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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 昭和二〇年代の社会福祉①

 社会福祉施策の推移

 終戦直後の国民生活は窮乏し、それは「たけのこ生活」に象徴されている。昭和二〇年一二月の厚生省調査では要保護者数は全国で八〇〇万人と見込まれ、政府はGHQの指導のもとに「生活困窮者緊急生活援護要綱」を閣議決定して、戦災者・引揚者・離職者・復員軍人・軍人家族・留守家族・傷痍軍人・一般生活困窮者の保護に努めた。また政府は「生活保護法」、「民生委員令」、「児童福祉法」、「身体障害者福祉法」、「生活保護法」など社会福祉(昭和二六年の「社会福祉事業法」公布までは、社会事業の時代であるといわれている)に関する諸法制を整え、民生の安定を図る一方、児童福祉委員会、中央傷痍者保護対策委員会などを設置し、昭和二五年一月には「社会事業基本法案要綱」を策定して戦後の社会福祉事業の基本方針を示した。この基本法案要綱は、昭和二六年三月公布の「社会福祉事業法」として法制化され、社会福祉審議会、福祉事務所、社会福祉法人、社会福祉事業、社会福祉協議会などの規定を盛り込み、積極的な福祉の増進体制が図られることになった。
 終戦後、本県でも生活困窮者は激増し、困窮の程度も極めて深刻であった。大戦末期の空襲で松山、今治、宇和島、八幡浜、新居浜、西条の各市が被害を受けたが、空襲の激しかった松山、今治、宇和島の三市では旧市街地のほとんどが焼失し、罹災者は約一三万人に達した。また外地からの引揚者も約六万三、八〇〇名(昭和二二年九月末まで)にのぼり、その内、約四八%は住むべき家がなかった。県は政府の「生活困窮者緊急生活援助要綱」に基づき引揚者援護事業として県下六六か所に収容施設を新設または改修して、約四、六〇〇人分の住宅を確保するとともに、衣食の配給も行った。昭和二二年六月には、国際連合救済復興機構から送られた食糧・衣料・医薬品などの救援物資(ララ物資)の配給を受け、県下の社会事業施設へ給与された。ララ物資給与はその後も継続され、昭和二五年度は県下二五四施設(一万五、四〇一名)に衣料・食糧・日用品が配給された。
 昭和二六年五月愛媛県知事に就任した久松定武は、福祉三法といわれる「生活保護法」、「児童福祉法」、「身体障害者福祉法」をはじめ「社会福祉事業法」など多くの社会福祉関連法令を支柱として、社会福祉の増進に努めるとともに社会調査結果を基本資料にして、社会的弱者に対する援護施設や保護施設、児童福祉施設、身体障害者更生援護施設の強化を図った。この頃、新しい社会福祉理念をもった専任の社会福祉事業担当者の養成を図る一方、現任者の再教育にも力が入れられ、愛媛県民生部は、昭和二七年七月県内の社会福祉関係者を集めて社会福祉講座を開いた。講座では、社会福祉の目的、社会福祉事業の意義・対象・方法、社会福祉事業の歴史的背景、社会福祉事業の形態、現代社会福祉事業の構成、厚生予算、施設、関係法規のほか、愛媛県における厚生行政の特別な施策や行政機構についても講義がなされた。このうち、愛媛県における厚生行政の特別な施策では、厚生奨学資金制度、社会事業金庫制度、社会事業養成給費生派遣制度、社会福祉教育、児童文化の向上と施設の拡充、問題児童の保護育成、子供クラブ指導者養成(VYS)、生活保護査察指導の強化、社会福祉事業施設の拡充強化、社会事業館建設、婦人世帯職業指導をあげていた。
 こうした中で、愛媛県身体障害者更生相談所開所(昭和二六年六月一日、松山市中一万町の県盲人会館内)、県下六市一二郡に福祉事務所開設(同年一〇月一日)、愛媛県身体障害者更生指導所開所(同二七年一〇月一〇日 松山市山越町)、県立整肢療護園開設(同年一二月二三日 今治市別宮町)、県立保育専門学校開校(昭和二八年五月一五日 松山市中歩行町)、母子相談員制度発足(同年五月一六日)、愛媛県青少年問題協議会設置(同年一〇月)、母子寮の増設など種々の施設や制度が整えられた。また民間では、昭和二六年七月一〇日愛媛県社会福祉協議会が発足し、県下の民間社会福祉事業組織を結集して社会福祉の増進を図るようになった。
 昭和二八年二月から八月にかけて、本県民生部長松友孟は国際連合社会福祉奨学生として、スエーデン・ノルウェー・フィンランド・イギリスなどヨーロッパ各国を歴訪し、各国の社会福祉事情を視察した。帰朝後、県下の社会福祉関係者に福祉先進国の風土と民主主義、市民生活、社会保障費の位置など、それぞれの実情を伝え、本県の社会福祉の進むべき道を示唆した。

