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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第一節 労働組合の組織

 労働組合の推移

 本県の戦後の労働組合運動は、終戦後直ちに高揚したわけではなかった。労働組合が再建されるには、終戦からなお数か月を要した。
 すなわち、昭和二〇年一二月八日日本発送電従業員組合西条支部がはじめて設立され、さらに一二月中に日本新聞通信放送労働組合愛媛新聞支部、昭和鉱業株式会社従業員組合大久喜支部、四国機械工業工員組合が設立された。この月の二二日には労働組合法(旧法)が公布されたが施行は翌年の三月一日からであった。
 昭和二一年になると、労働組合法が施行され、当時の生活危機などを背景に、労働組合の結成は非常な勢いで進み、同年六月末には一二七組合、組合員四万八、四九一人となり、昭和二四年六月末では、昭和二一年六月末に比べ組合数で約六倍の六五六組合、組合員数で約二倍の九万九、六〇六人となった。なお、これら設立された労働組合の組織形態は企業単位に組織される企業別労働組合がほとんどであった。
 昭和二五年になると、労働組合法の改正など労働政策の転換、民間企業、官公庁の人員整理などの影響を受けて、労働組合の組織化は鈍化し、昭和二四年をピークに労働組合は減少を来し、この傾向は昭和二七年まで続いた。
 労働組合は昭和二八年以降再び増加傾向をたどった。昭和三三年、三四年の減少の年を除いて、昭和三〇年代は経済の高度成長を背景に、毎年新設される労働組合の組合数および労働組合員数が、解散される労働組合のそれを上回り、既存の労働組合にあっても雇用の増大などで、労働組合員数が増加した。労働組合員数は毎年対前年四桁の増加をみ、昭和三八年には、労働組合員数は一〇万台に乗り、昭和四〇年には推定組織率も三八%に達した。昭和三三年、三四年の減少は、当時の経済不況による雇用の減少、県教組の組合員の脱退などが原因とみられる。
 昭和三〇年代には、いわゆる合同労働組合という、従来の企業別労働組合とは異なった組織形態のものが現れて注目を引いた。組織化のむつかしい中小零細企業の労働者が、企業の枠を越えて地域で一つの労働組合を結成するもので、職業別、産業別あるいは混合形の種類があるが、混合形の一般労働組合が普通であった。
 昭和四〇年代にはいっても、組合員数の対前年四桁の増加が続いたが、後半の昭和四六年ころから、その増加は三桁となり、昭和四八年には微少ではあるが減少した。このような鈍化傾向の原因は、経済の不況のなかでの雇用の停滞などによるものである。再び昭和四九年は労働組合員が四桁台で増加したが、これは前年の第一次石油危機に対応する労働組合の新設などが原因となっている。昭和四九年六月末には、組合数九一四組合、労働組合員数一三万二、九〇四人と最高を記録した。
 昭和五〇年代は経済の低成長期にはいり、労働組合の組織は減少傾向をたどりはじめた。解散労働組合の組合数および組合員数が、新設労働組合のそれを上回り、また既存労働組合も雇用の減少などで労働組合員も減少しはじめた。減少は昭和五〇年代前半は四桁台の組合員の減少であったが、後半は持ち直し、減少は鈍化した。推定組織率も昭和四〇年の三八%を最高に低落しはじめ、昭和五三年には三〇%を割り、昭和五八年には二五・三%となった(表2-1参照)。

