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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 食生活の変化

 牛鍋屋の流行

 長い間のタブーであった獣肉食が行われるようになり、文明開化は食生活にももたらされた。もっとも、獣の肉を食べることについては、江戸時代後期の文化文政期ころから猪や鹿の肉を売る店があって、幕末には既にかなり流行していた。しかし、その一方では、肉食は常識として忌むべきものとされていたことも事実であった。文明開化の風潮は、この忌避の習慣を打ち破り、肉食を一気に日の当たる場所へ押し上げていった。
 牛肉食こそが文明の象徴であるように言われ、開化の薬剤だとされて、盛んに宣伝された。仮名垣魯文は『安愚楽鍋』(明治四年刊)のなかで、東京での牛肉流行の様子を「牛鍋食わねば開化進まぬ奴」と書いている。〝牛鍋〟とは、当時の牛肉の食法で、味噌で煮た鍋焼きや、醤油と砂糖で調味したすき焼きのことである。また、「元来獣肉魚肉都て肉食を忌むは、仏法から移った事で、我が神の道には其様な事はない」(加藤祐一『文明開化』)と説かれ、新政府も肉食を熱心に奨励したため、またたく間に牛肉屋と肉料理店はその数を増し、次第に全国の都市部に受け入れられていった。
 こうして愛媛県にも牛肉食が入ってきたわけであるが、供給量に対して肉食ブームはエスカレートしていった。その結果、石鐵県では病死した牛の肉を売ることへの禁令まで出されている(明治五年七月・県史資料編近代1・五一頁)。もっとも、この禁令には但し書きが付いており、肉食は人間第一の善良食物だから商売をするために免許を受けたいものは願い出るようにとされている。このことについては、更に同八月にも、「免許屠牛品の外出所不明の肉買入食用禁止」の令が出ており(県史資料編近代1・五五頁)、いかに死牛、病牛の肉の売り買いがあとを絶たなかったかがうかがえる。

 牛乳・乳製品

 牛乳や乳製品は、奈良時代を中心に、高級な美容健康食品として一部で用いられたことがあったが、日本の食生活には根付かず、平安時代には消えてしまった。しかし、江戸時代の後半は、将軍家用に房州や江戸の雉子橋内で乳牛を飼育して、牛乳や酪製品の調製を行っていた。この乳牛を新政府から払い下げられて出来た東京築地の牛乳会社は、その宣伝、『肉食の説』で、牛乳は身体虚弱者には欠かせない滋養品で、「西洋諸国にては、平日の食料に牛乳を飲むは勿論、乾酪(チーズ)、乳油(バター)等を用ふること、我邦の松魚節(かつおぶし)に異らず」とし、人々になじませようとした。
 愛媛県では、明治六年七月に旧松山藩士野澤弘武が道後で牛を飼い、搾乳業を始めたといわれている。明治一四年には「牛乳搾取並販売取締規則」(明治一四年三月一二日・「愛媛県布達々書」)をだして、乳牛の飼育、販売の条件などを示している。その中に次のような条文がある。
  「第五条 疾病アル牛の乳汁ヲ搾取シ若クワ血液膿汁腐敗乳等ノ混スモノハ販売ヲ許サス、
   第六条 純良ノモノト雖トモ搾取ノ後水ヲ混シ又ハ乳酪ヲ収取シタルモノハ販売ヲ許サス、」
                                 (県史資料編近代2・二二六~二二七頁)。
 内容は、病気の牛の乳や血が混ざっていたり、腐っているものは販売を認めない。良質のものでも、水を混ぜたり、乳酪を取り去ったりしたものは販売を認めないというものである。肉類の販売に対してと同じように、衛生問題に当局側が神経を使っていることが伺えるとともに、牛乳を飲むことが、このころには普及しつつあることがわかる。

 食事の西洋化

 軍服が洋服の普及につながったと同じように、食事の面でも、軍隊での肉食やカレーライスが一般人に洋風の味を覚えさせる機会となった。「カレーライス」については、明治七年(一八七四)刊の『西洋料理指南』がその料理法を紹介している。このような西洋料理の指南書が出されたことも、洋風料理の普及を助けた。また食品と調味料が豊富になったことも洋食の大衆化を進行させた。例えば野菜では、ジャガイモ、トマト、玉葱、キャベツ等が普及し、アスパラガス、セロリなども知られるようになった。調味料は従来使われていた、醤油、味噌、酢、塩、鰹節、昆布などが常用されるようになり、新たに明治末からソースが加わった。カラシ、コショウなどの香辛料やバター、チーズなども広まっていった。一般市民を対象とした料理店も増え、人々はそれを文明開化の味として受け入れていった。西洋料理が普及するにつれて、一部の日本化が見られ、例えば、コーヒー=滑比、珈琲、スープ=蘇伯などのように漢語を当てることが流行した。また、砂糖の消費量も増え、洋風のケーキ、キャンディ等を日本人の嗜好に合うように改良したものが登場した。
 愛媛県では明治一八年(一八八五)に「菓子営業人心得」を布達して、菓子の製造、販売について定めている。明治三〇年から小唐人町(現松山市大街道)二丁目、二番町北西の角にあった百華堂菓子店である。森永進出前の全国的な菓子〝金世界、銀世界〟やヘブリン丸の広告などに明治時代がうかがわれる。また一般に「うどんのかめや」の名で親しまれた松山のお店がある。小唐人町と湊町二丁目とが接触する地点にあり、三階建で大広間があって多人数を収容した。和洋会席料理すき焼等を営業し、食堂の少なかった明治・大正期には、松山で大衆食堂としての役割を果たした。地方から松山に出かけた人たちは、帰りにここで食事するのを楽しみにしたといわれる。