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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

三 銅精錬による煙害

 四阪島への移転

 別子の山で銅の鉱脈が発見されたのは元禄三年(一六九〇)のことである。翌四年四月から住友家の経営で採掘が始まった。採掘された銅鉱石は和式と呼ばれる日本独特の精錬方法で粗銅が作られ、大坂へ運ばれ精製されていた。焼鉱・溶鉱の際は、銅鉱石中の硫黄分が焼けるため、必ず亜硫酸ガスが放出される。しかし、和式精錬では処理能力が小さく、亜硫酸ガスも後の洋式に比べると極端に少なかった。
 大坂にあった精銅所は、明治元年(一八六八)に銅山峰を越えた北川の立川山へ移された。同一八年には洋式の精錬所が海岸の新居浜村惣開で操業を開始した。同二一年からは、ドイツ式湿式精錬所が動き始めた。この結果、新居浜村周辺で稲や麦の被害が目立ち、同二六年頃には煙害問題に発展した。農民たちは集団で住友惣開分店へ押し掛ている。住友はやがて煙害を認めるようになったが、農民たちは「煙害がなくなるまでは譲れない」と強硬に反発した。同二八年、四阪島を買収し精錬所を移転することに踏み切り、同三八年から本格的な焼鉱・製錬の一貫作業を始めた。

 煙害地域の拡大と技術の進歩

 ところが四阪島の硫煙は、当初予想したように海上の大気中に消散せず、濃厚な帯状となって風下に流れた。このため、気象の状況によって各方向の遠隔地にまで達し、被害地域は新居浜惣開製錬所当時よりも、かえって広範囲にたった。越智郡・周桑郡の村々から、一斉に煙害の声が高まってきた。明治三九年七月二一日の煙害はすさまじく、当時の記録によると「硫煙襲来、周桑の沿岸稲葉漂白または褐色に変じ位置により被害を色別せり、漂白は高田と壬生川間の沿岸に殊に多し、その他最大部分は褐色なり」と書かれている。
 明治四一年、被害はさらに拡大した。同年八月二六日の農民の動きについて「愛媛の明治・大正史」(愛媛文化双書)に次のように記されている。

  「明治四一年八月二六日午後四時ごろ数千人の農民たちはぞろぞろと新居浜へ向けて歩き始めた。自宅が近くなると急いで帰り、旅支度をし、再び列に戻った。カマを鋭くとぎあげてきた人もいた。荷車も十数台加わった。ナベ、米、水、フトン、マキなどが積まれていた。話が決まって数時間だというのに、みごとな隊列が仕上がっていた。警察の対応も早く、西条の加茂川土手にかかると、農民に変装した警官や、サーベルをつけた制服の警官がすでに姿を現していた。「警備にわざわざおいでいただきありがとう。当局もこんなふうに早く対応してくれていたら、煙害などとっくに片付いているのに」農民たちは皮肉っぽく声をかけた。やがて一行は上惣開に到着。病院前広場に集った。あわただしくカマドが築かれ炊事が始まった。(中略)農民たちはミノ・カサや毛布などをかぶり一夜を過ごした。……」

 明治四三年一一月、東予四郡と住友の煙害賠償協定が決まり、契約書に調印した。こうして明治二六年以来紛争を重ねてきた煙害問題は、その賠償・製錬量の制限などに関する限り、一応の妥結をみた訳であるが、煙害そのものは解消しなかった。そのため、賠償契約期間満了ごとに、双方が協議を重ねて、契約更定を続行せねばならなかった。昭和四年七月からペテルゼン式硫酸製造装置が採用されると、亜硫酸ガスの発生は目に見えて抑えられていった。同一三年、中和工場の建設によって、ついに明治以来の煙害問題は根本的に解決した。