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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 学校衛生の発達とトラホーム予防

 学校衛生のあけぼの

 学校特に小学校は病原菌の抵抗力の弱い児童の集団生活の場であるだけに、学制以来種々の法令に防疫事項が明記された。すなわち、明治五年の「学制」第二一一章は「小学ニ入ルノ男女ハ種痘或ハ天然痘ヲ為シタルモノニ非レハ之ヲ許サス」と定めており、同一三年の「教育令」第四五条は「伝染病ニ罹ルモノハ学校ニ出入スルコトヲ得ス」とあり、同二三年の「小学校令」第一四条、第二三条では伝染病発生時の学校閉鎖・児童出席禁止などの規定がある。しかしこれらはいずれも学校衛生の初歩的段階の域を出なかった。明治二〇年代になると文部省は学校衛生にようやく力を入れ始め、明治二四年四月に「小学校設備準則」を制定、校地の立地条件・校具・設備などについて衛生上の見地から規制した。これに準じて愛媛県は、明治二五年三月一八日に「小学校設備規則」を布達、校地は衛生に害のない場所を選ぶこと、校舎は空気流通・採光を考慮すること、飲用水に注意することを指示した。ついで同三〇年四月二〇日には、文部省訓令に基づき「学校清潔法」を発して学校の清潔は衛生上ゆるがせにすることができないから、常時よく清潔に努めるよう告諭し、学校は毎日一回各校舎を清潔に掃除し土曜日ごとに大掃除をなし、また溝渠その他汚水の貯溜所は石灰を投入し、常に排泄を十分にずるように指令した(愛媛県教育史資料編一一八~一二〇ページ)。

 学校医の設置と学校医会の創設

 文部省は、明治三〇年三月一五日に「学生生徒身体検査規定」を通達、児童生徒の身体検査を四月と一〇月に実施すると指示した。翌三一年一月八日には身体検査をはじめ広く学校衛生に従事指導する役割りを持った学校医を置くことにして同年二月二六日に「学校医職務規程」を定め、愛媛県は三月五日にこれを各学校に伝達した。学校医の職務規程によると、学校医は毎月一回以上学校に赴いて、換気・採光・机腰掛・飲料水の良否・学校清潔方法実行の状況を視察し、毎年四月と一〇月に身長・体重・胸囲・体格・疾病などの身体検査を行う、疾病生徒の治療を必要とするときは学校長に申告する、伝染病発生の際は予防消毒方法を施行し学校の閉鎖を必要と認めるときは管理者学校長に申告するなどを職務内容とした。
 松山市は高等小学校・第一尋常小学校学校医を清水政則・第二尋常小学校を笠置達道、第三尋常小学校を成谷喜三郎の各医師に委嘱、三医師は毎年児童の身体検査を施行するほか時々登校して衛生上の注意を促した。この段階では、学校医の設置は強制ではなかったので、明治三四年時に県内小学校六〇三校のうち学校医設置校は八八校、大正元年時で五二四校のうち一〇四校であった。県学務課は「大正元年度愛媛県学事年報」の中で「町村ノ経済裕カナラズ又ハ適当ナル医師ヲ得ス若クハ之ヲ得ルモ通路遠ク定期身体検査等形式的視察臨校ニ属スルモノ尠カラザルハ頗ル遺憾トスル所ナリ」と嘆いた。大正九年二月の『愛媛教育』に掲載された伊予郡砥部小学校の学校衛生研究会の発表記録では、一般に学校衛生不振の原因として、学校医の学校衛生に対する責任観念が薄弱なため自然熱誠を欠いていること、学校職員と学校医が没交渉で両者の共同作業が行われていたいこと、学校医間に学校衛生に関する研究団体が少ないこと、学校医の待遇が悪いこと、町村における経費予算に学校衛生費の費目がないことなどを指摘した。砥部小学校の学校衛生研究会は、校医山下清太郎医師の指導で、「児童通学区域内に伝染病発生したるときは管理者は遅滞なく学校へ通知し、一方に於て予防方法を講じ直ちに衛生講話を学校にて行ふこと」「児童病欠の時は主治医より診断書を徴集し、必要なる日数の休養又は治療を受けしむること、」「新入学児童の身体検査を入学より二、三ヶ月前に行ひ、治療を要する病者は入学前に療し全治の上入学せしむること」「毎年四月身体検査前、家庭より過去一ヶ年内児童の家庭に於ける衛生上の容態に付きて詳細報告票を提出せしめて検査の結果を綜合し将来の注意事項を定むる参考材料となすこと」「煮沸方法に依らずして完全なる飲料水を得る様設備すること」などの「学校衛生上注意すべき諸問題」を作成してその実践に努めた。またトラホーム検査・寄生虫調査・口腔検査・耳鼻咽喉病調査・睡眠時間の調査などを行って統計をとって改善策を講じ、設備方面では救急室を設けて救急用薬品用具などを備えた。
 県学務課では、大正元年八月学校衛生に関する視察と調査研究のために学校衛生主事を置き、ついで校医の連携を図り学校衛生の共同研究を進めるために郡市単位の学校医会設立を奨励した。これに応じて大正九年五月には松山市学校医会が創立されたのを最初に、同一〇年一月までに温泉郡・今治市など二市一一郡に学校医会が設けられた。この郡市学校医会の上に大正一〇年一〇月二六日愛媛県学校医会が結成された。松山市農工銀行で開かれた創立総会では、会長に木村学校衛生主事を、副会長に清水政則・荒木佐太郎医師を選び、小学校児童をして衛生思想を涵養しこれを家庭にまで徹底させる方法などについて協議した。大正一二年時には小学校の学校医設置校も四七八校中三五七校となり、大正時代末期にはほぼ各校に学校医が配置された。昭和三年愛媛県学校医会第七回総会に出席した県知事尾崎勇次郎は、「本県における学校衛生も漸次改善進歩の跡を認め、学校診療に就て学校医の方が毎日又は隔日に出勤して新しく診療に尽され、或は自ら看護婦を巡遣して指導督励されつつあるものを多数聞き及んで居ります、又虚弱児童・精神薄弱児童の養護に関して特別学級の編成研究に熱心されつつあることを見聞いたしております、」と挨拶している。学校衛生も昭和時代初期には学校教育の一環として認知されたのである。

