データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

序節 新政府と西欧文明の摂取

 富国強兵政策

 明治新政府は、統一国家の建設とその対外的独立の達成という重要な課題を解決するために、何よりもまず軍事力の増強と経済力の充実をはかろうとした。新政府の掲げたスローガンは「富国強兵」であった。富国は資本主義の育成・発達、強兵は欧米諸国の国民軍隊に劣らない近代的軍隊の創設・拡充であった。しかし、日本の資本主義発達の段階、軍事力の水準と、欧米のそれとの間にはあまりにも大きな隔たりがあった。この落差を急速に解消して欧米に追い付くためには、自力の成長と近代化を促すだけでは間に合わず、従って西欧文明の摂取を急ぐ方法がとられたのである。
 新政府が進めた富国強兵のための諸改革は、政治・経済・社会・文化の全面にわたっており、全国的画一的なものであった。幕府・諸藩が固守して廃止できなかった封建制度を惜しげもなく大胆に切りすて、これを近代的な制度に移し変えていった。すなわち新政府は、「上下平均・人権斉一」という四民平等の理念にもとづいて、明治五年告諭、同年徴兵令を発布し国民皆兵を原則とする徴兵軍隊を創設した。愛媛県においても、同六年区・戸長を通じて内容を広く県民に伝えた。学校制度についても同じように、フランスやアメリカの教育制度の思想を取り入れ、高遠な理想に燃えて学制を発布し、身分・職業・性別にかかわりない国民皆学と、小学校から大学に至る学校制度を定めた。教育令の公布(明治一二年)によって、教育の地方化も進み、愛媛県における就学率も高まっていった。
 富国強兵のためには殖産興業政策が採られ、海外から近代産業とその技術を積極的に導入し、自らも鉱山・工場を経営するとともに、特権的政商に保護を与えて、資本主義の急速な育成・発達を図った。近代産業に欠くことのできない交通・通信機関も、官営として始まった。特に愛媛県においては、養蚕製糸業の勃興、綿織物業の発達、別子銅山の発展、軽便鉄道の敷設など目をみはらされるものがある。また、統一国家の経済的基礎を確立するために、土地制度・租税制度の近代化を進め、全国から画一的に土地価格に基づく地租を貨幣で徴収することに改めた。このため愛媛県の農村も全収穫物の商品化の必要に迫られ、急速に商品経済の渦の中に巻き込まれていった。

 文明開化の風潮

 新政府が富国強兵の実現を急ぐために西欧文明の積極的な摂取を図りながら、一連の近代的諸改革を進めたことが影響して、社会には文明開化の風潮が高まった。しかし、大都市の中心部を離れて見れば、そして都市から農村へ目を移せば「新旧」の対照は誠とに鮮やかであって、そこには在来の生活文化が西欧文明の衝撃を受けて苦悶する姿を見ることができる。中小都市や農村の民衆は、政府によって進められ、そして大都市から押し寄せてくる文明開化の雰囲気に、いやおうなしに包み込まれ、それに適応していかざるを得なかった。
 外国人の目を意識した改革も行われ、民衆が長い間守り伝えてきた行事や習俗などは、「陋習」の名のもとに禁止を命じられたものもあった。例えば、愛媛県においては、明治四年に散髪、脱刀が許され、同五年から六年にかけては県布告が相次いだ。裸体になるな、立ち小便するな、男女混浴はいけない、節句の行事は廃止してその費用を子弟の教育費に回せ、学問に洋風を加えよなどとかなり強引ともいえる布告である。一方では、靴・洋服・肉食が流行し、ハイカラに浮かれた面も多かった。その中には近代化とともに、いずれは廃止されるであろうものもあったが、それを守ってきた民衆の生活と心情を推し量ることもなく、禁止を強行したものもあった。しかし、民衆は政府の主導になる文明開化に、ただ驚異の目をみはり、これに反発していただけではない。生活文化の近代化を自分たちの手で進めようと図り、そのために西欧文明の本質的な意味を学びとろうと努めようとする者もいた。