 戦争犠牲者への授産活動

 三度の空襲で焦土と化した今治市では、昭和二〇年八月以降、沼田恒夫市長の下で罹災者の収容・救護・住宅対策に全力を尽くし、民生安定が図られていた。今治綿業界の宮崎研一・阿部和男らは、綿業再建の一策として二一年三月、四国興業株式会社内に今治衣料職業補導所を開設した。これは退役軍人や傷痍軍人などの職業訓練・生活維持と有能な綿業技術者の養成とを兼ねるもので、東京に本部を置く軍人遺族・傷痍軍人保護並びに退職軍人職業補導協会から融資を受けていた。当時、GHQの軍国主義排除の方針は旧軍人に関する援護措置廃止の方向にあったため、今治衣料職業補導所事業は旧軍人援護事業とみなされ、開設直後から存続が危ぶまれていた。このため宮崎・阿部は補導所の存続を訴えて県庁への陳情を行う一方、今治市方面委員の小澤峰一らと図って、方面委員共済会の経営する今治市授業場(昭和八年一二月、今治市大正通に設置)との合併を考え、昭和二一年六月一日、今治授産協会を設立した。外地引揚者・空襲罹災者など生活困窮者の援護事業を前面に出し、復員軍人などの職業補導事業をも内包するものであった。
 今治授産協会の事務所・事業所は市内天保山の旧広島陸軍被服支廠今治出張所の一部を充てた。会長に宮崎研一、専務理事に小澤峰一、ほかに理事者(九名)を選んだ。事業はもと善通寺の被服庫配属将校であった原田梅市を工場長として技術指導員(四名)などを中心に進められた。幸にも被服廠時代の軍服・軍靴製造用のミシンが数十台、皮革・生地などの原材料が残っていたため、授産事業は衣料品の製作・修理・改造、布靴の製作及び各種靴修理、下駄の鼻緒・竹製品の製作からバケツ等の板金技術の指導にも及んだ。年間延べ人員五万四、八〇〇名の製作した雑貨類は一般に販売され二一年度は一九二万余円の事業収入を得て、七一万余円が被授産者へ俸給として支出された。
 授産協会は二一年度に愛媛県より二万円の助成金を受け、また伊豫合同銀行・財団法人職業補導協会からも融資四〇万円を得て事業の拡大を図り、昭和二二年度は事業収入六五九万余円、従業員俸給三一〇万余円を見込んでいた。二二年八月、財団法人の認可を受け、同年度の「社会事業団体表彰綴」(愛媛県庁蔵)の中にその名が見える。しかし、戦後の経済混乱の中で、計画通りには資金・資材は集まらず、特に電力危機のために事業運営は困難を極め、従業員の俸給増額にも窮する状態に陥っていった。今治授産協会はいつまで存続したか明確ではないが、戦後、県内でいも早く産業復興と社会福祉を目的に協会が設立され、数年、事業が続いていたことは意義深いことである。
 松山地方共同授産場は昭和二一年一〇月一日財団法人職業補導協会愛媛県支部の直営事業として発足した。松山市では終戦まもない昭和二一年四月、星光久が個人名義で財団法人助済会より三万円の融資を受けて、戦災者、引揚者、戦死者遺族及び未亡人の生活救済のための繊維加工事業を開始し、組織を固めて愛媛県更生協会の結成を急いでいた。しかし助済会の融資は短期間であるため、返還後の事業の継続が危ぶまれていた。こうした状況下、昭和二一年七月一〇日、職業補導協会愛媛県支部が、知事青木重臣を支部長とし、県職業安定課主任秋山正親を事務長として発足し、星が進めていた授産事業は職業補導協会愛媛県支部に移管された。
 職業補導協会県支部が授産事業に乗り出すと、従来の繊維加工部(松山市萱町四丁目)のほかに木竹加工部(松山市萱町)、農畜産加工部、食品加工部(以上松山市樽味町)が加えられ、更に昭和二二年一〇月からは萱町に雑品紙加工部も新設された。これら共同授産場の施設は広いもので一八坪、狭いもので七坪半と小規模ながら終戦直後の混乱した社会で生活困窮に陥っていた人々に生活の糧を与える役割を果たしてきた。
 昭和二二年六月の調査によると、繊維加工部では、施設に通勤して作業する者九名、居宅で作業する者五八名、計六七名が、下駄の鼻緒(年産六万足)、お手玉(年産一〇万個)、布製人形(年産二千個)を製作し、年間二九万三、三〇〇円の売上高を目標にしていた。木竹加工部は通勤者六名のみであったが、小物雑家具類を中心に一四万五、一二〇円の売上げを目標としていた。二八名が就労した農畜産加工部では蛙皮や一般獣皮をなめして、蟇口、財布、ハンドバック、手提袋、草履を製作した。また食品加工部には一一名が通勤して花鰹製造、漬物製造を行い、雑品紙加工部では、作業員六名によって紙製日用品、文房具、玩具などが製作されていた。
 宇和島市民共済会の授産場は、昭和二〇年六月一九日と同二九日の空襲で、その大半を焼失した。しかし昭和二一年五月、参議院議員に当選した市民共済会理事長中平常太郎の努力で、和霊町授産場を再建し、引揚者や戦災を受けた人々及び失業者の生業を保護すべく、授産事業を再開した。授産種目は木履と鼻緒の製造で、昭和二一年度末には、引揚者九名、戦災者六七名、未復員者家族三七名が授産場で作業を行い、他に戦災者一〇名、未復員者家族九名が自宅で木履や鼻緒の製造を行っていた。
 戦争犠牲者のみならず種々の理由で生活困窮に陥った人々への授産事業も、昭和二〇年代~三〇年代の初めにかけて活発化した。表3―9には当時の授産場一覧を示している。このうち北宇和郡広見町の愛治授産場は地域の生活困窮者の自立更生を図る目的で藁加工や製糸を行い、昭和三六年からは養豚やスカーフ加工を授産種目に加え、経営の安定と就労者への賃金を上昇させた。また西条市氷見授産場でも昭和二二年三月に地域の困窮者を対象に、竹製品や藁加工品の製造を主とする授産事業を開始した。しかし経営が思うに任せず、昭和三八年一〇月には西条市氷見福祉協会を設立してここに経営を移管し、施設の改善を図る一方、軍手を主体とする各種手袋を製造、就労者五〇余名によって月産三千ダースの手袋が製造されるようになった。

 社会事業金庫と厚生奨学資金

 母子世帯に対しては生業資金の貸し付け制度があり、また「生活保護法」による生業扶助の適用もあったが、これだけでは十分ではなかった。このため県当局は、昭和二三年一二月の「婦人世帯保護対策要綱」の中で社会事業金庫の設置を明記した。社会事業金庫は生活困窮者のうち主として婦人世帯主や身体障害者などに生業資金を貸し付けて、その自立を助長し社会福祉を増進するために開始された制度で、昭和二三年度の共同募金配分金や借入金を併せ一、五〇〇万円を運転資金として昭和二四年度から貸し付けを開始した。貸し付け条件は一人当たり三万円以内とし、貸し付け期間は三年間以内、利率は年六%で月賦返済もしくは半年賦返済であったが、五万円以内を五年間貸し付ける特例措置も講じられた。初年度は八九二件、一世帯平均二万五、〇〇〇円の貸し付けを希望、総申し込み金額は社会事業金庫の運転資金をはるかに超える二、二三六万四、〇〇〇円に達した。このため書類審査を行って婦人世帯主三四四名、身体障害者一四名、計三五八名に平均一万七、〇〇〇円を貸し付けざるを得ず、昭和二五年度以降も四〇〇件~六〇〇件の申し込みがあったが、実際に資金貸し付けが行われたのはそのうちの五~六割であった。これらの八五%は婦人世帯主であり残り一五%は身体障害者であった。郡市別の貸し付け累計は表3―10に示している。
 昭和二五年九月末の調査によると、融資された生業資金の使用例は、日用品・学用品・青果物の販売業を営む資金とするもの九四件、衣料品加工・裁縫・編物による生業の資金七六件、以下、養鶏六二件、養兎五五件、養豚三〇件、食品加工二四件、緬羊飼育二一件、飲食業一七件となっており、このほか農産加工、海産加工、貸本、理容業などによる生業維持あるいは新規の開業資金とした例もあった。昭和二七年五月に資金借受者七五三名について実施した調査では、事業が順調に進んでいる者六〇%、事業を廃止または変更した者二〇%、事業不振ではあるが継続中の者二〇%となっており、全体としては社会事業金庫制度の目的は達成されていた。
 母子家庭に対する各種資金貸し付け制度は、昭和二八年に国民金融公庫による事業資金貸し付け制度の開始、「母子福祉資金の貸付等に関する法律」の施行によって、一層拡充が図られただめ、社会事業金庫による生業資金貸し付けは、昭和二八年度以後は身体障害者を対象として運営された。
 厚生奨学資金制度は、昭和二六年一二月二八日、愛媛県厚生奨学資金運営委員会の発足とともに実行に移された。当時、母子家庭の子弟の中には経済的理由のために高等学校への進学または在学が困難になっているものが相当数に及ぶと推定された。これらの子弟が進んで教育を受ける機会を与え、進学の道をひらくことによって、母子家庭の更生を図ろうとするねらいをもってこの制度が発足した。貸付額は一人毎月五〇〇円以内で無利息とし、学校卒業後六か月を経過した日から五年以内に半年賦で返還するもので、昭和二六年度には、一三〇名の希望者に対し九二名、同二七年度上半期は二二九名の希望者中、一九七名に奨学資金が貸し付けられた。これら貸し付けの対象となった者のうち、母子家庭の子弟が九割を占めていた。