学校衛生の向上

 昭和四年三月一九日、文部省は学校衛生の振興を図るために「学校医幼稚園医及青年訓練所医令」を制定した。県当局はこれに基づき七月二六日に「学校医幼稚園医及青年訓練所医ニ関スル規程」を各学校幼稚園青年訓練所に布達した。この規程で、県内教育機関は原則として学校医を設置することになり、これまで各学校と学校医の契約に任せていた手当の基準も生徒数に応じて年末手当三〇円から一〇〇円と定められた。学校医の職務としては、四月・一〇月の定期身体検査を行うほか、乾湿・採光・換気・暖房などの適否、黒板・机・腰掛などの校地・建物・校具に関する衛生の良否、児童生徒の姿勢・坐席・疲労などの学業に及ぼす影響、正課・課外運動の程度方法、運動具の適否、身体検査結果の利用状況、伝染疾患、季節による疾病、欠席状況などの職員生徒児童の健康状態、病者・虚弱者・精神薄弱者の監督養護方法の適否と家庭との連絡、校地・校舎・設備並びに児童生徒の身体・被服・用具の清潔状態及びその方法の適否、飲料水の設備の適否などに注意することなどの内容が示された。これらの職務遂行のために学校は学校医の執務席を設け、身体検査用具・救急処置の材料・学校医執務日誌など必要な器具や書類を備えることが指令された(愛媛県教育史資料編六二七~六二九ページ)。また同四年一一月五日には「学校歯科医に関する規程」を発布して、公私立学校は学校歯科医を置くことができ、委嘱された歯科医は生徒児童の定期・臨時の歯牙検査並びに簡易な治療と口腔衛生に関する事項を取り扱うことを定めた(愛媛県教育史史料編六三〇~六三一ページ)。松山市などの小学校にこの年早速学校歯科医を委嘱した。
 昭和四年には「学校看護婦に関する件」の文部省訓令が発せられ学校看護婦設置を奨励したので、本県は一月二五日に「学校看護婦設置並執務に関する規程」を出し、学校には学校衛生に関する事務に従事させるため知事の認可を得て学校看護婦を置くことができるとした。同規程によると、学校看護婦は看護婦准看護婦の免許状を有する者を資格要件とし、学校長の監督を受け学校医の指揮に従って、学校内の簡単な傷痍疾病手当、身体検査の補助、学校伝染病予防処置、身体携帯品などの清潔検査、生徒児童の衛生監察、虚弱児の注意、校外教授遠足などの衛生事項の執務に従事し、毎月報務報告書を調整して学校医の検閲を受け学校長に提出することを職務とした(愛媛県教育史資料編六一三~六一四ページ)。この結果、昭和三年時に県下中小学校学校看護婦を置いた学校はわずか一〇校に過ぎなかったが、同一〇年には中等学校九・小学校三四校に増加した。しかし、この数は県全体の学校から見ればまだ微少であった。
 こうして制度上にせよ学校衛生の体制が整ったので、県や市町村当局は管轄内の学校に対し設備面での衛生、職員生徒児童幼児の健康状態調査、トラホームなど疾病の予防及び治療、身体虚弱者・精神薄弱者の監督養護などいろいろな面で学校衛生の向上促進を指示した。松山市は、昭和五年貧困児童・虚弱児童を対象に学校給食を実施する計画を立てたが、市内小学校長会から経費の点に困難をきたすこと、教育上弊害が生
ずることなどを理由に反対の声が上がったのでこれを取り止め、児童一般の健康増進を図るため月二回の健康診断を励行するかたわら、松山市学校医会の協力を得て身体虚弱児童の検診に留意、その方法として保護を要すべき児童の名簿を作製しその虚弱程度によって五等に分けてその保護方法を定め家庭と連絡して健康の増進を期した。

