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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

七 性病の蔓延と検梅

 遊郭の復活と検梅の実施

 明治五年一〇月二日、政府は御一新による四民平等の立場から人身売買を禁止し、奴隷的境遇に置かれていた芸娼妓の解放を宣言した。しかし娼妓は解放されたものの正業につく術もなく、たちまち私娼になるものが続出した。これを見た元の楼主は手を尽して公娼の復活を働きかけたから、私娼の取り締まりに手を焼いていた県当局は、政府の黙認するままに、明治六年八月「芸娼妓営業仮規則」を布達して、望みにより芸娼妓を欲する者は金三円の免許料と月二円の賦金を払って鑑札を受ければ営業を許すことにし、娼妓営業個所として三津・道後・今治を指定した。遊郭営業が公許されると道後にはたちまち四〇軒近くの茶屋ができたが、同一〇年三月には二四軒の貸座敷営業業者が宝厳寺下の敷地に移って松ヶ枝町遊郭が誕生した。
 遊郭が復活すると花街が梅毒など花柳病の温床になるだけに、県当局は明治七年一二万二七日布達の「貸座敷芸娼妓営業取締仮規則」の中で、娼妓が梅毒にかかった時は自ら貸座敷取締人に届け出て休業するよう諭達し、貸座敷営業者にも病症のある娼妓は営業を差し止め、養生中は賦金を取り立ててはならないと指令した(資近代1 二三九~二四一)。この仮規則は明治八年一二万二八日に改正され、娼妓は、毎月三回収養館で梅毒診断を受けるよう指示された(資近代1 四一七~四一九)。しかし娼妓や抱え主は検査で花柳病を摘発されることを恐れて、県の指令を無視する者が多かった。
 明治八年一〇月収養館医員は連名で梅毒院の設立を県に建白し、内務省も娼妓営業を許可する地に検梅所を設けることを奨励したので、県令岩村高俊はこれに応えて明治九年九月八日道後祝谷に駆梅院を設立した。「駆梅院仮規則」によると、診察時限は毎日午前八時、収養館の医員が交代で出診する、看護一切と投薬は常駐の看護長が当直医の指示で担理する、入院料は二〇銭を定価とし、入院中は朋輩・身寄りの者であっても必ず取り締まりの保証書を持参しなければ面会を許さない、患者院内での高談放歌や遊戯などをしないよう注意するなどの規定があった。
 駆梅院では道後・三津の娼妓に対し毎月六回程度の検梅を実施した。検梅による結果は、予想以上に梅毒患者が多いことが判明した。つまり、明治一三年受検延人員三、九二四人に対し五三人、同一四年は八、一〇〇人に対し一八一人、同一五年には六、六二四人に対し一三九人、同一六年には六、七三九人に対し一六六人の罹病者が発見されたので、駆梅院は入院の強制処置をとって治療に努めた。その結果、梅毒患者は明治一七年には六、九〇九人に対し四八人と減少した。
 当時、四国地方を巡察した内務省書記長から四国四県には梅毒が多いことを指摘されて愛媛県は検梅を強化する必要に迫られ、明治一八年一〇月七日「娼妓梅毒検査規則」を発布した。同規則は、娼妓は毎週一回必ず梅毒有無の検査を受け、当日理由なく不参することを許さない、検査の上病毒ある者はただちに入院治療し病毒のない者は証明書を交付する、娼妓みずから感染の徴ありと感じたときは臨時検査を受ける、以上の規則に違背した者は三〇円以内の過料または六か月以内の徴戒に処するなどを規定した(資近代2 三五五~三五七)。この梅毒検査規則は明治二八年三月二三日に改正され、毎週一回の定期検疹や病毒者の強制入院など大筋の内容は変わらなかったが、貸座敷営業地ごとに検梅所を設置すること、罰則をゆるめて二日以上五日以下の拘留または五〇銭以上一円五〇銭以下の科料にしたことなどが新しい条項であった(資近代3 一一二~一一三)。

