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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

3 今治藩の割地

 地ならしの成立

 今治藩において、地ならしの実施を示す古い史料は、延宝四年(一六七六)七月「与州越智郡鴨部郷与和木村地平シ畝高帳」である。その奥書に、「右之通我々壱歩壱畝作迄不残立合平シ申所実正二御座候、其上従御代官様為御意て、中村庄屋久兵衛殿・桂村組頭仁右衛門殿諸事之證人二被仰付、竿ヲ入平シ申候、此帳面之表少茂相違無御座候」とあるから、地ならしは村単位に農民によって実施された検地であったことがわかる。また越智郡国分村の惣百姓が取極めた、貞享四年(一六八七)二月「検地平均証文事」(九か条、「国分叢書」)によると、地ならしは検地であり、実施方法が惣百姓の合意によって決定され、過半数の農民が地ならしを希望すれば実施することができる、と述べている。まさに村型地ならしの実施方法を取極めた証文であった。このように、今治藩の地ならしは、松山藩の地ならしと同様に、割地のことではなく、検地のことで、古くは農民によって実施された地ならし、すなわち村型地ならしであった。
 地ならしの実施目的は、検地帳に記載された畝高と現実の畝高の乖離を是正し、村内農民間の貢租の不公平をなくするためであった。実施方法には、①他村の庄屋・組頭立会のもとで、農民が地ならし(検地)をおこなう、②藩の役人と他村の庄屋立会のもとで地ならしをおこなう、③農民が地ならしをおこない、地ならし帳を作成して藩に提出する、藩は「於所々」再検地し、地ならし帳の正否を吟味する、などの三形態があった。いずれにしても、このような目的と方法による検地を地ならし(地坪・地平シ・地平均)といったのである。

 割地の成立

 藩は割地実施の前提として、内陸部の諸村に対しては、貞享五年(一六八八)三月までに、島しょ部の諸村に対しては、元禄二年(一六八九)二月までに、それぞれ地平均検地帳を提出させた。この時の地ならしは、「依地平均願今度田畑百姓方より縄入野取之歩数相究指出之間、則其帳面を以於所々廻しニ改之」(貞享三年「越智郡法界寺村地平均検地帳」)と農民が地ならしをして提出した地ならし帳から、藩が無作為に田畑を抽出して検地をし、地ならし帳の正否を確めるという方法をとった。したがってその内容は厳正なものであった。続いて藩は、この地平均検地帳をもって、内陸部の諸村では、元禄五年(一六九二)より同一一年まで、島しょ部の諸村では、元禄一三年より、それぞれ地ならしを、続いて割地を実施していった。
 このように今治藩の地ならしは、村型地ならしからはじまり、藩が割地の前提として地ならしを実施するようになり、藩型地ならしとなり、そして松山藩と同様に、地ならし→割地の全過程を地ならしと呼称するようになった。
 今治藩の割地実施については、松山藩の指導に負うところが多い。元禄五年(一六九二)松山藩野間郡代官林源太兵衛(松山藩の割地推進者)の手代永江安兵衛・池内七左衛門・北条村庄屋四郎右衛門らの割地のベテランが実地指導をはじめたので、家老・郡奉行らが見学のため現地越智郡別所村に出張している。翌六年にも前記の四郎右衛門をはじめ松尾村庄屋理兵衛・宮脇村庄屋治左衛門から指導をうけ、藩主は、林源太兵衛を同道して実施督励のため廻村している。さらに元禄七年には、林源太兵衛を招聘し、家老が彼と割地について対談している。また現存する五〇余か村の元禄五年から同一五年までの地坪野取帳の奥書には、郡奉行・実施村の近隣諸村の庄屋・組頭と共に、松山藩領野間郡宮脇村庄屋次(治)左衛門・同郡松尾村庄屋理(利)兵衛・同郡野間村庄屋武左衛門・風早郡北条村庄屋四郎右衛門・同郡鹿嶺村庄屋権兵衛ら松山藩の割地のベテランが必ず連名印していることは、彼らが始終直接指導にあたっていたことを示すものである。つまり松山藩において、高内又七・林源太兵衛を中心に割地が実施され、その効果をみるにおよんで、同藩から割地の社会的・経済的意義についての教授と、実施上の技術的指導を得ながら、今治藩は、割地を藩の土地制度として実施していったのである(藩型割地)。

 割地の廃止

 しかしその後は、全藩領規模での割地は実施されなかった。それは、宝暦期から天明期にかけて、領内では商品生産が展開し、商業資本が農村に侵入して、急速に農民層の分化を促進し、また、労賃の上昇などもあり、地主手作経営が小作経営へと移行していったことが、大きな理由と思われる。土地所持者が経営者であってこそ、割地は本来の目的を達成できるのであるが、このような社会状況になると、割地は存在理由を失ってゆくからである。そして、以後は、水害などの自然的悪条件が存在し、割地を必要とする村においてのみ、村型割地として実施されるに過ぎなくなったのである。