 トラホーム予防

 明治・大正・昭和初期を通じて学校衛生の重要事はトラホームの予防であった。明治三六年から四一年の松山市内小学校の受検眼児童一〇〇人に対する患者数は表3―9の通りであった。県都の学校でこの状態であったから農山村の学校の罹病率は一段と高かった。大正元年に松山市内の小学校が一六・八〇人の時、周桑郡の小学校は三〇・九一人であった。
 こうしたトラホームの蔓延に直面して、各学校は対策を講ずる必要に迫られた。松山第二尋常小学校は明治三六・三七年には市内で最大の不名誉な罹病者を持っていたので、笠置医師を学校医に委嘱すると共に望月眼科医に託して丁寧な検査と治療予防に努めた結果相当の成果をあげた。また西条高等小学校では明治三六年七月に眼病検査を実施したところ四七七人中一六四人の患者が発見されたので、その対策として身体衣服を清潔ならしめ、手指は日一回以上洗わせ爪は短かく切らせること、各自手拭を携帯せしめ物品貸借を禁ずること、毎日雑巾をもって机・教室を拭かせること、各教室では患者と健康者を区別すること、患者には
桃色の肩章を付けさせることなどを申し合わせるとともに患者の保護者にも家庭治療の注意書を配布した。
 県当局は、明治三六年八月一一日「トラホーム予防撲滅方法」を発し、「トラホームハ近来益々流行シ特ニ廃止スルトコロナカラントス、今ニシテ之力予防撲滅ノ策ヲ講セスンハ其害ノ及フトコロ殆ント測ルヘカラス、之ヲ小ニシテハ子弟勉学ノ憾ヲ誤ラシメテ教育上甚大ノ障害ヲ来シ、之ヲ大ニシテハ国家生産カニ莫大ナル損害ヲ来シ或ハ陸海軍ニ応スヘキ壮丁ニ影響ヲ来ス等国力消長ニ関係ヲ及ホス事尠少ナラス、依テ此際専ラ予防撲滅ニ努ムヘシ、」と郡市役所・町村役場・警察署に訓令した。その予防撲滅方法としては、市町村吏員は警察官・医師と協力して毎年二回以上所轄内を視察し、トラホーム患者の有無に注意し県庁に報告すること、患者を発見したときは速やかに医治を受けさせ赤貧者は救治の法を講ずること、徴兵適令一か年以前におけるトラホーム罹患に注意し徴兵検査までには全治を期すること、時々通俗衛生談話会を開催し予防思想を喚起すること、学校では予防治療心得を訓示し徹底させると共に常に家庭との連絡をとり父母に適当な注意を与えること、時々職員生徒の健康診断を行い患者のあるときは直ちに医治を受けさせ重症者は登校を停止すること、学校の患者は他の健康生徒と隔離し、その使用した椅子・机をはじめ接触したものは二〇倍石炭酸水で消毒すること、学校の清掃は毎回湿拭掃除を行い、手拭などは各自所持させることなどを指令した(資近代3 三一四~三一五)。
 ついで、明治四五年三月一三日には県知事伊澤多喜男名で「トラホーム予防に関する件の告諭」を発し、壮丁は一〇〇人中一五人、生徒児童は一〇〇人中二〇人以上の患者を算するとその実況を挙げ「本病ハ一時的流行ノ疾患ト異り多クハ慢性ニシテ不知不識ノ間ニ健眼者ヲ侵襲スルヲ以テ、其ノ危害ノ甚タ恐ルヘキニ比シ世人ノ注意ヲ惹クコト極メテ薄キ状況ナルハ恂ニ憂慮ニ堪サル処ナリ」と訓示して、その病状及び予防方法を指令した。これによると、トラホームの原因はまだ判明しないが一種の病原体が患者の眼脂または涙液中に存在して健康眼を侵すものと認められるものであると解説、その予防方法について、健眼者には家屋内を常に清潔にし眼辺に触れるときはあらかじめ手指を洗浄すること、洗面器はなるべく自分のものを使用し共同手拭などを使用しないこと、過度に眼を疲労させないこと、患者には初期治療を励行し睡眠を適度に取り、眼を刺戟しないようにするとともに他人に伝染させないよう心掛けることなどの注意を与え、学校では大正元年から必ず年一回以上の検診を励行することにした。
 こうした予防処置により、県内学校のトラホーム児童生徒は次第に減少し、大正元年一〇月の一斉検診で患者百分比は小学校が二二・〇四、中等学校で八・一〇であったのが、大正三年一〇月時には小学校一八・九四、中等学校七・九三に下がった。