 主要上部労働団体の推移

 労働戦線の統一をめざして、労働組合を結集してゆく上部団体の状態であるが、本県においては昭和二一年二月に日本労働組合総同盟愛媛県連合会(総同盟県連)、同年一二月に愛媛県産業別労働組合会議(県産別会議)が結成され、二つの主要上部団体が生まれ、労働戦線の統一は出来なかった。
 これら主要団体の昭和二三年三月末の現勢は次のとおりであった。
  総同盟県連  八八組合  三万三、二八八人
  県産別会議  七四組合  一万九、二九九人
 その後、県産別会議は加盟組合の脱退などで機能を失い、昭和二四年六月の執行委員会で実質的な解散決議を行った。
 昭和二三年五月愛媛県労働組合連絡協議会(愛労連)が、県下の労働戦線の統一を期して、総同盟県連、県産別会議、県全官公労、中立組合など四九六組合、八万八、二八二名を結集して作られた。その後、愛労連は、その組織が連絡協議会という性格、また内部対立などから、機能を失い、自然消滅となった。
 昭和二四年一二月に至り、再び全県的な組織として愛媛県労働組合会議(愛労会議)が結成された。昭和二五年六月末の現勢は一四九組合、五万九、六五一人であった。
 その後、愛労会議は、昭和二六年八月に解散大会を開き、解散すると共に、その大会を日本労働組合総評議会愛媛地方労働組合評議会(愛媛地評)の結成大会に切り替え、ここに愛媛地評が誕生した。
 愛媛地評の昭和二六年八月末の現勢は、一三七組合、四万八、四二一人で県下の組織労働者の五八%を結集した。総同盟県連は、愛媛地評の結成にあたり県連の組織を解体して加盟した。
 昭和三四年に至り、一一月に全日本労働組合会議愛媛地方会議(全労愛媛地方会議)が結成され、昭和三五年六月末の現勢は八組合、一万六、七〇九人であった。その後、全労愛媛地方会議は組織を改編し、昭和三八年には全日本労働総同盟組合会議愛媛地方会議、昭和四〇年三月には全日本労働総同盟愛媛地方同盟(愛媛同盟)となった。
 このように、昭和三四年以降は愛媛地評と全労愛媛地方会議(のちに愛媛同盟)の二つの主要上部団体が並立するようになったが、両団体の組織拡大は熾烈化し、一般合同労働組合など未組織労働者の組織化を競い県内労働組合の組織は増大した。
 この両上部団体の現勢は表2-2のとおりであるが、昭和四〇年の県内組織労働者に対する比率は、総評が五八・五%、同盟系が二一・一%であったが、昭和五八年には総評系四〇・五%、同盟系二四・六%となった。また上部団体の傘下労働組合員数において、総評系は昭和四〇年から一八年間に一万七、七九〇人減少しているが、同盟系は同期間中に五、〇一六人増加している。

 組織の分布状況適用法規別

 労働組合をその適用される法規の種類別にみると、昭和二五年から昭和五八年までの三三年間に、労組法が三六五組合、二万八、七五四人、公労法が七八組合、六、七八七人、地公労法が二一組合、二、〇八二人、それぞれ増加し、国公法が四七組合、四、三三二人、地公法が四三組合、四、九二八人、それぞれ減少している。中途から計上された船員法は三、三五九人減少している。
 国公法の減少は、昭和二七年の公労法の改正によって、五現業などの公務員が、国公法から公労法の適用を受けるようになったための減少で実質的には僅少の減である。
 表2-3で民間企業労働組合とは、労組法、船員法の適用を受けるもので、その他の法規の適用を受けるものは官公庁労働組合である。民間企業、官公庁別に労働組合の分布をみると、昭和二五年以来今日まで三三年間に、民間企業労働組合は組織を伸ばし三六六組合、三万六五五人の増加となっているが、(船員法適用を除く)官公庁労働組合はこの期間増減はない。
 このことは、官公庁労働組合の組織化は昭和二〇年代に大体終わり、それ以後は民間企業労働組合の組織化が中心となっていることを物語っている(表2-3参照)。

 産業別

 労働組合数では、昭和二五年以来今日まで最も多いのが第三次産業、次いで第二次産業、第一次産業の順となっている。その総数に対する構成比は、昭和二五年では、第三次産業六五・九%、第二次産業三一・九%、第一次産業二・二%、昭和五八年では、第三次産業六二・四%、第二次産業三六・七%、第一次産業〇・九%となり、第一次産業、第三次産業が減少、第二次産業の比率が高くなっている。
 組合員数では、昭和二五年第二次産業が第三次産業よりわずかに多くなっていたが、昭和三〇年以降は、組合数と同じく、第三次産業が最も多く、次いで第二次産業、第一次産業の順となっており、その格差も増大している。
 即ち昭和三〇年には、第三次産業は全体の五一・七%、第二次産業四七・三%、第一次産業一%であったが、昭和五八年には第三次産業六一・三%、第二次産業三八・四%、第一次産業〇・三%となった。
 昭和二五年以来この三三年間に第一次産業は組合数、組合員数とも波状変動を示しながら減少傾向をたどった。
 第二次産業では、鉱業が産業構造の変動により鉱山の閉山が相次ぎ激減した。一方、建設業は昭和五〇年代にいったん減少したが増加を続けている。製造業は昭和三〇年には減少しているが、その後増加し、昭和五五年以降減少傾向にある。しかし、製造業は産業大分類のなかでは毎年組合数、組合員数共に最も多く、昭和二五年以来三三年間に組合数で一三六組合、組合員数でニ、六一七人増加している。かくて、第二次産業では昭和二五年以降組合数、組合員数共大体増大傾向を示しているが、昭和五五年以降は減少傾向にある。
 第三次産業では、卸売小売業、金融保険業、運輸通信業で組合員数の増加が大きく、昭和二五年以降この三三年間に、卸売小売業で四、〇九〇人、金融保険業で九、四七〇人、運輸通信業で八、八九三人増加している。第三次産業の組合数も波状変動はあるが、増大傾向を示している(表2-4参照)。

