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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 庶民生活意識

 明治維新後全国的に西欧に追いつけ、追い越せの意識革命が行われたことはいうまでもないが、その中で外国人の眼を意識したと思われる改革が行われたようである。和歌森太郎は「元来日本人は、民族そのものは各地から移住した複合構成で、気質は大らか進取的で海外志向もつよく、人のよい人種である、よくいわれる島国根性は鎖国のなせる結果である。」だから一面では鎖国が解かれると大いに他国に範を求め、西欧への脱皮を始めるや極めて自然にその文化の吸収をすることができたという。

 悪弊改善

 ともあれ明治になって流入された異質文化に対して、近世から続いた種々の風習の中、西欧人の眼の中で悪弊として改変を迫られたものも数々あった。
 明治二年に「男女入込銭湯相不成事」という禁制が東京で見られたが、愛媛では同六年に男女混浴、裸体文身の禁が出ているのを見ると、そのような風俗についてもその存在を知るとともに、東京との間に新しい流れに沿うまで四、五年のずれを見る訳である。しかしこの頃まで江戸時代の風習がなお持続し、何となくその意識が一般であったとも見られる。
 明治五年頃からこのような悪習についての禁令の公布が度々見られる。
 六月、密売淫禁止の件、堕胎禁止の件、九月、男女交際の不正を制する件、同六年八月、男女混浴禁止の件、盆踊禁止の件、同九年、売淫罰則、同一〇年、再度盆踊禁止の件、同一四年九月、路上での男女混同手踊禁止の件(盆踊ト唱へ男女混同遊戯致候儀相不成段云々)、同一八年貸座敷及娼女子取締規則改正(その後娼女子取締規則は大正九年頃まで度々改正されている。)。
 このような禁止令は、明治初年より明治一〇年頃までが非常に多い。維新後の動乱の中での県民意識の一片を垣間見る思いである。なお男女間についての悪弊は、明治期もかなり後期まで残っていたらしく、明治四四年に発行された愛媛県の悪弊事項の中それに関するものが数項目ある。⑬男女共一四才に至る中、泊屋なるものありて同所に同会し、父兄は之を放任してあやしまざること。⑥自村の婦女は自村の男子の占有すべきものなりとの弊風よりして、他村の男子と情を通ずる女子あるときは、青年男子多数にて該女子に暴行を加え、若しくは他の一般女子をして絶交せしめ其解除を乞わんとせば青年に酒食の饗応をなさざるべからざること(温泉・越智・宇摩・新居・上浮穴・喜多・南、北宇和郡の一部)。その他東宇和郡の一部として⑯神仏の祭典又は縁日等に青年男女は通夜と称して一堂に集まり、何等信仰心なくして徒らにワイセツがましき行為を逞うすること。上浮穴郡内として(21)盆踊りと称して、七、八月頃月夜男女異様の扮装をなし、終夜ワイセツの行為をなし此機会に於いて男女の野合をなすこと。等が見られ、かなり自由な青年男女の接近が各地に見られたようであるが、またこれについて各地方くまなく調査した結果を公表しているのは、こうした悪習慣を断とうとする意識の強さを裏書きしていよう。
 また同調査の頃内海村郷土史の中に「各部落に若者組なるものありて男女一定の家屋に集合宿泊して、共同制裁を行う風習古へより行はれしが、近時青年教育普及し古への若者宿は青年の倶楽部と代わり大に風習を改めたり。」とあり、教育の普及はそうした悪弊の改善に次第に功を奏しつつあったようである。
 なお、悪弊事項としてそれらの外に、衆をたのんだ暴力行為、あるいは農村においては集会し、衆をたのんで或る者に対し絶交を宣告し、若しくは飲食せる費用を支払わしむること(温泉・越智・周桑・上浮穴・喜多・東、西、北宇和郡の一部)のように村八分的行為を加えるもの。その他迷信的異常行動をあげているが、そのような行為が江戸時代から一般に見過ごされていたものと考えられる。
 実はこの明治四四年の調査の前に次のような告諭が見られる。明治一〇年(一八七七)八月七日告諭「盆踊ハ大概夜中ノ嬉戯ニシテ男女混同頗ル猥褻二渉リ竟二言フベカラザルノ嫌ヒナキヲ免カレズ、殊二妙齢ノ者其心気ヲ浮藻ノ地二動カシ本業ノ妨害タル甚シトス、依テ願フニ此戯動ハ多少ノ損害アリテ万一ノ利益ナキモノニ付、人ヲ自ラ深ク警メテナスベカラズ。既二此件ヲハ前々達セシ義モ之アル処曩二予讃合併一治タルノ上ハ、渾テ心得ノ為シニ更二此ノ段告諭候事」とある。香川県をその前年に合併したところでお互の牽制ではないかと思われるふしもうかがえる。
 その他同じ明治九年には子供の危険なあそびや、かけごとの禁止告諭、同一〇年八月には「幼童ノ戦争物真似禁止ノ告諭」なるものも出されている。西南戦争の後遺症で子供の遊びに偏りができたのを戒めたものらしい。県民意識にも柔い面と硬い面が内在していたことが考えられる。