 社会調査の実施

 社会福祉分野における関係法令が公布され、これら諸法令に基づく社会福祉行政の進展が迫られたにもかかわらず、戦後の社会混乱の中で福祉行政推進に供する資料はほとんど作られていなかった。愛媛県民生部では、貧困がどんな形で存在しているか、その原因はどこにあるのか、その家族構成はどうなっているのか、ボーダーラインの世帯はどれくらいあるものかなどはっきりと数的に把握する必要があるとして、昭和二六年一月から三月にかけて県下の社会調査を行った。この調査は全国に先がけて本県が最初に実施したため、厚生省は当時の社会情勢にてらして時宜を得た企画であり、社会福祉行政史上特筆すべきことと賛辞を送るとともに、厚生省統計調査部計析課長菱垣従尹を調査の指導者に充て、本県の社会調査を支援した。
 調査は、基礎調査及び家庭調査(昭和二六年一月二二日より二九日まで実施)、生計調査(同年三月一日より三月三一日まで実施)の二つに分かれ、民生部福祉課が主管課となり、地方事務所の協力のもとに市町村長を班長とする地区調査班を編成して実施された。基礎調査の結果は表3―11に示しているが、この基礎調査を基に全県推計の各種の生活困窮世帯数も算出された。これによると県下の種別世帯の内訳は、一般世帯が八三・八%、引揚者世帯六・三%、被保護世帯四・五%、母子世帯三・六%、戦死者遺族世帯三・三%などとなっており、戦争や事故により一家の支柱を失った世帯や引揚者世帯の多くが生活保護法の適用を受けている実態が明らかになるとともに、例えば母子世帯は戦死者遺族であり、また被保護世帯でもあるというように生活困窮の諸要因が複合していることも分析された。調査項目には、「生業資金を必要とするか」の特別調査項目があったが、「必要あり」とする者は全世帯の九・二%であるが、引揚者世帯では一九・七%、母子世帯では一五・九%となっており、外地から〝裸″同様で引き揚げた人々がこれから出直そうとする意欲、家庭の支えとなるべき主人を失った婦人が勤労しようとする意欲をみせていた。
 生計調査も被調査数約一、六〇〇世帯で実施された。これは各世帯が昭和二六年三月一日より同月末日までの一か月間「おぼえ帳」に毎日の現金現物の出し入れを記入し、調査員が原則として毎日戸別訪問し、「おぼえ帳」から県が決めた「生計簿」に必要事項を転記する方法で進められた。集められた調査票は、松山市、今治市など六市を市部、上浮穴郡川瀬村(現久万町)、北宇和郡立間村(現吉田町)など二六町村を農山村部、越智郡盛口村(現上浦町)、伊予郡下灘村(現双海町)など一五町村を農漁村部、宇摩郡金生町(現川之江市)、西宇和郡川之石町など一七町村をその他の郡部として、四種類の地域別にまとめられ、各世帯ごとの生計状態が、厚生省統計調査部計析課員一一名の手によって解析された。
 昭和二七年三月、愛媛県はこれらの調査結果報告書を出した。このうち、世帯別にみた就労状況についての項では、被保護世帯の五一%が無職であることが目をひき、次いで身体障者二五・四%、母子世帯二〇・三%も無職となっており、一般世帯の七・六%に比べてかなり高い数値を示していた。これら不就労の原因は、被保護家庭では老衰三九・八%、傷病一八・三%、家事のため就労不能一八・七%であり、調査の分析では、単に被保護世帯に無職が多いという現象だけをとらえるのではなく、その理由や社会背景をも明らかにしていた。
 愛媛県民生部は、この社会調査結果を「正しい行政や適切な施策を行うための基礎資料」として活用し、社会福祉行政を前進させた。

