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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

はじめに

 愛媛県史四〇巻のうち、部門史「社会経済」は、農林商工等の経済史四巻と、社会史分野二巻の六巻及び資料編二巻で構成されている。
 社会史部門のうち、『社会経済5社会』には、概説・愛媛の県民性・農村と都市・海外移住・労働・社会福祉が収められている。本巻は、『社会経済6社会』に当たり、保健衛生・災害・婦人問題・部落問題で構成されている。
 「人間は社会的動物である」といわれ、歴史の叙述に当たって、社会史的視点が必要なことはいうまでもない。社会史研究は、分野別の研究については、近年、研究活動も活発であり、多くの業績もみられるようになった。しかし、あまりにも政治・経済と切り離し難い関係もあって、総合的・通史的社会史については、体系化が進んでいるとは言い得ない状態にあるようである。
 此の度の県史の社会史部門に於ても、前記のごとく、総合的に取り扱うことをせず、社会史の各分野を独立的に取り上げて叙述するという方法を取っている。
 「愛媛の保健衛生」については、近現代を重点的に取り上げ、近世以前については、江戸時代の伊予の防疫と、医師・医療にふれる程度とした。
 今日の愛媛県政は、「安定した生活と快適な環境づくり」の一環として、健康の保持増進に努めている。昭和六〇年には「愛媛県地域保健医療基本計画」が策定され、生涯健康づくりの推進、医療体制の整備充実に取り組んでいる。我が国では、今日すでに、コレラ・ぺスト・疱瘡などの危険な伝染病はほとんど絶え、流行を繰り返した赤痢・チフス等も予防接種の徹底、浄化防疫体制の完備などで、さほど恐ろしい疫病ではなくなった。永く不治の病と恐れられた結核性疾患も、ツ反・BCG接種や抗生物質の発達で急速に減少した。かくして、我が国の保健衛生は、制度的にも学問的にも先進国の水準に達し、医療の発達で、今や世界一の長寿国になった。ここに至るまでには、明治以後の保健衛生の制度的学問的進歩発達と、疾病との闘いの長い歴史があった。
 全国的に衛生行政が開始されたのは、近代になってからであり、明治七年には早くも、欧米の衛生行政制度に範をとった「医制」が発布され、本県でもこれを参考に衛生行政の基礎づくりが進められた。その後、各府県に衛生課が設置され、まず、近代的な防疫と検疫体制の確立が目指された。一方では、医師・薬剤師の制度体系が整えられた。大正・昭和初期になると、各種慢性疾患予防法規が次々に制定されていった。また、急速な資本主義発達を支えるため、国民の健康増進・体位向上を図る工場・労働者関係法や、母子関係法も制定された。
 昭和一〇年代になると、国家拡大政策のため、健民健兵策がとられ、保健所が設置され、「国民健康法」「国民優生法」「国民健康保険法」などの諸施策がとられた。
 戦後は、福祉行政の一環としての保健衛生が推進され、前述のような発展整備をみるに至った。本章では、これらの推移を、近代以前の防疫と医療、明治期の衛生と防疫、大正・昭和初期の衛生と伝染病対策、戦時下の保健衛生と健民健兵政策、戦後の保健衛生と医療の発展に分けて、その歴史を記述している。
 「愛媛の災害―災害と防災・救助」は、明治初年から現代まで、愛媛県下での主要な自然災害と、それに対処した罹災救助・復旧体制とその実態、さらには、防災体制とその整備状況について概説したものである。
 愛媛県の自然は、変化に富む気候環境、複雑で急峻な地形、もろい地質構造など自然災害を誘発しやすい条件にあり、人々は豊かな自然の恩恵を授かる一方で、厳しい自然と対峙して来たのである。災害は、前述の自然環境から風水害、旱害が多発し、古来、公・民ともにその対策に苦労を重ねてきたが、本章では、江戸時代までの災害と対策は割愛し、前述の如く明治以後を重点的に記述した。
