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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 労働衛生の開始

 工場法と愛媛県工場寄宿舎取締規則

 わが国の産業革命は日清・日露戦争前後に遂行されたが、それは先進資本主義諸国に追いつき追い越せという至上命令の下に展開されただけに、労働者は労働時間の延長、婦人少年労働者の酷使、労働密度の強化という苛酷な労働条件を課せられた。太陽の光をさえぎられ、塵埃と粉末の飛び交う不完全な衛生設備の中で、長時間時には徹夜で作業を強いられることは、労働者ことに女工・幼少年職工の肉体をむしばんだ。
 労働者保護のための「工場法」が成立したのは明治四四年であったが、資本家・企業主の強い抵抗や大正政変など社会情勢の急激な変動によって実施が遅れ、大正五年九月にようやく施行された。この法の適用を受ける工場は、常時一五人以上の職工を使用するもの、事業の性質危険なきものまたは有害のおそれあるもので、こうした工場に対しては一二歳未満の就業の禁止と一五歳未満の者・女子・病者・産婦の就業について各種の制限が加えられた。また行政官庁は工場・付属建物などの安全や衛生風紀などの監督を行うことができ、職工の業務上の負傷疾病または死亡については工業主は本人またはその遺族を扶助しなければならないとされた。
 県内の工場法適用工場は大正五年二八三、同九年四六〇であった。県工場課は「大正一〇年県政事務引継書」の中で「講習会などを開いて工場法に関する知識の啓蒙指導につとめ、一般に法令を周知したため施行は概して良好であり、軽微な事項の外違反は少ない」と報告している。しかし実情は、労働時間を強要する工場が多く、倉敷紡績はじめ大半の紡績工場は合法的に午前○時から正午、正午から午後九時一〇分の二交代制を実施していたから、労働者殊に女工の健康維持は望めなかった。職工の寄宿舎は、概して設備構造が不備で、納屋に近い屋舎の一枚の畳に二人ほど詰め込み、軽微な結核病舎と一般職工を同居させる場合もあり、衛生上風紀上問題が多かった。
 愛媛県は、大正九年七月二〇日に「工場寄宿舎取締規則」を定めて、工場法の適用を受ける工場主に寄宿舎の改善を求めた。この規則では、工場主が寄宿舎を設けるときは寄宿舎の構造・仕様書・図面・建設物の配置並びに四隣の図面・寄宿舎取締規程を添付して知事に願い出て許可を得ることが必要とされ、工場が落成した時は県の検査を受け、許可が下りなければ使用できなかった。知事が建築する条件として採光換気が完全であること、五尺五寸以上の通路を設けること、床上端は地盤より一尺五寸を下がってはならない、非常口を設けること、寝室は天井をつけその高さは床上端より八尺以上とし、寝具及び携帯品を蔵置するに足る押入れ・棚などを設け、収容人員は一坪につき一人の割合とすること、病室及び特別病室を設けること、保温・消火装置を完全にすること、女子を収容する寄宿舎には裁縫室・結髪室を設け、浴室・洗面場・便所は男女に区別すること、炊事場・食堂は採光換気を完全にし常に清潔を保持して防蠅・防鼠の設備をすること、洗濯場・物干場・下駄箱を整備することなど三〇か条にわたり規制した。
 工場寄宿舎取締規則を定めたことについて武田県工場課長は、「本県における現在の工場法適用工場はその数四六〇で、その内職工寄宿舎を持つものは二五一である。これらの寄宿舎は、納屋同然の建築物を使用するものが多く、職工の保健は無論のこと風紀上各種の弊害を惹き起こしている。このような状態では多数の職工を害し、国家社会に影響をおよぼすことになるので、県当局では寄宿舎の構造設備を統一し、衛生・風紀・危害防止・教育施設に関する詳細な事項を規定して、職工の保健の増進、風紀の改善・危害の防止・教育の向上を企図して、人道上遺憾なきを期するとともに生産能率の増進をはかろうとして取締規則の立案に着手した」と語っている(大正九・九・二三付愛媛新報)。当時こうした取締規則は愛媛県の外に長野県が制定していただけで、馬渡俊雄知事の英断といえるが、県財界からは反対の声があがった。県工場研究会連合会長田内栄三郎は、「寄宿舎取締規則のごときは如何にも突然で各方面とも狼狽しているようだ。県では常に工場主に向って他人の物でもタダ取ったのか何かのように労働者の待遇を好くしなければならぬとか、資本家はよろしくデモクラシーにならねばならぬとか盛んに現代思想を振廻しながら、県では知らしむべからず、よらしむべしとの思想から行政権の発動などすこぶる専制的な独裁的なことをやっている。南予方面には随分乱暴な寄宿舎があるということだが、およそ常識で判断しても非衛生な事の出来る筈のものではない。たとえ松山地方人の目から見て多少非衛生であると思われても、その土地土地の気候とか風俗などの関係で少しもそれが非衛生となっていない場合も多いのだ。何事も画一的に行けるものではない。その土地の事情や民風の異なるにしたがい、それに適合する施設経営をしなければならない。こうした県令を発布するときには実情を詳細に調査研究し、ことに工場研究会のごとき機関がある以上、いちおう協議してしかる後に発布すべきものは発布し実施すべきものは実施してこそ初めて法の価値も現れる道理だと思う」(昭和九・一一・五付愛媛新報)と、県当局のやり方はあまりにも不合理で画一的であるとしてはげしく論難した。
 工場研究会は、一一月一八、一九日に会合を開いて工場寄宿舎取締規則に対する態度を協議、将来新設する寄宿舎は取締規則に従って設計するにしても、既設の寄宿舎については現状のままで黙認するよう知事に陳情することに決した。県は、相手が資本家であり目下業界不況の時でもあるので、結局取締規則の励行を見合わせ、なるべくこの標準に適合するよう改造させるといった線で妥協しなければならなかった。しかし、この規則によって一応の基準が作られたことは以後の寄宿舎建築や改造に大きな規制条件となったから、保健衛生・危害防止・風紀の方面において労働者の生活改善を促進することになった。なお、工場寄宿舎取締規則は大正一四年六月の内務省令「工場寄宿舎取締令」の発布に伴い廃止された。

