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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

三 外来のスポーツ

 野球と和服の審判

 明治以前の学校教育の分野におけるスポーツは、武芸として剣術・柔術・馬術・弓術などが武士階級必修の技として各藩で奨励されていた。一般民衆にとって、これらは無縁のものであった。特に剣術は廃刀令によって影が薄れていったが、松山中学校に武科(明治一一年)が設けられて武道の奨励が図られ、次第に練武の風が興っていった。その中にあって明治中期になると、ボート、野球、庭球など外来のスポーツが相次いで移入され、外国風の清新な様式と、野外での変化に富んだ競技が青少年の興味を呼び、たちまち盛んになっていった。
 愛媛県の野球は、明治二二年(一八八九)当時大学予備門の選手であった正岡子規が松山に帰省し、中学生であった河東碧梧桐に教えたのが最初といわれている。同三〇年ころになると松山中学校、愛媛師範学校に野球部が生まれ城北練兵場で春秋に試合が行われた。初めはバットとボールの外には用具はなく、素面素手で球を捕った。その後、ミットやマスクが伝わり、やや後れてグローブが用いられるようになった。紺の脚絆に足袋、半袖シャツに絞りの帯といういで立ちであった。試合の審判は和服に袴姿で投手の背後に立ち、球審塁審を一人で兼ねていた。松山商業学校は明治三五年開校と同時に野球部を設けた。ユニフォームは女学生の袴と同じえび茶色のカシミヤ生地で華やかなものであった。この新しい野球というスポーツも父兄の理解は皆無で、子供が選手になることを喜ばず、これを説得するのに苦労したという話しも残っている。

 ボートレース

 「思えば過ぎし夏の末 伊予の小富士の眺めある 高浜沖に催せる 松山宇和島西条のボートレースのその折に いとも名誉の光ある チャンピオン・フラッグは勝山に あわれ再び握られぬ」平易な歌詞と哀調を帯びたメロディーを持つこの歌は、明治三四年宇和島中学ボート部の選手が敗戦の悲憤を涙でつづった応援歌である。当時、全県下の婦女子供にまで愛唱された。三中学のボートレースは明治三二年ころから始まり、高浜沖から九十九島へ向け途中回航して帰る約一、〇〇〇mのコースで行われた。
 一般の運動行事として最も盛んだったのは和洋折衷ともいえる運動会であった。明治三六年三月三日に開催された松山中学校の春季運動会の競技種目は、二〇〇・三〇〇・四〇〇・一、〇〇〇ヤード競走、障害物競争、二人三脚、縄跳び競争、綱引き、うさぎ跳び競争、人馬競争などの外、撃剣部の野試合、柔道部の乱軍、職員来賓の提灯競争、小学生の優勝旗競争が行われた。競技種目は、どこの学校も大同小異であった。