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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第三節 労働組合と労働事情

 明治期の労働運動

 わが国において労働運動や労働法制なかんずく労働組合法制を語るとき、鉱夫を使役する鉱業から始めなければならないことは言うまでもない。この点は、愛媛県の場合も同様である。慶応二年(一八六六)の別子銅山における自然発生的な騒動がそれである。しかし、ここでは第一節、第二節ともに、鉱業、船員、官業を除いているので、その限定をつけて述べることにしよう。
 わが国の労働運動は日清戦争を契機として本格化したとされる。明治三〇年(一八九七)労働組合期成会が成立し、労働組合の組織や運営の指導などを始めてからである。同年日本最初の労働組合、鉄工組合を始め日本鉄道矯正会、活版工組合などが誕生するが、いずれも当初の運動は改良主義的であったが、その後、明治三三年(一九〇〇)に安寧秩序を維持する目的で「治安警察法」ができ、人口に膾しているその第一七条が労働者の団結や同盟罷業を弾圧することとなり、また、日露戦争後の物価騰貴による実質賃金の低下、機械化の進展による労働強化もあり、明治四〇年の別子銅山の暴動にもみられるように頂点に達する。
 愛媛県で最初の労働組合は越智郡菊間町の製瓦職工で組織された伊予製瓦職工組合で、その結成は明治三〇年六月である。その綱領では製瓦業者との融和がうたわれており、改良主義的であった。同組合の業者との賃金協定(全国最初の労働協約といわれている)が日露戦争後しばしば改定されていること、また、県内において、明治四一年以降、賃上げ要求、同盟罷業の記事が新聞紙上を賑わすようになっていることは、右の事情を示すものであるが、県内の主な産業である繊維産業での職工の組織化が遅れていたことは、全国的な趨勢とはいえ注目すべきことである。

 大正期の労働運動

 大正期の県下の労働運動の概況を示す数字は大正三年からである。その年の同盟罷業二件、争議参加人員三三四名、同四年二件、三一五名であり、このごろから徐々に展開しはじめたとしてよかろう。それが、大正五年になると、労働争議六件のうち同盟罷怠業を行ったもの四件(鉱山、窯業、製紙、其他各一件)、そのうち罷怠業継続日数三日以内二件、七日以内一件、一〇日以内一件、延日数一八日、要求事項賃金値上げ三件、監督者排斥一件、要求貫徹一件、妥結三件、同盟罷怠業参加人員三九九名(そのうち一五人以下二件、一〇〇人以上三〇〇人未満二件)となる。このうち一〇〇人以上三〇〇人未満の二件は、一六○名参加の越智郡菊間町の伊予製瓦職工組合と一七〇名参加の新居郡大生院村の市之川鉱山の争議である。市之川鉱山の争議では、四名が同盟罷業を煽動誘惑したとして治安警察法第一七条違反で検挙されているが不起訴となっている。「大正一〇年県政引継書」は、県下の産業構造の急激な変化をみたとされる大正八年の「労働紛議」についてつぎのように記している。「戦後斉セルエ業界ノ隆昌諸物価ノ昻騰乃至思想界ノ変動ハ本県ニ於テモ尠カラス労働者階級ヲ動揺セシメ従ツテ同盟罷業其ノ他労働争議ハ逐年増加ノ傾向ヲ示シタリ。由来本県ノ工場ハ繊維工業ヲ主トシ約三万ノ職工中二万三千ハ女工ヲ傭使セル関係上此種問題ハ比較的僅少ナルヘキ筈ナルモ猶大正八年度ニ於テハ罷業十五件同継続日数三十五日加入人員一千二百五十余名ノ多キニ達セリ。而シテ之等紛議ノ原因ハ概ネ各己ノ私欲ニ胚胎セル賃銀値上ケ並ニ労働時間短縮又ハ感情問題ニ関スルモノニシテ主義的ニ行動シタルカ如キハ皆無ニ属シタリ……」
 中央では大正元年友愛会(のち大日本労働総同盟友愛会と改称)が組織され、印刷・紡績・鉄工・海員など組織結成に努めるが、右にみたように、第一次世界大戦を契機にして労働運動が活発になり、組合対策も動き始めてくる。
 大正八年三月内務省からだされた訓令「資本と労働の調和に関する施設要項」は、「一、労働組合の自然発達を期すること 二、政府に於て速かに労働問題の調査及労働保護に関する事務を統轄する機関を設置すること 三、政府は労働保護救済制度・純益分配制度に関し調査を遂げ、之が実行を期すること 四、資本と労働の両者共調を図ること、適切なる民間機関の設立に関し政府において調査を遂げること」、なお「治安警察法第十七条第一項の第二号の誘惑煽動に関する規定を削除すること」とある。
 愛媛県においても工場法令の実施取り締まりもあり、「現時ノ経済状態卜民衆心理二鑑ミ資本主対労働者殊ニ工業主ト職工ノ融和親善ヲ企図スルノ急務ヲ認メ之レカ調和策トシテ先ツ工業主ニ対シ工場法令ニ対スル自覚及経済上労力ニ対スル理解ヲ喚起シ自治的ニ工場災害ノ防止衛生風紀、教育及救護設備ヲ完成セシメ尚職工ノ保護殊ニ其ノ待遇ニ関スル調査研究並ニ研究事項ノ実行ヲ宣傳セシムル目的」で、警察部工場課が県下を七区に分けて、大正八年一月以降四月までの間に、各地に工場研究会を設置さしている。それを設立月日順であげると、一月二一日の南北宇和郡工場研究会、喜多上浮穴郡〃、東西宇和郡〃、宇摩郡〃、越智郡〃、新居周桑郡〃、松山温泉伊予〃の七つで、その七研究会で愛媛県工場研究会聯合会が組織されたのが四月一五日である。この工場研究会は大正一二年八月、県下を一団とする愛媛県工場研究会と改称、総裁に県知事、会長に県警察部長、各警察署管内に支部を置き、その支部長は警察署長をあて、県下事業主を加入させるという組織替えを行っている。その会則によると、事業として、「一、工場(鉱山ヲ含ム以下之ニ同シ)法令ノ研究並実施ニ関スル事項 二、労務者ノ教化慰安保護救済ニ関スル事項 三、工場衛生及危害防止ニ関スル事項 四、工場能率増進ニ関スル事項 五、工場経営ニ関スル紛議調停ニ関スル事項 六、其ノ他本会ノ目的ヲ達スルニ必要ナル事項」をあげている。その後も工場研究会は会報その他印刷物の発行、講習会の開催などを通じてそれ相応の実績をあげている。
 主義的に行動する労働紛議は皆無としていた「大正八年県政事務引継書」と、「大正一三年県政事務引継書」とを比べると、その論調が変わっている。大正一三年のそれは、「労働団体」の項で、具体的に松山市の愛媛労働組合交友会という市内各新聞社、印刷工場一〇工場の職工九四名で結成している労働組合ほか三組合を特に名指し、「近時思想界ノ変動ニ伴ヒ之等ノ団体中ニモ亦賃金問題ヲ初メトシ労働条件ノ維持改善等ニ関シ行動スルノ状況漸時増加シ……殊ニ交友会ハ多少進歩セル思想ヲ抱持シ思想問題社会問題等ニ付テモ研究シ居ルモノノ如ク……専ラ団体ノ勢力扶殖二努ムルト共ニ政治的方面ニモ行動セムトセル等注意ヲ要スル状況ニアリ」と述べている。第一次世界大戦の終結から始まる恐慌につぐ恐慌の時代にあって、大正七年の帝国議会における治安警察法第一七条撤廃の議案提出をきっかけに、大正八年にはそれが組合共通の要求になり、それは普通選挙運動とも絡んで、「衆議院議員選挙法」の制定(大正一四年昭和三年実施)「治安警察法」第一七条廃止(大正一五年)労働組合法案の作成、議会上程(大正九年から昭和六年に至る間二〇回)、「治安維持法」の制定(大正一四年)、「労働争議調停法」、「暴力行為等処罰ニ関スル法律」の成立(大正一五年)と、いわゆる飴と鞭の二つの動きが錯綜してくる。大正一五年七月一日は、「労働争議調停法」「治安維持法」のほか、「工場法改正」、「工業労働者最低年齢法」、「健康保険法」の施行の日として、労働法上特記すべき日である。