女工の結核

 製糸・紡績女工の結核疾患は、明治三〇年代の農商務省報告『職工事情』や横山源之助の『日本之下層社会』、大正末期の細井和喜蔵著『女工哀史』などを見るまでもなく、大きな社会問題となっていた。農村では「紡績に行くと肺病になる」という声が高まっていたが、明治四〇年の『愛媛県衛生統計』によると、今治綿業の女工出身地である越智郡は全県女子肺病死亡者八五四人のうち一八三人を数え、ついで松山市内紡績会社の供給源である温泉郡一三九人・松山市九二人と、この三郡市で全体の四割近くを占めていた。
 当時の愛媛県には「海南新聞」と「愛媛新報」のニ新聞が報道をきそっていたが、やや革新的で在野性の強い愛媛新報が労働者の生活記事をよく掲載し、女工の結核なども取り上げた。たとえば、大正八年四月二五日付同紙「話題一転」の中で、「我が松山の特産物たり地方随一の財産たる絣工場に使役せられて居る女工を健康状態如何と云ふに、百名に対する二十名は咽喉・肺・腸・肛門等の結核患者であるそうな、此等患者の中病院や医師に就きて服薬治療して居る者は僅かに十名で総患者の半数しかないのである、他の半数は病気に罹ったまま放ったらかしであるから堪まらない、病は日を逐うて増進する一方であるばかりでなく、同じ工場に肩を列べて勤務して居る朋輩にも盛んに伝染して行く道理で、之では日一日と患者が増加する」と、伊予絣工場に結核女工が多いことを暴露した。また、大正一〇年九月三日付同紙「桐一葉」で「紡績会社を評して或人が〝緩慢なる殺人機〟と言ったが、全く紡績女工ほど惨めな哀れなものはない、全国の紡績女工死亡率から統計すると、女工の寿命は平均三年であるということだ、彼等が昼夜を分たずに十時間から二十時間の労働に服し、綿塵を吸い込んで仆れる数は驚くべきものである、彼等と雖も永遠に紡績女工をしようとは思はず、嫁入仕度とか其他ホンの暫くの間稼ぐつもりで行ったものが、一旦生活に入るとよもやよもやで引摺られ、気の付いた時分にはもはやとり返しの付かぬ病弱者となっているのが常だ、病気と言っても多くは肺結核であるが、中には黴毒に感染する者があり、近年各地共著しく黴毒を受ける女工が多くなったそうだ」と報じた。県会でも、大正八年の通常県会で中川源太郎(周桑郡)が罹病帰郷した女工が県内結核蔓延の大きな感染源であるとして県当局に実態調査を求めるなど、女工の結核がしばしば問題になった。
 県当局は県会要求や世論に動かされて、県内外の工場で働いて後帰郷した旧職工の衛生状態の調査に乗り出し、表3―7のような結果をまとめた。
 この実態調査で予想以上に結核職工の多いことを認識した県工場課は、工場での健康診断の励行を訴え、幾度かの交渉の後、大正一四年の春から身長・体重・胸囲・背柱・呼吸器・心臓疾患・伝染性皮膚病・
眼疾などの細目にわたって年二回健康診断を実行することにした。工場主側も世論の批判を浴びて、工場治療所・医局を設けるようになり、大正八年時には住友病院と倉敷紡績松山工場・近江帆布八幡浜工場・東洋紡績川之石工場・明治製錬佐島製錬所に治療所が設置された(表3―8)。
 大正一五年七月からは「健康保険法」が施行され、労働衛生は一層の推進をみた。

表3-7 大正九年~11年六月職工衛生状態調査表

表3-7 大正九年~11年六月職工衛生状態調査表


表3-8 愛媛県内五工場付属治療所

表3-8 愛媛県内五工場付属治療所