 富国強兵と活眼

 維新後の官僚政治の定着と、富国強兵政策の浸透は、徴兵制度の義務感も手伝って軍隊意識の高揚にも連った。庶民は一方では貧しさからの脱出意識もあって、たくましく生きようとしていたが、それが強い兵隊を我慢の中で育てる結果も招来した。
 松山の第二二連隊は明治一九年に創設されているが、明治二七・八年日清戦役出兵、明治二九年台湾領有に際しての統治のための派遣、明治三七・八年日露戦争において、難攻不落といわれた旅順の東鶏冠山の攻略に当たり、勝利を導いたのも伊予の部隊であった。そのような戦の中で外国に派遣せられた兵士は、広く外国を見る機会に恵まれ、目を大きく開き、広い視野を養うことができたと考えられる。
 日清、日露戦役後松山には多くの俘虜が収容された。特に日露戦役後のそれは将校三一名を含む二、一六三名が、山越付近の寺院や病院で生活した。当時政府(内相)からの訓電もあったようで、菅井知事は告諭を発し、一視同仁の聖旨に沿う行動を県民に求めている外、俘虜自体にも度々心得を制定公示しているが、例えば道後温泉入湯は地方人との混浴をさけて時間を定めて許可されるとか、家族もちは民家居住が許される等、戦果優位の立場もあったけれども、比較的寛大な取扱いがなされていたことがうかがえる。
 また平和回復後は禁じられていた市内の料亭、飲食店の出入も自由にされているほか、収容所長が発起人となり、郡中(現伊予市)彩濱館で園遊会を開き、露国将校を饗せんと企てたが、彼等の多くは好意のみ受けるとして招待に応ぜずために中止せりと。またその中の将校の一人、海軍大佐ワシリー・ボイスマンの病死について住民から深い同情が寄せられ、盛大な葬儀が官民で挙行され、露国海軍より懇切な謝礼を受けている。
 このように松山における俘虜収容所の俘虜に対する態度は、ある将校の次の感想にも端的に表現されている。
 「俘虜デアル余二対シ兄弟ノ如ク親密デアッタ」、「日本人ノ様ナ質朴ニシテ、余二対スルニ非常ナ同情ヲ以テ居テ、又衛生的デ其ノ上其ノ国ノ絶妙ナル天然二近似シタル国民ト交ハッテ、純朴ノ日本風ノ生活ヲ余ハ我国二於テシテミタイ」(県史近代上昭和六一年)これは当時の松山の自然と、松山人の気質を物語っているものと思う。