 母子福祉活動の萌芽

 昭和二一年の「生活保護法」(この「生活保護法」は昭和二五年五月に全面改正された)の制定に伴い、「母子保護法」(昭和一二年公布)は廃止された。このため、生活に苦しむ母子家庭は一般の生活困窮者と同じく「生活保護法」による救済措置を受けるようになった。昭和二三年一月の調査によると、県下に四、〇〇二世帯の生活保護を受ける「女世帯」があり、このうち約半数は夫の戦死あるいは戦病死による離別や未復員によるものであった(昭和二四年~二八年「母子援護綴」)。男性に比べて女性の賃金体系が低い我が国々は、母子家庭を支える母親は長時間労働や職業と家事の両立、子供の教育、住宅問題など生活上の諸問題をかかえていたから、「女世帯主」や福祉関係者は母子福祉を独立した一分野として位置づけることを望んで運動した。
 こうした母子家庭の保護救済を図るため、愛媛県民生部社会課は、昭和二四年二月一九日愛媛県婦人更生委員会を発足させ、前年の一二月に作成した愛媛県「婦人世帯保護対策要綱」に基づく活動を開始した。保護対策要綱は、(1)住宅のない婦人世帯へは公共住宅へ優先的に入居措置をとり、母子寮の増設を図る。(2)病弱または子供を養育するために働くことができない婦人で、生活保護を受けていない者に対して、県は市町村や民生委員を指導して生活保護法に許された最大限の措置を講じる。(3)寡婦年金制度、社会事業金庫などの創設を図る。(4)婦人世帯の共助組織を育成し、婦人身上相談所を設置する。以上四項目を骨子とし、物心両面からの婦人世帯保護策が打ち出されていた。
 愛媛県婦人更生委員会の委員は永井立教、船田操、合田正良、田坂ユキら民生委員や学識経験者、計一六名からなり、委員長には県婦人連合会長の則内ウラ、副委員長には松山婦人民主同盟の杉村絹子が互選された。婦人更生委員会は、婦人世帯に関する諸般の更生施策を研究し、各郡市の婦人更生委員の指導育成を図るほか、知事の諮問機関としての性格も有していた。また委員会には、生活指導部・生活保護部・生業指導部の三部会が置かれ、それぞれ専門委員を配置して婦人世帯の保護更生に当たった。特に生業指導部では、主に婦人民生委員や市町村婦人会などの協力によって、都市部では小売業、農村部では養鶏や養兎など婦人世帯に適した職業を奨励し、必要な資金を同年四月に発足した社会事業金庫から借り出す世話を行った。
 昭和二五年度、県下に一万一、九一一名の婦人世帯主がおり、その子供は二万五、二三一名であった。このうち養育すべき子供を有する婦人世帯主に対して、婦人更生委員会は家庭内でできる仕事の斡旋や保育所の増設運動にも取り組むとともに、婦人身上相談所での相談活動をも進めた。この年、本県の母子福祉対策費は一九七万余円で、その内訳は、婦人更生委員会費(市町村婦人更生会の指導啓発費を含む)三五万円、生業指導誌配布費八万円、無料法律相談事業費九万余円、市町村での結婚相談事業助成費一五万円、遺族実態調査費二四万余円、遺族慰問費五万余円、遺族法外援護費七〇万円などであった。
 県婦人更生委員会や県社会課の主導のもと、昭和二四年一〇月までには県下各地に婦人更生会が発足し、その数は一八五団体となった(表3―12参照)。これらの中には東宇和郡宇和町更生婦人会のように、県婦人更生委員会が設置されるより前に活動を開始しているものもあった。三好ツヤ子、児玉姫子、清水チヱらを中心とする宇和町更生婦人会の発足は昭和二二年三月であった。会員は戦争未亡人を主体に一般の未亡人も合わせて六〇名たらずで出発し、役員宅を持ち回りで会場として会合を重ね、境遇を同じくする人々が互いにいたわり励ましあって将来の生きる道を求めた(「宇和町誌」)。
 昭和二六年ごろの県下各婦人更生会の具体的活動を概述すると、越智郡では渦浦村(現吉海町)を最初に小西村(現大西町)、清水村(現今治市)など一六町村で会が組織され、会員は共同募金活動への協力のほか、祭礼、学校の運動会、バザーなどに協力して売店を設けるなどして活動資金集めに努め、講演会、内職や副業の開拓、生活改善講習会などを主催した。また村内で戦没者などの慰霊祭がある時は会員が積極的に活躍した。富田村(現今治市)では内職副業の斡旋に会長以下役員が奔走し、菊間町では演劇会を主催して資金を募り、困窮者に年末の餅代を配った。西伯方村(現伯方町)では婦人更生会中に養鶏部を設け、一三世帯がこれに従事して更生に成功、社会福祉協議会の援助も受けて母子家庭の慰安娯楽活動にも努めていた。
 周桑郡では一五町村の婦人更生会を結集して昭和二五年五月に郡連合会が誕生していた。郡内の会員数は八二六名で、連合会では内職の斡旋や社会事業金庫利用の手助けをする一方、三か月に一度程度は各町村婦人更生会の役員会を開いて情報交換の場とした。生業指導面では、養鶏、洗剤の販売、製縄などを行うほか、地域性を考慮して、国安村・吉井村(ともに現東予市)などの和紙の産地では未亡人を紙漉工として雇用斡旋に努めるとともに、山間部では製紙原料の三椏や楮の皮剥ぎ業を奨励した。
 宇和島市婦人更生会は昭和二四年一月に結成され、昭和二六年一二月には六八七名の会員を有していた。この会は昭和二五年四月、知事の認可を受けて生活協同組合を設立し、一般商品を販売していたが成績は不振であった。昭和二六年八月からは会員が夜間の理髪講習を受けて、自らの生活安定の道を開こうと努力した。
 このように、一家の大黒柱として母子家庭を支えてきた母親たちは、昼は子弟の養育や家事のほかにも内職や副業をもち、夜は各種の講習会に参加して技術の習得に努めながら、次第に県組織の結成へと動いてきた。
 昭和二六年一一月一九日、松山市道後の愛媛母子寮に県下各市・各郡の婦人更生会代表が集まり愛媛県婦人更生連合会の結成式をあげた。会長には松山母子寮寮母の梅岡富栄、副会長には周桑郡中川村(現丹原町)の越智もとよが就任した。県連組織結成当初は、県当局の援助を得て内職の普及を主な活動とし、幹部は他県の内職事情を視察する一方、中央団体との連けいを深めながら、県内組織の育成にも努めた。

 身体障害者福祉の萌芽

 戦前における我が国の身体障害者援護事業は主に傷痍軍人をその対象としてきたが、昭和二四年一二月公布の「身体障害者福祉法」により、視覚障害、聴覚・平衡機能障害、音声機能・言語機能障害、肢体不自由、心臓・腎臓・呼吸器の機能障害を有する人々を対象として、種々の福祉増進策がとられるようになった。「身体障害者福祉法」では、行政機関が身体障害者の更生を援助し、更生に必要な保護を行い、生活の安定に寄与すること、身体障害者は自ら障害を克服し、すみやかに社会経済活動に参与することができるよう努めることなどを明確にする一方、都道府県は各福祉事務所に身体障害者福祉司(ケースワーカー)を置いて、相談指導や更生援護に当たるよう義務づけた。また、身体障害者が各種の援護を受けるために必要な身体障害者手帳を交付され、補聴器・義眼・義肢などの補装具の交付、更生医療の給付、施設援護などの事業も行われるようになった。なお、一八歳未満の身体障害児は昭和二二年一二月公布の「児童福祉法」によって各種の福祉措置が図られ、肢体不自由児施設や養護施設へ入所することができるようになっていた。
 愛媛県では、昭和二五年四月一八日「身体障害者福祉法施行細則」(資社経下四三七・四三八)を公布し、同年七月一八日には「愛媛県立身体障害者更生援護施設設置規則」を定めて、身体障害者の福祉事業に乗り出した。すなわち、視力障害者に按摩や針灸術を教授する県立松山光明寮、聴覚障害者に筆耕講習や授産を行う県立松山聾唖福祉寮及び同付設授産場(本節第三項八七七~八七九ページ参照)、身体障害者の更生に必要な医学的、心理学的、職能的判定を行う県身体障害者更生相談所(昭和二六年六月一日開所)、肢体不自由者に宿泊を提供し、補装具の製作・修理を行う県立松山更生寮、肢体不自由者に時計修理、ラジオ組み立てなどの職業技能を授け、自立更生を図る県身体障害者更生指導所(昭和二七年一〇月一〇日開所)など種々の援護施設が松山市内に設置された。
 身体障害者福祉行政を円滑に推進するため、愛媛県身体障害者福祉審議会も昭和二五年七月に発足した。審議会では、身体障害者に対する交通機関の運賃割引の徹底、更生援護施設の増設や内容の拡充、身体障害者手帳の交付促進、身体障害者の自主的福祉団体の育成などが審議された。
 昭和二六年の実態調査によると、本県の身体障害者数は、一般身体障害者一万四、五七三人、戦傷病による身体障害者二、一五八名、計一万六、七三一人となっており、このうち、手帳被交付者数は昭和二五年度四、五八七名、同二六年度一、六〇〇名、計六、一八七名であった。障害の内訳は、肢体不自由五七・七%、視覚障害二五・八%、聴覚障害一一・二%、言語障害五・七%であり、障害の程度が重度とされる人は約三三%で、他は更生援護の方法次第では健常者同様の社会経済的活動ができるとされた。
 身体障害者の福祉団体は、昭和二七年現在で、愛媛県盲人協会、愛媛県聾唖協会、愛媛県身体障害者団体連合会(昭和二六年一一月、傷痍軍人が中心となって結成)などがあり、それぞれ郡市単位に、協生会・友愛会・更生会・福祉協会などの名称で支部をもっていた。各団体はその後、県身体障害者福祉団体連合協議会を結成し、昭和二八年五月二八日、県及び松山市と共催で愛媛県肢体不自由者大会を開催した。大会では職業更生と経済確立、税制上の優遇措置、更生医療の拡充、第八回国民体育大会会場での売店設置と自転車預り所の設置(自転車預りを業務とし、その収入を団体の活動資金とする)など七項目の要望を決議した。

