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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 社会事業から社会福祉へ

 社会福祉理念と福祉の領域

 第二次世界大戦後、連合軍による民主化政策が進められ、「日本国憲法」が公布された。憲法第二五条では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定され、国民は生存権を有するとともに国は社会福祉の増進に努めるよう義務づけられた。この憲法の精神に基づき、多くの社会福祉事業関係の諸法制(表3―1)が整えられたが、その間、戦後の新しい用語である社会福祉(social welfare)の概念は、「社会福祉とは、国家扶助の適用をうけている者、身体障害者、児童その他援護育成を要する者が自立して、その能力を発揮できるよう必要な生活指導・更生指導その他援助育成を行うこと」(社会保障審議会昭和二五年「勧告」)と理解されるようになった。
 こうした理念によって、昭和二六年三月、「社会福祉事業法」が公布され、戦前の「社会事業法」(昭和一三年四月公布)は廃止された。これらの法令は社会福祉事業の分野や性格を規定したものであるため、事業内容がどのように進展してきたかを知ることができる。戦前の「社会事業法」で規定された社会事業と戦後の「社会福祉事業法」の下での社会福祉事業とを比較すると次の点で相違がみられる。
   一、戦後は社会福祉事業の領域が広汎となり、戦前には存在しなかった「身体障害者福祉法」・「精神薄弱者福祉法」・「老人福祉法」などが法制化された。
   一、社会福祉事業の経営主体の中で国及び地方公共団体の占める率が高まるとともに、民間社会福祉事業団
    体も従来の公益法人(主に財団法人)から社会福祉法人化するものが大勢を占めた。
   一、福祉事務所が各地方公共団体によって設置され、各種の社会福祉諸法令に基づいて社会福祉事業の指導・監督及び「援護・育成又は更生の措置」に関する事務を取り扱うようになった。
   一、地方公共団体に社会福祉業務を担う社会福祉主事(ケースワーカー)が置かれ(都道府県・市は必置、町は任意)、社会福祉事業への専門性を与えるようになった。
   一、社会福祉施設の設置に関し国または地方公共団体の助成及び監督が拡大した。
   一、共同募金及び社会福祉協議会活動が法的に位置づけられ、積極化した。
 社会福祉の領域も社会福祉の概念と同様に時代の推移とともに変化している。今日、福祉国家の実現を叫ぶ中で社会福祉は広義に解釈され、医療・公衆衛生・教育・住宅・完全雇用・社会保障など、国民生活に関連した全ての公共的分野を社会福祉の領域とする場合もある。本書では表3―2に示すような狭義の社会福祉の領域のみを記述している(教育・保健衛生・婦人問題・労働等は『愛媛県史』教育、同社会経済6及び本巻の労働の項参照)。