 一般に、大災害への対応については、地方団体のみでは困難であり、国レベルでの防災体制の整備が基礎的要件である。明治期においては、全般的に未熟で、主として臨時的、応急的な災害救助体制の整備に止まっていた。大正・昭和前期には、災害復旧制度が進捗し、水害防除を旨とする本格的な治水事業も始まった。
 戦後、再生日本の諸改革で災害対策も改善されたが、昭和三六年一一月「災害対策基本法」の制定により、ここに総合性、計画性を有し広域的かつ恒久的な防災体制が確立した。その他、多目的ダムの建設が、単に防災的役割のみにとどまらず、旱害防止など水資源活用に多大の役割を果たすなど、関連施策の推進と相まって、防災体制の整備は格段の進展を遂げ、大災害発生の減少をみるに至っている。災害資料として、『愛媛県議会史』、『愛媛県警察史』が整備されており、特に、防災・警備、復旧予算関係など史料としてすぐれたものがある。
 「愛媛の婦人問題」については、明治時代から現代までを取りあげて記述した。愛媛の婦人が明治維新後、どのように生きて来たかは、女性史として追求するのが妥当であるが、制約もありテーマをしぼることとした。
 明治・大正期においては、キリスト教主義や良妻賢母を目指す女学校を原点とした女子教育の発展、社交的団体から出発し、家庭婦人への啓蒙のために設立されていく各種婦人会、女子青年のための処女会活動、また、底辺に生きる芸娼妓を取りあげた。日露戦争前に有志婦人により結成された愛国婦人会、地域的に発達した主婦会・婦人会などの統合の過程をみた。
 昭和に入って戦火がきびしくなると、昭和一一年国防婦人会県本部が結成され、国策にそって活動した。昭和一七年には、大日本婦人会として大政翼賛会の傘下に入った。また、夢多き乙女たちも学窓を離れ軍需工場にかり出され苦難の時代を過ごした。かくして、廃娼運動・婦人参政権獲得運動の達成は戦後をまたねばならなかった。
 戦中の行政主導の活動の所産として雑誌「愛媛社会事業」があり、当時の研究資料として貴重なものである。
 戦後、平等権を獲得した婦人たちは、昭和二二年の地方選挙で二人の婦人市議を当選させて意気を示した。
 婦人会活動も活発化し、県連合婦人会・農協婦人部の発足をみた。戦争の犠牲は母子の上に重く、その解決の努力も多年にわたって続けられた。解放の悲願であった売春禁止法も昭和三二年に施行され、法規的、社会的にも婦人の地位の向上の努力が続けられている。
 「愛媛の部落問題」は、明治時代に始まり、戦前までを取りあげて記述してある。部落問題の完全解決は、現代社会における最も重要かつ緊急な課題であり、被差別部落の人々の熱い解放意欲に立脚した地域改善対策事業や、すべての国民が取り組む同和教育は、本県でも特に強力に推進されている。
 本章では、被差別部落の歴史を、単に差別されてきた事実や経緯を羅列することにとどまらないよう留意し、特に、部落解放の展望を切り開くという視点で、(一)その時代や社会が部落差別をした理由、(二)差別に対して被差別部落の人々が抵抗し闘ってきだ筋道、(三)今日、部落問題を完全解決するためになすべき課題、を解明すべく努力した。
 愛媛県内に存在する関係諸資料には、時代や地域による偏りがあったが、部落問題史の研究には、先人のすぐれた業績が多くあり、本章でも、極力日本史全体の流れや、全国的な部落史の展開の中に位置づけて、これを補充することとした。
 また、時間的制約等から戦後の解放運動は、これを割愛することとした。解放運動が急進展し成果のあがった戦後史については、愛媛県同和対策協議会が、昭和六一年『愛媛の部落解放史』を刊行されており、このすぐれた部落解放史の紹介をもって補うこととしたい。
 『社会経済5社会』『社会経済6社会』を通じて、本県の社会史の各分野について記述してきた。未収録の分野もあり、内容的にも不充分な点があると思う。通史との関連、紙幅の問題等のあったことで御理解をいただくと共に、大方の御叱正をいただければ幸いである。多忙な日常にもかかわらず、執筆を完成された委員諸氏に、心から敬意と感謝を表すものである。

               社会経済Ⅲ部会長 井 原 康 男