 トラホーム予防法

 政府はトラホームが産業・教育・国防上に及ぼす影響が大きいことにかんがみ、大正八年三月二七日「トラホーム予防法」を制定して、医師・衛生官吏の患者及びその保護者に対する消毒など予防方法を指示する義務、トラホーム患者の治療を受ける義務、都道府県知事の検診の施行、トラホーム患者に対する接客業務の停止、学校など多数集合する場所についての病毒伝播の媒介となるべき事項の制限・禁止、行政官庁の命に服さないものは五〇円以下の罰金に処するなどとした。
 県当局では、これに基づき大正九年二月二四日に「トラホーム予防法施行細則」を布達、検診を受ける者は徴兵検査一年前の適齢者・産婆看護婦・宿屋料理屋などの従事者、芸娼妓などの客に接する者、学校幼稚園の児童生徒・職工徒弟などで、府県は治療費の四分の一、予防費の六分の一を支出することなどを定めた(資社会経済下七〇二~七〇三)。
これらの法規に従い、大正一〇年一〇月一日~五日松山署管内でトラホーム検診を行ったところ一、七四四人の受診者のうち一五三人の患者が発見されたが、検診日に受検しない者が多かったので患者の実態をつかむことは困難であった。県は大正一四年一〇月二〇日にトラホーム予防法施行細則を一部改正して、届け出なく欠席した者の処罰規定を設けた。また、治療法を患者個々に交付して医師の治療を受ける都度認印を得ることとし、一般にあっては警察官・村吏・学校では教員がこれを時々点検して治療を督励する方法をとることにした。

 寄生虫駆除の放任

 学校衛生ではトラホーム予防とともに寄生虫駆除が大きな問題であった。しかし寄生虫はトラホームのように表面には現れず、それほど人命にかかわりなく、かえって虫が居ないと害があると信ずる者も多かったから、各学校とも駆除に熱心でなかった。伊予郡砥部小学校では、大正六年児童五〇〇人について糞便検査を実施したところ蛔虫保持者が八〇%を超えた。山下校医と教員は各部落に出掛けて寄生虫の弊害と駆虫の必要を力説して保護者を啓蒙、天草産の海人草を取り寄せて学校の大釜で煎じ保虫者全員に五勺ずつ飲ませた。その結果、駆虫後の検査では随分保虫者が少なくなり、腹痛での欠席や早引きする者が減じ一般に顔色紅を帯び元気になったという。この砥部小学校の隣りに位置する千里小学校でも、山下医師の指導を得て蛔虫保有者一四七人のうち一二○人に海人草を飲ませて七五七匹の虫を駆除した。これらの成果は、大正一一年一月の『愛媛教育』に掲載されて学校関係者の注目をひいた。糞便検査を実施する学校は先進校に刺戟されて次第に増加したが、徹底した駆虫を行うところはまだ少なかった。
 一般には大正八年以来、県衛生課が消化器病者の多い地域や徴兵合格率の不良な町村を選んで、寄生虫予防模範地区に指定したが、これも保虫者の調査段階にとどまり強力な駆除は実施されなかった。

表3-9 明治三六~四一年松山市内小学校児童一〇〇人中トラホーム患者比

表3-9 明治三六~四一年松山市内小学校児童一〇〇人中トラホーム患者比