 社会福祉行政機構の整備

 昭和一三年一月に新設された厚生省は、昭和二四年五月の「国家行政組織法」に基づき新しい厚生省に脱皮した。愛媛県でも、戦時下の厚生行政を担当してきた内政部兵事厚生課が、昭和二〇年一〇月一〇日に厚生課と改称された。更に昭和二一年二月一日、内政部は内務部となり、内政部厚生課も内務部社会課となった。この時、内務部に復興課、食糧課が新設され、松山、今治、宇和島などの戦災都市の復興や住宅供給、主要食糧の集荷や配給をつかさどった。昭和二一年一一月一八日教育民生部が設置され、社会課はこれに属したが、翌二二年六月には民生部と教育部が分離し、内務部も総務部と改称された。この時期、課の新設・統合・移管・改称が頻繁に行われ、昭和二二年一一月、復員者や旧軍属の援護を担当する世話課、同二三年一月には児童や妊産婦の福祉向上を進める児童課も民生部内に新設された。
 昭和二四年~同二六年にかけて本県の会福祉行政機構は一段と改革が加えられた。県当局は、都道府県民生部関係現任訓練講習会(昭和二四年一〇月)や「昭和二五年度において達成すべき厚生施策の主要目標および期日の提案」(昭和二四年一一月総司令部公衆衛生部「勧告」)の内容にそって、社会事業従事者の現任訓練や社会福祉関係法の施行状況査察指導担当課の新設を進め、昭和二五年一一月一日、民生部に福祉課を誕生させた。
 社会福祉事業の総合的基本法である「社会福祉事業法」は公私社会福祉事業の分野を明確にし、社会福祉法人、社会福祉事務所、社会福祉主事、社会福祉協議会、共同募金会などの法制化を図ったものであるが、この法の規定により、昭和二六年一〇月一日には本県の各地方事務所に福祉に関する事務を取り扱う民生課が設置されるとともに、県下六市に福祉事務所が置かれ、地域における社会福祉の第一線機関となった。また、同年七月一〇日には、社会福祉における民間最大の組織である愛媛県社会福祉協議会も発足しており、この組織は愛媛県民生部と密接な関係を維持しながら社会福祉活動を推進するようになった。この年、民生部各課事務分掌の調整が行われた結果、民生部各課の分掌は表3―3のようになった。
 昭和二九年六月一日にも、県行政機構の改革が行われた。民生部では、福祉課が所管していた引揚者、遺族援護関係の職掌は世話課へ、母子福祉、婦人援護関係の職掌は児童課へ、身体障害者福祉関係の職掌は社会課へそれぞれ移管され、課名の変更も行われた。昭和三〇年一〇月一日にも県行政機構の改革が行われ、地方事務所が廃止された。このため、昭和二六年一〇月以来の各地方事務所内の民生課も廃止となったが、県では新たに県下各郡に一一か所(宇摩郡と新居郡は合わせて一か所)の福祉事務所を設置して、各地の福祉向上に努めた。この間、昭和二八年九月の「町村合併促進法」により県下に四つの新市が誕生し、それぞれの市に福祉事務所が開設された。
 昭和三四年一月、本県では知事久松定武によって「生産福祉県政」が提唱され、工業用水・道路などの産業基盤の総合開発、生活環境・厚生福祉施設などの生活基盤の整備、農林漁業の近代化・産業構造の高度化などの経済の均衡的発展を期した行政が推進された。この頃には既に経済界も好況を見せ、県民の生活水準も向上し、社会福祉行政機構は昭和二〇年代のような目まぐるしい改編整備を必要としなかった。しかし高度経済成長が進展するなかで、核家族化、家族制度や地域共同体の弛緩や崩壊、公害の発生など生活社会環境の急激な変化がみられ、これらが直接、間接の要因となって、青少年の非行、未婚の母、心身障害者(児)、保護を要する老齢者などの問題が増加した。こうした問題に対応するため、県では、昭和四〇年五月には知事を本部長とする青少年対策室を設け、同四五年八月総務部県民運動室を生活課に昇格させ、同年四月に新設していた公害対策室も公害課に昇格させて生活行政や公害防止行政の拡充強化に努めた。
 昭和四六年一月、新しく知事に就任した白石春樹は「生活福祉県政」を提唱し、その施策方針として「住みよい生活環境の整備」、「健康であたたかい社会の建設」、「あすの愛媛をになう若い力の育成」、「公害のない人間尊重の経済開発」、「県民参加による新しい行政体制の確立」を挙げた。こうした白石知事の施政方針にそって、昭和四六年四月一日、生活福祉県政推進のため総務部の内局に環境生活局が設けられ、消費者行政・生活環境の整備・公害対策など県民に直接つながる仕事を総合的かつ組織的に行う体制を整えた。
 昭和四八年四月一日、県行政機構の大幅な改革が行われた。この改革により昭和二二年以来続いてきた民生部は福祉部と改称され、福祉部に老人援護課が新設された。老人福祉はそれまで社会福祉課の所管であり、既に在宅ねたきり老人に日常用具給付又は貸与並びに介護人派遣事業、七五歳以上老人医療公費負担制度(ともに昭和四六年より)など種々の施策が講じられてきていた。高齢化社会の到来に伴い福祉要請が増大するなかで、老人援護課の所管事項は一段と増加し、老人福祉施設の整備拡充、老人大学の開催、「老人の船」派遣事業、老人クラブの結成促進など、高齢者が「生きがい」を享受できる施策が実施された。この間、昭和四六年七月「社会福祉事業団の設立及び運営の基準について」の厚生省通知により、地方公共団体が施設を建設し民間に運営を委託する方式で全国に社会福祉事業団が結成されたが、本県にも昭和四七年四月、愛媛県社会福祉事業団が誕生した。
 経済が安定成長期に入った昭和四〇年代末にも、福祉要請は高度化し多様化した。しかし、この頃から行政サービスのみに依存しないで、地域住民の連帯と行政が一体化した福祉の実現を図るいわゆる「地域福祉」の必要性が提唱され始めた。このため、コミュニティーの重視、ボランティア活動の振興が市町村社会福祉協議会や市町村の社会福祉担当課で進められ、「受け身の福祉から参加する福祉」へと移行している。こうした状況下で、昭和五六年四月一日福祉部は生活福祉部と改称し、それまで社会福祉課が所管していた心身障害者の福祉分野を独立させて、障害福祉課を新設した。昭和二二年から昭和六二年までの本県社会福祉関係部・課の変遷と機構は表3―4、表3―5及び表3―6の通りである。