 児童福祉事業の萌芽

 昭和二三年一月「児童福祉法」が施行された。これは終戦後の生活難から我が子の面倒を十分にはみきれない保護者の存在や孤児・浮浪児の増加に対応したもので、一八歳未満の児童と妊産婦を対象とし、新日本の将来を託すべき児童の福祉を積極的に推進しようとするものであった。また昭和二六年五月には「児童憲章」も制定され、「児童は人として尊ばれる、児童は社会の一員として重んぜられる、児童はよい環境のなかで育てられる」の理念のもと、児童の健全育成が社会の共同責任で推進されることになった。
 本県では昭和二三年一月、民生部に児童課を新設し、同年四月からは児童福祉行政の諮問機関として愛媛県児童福祉審議会を設置し、知事の諮問に応じて児童や妊産婦の福祉向上に関する事項を調査審議し、答申した。昭和二〇年代の主要審議事項は、浮浪児根絶対策、肢体不自由児の検診、児童憲章普及会結成と普及対策、紙芝居業者の指導、子供クラブ・母親クラブの育成指導などであり、児童文化の向上、青少年の保護育成、保育所の給食対策に関しては専門委員も置かれていた。昭和二三年五月「児童福祉法施行細則」(資社経下四三五)が定められ、児童福祉司、児童相談所、福祉事務所、保健所、民生児童委員が緊密な連絡を保ちながら、それぞれの役割分担を遂行できる体制を整えるとともに、里親制度、保母試験制度についても規定した。
 昭和二八年一〇月一日、児童の健全育成と県民福祉の向上を図る目的で松山市に道後動物園が設置され、県児童課がこれを所管することとなった。園では、県下の子供たちが小遣いを寄せあって購入したインド象の「愛子」が人気の中心であった。また県獣指定のにっぽんかわうそを保護繁殖のため飼育(特別天然記念物指定前)した時期もあった。
 昭和二三年六月一日、「愛媛県立中央児童相談所設置条例」(資社経下四三七)が施行され、この日から愛媛慈恵会の建物の一部に間借りした愛媛県立中央児童相談所が、業務を開始した。児童相談所は「児童福祉法」によって設置が義務づけられているもので、児童に関するすべての相談に応じ、児童及びその家庭について必要な調査並びに医学的、心理学的、教育学的、社会学的及び精神衛生上の判定や指導を行い、また保護者のいない児童、保護者に監護させることが不適当な児童には「一時保護」を行うほか、児童の特質に応じ乳児院、養護施設、教護院など児童福祉施設への入所措置、里親及び保護受託者(職親)への委託をも行う児童福祉推進の中枢機関である。
 昭和二四年八月一日、松山市西堀端町に新庁舎が完成して中央児童相談所はここへ移転した。また同二六年八月三日には宇和島市に南予児童相談所、同二七年一〇月一日には新居浜市に東予児童相談所が新設され、三相談所がそれぞれ管轄区域を分担して、きめ細かな事業が展開されるようになった。当時は、所長以下、相談措置係、判定係、一時保護係、庶務会計係が置かれ、児童福祉司も、昭和三〇年度には、中央児童相談所に五名、南予児童相談所に二名、東予児童相談所に三名が配置されていた。これら児童福祉司は、相談措置係や判定係などの職員とやや性格を異にし、当初は児童相談所とは別の独立機関として位置づけられたケースワーカーであった。これは児童福祉司が各種の専門機関に左右されない独自の活動を進めるための措置であり、彼らは児童相談所を拠点にして活動し、孤児、貧困児、要教護児、精神薄弱児、盲聾児、肢体不自由児などの個別指導を行う一方、子供会や母親クラブには指導者として出席した。また青少年育成協議会、児童委員協議会、肢体不自由児検診、PTAなどの会合にも出席して、児童福祉理念の啓発や児童を取り巻く環境の改善にも努力したが、後には児童相談所の機構に編入され、今日に至っている。
 児童相談所の相談件数は、昭和二四年八三六件、同二九年三、七二一件、同二九年七、四七三件と上昇を続け、担当者は多忙をきわめた。相談内容も開設当時は戦災孤児、浮浪児、不良少年などの保護に関するものが主であったが、戦後の混乱が落ち着きをみせ、児童福祉思想が定着し始めた昭和三〇年代には、児童の適性相談、しつけ相談など教育的相談が半数近くを占めた。これら相談に対する措置も昭和三九年度は、福祉施設への入所や児童福祉司の指導を要するものは一割弱とその比率が減少し、逆に助言指導によって問題が解決する軽易な事例が増加した(図3―3参照)。
 県では、こうした相談内容の多様化に対応させるため、昭和三九年度には県下の各市及び県事務所(地方局)内に家庭児童相談室を設置し、専門の家庭相談員が、児童のしつけや家庭内の比較的軽易な相談に応じる制度を発足させた。なお、中央児童相談所には昭和四一年四月一日より精神薄弱者更生相談所を併設し、同年一一月一五日、庁舎を松山市御幸町に移転した。
 里親制度は「児童福祉法」に基づくもので、本県でも昭和二三年度より開始した。これは、保護者がいないなど家庭環境に恵まれない児童を引き取って、家庭的雰囲気の中で養育しようと希望する人のうち、県児童福祉審議会が適当と認める篤志家に児童養育を委託する制度で、昭和二三年度は一三名の里親が登録され、六名の里子が委託された。その後も関係者の努力でこうした人々が増加し、昭和三〇年度は里親登録者三三四名、里子数は一九八名となったが、近年は里親・里子とも減少し養護施設へ入所する児童が増えている。
 昭和二六年一〇月の「児童福祉法」改正に伴い、新たに保護受託者制度が発足した。これは職親制度とも呼ばれ、一定の年令に達したため、養護施設などを退所しなければならない「年長児童」(義務教育終了者)を、自己の家庭に預かるか又は自己のもとに通わせて、独立自活に必要な職業を身につけるまで世話をするものである。県内では昭和二七年度に八人の職親が登録されたが、委託児童はなく、昭和三〇年度も二四名の職親に対し委託児童一名という状態であった。
 このほか短期里親制度も昭和四八年度から本県独自の事業として実施され、今日に及んでいる。これは養護施設入所児を対象に、年三回、一回七日前後の期間で里親に児童を委託する制度で、家庭環境と愛情に裏付けられた精神的援助を与えようとするものである。

