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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

三 演劇・映画の登場

 芝居見物

 旧幕藩体制時代の庶民の娯楽といえば、人形浄瑠璃や大きな神社の祭礼などであった。例えば宇和島の和霊神社の大祭には、人形芝居の興行があったり、相撲取りが来たりして祭を盛り上げていた。しかし、日常生活においては、庶民の娯楽は風紀を乱し贅沢に走る恐れのあるものとして原則として抑制された。
 明治維新後は、興行の制限がほとんど撤廃されたせいもあって、庶民の娯楽演芸は急速に盛んになっていった。これに対して当局側は「小唄、しやみせん、胡弓などのすべての遊芸は、私通する第一歩である。このために男子は家に伝わっている財産を傾かせ、女子は一生道にはずれた行為をするものが少なくないようになる」として営業の外はこれを禁止した。また、「謡の稽古などは、家業の余暇を使って夜にすべきである。囲碁、将棋などは平日に遊んではいけない。」など娯楽演芸の抑制に神経質になっている(県史資料編近代1・六〇頁参照)。民衆娯楽の中心は芝居などの興行であった。明治六年(一八七三)に芝居小屋掛け本建築が許可されると、松山市内には定小屋が相次いで建てられた(もっともこれらの定小屋は小規模な仮建築であったが)。しかし、そこで上演されるものの多くは、芸妓、子供などの素人が主で、本格的な演劇の一座が来ることはまれであった。これは裏を返せば誰もが舞台へ上がる機会があったということであり、民衆は歌舞に熱中した。

 新派劇・新劇

 明治一〇年代になると中央の大きな芝居一座が本県を訪れるようになった。それに伴って、松山では明治一二年、魚町に松玉座が、ついで三番町に東栄座(のち、寿座に改称)、大街道に遠山席(寄席、のち改造して改良座)などが建てられ、本格的な興行が始まった。明治一二年の県予算雑種税に遊芸稼人として芝居のほかに「小唄・浄瑠璃・笛・尺八・太鼓・琴三弦・琵琶・舞手踊・軍談・落語・チョンガリ・人形遣・手ヅマ等の妓芸ヲ以テ寄席二臨ムモノ」と挙げられており、これらが寄席興行の主なものであった。
 明治二〇年代になると大街道に新栄座が建設(明治二〇年)され、そのこけら落としに市川右団次一座が来演し、連日大入りを続けた。また、新派劇が盛んになり、その旗手であった壮士芝居の川上音二郎が初めて来県したのは、明治二二年であった。(ちなみに川上音二郎が初めて壮士芝居を東京で演じたのは、明治二四年であったから、この時はまだ新派劇の旗手・川上ではない時期であった。改良座(改良という言葉は当時の流行語であった。)へ来た彼は改良落語と銘打って末広鉄腸の「雪中梅」を題材にした話等を演じたが、入気を博したのはやはり例の「オッペケペー節」であった。陣羽織に後ろはちまき、日の丸扇を片手にして、
  「権利幸福嫌いな人に 自由湯をは飲ましたい 堅いかみしも角とれて マンテルズボンに人力車 粋な束髪 ボンネット 貴女に紳士の服装で うわべの飾りはよいけれど 政治の思想が欠乏だ 天地の真理が分からない 心に自由の種をまけ オッペケペッポペッポッポー」
 と歌いながら踊ったものである。自由民権運動が高まって、国会開設を前に全国的に流行した。それにもまして流行したのは二四年同じ改良座に来た落語家桂文治のヘラヘラ踊りである。
  「豊年じゃ豊年じゃ一チクタッチク多右衛門さん 乙姫はね笑う声聞けばね 豊年じゃ豊年じゃ 太鼓が鳴ったと賑やかだ ほんとうにそうだとすまないね ヘラヘッタカヘラヘラ」
 と、赤いシャツを着て赤い手ぬぐいで頭を包み、赤い扇を持ってこっけいな身ぶりで踊るのだが、ラジオも蓄音器もなく流行歌などない時代には、こんな他愛もない低俗な歌でも愛唱され、道行く小店員までロずさんでいたといわれている。改良座へは他にも「牡丹燈籠」などの作者として知られた三遊亭円朝も来た。円朝の「牡丹燈籠」は速記されて本として出版され、後の大衆本の全盛のもとを築いた。
 新栄座については、明治三〇年四月、新派大橋鉄舟らの敷島義団一座が来演したとき、許されて一座に加わり舞台を踏んだのが砥部町生まれの井上正夫である。この建物は大正二年に大改築され、その時初めて場内に食堂が設けられた。当時としては豪華な建築で、御茶子と呼ばれる女中さんも登場した。この年、井上正夫の一座が、次いで上山章人ら近代劇協会が来演、〝カチューシャ可愛や〟の歌が流行した。写真2-9は、明治三〇年代末期の新栄座前である。芝居のある日は屋上の櫓から太鼓が鳴り響き、劇場周辺には役者の名前を書いたノボリを立てて景気をつけていた。劇場周辺は櫓下といって、その範囲内の町民は無料で入場できた。そのころは新旧問わず、劇団がやってくると顔見せと称して、俳優は芸名を書いた小旗を立て、人形師は操り人形と相乗りで人力車を数十台連ねて、囃子鳴子を先頭に市内を練り歩くのが習慣であった。

 映画全盛時代へ

 明治三四年(一九〇一)ころになると、愛媛県で最初の活動写真(当時まだ映画という言葉はなかった)が大西座(松山市駅の東)で上映された。内容はナイヤガラの滝、米西戦争などの輸入ものや東京の大相撲などで、いずれも一〇mから二十mの短いフイルムを数回繰り返して映写した。同じ場面が何回も現れるものであったが、影絵芝居や幻灯のほかは知らなかった観客にとっては驚異の眼をみはり、喜んで見物した。同三六年ころからは県下各地に巡業されるようになり、劇映画なども輸入されるようになった。特に、同四四年には全国を沸かせた「ジゴマ」が寿座(明治一二年開館した東栄座のこと)で上映され一世を風靡した。外国映画のほかに国内での撮影も盛んになり、芝居も寄席も活動写真に対抗できなくなっていった。
 大正元年には、松山大街道に県下で最初の常設活動写真館「世界館」が開館した。当時としては新式な椅子席で下駄ばきのまま手軽に入場できるのも魅力であった。年中無休の興行がはたして成り立つかどうか危ぶまれたが、開場以来連夜満員の客を迎えた。この盛況によって、続いて同二年「松山活動写真館」(松山市駅前)が開館した。訪れた人々は、楽隊のメロディーに呼び込まれ、モーニングを着た弁士が美文調のせりふで観客を酔わせた。このほか、法界屋、演歌師、軽業、ノゾキからくり、サル芝居、地獄極楽などの大道芸が大衆芸能として大いに受けていた。