 識者の眼

 明治の伊予人気質を物語る文学上の作品には、夏目漱石の『坊っちゃん』がよく引用される。漱石は明治二八年四月に当時の松山中学に赴任しているが、「坊っちゃん」の執筆は同三九年四月からである。一文豪であり、哲学者であり思索家であった漱石の見た伊予人(松山人かもしれないが)の第一印象は「野蛮な所」さらに「いやにひねこびた植木鉢の楓みた様な人物」とされ、そうなるのは「一時間も歩くと見物する町もない狭い町に住んでいるから」とされ、帰京に当たっては「この不浄な地を離れる」と表明されて誠に松山の面目はないが、明治中期の松山人は東京人にはそう見えたのであろう。
 松山出身の日露戦役の名将秋山好古、秋山真之兄弟及び正岡子規を描いた司馬遼太郎の『坂の上の雲』には「どうも伊予人は人間が柔いとひとからそういわれる、薩長の奴等に伍していくにはよほど人間を作りかえぬといかぬと好古は近頃思っている」と述懐させ、真之が海兵時代に大洲出身の下宿の小母さんに会ったとき、「あんた伊予かね、伊予にしてはドスがきいているね」といわれたことを書いている。そうとすれば伊予人はその頃からドスのきいていない柔和なお人好しであったことになろう。
 大正七年田山花袋は四国の旅路の中で、伊予人の印象を「四国は私はそう詳しくはないが、しかしその見聞の狭い私の見たところでは、伊予が一番感じがよかった、讃岐はどうも余り人間が開けすぎて余り多く上方化している。伊予の松山あたりでも上方化しているけれども、まだどこかその土地特有の田舎らしい気分が割合多く残っている。高松あたりに比べるとずっと心持がよい、それに気分がよい」と述べている。伊予人の人当たりのよさ、人のよい気質は明治・大正を通じて存在していたらしい。
 松山市長として大正一一年から約一年その晩年を市政に捧げられた加藤恒忠(号拓川)は「松山市に帰ってきては面白いことはちっともない、松山の者は読書をしない、だから話題がない。松山には本屋らしい本屋もない、むかしは古本の面白いのがときどき見つかったものだが、いまは学校の教科書以外は何もない。あけても暮れても蝸牛角上のつまらない争いばかりしている」(『郷土伊予と伊予人』昭和一七年)とよくいわれていたという。大正末期松山の世相の一端を物語るものであろう。一知識人から見れば当時の松山人は明治中期の夏目漱石の見た松山人と大して進歩していなかった様子である。

 近代化意識

 現代のファッションについて、よく松山は辺地でありながら比較的その導入が早い傾向があるといわれているが、新しいものへの興味関心は伊予人はかなり強いものが明治時代からあったらしい。
 日本で明治二年(一八六九)創製された人力車は三年に出願公許をえたのち世に広まったが、五年二月に行われた調査では東京府下に一、四〇〇輛といわれた。地方にもまたかなり普及したものと思われるか、松山では明治四年に初見えし同七年にはその取締規則ができているし、旧士族の中には車夫になるものも多かったらしい。また明治一一年には松山公園 (城山公園)にて物産博覧会が五〇日間開催されているが、その趣意書は同一〇年一〇月発行で、東京上野公園における内国勧業博覧会に遅れること僅か一年に過ぎない。地方にしては新しい流れへの感受性が鋭敏であったことがうかがえる。
 明治一九年創立した伊予鉄道会社は、同二一年に松山―三津間に軽便鉄道を開通させた。これはわが国の軽便鉄道の鼻祖であった(短距離で狭軌の鉄道を軽便鉄道といったが、その名も嚆矢であった)。その鉄道は同二五年には高浜まで延長され、夏目漱石が松山に来た明治二八年には高浜―松山(六㎞)間に運行されていた訳である。
 交通関係といえば少しそれるが、南予出身の二宮忠八は明治二四年アメリカのライト兄弟の飛行機発明より一二年早く、人間の空中飛行の可能性をカラスを見ることから信じ、専心研究に没頭し、同年丸亀の練兵場で約一〇mの飛行に成功している。保守的平穏な伊予人の中にこのような新しい方向、先端的芽生えのあったことは注目される。
 また目新しいことといえば、明治一二年八幡浜出身の西井久八という男性は、単身北アメリカに移民し、今日の日本人経営の料理店の基を築いている。
 明治中期以後は教育の普及と、新聞等の浸透によって、生活意識や生活様式も次第に西欧化が見えるようになった。勿論新政府の開化政策がこれを支えた訳である。明治三〇年以降洋服や帽子の着用、肉食等が都市部を中心に定着したようであるが、農山村では従来通りの自給自足の生活が多く、その普及はかなり遅れた様子である。
 このような庶民生活の近代化の風潮は、やがて政治の上にも波及し、人権意識の高揚も手伝ってその近代化を進める結果となる。伊予における議会政治の形態が比較的早く実行されるのは理由がない訳ではないようである。