 民生委員制度の発足と世帯更生運動

 社会福祉事業において民生委員の果たす役割は極めて大きい。昭和二一年九月「生活保護法」の公布に併せて「民生委員令」も公布され、大正期以来の方面委員制度は廃止された。民生委員は厚生大臣の委嘱を受け、生活保護の実施に伴い市町村長の補助機関として制度化されたが、昭和二二年一二月の「児童福祉法」によって児童委員をも兼務することになった。昭和二三年七月、「民生委員令」を強化して「民生委員法」が制定された。これにより、新生の民生委員は社会奉仕の精神で個別援助と社会福祉の増進に努めることとなり、担当地域内の一般居住者や要保護者の社会調査、要保護者の保護指導、社会福祉施設との連絡、関係行政機関の業務協力など広範な福祉分野の第一線で活動するようになった。
 昭和二三年度、愛媛県では一、六五〇名の民生委員が委嘱されていた(表3―13参照)。これら民生委員は日夜地域の福祉活動に携わる一方、各市町村ごとに民生委員協議会を設けて生活困窮者の保護指導について協議し、また県下民生委員大会を私開催して社会福祉増進の道を協議した。特に新居郡中萩町(現新居浜市)では、老人世帯や婦人世帯で住宅難に悩んでいる人々の問題を解決しようとして、一二名の民生委員が昭和二四年七月愛護寮を建設した。この施設は木造平屋二棟四室からなるものであったが、改築される家の古材を民生委員が譲り受け、また各委員が自宅から畳・トタン板・大工道具・釘に至るまで種々の材料を持ち寄って築き上げた手づくりの社会福祉施設であった。
 県下の生活困窮者の中で「生活保護法」による保護を受けている人数は、昭和二三年度が三万四、一五八人、同二五年度は四万一、〇七五人、同二七年度には四万五、六三七人(戦後四〇年間の最高人数)となり、生活保護費も一億五千万円、三億三千万円、五億三千万円と上昇した。こうした状況下にあって、生活困窮者が困窮の度を強め、被保護者になることを未然に防止する予防的援護と自立更生を促進しようとする動きが民生委員の中から起こった。昭和二七年四月、愛媛県社会福祉協議会の中に民生委員部会(昭和三六年四月発足の愛媛県民生児童委員協議会の前身)が生まれ、県下の民生委員はこれに結集した。県社会福祉協議会民生委員部会は、昭和二八年一月、前年八月の全国民生委員大会での実践申し合わせ決議事項である「民生委員一人一世帯更生運動」を、本県でも推進していくことを決め、被保護世帯・要保護世帯の自立更生をめざした「世帯更生運動実施要綱」を定めた。
 世帯更生の一大運動は、県下約二、四〇〇名の民生委員を総動員して、約一万五千の被保護世帯のうち更生指導により自立更生が可能であると思われる世帯を選定して行われた。民生委員相互の連けいはいうまでもなく、児童福祉司、保護司、社会福祉主事、行政機関、教育関係者などの協力のもと、更生指導実施計画に基づいて、世帯更生運動は進められた。川之江市の婦人民生委員は、生活保護を受ける父子家庭の自立更生を受け持ち、自家の畑から持参した野菜を材料に女児とともに夕食の仕度をしながら、病弱の世帯主の相談にのって更生意欲を持たせた。また西宇和郡三瓶町の男子民生委員は男児二人をかかえる母子世帯を受け持ち、更生資金の借り入れを世話した。このため世帯主は養豚・養鶏などを始めるとともに日用品の行商に出るなどして更生し、長男の中学卒業とともに生活保護費受給を辞退した。こうした民生委員の奉仕的精神に基づく世帯更生運動により、昭和二七年度以降、県下の被生活保護員数は減少傾向に入った。
 この世帯更生運動は全国的に展開され、運動の過程で世帯更生資金貸し付け制度の創設運動が高まったため、政府は昭和三〇年にこの制度を発足させ、今日も続いている。なお、世帯更生運動は昭和三六年より、「しあわせを高める運動」と改称されている。

 養護施設の再建と新設

 昭和二〇年七月の空襲により、本県の社会事業施設も被害を受けた。特に愛媛慈恵会や宇和島済美保育園のような明治・大正期以来の施設も、全焼もしくはその大半を焼失した。家がない、衣服がない、食糧がないという状態に陥った愛媛慈恵会では、関係者の努力にもかかわらず、収容者八名中五名が死亡した。同会の「創立八〇周年記念誌」には当時の様子を回顧して、「すべてが激変した情況の中で当時の悲惨な社会状態を端的に象徴したものは戦災孤児、浮浪児、そしてぞくぞくと帰って来た引揚孤児であった。『笑いを失った放心状態の引揚孤児』、全く骨と皮という当時の子供達が思い出される。(中略)職員が払った努力奮闘は大変なもので、涙なくして聞かれない多くの秘話が八〇年の歴史の中にかくされている」と記されている。こうした中で、昭和二二年一一月同会理事長仲田包寛らの努力で寮舎の一部を再建し、ララ物資やユニセフ救援物資の寄贈を受けて窮場をしのぎ、その後恩賜財団慶福会や宮内庁の御下賜金なども得て経営を続けた。昭和二六年・同二八年にも寮舎を新築落成させるとともに、要保護児童を数多く収容し、昭和三一年一月には、小学校校長を歴任し同会教務部長であった奥田芳行の努力で、慈恵会内に特殊学級(松山市立御幸中学校分教室)が設置された。なお、愛媛慈恵会は昭和四〇年一一月、松山市旭町から同市松末町に新築移転した。なお、昭和二八年一〇月二二日、国民体育大会開会式のため松山へ行幸啓された天皇皇后両陛下は、愛媛慈恵会を訪ねられ、施設関係者や児童に励ましの言葉をかけられた。
 松山市三津口町のコイノニア弘済院は昭和二二年五月四日に創設された。「敗戦の災禍未だ拭ふべくもなく、相次いで生起するインフレの波は罪なき人々をして生活恐怖の途を辿らせ、……浮世(ママ)の冷たい風に泣き叫ぶ孤児を、青年を、救はんとして」大崎俊博、山村義人、徳永禰生、池内清海、高橋菊、渡辺恵子、上野藤枝らキリスト教関係者によって弘済院は創設され、その社会福祉理念はコイノニア(愛の交わり)精神に基づくものであった。これは会員組織による個人経営であったため、関係者が農作業やミシン仕事をして経費の一部を補足しながら、戦災孤児や引揚孤児の収容救済、傷痍者や青年の更生指導などを続けた。
 その後、コイノニア幼稚園の経営に着手(二二年)する一方、二三年四月一日、コイノニア弘済院はコイノニア協会と発展改称して、児童収容救済施設を松山信望愛の家と名付け、また生活困窮を理由に社会悪に落ち込む女性や青年の更生施設初穂の家も設置した。昭和二八年三月には市内御幸町の民家を借りて松山乳児預り所を開設(同年一二月、松山乳児院に発展)、昭和三一年六月一日には、児童福祉の完璧を期すために小舎制実施を目的に、松山信望愛の家の収容児の一部をもって、あすなろ学園を設置した。学園は設置当初、松山市佃町にあったが、諸施設の松山集中を避け、同三四年には今治市波止浜に移転した。
 この間、キリスト者が結集したコイノニア協会は、財政危機や同志の脱退など種々の苦難があったが、みんなが助け合い、祈り合って、社会救済事業を続けた。昭和三三年六月からはCCF(キリスト教児童基金)の資金援助を受け、アメリカに精神里親も得て種々の援助を受けた。なお松山信望愛の家は、三四年一月県当局や共同募金会、篤志家の賛助を得て、松山市久万ノ台に移転した。
 北宇和郡吉田町の一乗寺には、「子育ての鬼子母神」が安置されていることから、歴代住職は大正期より農繁託児所を開き、また日曜学校吾子会などを組織して、児童保護に意を用いてきた。昭和二七年八月、住職須賀勝玄の尽力で養護施設吾子苑が開設され、二〇名前後の要保護児童が入所した。また松山市朝美町の五島キヨミは、孤児や生活困窮家庭の子弟に私有家屋を開放して、昭和二八年六月、私立朝美親和園を開園した。当初の定員は九〇名であったが、その後施設を拡張して定員を増加させ、昭和三四年には社会福祉法人化して親和園と改称した。このほか昭和三一年までに設置された県下の養護施設は表3―14の通りであるが、これらの設立には各地の篤志社会福祉家や民生委員の努力があった。