 昭和期の労働運動 

日中戦争に突入した昭和一二年に、工場課としては、労使の対立のない産業報国の指導をするため、工場研究会とも協議、それによって各地で労資関係調整会、協調会、報国会、産業報国会とかの名称の組織が続々と誕生、昭和一五年四月一二日には愛媛県産業報国聯合会の結成式となる。聯合会に加盟した工場・鉱山三五五、所属会員五万七、〇〇〇余人。その翌一六年度より工場課が労政課と改称。工場課から労政課への名称の変更は、工場研究会から産報組織への動きを示すもので、昭和一五年一月二〇日付海南新聞の「松山市内の箪笥職工、松山工友会といふ労働団体を組織してとかく事業主と対立抗争の形にあったので、松山署が産業報国会を結成せしめるため斡旋し、松山工友会を解散し、松山箪笥産業報国会を結成」という記事および「昭和十五年県政事務引継書」の「昨年十一月中央ニ於テ大日本産業報国会ノ創立ヲ見ルニ及ビ本県ニ於テモ中央ニ呼応シテ産業報国聯合会ノ機構改革ヲ企図シサキニ(一月二十七日)会則ノ変更ヲ行ヒ愛媛県産業報国聯合会ヲ愛媛県産業報国会ニ改メ従来ノ地域別連合会ハ之ヲ支部トシテ統轄スルコトトシ更ニ去ル三月二十二日改組後第一回ノ定期総会ヲ開催シテ従来ノ懸案ナリシ愛媛県工場研究会及汽罐協会愛媛支部ノ結合ヲ行ヒ本運動ノ一元化ヲ図ルト共ニ県処務規則ヲ改正シテ労資関係調整並産業報国運動ニ関スル事項ノエ場課主管事務タルコトヲ明ニシ工場課ハ之ヲ労政課ト改称セリ尚五月一日産報事務局ヲ創設シテ……七名ノ専従者並労政、特高両課ヲ加ヘタル陣容ヲ整備シ関係課卜表裏一体ノ体制下二大政翼賛運動ノ一翼タル眞使命達成ニ邁進シツツアリ、単位会数四七七、会員数七二、八五九、ニシテ管下ニ於ケル重要ナル工場、鉱山、事業場ヲ網羅シ活溌ナル活動ヲ続ケツツアリ」の記事が、この間の事情を如実に示している。
 最後に、表1-5で全国の組合数、組合員数、組織率、争議総件数、争議行為を伴った件数をあげ、組織率では、昭和六年、組合数、組合員数では昭和一一年が戦前の最高であったことを述べて、戦前の労働組合と労働争議の終章としよう。

表1-5 労働組合の動向

表1-5 労働組合の動向