが、県当局はこれを国策的に運用するために改組充実させることにして、昭和一四年九月二九日に明治三一年発布以来ほとんど改められなかった「衛生組合設置規程」を改正した。主な改正点はこれまで大字単位で結成されていた衛生組合を市町村単位に併合させて区域内の戸主すべてを組合員とし、知事・警察署長・市町村長を指揮監督者としたことなどであった。事業は従来の衛生思想の普及、防疫、清潔法・消毒法の実施だけでなく、栄養改善、妊産婦及び乳幼児衛生、保健衛生施設の改善などが加えられて、主として保健方面に重点が置かれることになった。これら市町村衛生組合が組織されると警察署管内を単位とする連合会を組織し、さらに県単位の大連合会を結成することもうたわれていた(資近代4 四七二~四七三)。
 この規程で市町村に新衛生組合が設立された。松山市は昭和一四年一〇月二四日に市庁で発会式を挙げ、宮城遥拝や式辞祝辞の後、会費負担・規約の審議・役員選挙を行い、腸チフス予防注射施行の件、健康週間行事の件、定期清潔法施行の件などを討議して、銃後の病魔撲滅を申し合わせた。ついで県下一七警察署管内で衛生組合連合会の組織化が図られ、昭和一四年一一月の松山署管内衛生組合連合会発会を最後に管内の連合を完了した。松山警察署管内衛生組合連合会の創立会は一一月六日に温泉郡自治会館で開催され、来賓の村田県衛生課長をはじめ一市二〇か町村衛生組合長ら四〇数名が出席した。会は宮城・神宮遥拝の後、規約・予算の審議を行い、渡部松山署警察長などを役員に選んだ。ついで、県衛生課から提示された衛生組合の活動、衛生思想の普及徹底、伝
染病予防、恩賜財団済生会の救援、混砂米廃止に関する件などを協議し、一般民衆の衛生思想の普及を図るため病毒の早期発見予防に努めるなどの活動方針を決議している。
 県衛生課は、これら衛生組合連合会誕生に伴い一一月に県連合会を結成し警察部長豊島章太郎を会長に選んだ。翌一五年六月四日には第二回県衛生組合連合会総会を県会議事堂で開き、豊島会長以下署内連合会々長ら三五名が出席して一四年度会計事業報告と一五年度の会計事業計画を審議し、小冊子『衛生必携』の配布、年三回の会報発行、赤痢予防のための内服薬の分配などを決議した。
 政府や県当局が衛生組合を衛生報国のにない手として重視していたことは、県知事中村敬之進が昭和一六年五月三〇日に発した訓令で「高度国防国家建設上衛生組合ハ衛生諸般ノ施設ヲ実行シ将又自治衛生ヲ奨励セシムル点ニ於テ将来益々重要且必須ノ組織ナルヲ以テ、爾後之ヲ存置セシムルノミナラズ愈々強化セシメントス」と述べていることからも判明する。

 各種衛生関係委員会

 愛媛県では国是である健民健兵策をすすめるため、県庁内にいくつかの委員会が設けられ、知事を中心に国策遂行の指導督励に当たった。
 まず、昭和一三年国民体位向上委員会が設けられた。この委員会は昭和一二年三月に公表された「愛媛県国民体位向上対策実施要項」に沿ってその指導機関として生まれたものであり、知事(会長)・警察部長(副会長)・衛生課長・社会課長・県医師会長・県会議長・町村長会会長らが委員となって構成され、県民の健康増進・青少年の体力増強の実践・体力検査の励行・修練施設の充実・体位向上の啓蒙に関する事項を調査審議し、議決した事項の実施に対して指導督励することを任務とした。これは、中央における国民体力審議会の地方版といえるが、同一五年四月八日に「国民体力法」が公布されて以後委員会の重要性が増大した。さらに同一七年二月二一日国民体力法改正により国民体力管理の強化徹底を指令されてからはその責務が一層強まり、同一八年二月に健民特別指導委員会と改称して非常時体制に備えることになった。
 ついで昭和一六年一二月には愛媛県地方優生審査会が設けられた。これは国体明徴下の国民資質の向上という点から昭和一六年七月一日に施行された「国民優生法」によって国から設置を義務づけられた。同法は遺伝性の精神病・悪質な病的性格身体疾患にかかっている者に対し優生手術を行ってもよいと規定したが、万一間違いがあれば人権問題にかかわるので、地方長官は優生手術を行うべきか否かと諮問するために地方優生審査会を組織召集することを指示した。県当局は、昭和一六年八月二九日「国民優生法施行に関する諸件」を告示して、優生手術の申請者として松山脳病院・今治脳病院・赤十字支部病院・別子住友病院・宇和島市立病院・八幡浜市立病院・三島保健所の各病院長・所長を、優生手術を行う場所として赤十字支部病院・住友別子病院・宇和島市立病院・八幡浜市立病院を指定、申請を審査する機関として同年一二月二六日に優生審査会を組織して、知事・警察部長・厚生課長・検事正・裁判所長・赤十字支部病院長・医師会長からなる委員で構成することにした。
 昭和一七年七月には県下の予防対策及び各種の健康診断を統制指導するために愛媛県結核予防並びに集団検診委員会が設けられた。同年七月二一日告示の委員会規程によると、委員会は知事(会長)・警察部長(副会長)・衛生課長・保険課長・県医師会長・県会議長・町村長会会長・大政翼賛会県支部事務局長などによって構成され、結核予防撲滅の実践・結核予防施設の充実・結核予防の啓蒙に関する事項を審査し、議決した事項の実施に対して指導督励することを任務とした。同一七年一〇月には防空救護対策委員会が設定された。同委員会は、同年二月二五日制定の「戦時災害保護法」・「国民医療保護法」に従って防空救護の統制指揮に当たる機関で、知事・警察部長・庁内関係課長・赤十字支部病院長・医師会長・警防団関係者などが委員になった。

表4-1 宇和島保健所の事業一覧

表4-1 宇和島保健所の事業一覧