 母子寮と宿所提供施設

 母子寮は「児童福祉法」に基づく児童福祉施設の一種で、配偶者のない女子またはこれに準ずる事情がある女子及びその子供を入所させ、保護する施設である。松山市道後町の県立愛媛母子寮(現在は愛媛県社会福祉事業団の経営)の前身は昭和一九年四月一九日、同地に創設されたミシン裁縫授産場である。軍人援護会愛媛県支部によって設立されたこの授産場へは、松山市のほか喜多郡・上浮穴郡・温泉郡から数多くの留守家族主婦や未亡人が入所し、その一部は子供を連れていた。六か月の授産期間が終了すると退所しなければならなかったが、終戦後の混乱期には、他に生活の場や方法がないとの理由で授産場内に留まる人もみられた。
 松山市民生委員三好章は、こうした事情にある母子家庭の保護救済に尽力し、県当局に働きかけて昭和二三年九月三日に愛媛母子寮・同附属保育所を開設、初代寮長となった。当初は同胞援護会愛媛県支部が設置主体であったが、後には愛媛県に移り、更に昭和二六年六月からは県社会事業団(同年七月より県社会福祉協議会)に経営が委託された。開所当時、八棟の棟割り長屋には一六世帯が入居した。住宅難の時代であったため四・五畳と六畳の二間に二世帯が同居することもあったが、どの家庭にも仏壇が貸与された。昭和三七年、国庫補助を得て寮舎の全面改築が実施されたが、同所の在寮者は毎年一五~二〇世帯・約四〇~五〇人であり、誕生会や運動会、社会見学や親子レクリエーション大会など種々の行事が行われている。なお、昭和三〇年度末における県下の母子寮は表3―15の通りであるが、昭和三〇年代後半以降、漸次入寮者が減少する傾向がみられている。
 昭和二四年七月一日、新居郡中萩町萩生に同町社会事業協会事業部が経営する愛護寮が建設された。これは終戦後、老人や戦争未亡人など扶養者のいない生活困窮者の問題や住宅がなく困窮する人々の問題を改善しようとして、同町民生委員一二名の奉仕的な活動によって建設された生活困窮者・住宅困窮者への宿舎提供施設であった。宿舎は二八坪の土地に木造平屋建二棟四室からなり、戦争未亡人母子二名・障害者三名・扶養者のない老人三名に無料で宿舎を提供した。
 この宿舎設立の特徴は、宿舎が民生委員の手で建設されたという点にある。扶養義務の道義心が薄れ行く世情をみた松木武一ら一二名の民生委員は、町内で使用していない家屋に目をつけ、これを所有者より譲り受けたり、改築される家の古材をもらって収容施設を建てることを計画した。幸にも委員の中に大工の経験を有する西原海之介がいたが、各委員は畳・トタン板から大工道具・釘に至るまで自前で持ち寄り建設奉仕を進める一方、篤志家から寄附を募って設備を整えたものであった。入居者に対しては生活上の相談相手となるとともに、身寄りのない老人の死に際しては、民生委員の手によって葬儀を取り行うなど私設社会福祉事業として県下でも特異な事業を行った。
 昭和二七年にも農家の納屋をもらい受け、これを改造して二世帯の収容増を図った。これら民生委員の努力は町当局を動かし、その後、中萩町立引揚者住宅を建設するにおよび、愛護寮はその役割を終えて閉鎖された。当時この手づくりの社会福祉活動に関係した人々の中からは、愛媛県社会福祉協議会副会長に就任した高橋国栄・新居浜少年憩の家園長・まさき育成園長となった高岡久夫らの社会福祉関係者が出ている。なお、昭和二〇年代に建設された県下の宿所提供施設は表3―16の通りであるが、このうち現在もなお施設経営を行っているのは宇和島市民共済会の民生館のみであり、他は昭和四〇~五〇年代に公営住宅が整備されるのに伴って、閉鎖された。