 娼妓取締規則

 政府は、各県に公娼制度が復活してくるとこれを県の規制のままで放任しておくこともできなくなったので、明治三三年一〇月二日「娼妓取締規則」を制定した。これにより娼妓名簿に登録しない者は娼妓稼ぎができないこと、娼妓は県の規定に従って健康診断を受けること、疾病のある娼妓は治癒の上健康診断を受けて全治証明書を受けなければ稼業に就くことができないことになった。
 この規則に基づき、県当局は同年一一月三〇日に従来の娼妓梅毒検査規則などの公娼関係法令を廃止し、「娼妓取締規則施行細則」を発布して、娼妓は毎週二回健康診断を受ける、入院を命ぜられた時はそれを拒むことができない、入院中は病院長の承認がなければ他人と接見してはならない、稼業中は健康診断証を携帯する、これらの条項に違背した者は一〇日以下の拘留または一円九五銭以下の科料に処するなどと定めた(資近代3 三二五~三三六)。また娼妓検査は梅毒以外の性病についても実施することになったため、駆梅院は保健病院と改称され、一一月二九日には「保健病院院制」も定められた(資近代3 三〇九~三一〇)。このころ、三津浜遊郭が住吉町から稲荷新地に移転して道後松ヶ枝町と並ぶ活況を呈していたので三津出張所の強化も図られ、さらに同四〇年からは北条町安居島遊郭にも出張所が設けられた。明治四四年八月八日付「海南新聞」は連載「医者と病院」で道後保健病院を取り上げ、「病院としては其位置は至極結構の場所で即ち道後村大字祝谷の高地であって道後警察分署の裏手にある、事務員の許可を受けて病室の内部を見たが、イヤ早驚いた訳で此れでも人間が起伏する所であろうか、罪を犯して懲罰を受ける罪人ですら明治の聖代斯る不潔な不衛生的の場所へは収容はせられまい、此病院内の最も広い病室と云ふのが二階の十二畳の間であるが、西洋風を真似た土蔵造りの様な暑くるしい家で三尺角許りの窓が僅かに四つある計り、天井も極めて低く少し背の高い人だと頭がつかへる位である、其上畳の不潔と来たら実に話にならぬ、此の房へ収容してある患者が総計十人で、約畳一枚に一人宛の割合となって居る、而かも其の患者が縞柄も分らぬ様に汚れ腐った前餅の様な布団ヘゴロリゴロリと転がって居る様な二目と見られたものではない、一寸顔を差入れると忽ち一種の異臭が鼻を突くので、急に嘔吐を催す様な気がする」と、その訪問を載せている。
 表2―11は、保健病院と出張所が検査した結果に基づく明治三三年から同四二年までの娼妓の梅毒の実態である。この表の梅毒患者は仮性局部発生も含めているので、やや多きに失するきらいはあるが、依然として梅毒が衰えていないことを示している。

 売淫取締の不徹底

 公娼の場合は検梅の強制と梅毒罹患中は客をとらせないことで、その蔓延を不十分ながら阻止できたが、私娼の横行は始末が悪かった。県当局は明治九年三月一七日に「売淫罰則」を発布して、密売淫の初犯は七円、再犯以上は一三円の罰金を科し、これを払えない者には五〇日以内、再犯は一〇〇日以内の苦役に処する、密売淫の抱主媒介者は初犯は一〇円以内、再犯以上は二〇円以内の罰金を科するなどとした(資近代1 四一九~四二〇)。また同じ日、各区戸長に売淫の疑いある婦女は県庁に届け出るよう指令した。政府も同三二年六月制定の「行政執行法」第三条で密淫売の罪を犯した者に対して健康診断を行い、必要な時は入院治療させることにした。しかし、密売淫の実態はつかみにくく、性病にかからねば一人前でないといった日本社会の風潮は、性病をますます蔓延させた。明治四二年に県衛生課が各警察署に命じて性病患者数を調査させたところ、表2―12のような結果が出た。
 この表面に現れた数の外に医療を受けない患者を合算すれば予想以上に多い性病患者が存することになるので、県衛生課は警察署に対し密売淫取り締まりの強化を指令し、各地の青年団などに地方の風紀改善に意を用いるよう希望するといった通牒を発したが、大した効果はなかった。また明治末期にはヨードカリや水銀剤の外にユールリヒ氏砒素剤サルバルサン(第六〇六号)の特効薬も普及しはじめていた。しかし注射一回が二〇円という高価なものであったから、一般の患者には手が出ず、新聞広告などから怪しげな内服薬を求める者も多かったので、性病の蔓延防止は容易でなかった。

表2-11 明治三三~四二年公娼梅毒検査表

表2-11 明治三三~四二年公娼梅毒検査表


表2-12 明治四二年愛媛県内性病患者数

表2-12 明治四二年愛媛県内性病患者数