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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 洋服の普及

和洋混淆

 洋服は幕末維新のころから、兵隊服として着用されたが、明治の軍制上でもこれを制服としたのは、軍事活動にすこぶる適切であったためである。特にズボンは、ポルトガル人と接触した近世の初期から、その言葉とともに紹介され、これを和様化して股引とかタッツケに仕立てて労働着にもしている。そのため明治の農民にも親しまれ、従がって、洋服はさほど異様なものではなかった。
 徴兵令の施行とともに、多くの若者が軍隊生活を送る機会をもち、そこで覚えた洋服の味は除隊帰郷の後も、いわゆる在郷軍人としての農村生活のなかに引き継がれていくようになった。また、警察官(愛媛県では明治九年、巡査・制服制帽着用)、郵便夫、鉄道員には制服が支給され官吏、会社員、銀行員、教師なども、洋服で勤務するようになった。しかし、庶民生活においては、まだ和服が主流を占めており、背広で勤務するものも、家庭や私用での外出の際には、和服を着用していた。また和服と洋服の混淆が随所で見られ、シャツを下着代わりにして、その上に和服を着たり、ズボンを着用して草履を履くといった光景が珍しくなかった。
 当時の様子の一例として、『宇和島の明治大正後編』(津村寿夫著)に、次のように記されている。
  「明治二一・二年頃になると、ぼつぼつ町にも洋服なるものが見られるようになった。最初はいずれも『詰め襟』である。その頃宇和島運輸会社の記念写真や養蚕伝習所の撮影したものを見ると、運輸会社のものには厚司姿の社員にまじって詰め襟の者が二・三人あり、養蚕伝習所のものには娘の中に髪ぼうぼうたる青年がこれも詰め襟を着込んで威張っている。これによるとすでに農村にも及んでいたことがわかる。
   この宇和島で初めて背広服が見られたのは明治二三年で、末広鉄腸が第一回衆議院議員候補者に出馬し、追手通りで政談演説会を開いた時の事であるとは、当時聴衆の一人であった古老の話である。明治二五年十二月には旧藩主伊達宗城が逝去し、翌春葬儀が営まれた。会葬者は全部紋付きに袴である。しかるに漢学の塾を開いている加藤自謙という者が唯一人、意外にもフロックに山高帽の礼装である。他の会葬者は一度だってそんな姿を見たことがないので、『お殿様の御葬儀に、得体の知れぬ異様の風態をしてお供をするとは無礼千万ではないか』と私語する者があったという。これらはいずれも洋服に関する地方の笑えぬナンセンスである。
  明治三〇年代(一八九七~一九〇六)から衣服や服装に関するものは急テンポで進歩した。三二年頃には運輸会社社長の堀部彦次郎が宇和島で最初の洋服を着て会社と自宅の間を意気揚々と往来し始める。県立中学校が洋服にする。しかも新聞広告には『高等洋服商、伊予国宇和島堀端通、松永洋服店、電話一六七番』などという文字が散見されるようになる。こうしてようやく『洋服時代』に入ったのである」
 洋服の仕立法は幕末に伝わり、明治中期になると盛んに洋服店が開業された。表2-7は、中位の洋服仕立職と和服仕立職の日給と中米の値段を示したものである。洋服の仕立職が和服の仕立職よりも五~六割ほど賃金がよい。明治年間は、まだ洋服を仕立てるということは特殊な技術であった。

 女性の服装

 女性の地位は、明治維新による近代化が進められても、やはり封建制の名残りは強く、社会的に低かった。大部分の女性は、家庭を出て外で活躍するということはなかった。そのため洋服を着るという必要も感じられず、洋服を着用するのは、ごく一部の上流階級の者に限られていた。
 学校教育の場においても同様で写真2-5は、明治二三年ころの私立松山女学校(現、松山東雲学園)の生徒たちである。全員被布または羽織を着て袴をはいた和装で、洋服姿は一人もいない。同様に、明治期の松山高等女学校(現、松山南高等学校)においても、長袖に海老茶の袴で、体操の時間といえば、たすきをあやにかけての〝牛若丸スタイル〟であった。初代校長の「制服と家庭着の二重生活を避けるため、家庭着のままで登校するように」との方針で、長袖を愛用していた。しかし、やがて大正期にたり女性が社会に進出していくにつれて、洋服が普及するようになった。

 髪型の流行

 洋服の使用とともに大きく変化したのが髪型であった。丁髷といわれた男子の髪型は、封建社会における身分の表示とされていたが、明治四年(一八七一)に「散髪勝手たるべし」との断髪令が出され、散髪が奨励されるようになった。「丁髷頭を叩いてみれば因循姑息の音がする。ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする。」といわれ、散髪屋が増え、髷を落とす人が急速に増加した。その一方で女性はなお、江戸時代の伝統を保ち、身分や既婚、未婚の差などによって、歴然とした違いがあった。しかし、鹿鳴館時代になり、女性も洋装するようになると、簡易に結えて、軽快な束髪が流行した。束髪には西洋上げ巻・下げ巻・花月巻など各種あり、長い髪を三つ編みにして垂らしたり結ぶことも起こった。これ以降、様々な髪型が流行するようになる。女学生の間では、後ろに垂らしたお下げ髪に幅の広いリボンを結ぶことが流行した。

表2-7 明治中期の中位の洋服仕立職と和服仕立職の日給と中米の値段

表2-7 明治中期の中位の洋服仕立職と和服仕立職の日給と中米の値段