 愛媛県社会福祉協議会の発足

 昭和二四年一一月、GHQ公衆衛生福祉部は厚生省に対し、「昭和二五年度において達成すべき厚生施策の主要目標および期日についての提案」を勧告した。これは「社会事業に関する総司令部の六原則」と呼ばれるが、このうちに、厚生福祉行政地区制度の確立、社会福祉活動に関する協議会の創設が含まれていた。既に昭和二二年には、戦前の中央社会事業協会に代わり、日本社会事業協会が発足して社会事業の民主化、民間社会事業団体の連絡強化に当たり、本県でも戦前の愛媛県社会事業協会は、昭和二四年一〇月に県民生委員連盟・県授産協会・県生活産業連盟と合同して、愛媛県社会事業団を結成し、県下の民間社会事業の推進母体として活躍していた。
 GHQ勧告に基づく社会福祉活動に関する協議会の組織化は、種々の模索を続けながらも進められ、昭和二六年一月、日本社会事業協会・全日本民生委員連盟・同胞援護会が合体して中央社会福祉協議会が結成された。この年四月の都道府県民生部長会議において、「社会福祉事業法」の施行に伴う厚生省指示事項として、社会福祉協議会並びに共同募金会を通じて社会福祉のための組織の育成強化が打ち出された。このため、本県でも同年七月一〇日愛媛県社会福祉協議会(県社協)が結成され、翌二七年七月一日には愛媛県社会事業団も県社協へ統合された。
 県社協設立時の会長には、昭和初年以来本県の社会事業発展に尽力してきた宇和島市長で参議院議員をも歴任した中平常太郎、副会長には元青森県知事の宇都宮孝平、元西条市長で昭和二九年に養護施設青葉寮を創設した高橋初次郎が就任し、理事の中には、県知事久松定武のほか、県共同募金委員会会長渡辺百三、県社会事業団常務理事高木秀雄(事務局長を兼任)、愛媛慈恵会理事長仲田包寛、後に県民生児童委員協議会会長となった永井立教、水沼壽丸らがおり、監事には県福祉課長長野信正、曽我武雄、湯山勇が就いた。当時の事務所は松山市勝山町に置かれていた。
 昭和二六年七月一〇日、松山市商工会館での設立総会に参会した人々は、「我等社会福祉事業関係者は今こそ深く当面の社会情勢を把握し、社会の欲求に順応し、斯業の能率的運営と組織活動を推進するため、整然たる綜合組織を確立し、一切の福祉資源を結集して、その機能を発揮しなければならない」と宣言するとともに、次の決議を行った。
  一、我等は現下社会福祉事業の一大転換期を深く洞察し、相携えて福祉国家建設の理想達成に努力する。
  一、我等はその愛情と熱意を地域社会全体の福祉をもたらすべき奉仕活動に捧げる。
  一、我等は社会福祉に関係のある一切の福祉資源を活用して、その発展と目的に向い、常に最大の効果を発揮するよう努力する。
  一、我等は公私の同志同労の関係者協力提携して、公私社会福祉事業の基盤の確立に各々責任を分担し、地域社会福祉の増進を期する。
  一、我等は社会福祉協議会の目的達成のため、共同募金会の組織と表裏一体の関係を保ち、社会福祉資源の助長と、社会福祉事業の能率増進に寄与する。

 県社協設立当時の事業は、(1)戦争未亡人の生活問題に対する各種の援護、(2)戦後の混乱期の児童青少年の不良化防止と健全育成、(3)抑留同胞救出運動・引揚援護愛の運動・遺児激励運動など遺族・留守家族の援護、(4)世帯更生運動を中軸とする民生児童委員の奉仕活動強化、以上の四種に大別されるが、県下各郡市(後には市町村)の社会福祉協議会の育成指導及び助成にも当たるとともに、県下社会福祉大会、民生委員研修会・社会福祉教育講座など各種の事業を主催した。また昭和二六年八月からは月刊機関紙「愛媛社会福祉」も刊行された。
 昭和二八年一〇月一七日、県下の民間社会福祉事業の総合センターであり、県社協の拠点である愛媛県社会事業館が松山市萱町に竣工した。館内には会議室、大ホール、図書室、事務室のほか、内職斡旋所、生活・結婚相談所も設けられ、全国的にも近代的福祉事業のモデルセンターとして注目された。また、昭和三〇年から始まった世帯更生資金の貸し付けも、民生委員の活動と相まって進展し、低所得者対策として昭和六一年度末には県下の二万世帯に資金貸し付けが行われている。

共同募金の開始

 共同募金は、一九一三年(大正二)アメリカのオハイオ州クリーブランド市で行われたのが最初であるが、我が国では昭和二二年八月「共同募金運動実施要綱」が作成され、同年一一月二五日から一二月二五日まで、全国的な募金運動が開始された。当初は「不幸な人々に、あたたかなおもいやりを」、「共同募金に応じよう、日用品や衣料を持ちよろう」を合い言葉に、国民たすけあい運動中央委員会の手によって推進された。
 本県でも同年一〇月二五日、国民たすけあい共同募金愛媛県実施委員会を結成し、下部組織としての郡市を単位とする地方実施委員会も結成して、一一月二五日より第一回共同募金運動を実施した。初年度は一、五〇〇万円を募金目標としたが、一、三八三万余円にとどまった。昭和二三・二四年度は日本赤十字社と国民たすけあい運動中央委員会との合同運動として一〇月一日から一か月間募金を実施し、シンボル的な「赤い羽根」を前面に出した。本県の募金活動推進団体も愛媛県共同募金委員会と改称して、各界各層から委員を選定して運動を展開、昭和二四年度には目標額をわずかに上まわった。昭和二六年には「社会福祉事業法」が公布されたため、翌年五月に県共同募金委員会を発展的に解消して、新たに社会福祉法人愛媛県共同募金会を組織、その事務所は県庁内から松山市勝山町の旧同胞援護会建物内に移された。
 共同募金の本県目標額は、社会経済状況や配分金を受ける各社会福祉施設などの実態に応じて、毎年設定される。昭和二四年度の二、〇〇〇万円を特例とすると、昭和三四年度までは一、三〇〇万~一、八〇〇万円であり、それ以後急速に上昇している。募金活動には、戸別募金、職域募金、法人募金、興行募金、街頭募金などがあるが、募金実績は昭和二四年度以降は常に目標額を上まわった。昭和四八年度は目標額四、六〇〇万円に対し、一億三、一〇八万余円の実績であり、それ以後も目標額の一五〇~一九〇%の募金実績があり、本県は全国的にも高い実績率を示す共同募金県である(資社経下五五〇)。
 昭和二六年度、募金目標額は一、七五〇万円であった。この年は、生活保護・児童福祉・地域福祉・医療保護の充実を願い、「みんなで赤い羽根を」のスローガンで運動を展開、松山中央放送局では劇団かもめ座を動員して、共同募金をテーマとした「みんなのまごゝろ」を電波に乗せ、共同募金精神を県下に広めるとともに、シリーズで社会福祉番組を放送した。こうした啓発活動もあって募金は順調に集まり、お年玉つき年賀はがき還元寄付金などを加えると、募金総額は一、八四七万円に達した。これらの募金は、農山漁村の福祉事業・各施設補助金、厚生奨学資金、ルーズ台風被災者見舞金などに配分された。

表3-9 昭和21年~31年に創設された授産場

表3-9 昭和21年~31年に創設された授産場


表3-10 社会事業金庫郡市別貸付け累計(昭和25年9月末)

表3-10 社会事業金庫郡市別貸付け累計(昭和25年9月末)


表3-11 基礎調査結果による種別世帯数(昭和26年)

表3-11 基礎調査結果による種別世帯数(昭和26年)


表3-12 婦人世帯に関する調査(昭和24年10月時)

表3-12 婦人世帯に関する調査(昭和24年10月時)


図3-1 愛媛県における身体障害者手帳所持者数の推移

図3-1 愛媛県における身体障害者手帳所持者数の推移


図3-2 更生援護行政組織(昭和27年時)

図3-2 更生援護行政組織(昭和27年時)


図3-3 児童相談所処理件数の推移

図3-3 児童相談所処理件数の推移


表3-13 愛媛県の民生委員数の推移

表3-13 愛媛県の民生委員数の推移


表3-14 昭和30年代初めの県下の養護施設

表3-14 昭和30年代初めの県下の養護施設


表3-15 愛媛県下の母子寮一覧(昭和30年度)

表3-15 愛媛県下の母子寮一覧(昭和30年度)