 規模別

 昭和三五年から昭和五八年までの組合員数の規模別分布の推移をみると、組合数では組合員三〇〇人以下の小規模組合が全体の九〇%前後を占め、特に九九人以下の組合が昭和三五年の六五・九%から、その後実に七〇%前後を占め、年と共にその割合は、昭和四〇年の六九・〇%、昭和五八年七二・五%と増大している。
 組合員数では、組合員三〇〇人以上の組合が大体全体の五五%から六〇%前後を占め、うち特に一、〇〇〇人以上規模の組合が三〇%から三五%前後を占めている。しかし、三〇〇人以上の規模の組合の総組合員に占める割合は年と共に次第に低下傾向にある。
 昭和三五年以降、昭和五八年までの間に、各規模別組合の推移をみると、組合員数二〇〇人~二九九人の規模の組合では、組合数、組合員数共に減少したが、他の規模の組合は組合数、組合員数が共に、増加している。昭和三五年を基準にした場合、組合数のこの間の増加率では、組合員一〇〇人~一九九人の規模では、一四九%、三〇人~九九人の規模では、一五七%、二九人以下の規模では、一九七%であるのに対し、三〇〇人~四九九人では一一〇%、五〇〇人~九九九人では一四〇%、一、〇〇〇人以上では一二九%と、三〇〇人以上の規模の組合では、その伸び率が三〇〇人以下の規模の組合に比べ低い。
 組合員数では、昭和三五年を基準にして、組合員数一〇〇人~一九九人の規模の組合では一五一%、三〇人~九九人では一五八%、二九人以下では一八六%という高い伸び率に対し、三〇〇人~四九九人では一〇九%、五〇〇人~九九九人では一三八%、一、〇〇〇人以上では一一一%と、組合員三〇〇人以上の規模の組合では、低い伸び率となっている。
 これらのことから、大規模組合については、官公庁労働組合を含め昭和三五年までに、大体組織化が終わり、それ以後は民間の中小零細企業の組織化が盛んであるといえよう。
 一労働組合当たりの平均合員数は、昭和四五年の一五七・五人をピークに次第に小型化の傾向をたどり、昭和五八年には一三〇人となっている(表2-5参照)。

 労働協約の締結状況

 表2-6のとおり、労働協約の締結率は、昭和三〇年代は六〇%台であったものが、昭和三〇年代終わりは六〇%を割り、昭和四〇年代にはいると再び上昇七〇%台から八〇%台となり、昭和五〇年代も八一%台を保持している。
 労働協約の適用率も、昭和四〇年代半ばまで大体八〇%台、それ以後は九〇%台を堅持している。これらのことは、県内労使関係が次第に安定化していることを示すものといえよう。昭和三八年~四〇年あたりで、締結率が低下しているのは、当時中小零細企業の労働組合の結成が進み、これらの組合では、労働協約が未締結であったことによる。
 締結率を労働組合の適用法規別にみると、次のとおり労組法の適用を受ける組合が、年と共に締結率が高くなり、公労法の適用を受ける組合は大体一〇〇%、地公法の適用を受ける組合は年とともに締結率が下がり三〇%台を割っている(表2-7参照)。

表2-1 労働組合の年次別組織推移

表2-1 労働組合の年次別組織推移


表2-2 総評系、同盟系別上部団体加盟状況の推移

表2-2 総評系、同盟系別上部団体加盟状況の推移


表2-3 適用法規別労働組合の推移

表2-3 適用法規別労働組合の推移


表2-4 産業別労働組合の推移

表2-4 産業別労働組合の推移


表2-5 規模別労働組合の推移

表2-5 規模別労働組合の推移


表2-6 労働協約の適用をうける労働組合数および組合員数

表2-6 労働協約の適用をうける労働組合数および組合員数


表2-7 労働組合の適用法規別締結率

表2-7 労働組合の適用法規別締結率