 社会福祉費支出の推移

 敗戦による戦時経済体制の崩壊と急激な社会情勢の変化は、インフレの進行を促し国民生活を混迷させた。こうした中で、失業・食糧事情の緊迫・住宅難・留守家族・戦災孤児・戦傷病者など数多くの救済保護を要する人々が、昭和二〇年代前半には一挙に増大した。政府も、このような人々に救済保護の手を差しのべたが、急激なインフレに悩まされ、年度当初の事業予算が実行に移される頃には予算不足になることがしばしばあった。生活保護の保障最低額を例にとれば、昭和二一年三月の一九九円(一級地五人家族一か月)が、同二四年までに一〇度の改正を重ねて五、三〇〇円に引き上げられるという時代であった。
 昭和二〇年代、国民所得に占める社会保障給付費は三%台であった(『現代地方行政講座4』)。昭和三〇年代には、国の一般会計総額(当初予算)に占める社会保障関係費は一〇%~一三%、同四〇年代は一四%~一七%、五〇年代には二〇%を超えたが、社会保障関係費の内、生活保護費・失業対策費は、昭和三〇年度三二%、二七%であったものがそれぞれ減少し、昭和四〇年度に二〇%、一二%となり、昭和五〇年度は一四%、四%となった。逆に社会福祉費は昭和三〇年度から同四五年度まで七~九%で推移したが、昭和四六年度に一〇%になり以後年々急増し同五二年には一七%にたった。
 こうした社会保障関係費の推移には、社会経済の変動と福祉要請に対する行政施策が大きく反映する。戦後四〇年の間に国民の多くは中産化し豊かな生活を享受する反面、高度成長の影の部分ともいえる地縁血縁のうすれ、高齢化社会などからくる種々の福祉要請は増大している。昭和五五年度の社会保障関係費は約八兆二、一二四億円であるが、このうち社会保険費は六二%、社会福祉費は一七%、生活保護費は一二%などとなっている(『生活保護三十年史』)。
 地方公共団体の財源中、国庫支出金の占める割合は高く、社会福祉費も例外ではない。これは、GHQによる「無差別平等、公・私分離、必要な保護費に制限を加えない」という福祉三原則(「SCAPIN775」号覚書昭和二二年二月)を基調とする国家責任による民主的公的扶助の所産である。現在、社会福祉に必要な経費は、国と地方公共団体との負担割合が法的に細かく決められている。それは支出費目によって異なるが、概括的にいえば、生活保護、老人福祉分野で要保護者給付金、施設収容経費、施設事務費の七〇%を国が支弁し、地方公共団体は三〇%を負担している。また各種法令施行事務費、児童相談所費、婦人相談所費は国が五〇%、残りを都道府県が負担し、老人クラブ助成、在宅福祉費では国が三分の一、老入医療費は国が三分の二を支出し、残りを都道府県と市町村が折半している。
 愛媛県の社会福祉関係支出額の推移は表3―7に示している。社会福祉費は、昭和三八年度までは社会及び労働施設費という費目で支出され、それ以後は民生費という費目で支出されている。これら費目の内訳は昭和三〇年代の前半までは、生活保護費、社会施設費、児童福祉費、家庭寮費、家庭実業学校費、児童相談所費、母子寮費、教護院費、地方世話費、災害救助費などが主であったが、その後社会福祉分野の広がりと諸法制の整備によって、身体障害者福祉費、婦人福祉費、老人福祉費などの費目が設けられた。
 昭和二五年度を一〇〇とした社会福祉関係支出額指数をみると、三五年度四四三、四五年度二、一三一、五五年度九、三九九となり、三〇年間で約九四倍になっているのに対し、歳出総額の伸びは七二倍となっている。社会福祉関係支出が歳出総額の伸び率を上まわったのは、昭和二六年に就任した知事久松定武が昭和三四年には「生産福祉県政」を唱え、また昭和四六年に就任した知事白石春樹は、「レンゲ草の県政」を政治理念とする中で、「生活福祉県政」を提唱して、多様な福祉行政を展開していったことによっている。
 特別会計歳出中にも、表3―8のように罹災救助基金、社会事業金庫、厚生奨学資金、母子福祉資金の給与、貸し付けの費目があり、その年々の実情に応じて支出され、社会福祉事業の一翼を担っていた。また昭和二二年度に開始された「赤い羽根」の共同募金やNHKの歳末たすけあい運動の義援金も、多くの福祉施設に配分されたり、生活困窮者の越年資金に充てられている。

表3-1 戦後の社会福祉事業関係法規等(福祉六法成立まで)

表3-1 戦後の社会福祉事業関係法規等(福祉六法成立まで)


表3-2 社会福祉事業の分野と内容

表3-2 社会福祉事業の分野と内容


表3-3 民生部の分課分掌(昭和26年11月15日)

表3-3 民生部の分課分掌(昭和26年11月15日)


表3-4 社会福祉関係部・課の変遷

表3-4 社会福祉関係部・課の変遷


表3-5 民生部行政機構の概要(昭和43年、4、1現在)

表3-5 民生部行政機構の概要(昭和43年、4、1現在)


表3-6 県民福祉部の機構図(昭和62年4月1日)

表3-6 県民福祉部の機構図(昭和62年4月1日)


表3-7 愛媛県一般会計に占める社会福祉関係費の推移と割合

表3-7 愛媛県一般会計に占める社会福祉関係費の推移と割合


表3-8 愛媛県特別会計歳出中の社会福祉関係費①

表3-8 愛媛県特別会計歳出中の社会福祉関係費①